植木通彦

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植木 通彦(うえき みちひこ、1968年4月26日 - )は、日本の元競艇選手、現在は財団法人日本モーターボート競走会理事福岡県北九州市出身。

養成第59期、登録番号は3285、福岡支部所属。165cm、51kg、O型。「艇王」「不死鳥」の異名で知られる。

目次

[編集] 経歴

福岡県立小倉商業高等学校2年時に中退。当時は野球部に所属。 全国モーターボート競走会連合会本栖研修所(現在のやまと競艇学校)に入所。

[編集] 選手生活

  • 1989年 - 選手生活3年目の1月16日桐生競艇場でのレース中に転覆した際、後続艇のプロペラで顔面を切り刻まれ、全治5か月、傷の縫合に75針を要する重傷を負う。

半年後、レースに復帰するが、負傷した競艇場での復帰を避ける選手がほとんどの中で、父親の進言や自身を奮い立たせる意味を込め、復帰戦の場として桐生を選んだ。この経緯から「不死鳥」の異名が植木に与えられることとなり、1990年代後半に放映された競艇のテレビコマーシャルでも「平成の不死鳥、植木通彦」というナレーション、テロップで紹介された。

同時に翌年勝つ総理大臣杯競走の出場権を手に入れる。 当時「競艇選手の旬」強さのピークは40歳代と言われており、笹川賞競走グランドチャンピオン決定戦競走SG連覇を成し遂げた中道善博、賞金王決定戦を制した“モンスター”野中和夫も40歳代のベテランであった。 植木とともに世代交代の嵐を起こした服部幸男平和島競艇場全日本選手権競走で史上最年少SG優勝を果たし一歩早く注目を浴びている。 80年代「全速ターン」で革命を起こした“艇界のプリンス”今村豊はこの年のモーターボート記念競走で5度目のSG制覇をしているが、植木がブレイクした後はSGタイトルに見放されるようになる。 今村が次にSGを手に入れるのは、植木が10年続けた賞金王出場が途切れ大スランプに苦しむ時期まで待つことになる。

SG優勝戦でモンキーターンを使い勝利したのは植木が初めてである。 この優勝戦にはモンキーターンの創始者である飯田加一も乗っていた。当時“モンキーターン”の呼び名はまだ定着しておらず、実況アナウンサーは“フロンティアターン”と呼んでいた。一方、植木のことはすでに“不死鳥”(フェニックス)と実況で呼ばれている。 この総理杯制覇をきっかけに「10年連続賞金王決定戦出場」、「5年連続SG制覇」の偉業を成し遂げることになる。 この年は野中が圧倒的な強さを見せた年で、6度目の笹川賞V、獲得賞金第1位で決定戦進出し優勝、賞金王至上初の連覇を達成している。 野中の盟友“浪速のドン”長嶺豊が40代の最後に全日本選手権競走でSG最年長初Vしたのもこの年である。

  • 1994年 - 児島競艇場のモーターボート記念競走で前年総理杯以来、1年半ぶりにSG優出し2着に入る。

勝ったのは艇界屈指のインファイターで知られる地元のベテラン関忠志であった。 つづく常滑競艇場で開催の全日本選手権競走も優出、服部幸男や関忠志らを破り若きダービー王となる。 年末、植木は勝てば公営競技初「2億円レーサー誕生」の位置で賞金王決定戦に進出する。 当時はベテラン勢の新勢力に対するプレッシャーは、今とは比べものならないほど大きく、植木は「2億円阻止」を狙う“モンスター”野中和夫に徹底的にマークされ偉業達成は水煙に消え「中道-野中」のベテラン両立で決定戦は終わった。 野中は自身の「賞金王3連覇と引き換えに植木の2億円レーサーを阻止した」と噂された。 中道は野中が植木に勝たせないレースをすると予想し、野中が植木を張った隙を、狙い澄まして「差し」を決める中道らしいテクニカルなレースで決定戦初Vを飾っている。敗れはしたが、植木は決定戦を制した中道善博を押さえ自身初の賞金王に輝いている。 翌年「オレが植木だ!」の台詞のTVCMが一年間使われている。

野中がグランドチャンピオン決定戦競走を制し当時のSG全冠制覇“グランドスラム”を達成、中道はモーターボート記念競走を制し“瀬戸の大魔人”安岐真人は地元丸亀の全日本選手権を制覇し、ベテランビッグスリーの植木包囲網の強くなる中で年末を迎える。 住之江競艇場で開催された第10回賞金王決定戦、植木は5号艇から奇襲の2コース進入、1マークはイン中道に対してマクリを打ち、中道も受け止め凌ぐ。 ターンマークの度に順位が入れ替わる死闘を演じ、2人は併走でゴール、わずかの差で植木が20代初の賞金王覇者となった。この中道善博との艇史に残る死闘は今なお語り継がれる名勝負である。 この頃より秋 - 年末にかけて賞金ランキングを追い上げることが植木の毎年のパターンになっている。 賞金王制覇3度の実績に象徴されるように年末の強さは格別である。賞金王を制した植木であるが、総理杯と笹川賞を制して史上9人目のSG連覇を成し遂げた服部幸男が賞金王に輝いている。 服部も翌年のTVCMが作成され「水の上では先輩も後輩もない!」と当時の世代抗争を匂わす台詞を残している。

  • 1996年 - 死闘の相手・中道が早々に総理大臣杯競走を制した一方で、植木はこの年も出遅れる。

夏になり、当年新設のオーシャンカップ競走で優出も、3度目のSG全冠制覇“グランドスラム”に燃える野中和夫のまくりに散る。 野中のSG制覇は17度目となり、植木もこの記録には届かないまま引退することになる。 オーシャンカップ競走優出以降、好調の波に乗りモーターボート記念と全日本選手権競走でも優出「すべて1号艇で3着」であったが、再び「2億円レーサー」を狙える位置で年末を迎える。 賞金王決定戦は戸田競艇場で開催され、前年の賞金王決定戦の構図そのままに、トライアル初日から中道のマクリに植木が抵抗し大競りを演じ、2日目は別々のレースで2人とも鋭発STからマクリを決めて対決ムードが盛り上がる。 中道・植木どっちが勝っても2億円レーサーが誕生する状況での前日インタビューで、中道は「植木には絶対マクらせない」と発言、植木は「それだけ言われるのは本望です」と応えた。 レースは2コースからマクリを打った安岐の上を植木がスピードのあるモンキーターンでマクって賞金王連覇を達成。 植木が安岐、中道らベテラン勢をモンキーターンで総マクリにする1マークは世代交代を象徴するシーンと言われる。 同時に公営競技初の年間獲得賞金2億円プレーヤーとなり、そのニュースは翌日のデイリースポーツの表一面を大きく飾った。 この年は、植木と同世代の若手も台頭し笹川賞競走で松井繁、全日本選手権競走で上瀧和則がSG初Vを飾っている。翌年のTVCMでの決め台詞は、「俺には、走ることしかない!」。

  • 1997年 - 前年オーシャンカップ競走から継続していたSG連続優出を常滑競艇場で開催の笹川賞競走優出で6に伸ばす。

優勝戦は6号艇から4コース進入「絞り捲くり」を放ち強さ印象づける優勝を飾り“新艇王”と呼ばれるようになる。植木の直内に入ると残れないと周りの選手が警戒し、植木は外枠でも内のコースが取れる状況になっていた。植木が放つターンを実況アナウンサーは「スーパー バイオレンス モンキー」などと呼び存在感は増すばかりであった。これ以後しばらくSGタイトルから遠ざかることになるが、高いレベルでのスランプと言える。地元若松競艇場で開催されたモーターボート記念は“大魔人”安岐真人の後塵を拝し2着。植木・田頭・今村暢孝の地元三人衆と安岐が激しい進入争いを演じ、安岐・今村の2人が周り直して、安岐が植木をマクリ差して「SG最年長優勝」を果たしている。年末、植木は復活した“プリンス”今村豊を抑えて獲得賞金一位で賞金王決定戦に出場。賞金王3連覇が期待されたが、服部幸男の大外マクリ差しに完敗、2着にも人気薄の熊谷直樹が入り2連単で97倍を超える大波乱となった。この決定戦は1レースで初めて60億円を超える売上を記録。当時のSG競走の充実ぶりが数字でも表れている。総理杯で西島義則、グランドチャンピオン決定戦競走で市川哲也さらに“艇界の貴公子”山崎智也が全日本選手権競走でSG初Vを果たし次々にスター選手が登場、革命戦士の植木も追われる立場になり、戸惑いも見られる時期になる。

  • 1998年 - 丸亀競艇場の総理大臣杯で1号艇で優出も、前年覇者の西島義則にイン強奪逃走を許し敗退。

前年の総理杯もそうであったが、西島と激しい大競りや進入争いを演じることが多くなる。ベテランと世代抗争をしていた頃は、センターアウトからスピードで内を叩いていたが、西島や西田靖のような若いイン屋はインモンキーでスピード旋回するので、マクりきることが難しくなっていた。内よりの進入も次第に増えるが、イン戦は絶対的な信頼がおけるレベルではなかった。宮島競艇場のグランドチャンピオン決定戦優出などで賞金を加算、賞金王決定戦に出場したが、夏以降の低調を引きずった形で4年連続で駒を進めていた決定戦には届かなかった。決定戦を制したのは、華の69期でデビュー節即優出の曰くを持つ“怪物くん”太田和美であった。同県の先輩でもある王者・松井をマクって、初SGが賞金王という大物ぶりを見せ付けた。長年艇界は「西高東低」と言われていたが、山崎智也の地元桐生で笹川賞Vに始まり、長岡茂一も地元多摩川でモーターボート記念競走、濱野谷憲吾が全日本選手権競走、江口晃生が当年新設の競艇王チャレンジカップでSG初Vを達成し関東勢が活躍した年であった。

  • 1999年 - 植木は児島競艇場の総理大臣杯までにF2(フライングが2コ)になりリズム悪く参戦するも優出。

優勝戦のスリットは.00のタッチスタートで残した。後日、映像を見て「フライングじゃなくて本当によかった」と言ったそうである。 長期のフライング休み後、夏に再び児島競艇場のモーターボート記念競走でも優出。植木にとって児島は、SG3優出と自身最後のG1を含む3度のG1優勝の好相性水面である。年末の賞金王決定戦は得点トップで優出。当時は枠番は抽選で決めており、4枠で決定戦を迎える。植木の賞金王での抽選運の悪さは有名で4枠なら良いほうである。レースは大外進入になり地元の松井に優勝を許した。世代交代は着実に進んで、ベテランのSG優出はオーシャンカップ競走の“児島のカリスマ”黒明良光や競艇王チャレンジカップ競走の安岐真人ら数人に減少し、さらに賞金王シリーズを最後に植木と数々の死闘を演じた中道善博が引退している。96年総理杯優勝インタビューで言った「あと4年でやめる」が現実になった形でもある。後に中道は「2年連続で賞金王に乗れなかったらやめようと思っていたが、前年の賞金王シリーズを勝ってSG優先出場権が手に入ったのでもう一年続けられた。」と語っている。

  • 2000年 - マスコミが「今度こそ」と書きたてるがSG優勝には縁がなかった時期である。

グランドチャンピオン決定戦競走を制した西島義則が、地元・宮島のオーシャンカップ競走でSG連覇を狙っていた。植木はオール連対で準優を1号艇で進出するが、2号艇の西島のピット離れでインを奪われ逃走を許す。雪辱を期す優勝戦、植木は大外6コースからマクリ差し先頭に踊り出るが、2周1マーク手前で島川光男と大競りする間に、西島の割り差しが入りトップを奪われ準優勝に終わる。西島は続くモーターボート記念競走を5コースから冷静に差して、野中和夫につづく「SG3連覇」を達成。植木は“戸田天皇”池上祐次が勝った戸田競艇場の全日本選手権競走でも優出し、準優勝で終えている。賞金王決定戦は市川哲也がST鋭発マクって優勝し、SG3連覇の西島を抑えて賞金王に輝いている。なお、この年から公営競技初の3連勝式投票券の発売が開始されている。

  • 2001年 - ついに艇王復活の時がきた。

唐津競艇場で開催された第11回グランドチャンピオン決定戦競走で4年ぶりのSG優勝を飾る。この大会は寺田千恵が女子選手として艇界史上初めてSG競走のファイナリストに名を残した大会でもある。植木はインで遅れた寺田を2コースマクくり、差し上がった地元・上瀧に競り勝っての勝利であった。植木と上瀧はライバル関係とされ、植木は96年地元福岡での全日本選手権競走で上瀧と競り合い死闘の末に敗れたリベンジを上瀧の地元で果たした形になった。優勝インタビューで、感動して泣いているファン姿を見て、植木の目にも涙があふれたシーンを見て、もらい泣きしたファンも多かったと言われる。SGを勝ったもののここ数年と比べ調子はよくない時期で、植木だけが常に注目を浴びる状況でもない環境になっていた。賞金王決定戦はこの年SG優出を重ねた田中信一郎が地元住之江でイン逃げでSG初制覇。このレースは山崎智也が決定戦史上初のFで大返還となった。

  • 2002年 - この年の植木は再び大ブレイクする。

若松競艇場でのオーシャンカップ競走で地元SG初V、イン逃げでのSG制覇も初である。前年グランドチャンピオン決定戦競走に続きこの時2着もライバルの上瀧である。秋以降も好調を持続し競艇王チャレンジカップ競走を待たずに“モンスター”野中に並ぶ「10年連続賞金王決定戦出場」を確定、後に松井繁もこの記録に並ぶが10年連続の壁を破る者は現れていない。また「9年連続の獲得賞金1億円」も達成、松井と濱野谷憲吾も後に並ぶが抜くことはできなかった。津競艇場での競艇王チャレンジカップを賞金王決定戦勝負掛けの5人を相手にイン逃げ完勝、自身初の年間複数回SG制覇を記録。さらに住之江競艇場で開催された第17回賞金王決定戦も、前ヅケしてきた“王者”松井を内に入れ、外からマクってきた田中信一郎制し、4コースから先マクリを放って快勝、6年ぶり3度目の賞金王に輝く。この勝利で自身初のSG競走連続優勝を記録(同一タイトルのSG連覇は95年、96年賞金王決定戦で記録済み)。同時に野中和夫と西島義則に並ぶ年間SG3勝を達成。賞金王決定戦の優勝も3度目となり史上1位タイとなる。賞金王決定戦は獲得賞金1位で出場した者が決定戦を制することは難しく、獲得賞金1位の者の優勝は93年の野中和夫と02年の植木を除いて例はない。年間獲得賞金2億8418万4000円の艇界最高記録、また公営競技最高記録でもある。生涯獲得賞金も今村豊を超え歴代1位(当時)に躍り出ている。

  • 2003年 - 年初は3億円レーサー誕生も間近との期待もあったが、不調に怪我もあり全日本選手権競走までSG優出は無く、賞金王11年連続出場のために「優勝」条件であった競艇王チャレンジカップ競走も負傷帰郷で記録は途切れることになった。

年末には賞金王シリーズ戦に初出場し、この年初のSG優出を3着で終えている。

  • 2004年 - 前年をリズム良く締めたが、地元福岡の総理大臣杯競走は、優先出場権も前年G1優勝もなく出場さえできなかった。

この総理杯をさらったのは今村豊で12年ぶりのSG優勝であった。今村にとって、植木がブレイクして以降は初のSG戴冠で、この勢いを持続し自身初の賞金王にも輝いている。強い植木復活への足がかりをつかむのは、例のごとく秋になってからであった。地元福岡の全日本選手権競走で優出、インから逃げた田頭実と地元ワンツーを決める。先行していた西島をツケマイで沈め、2着をもぎ取る植木らしい追い上げのレースであった。この優出をきっかけにG1優勝などで賞金ランキングを駆け上がり、2年ぶりに賞金王決定戦に戻ってきた。秋以降の勢いそのままにトライアルを得点トップで通過、得点順で枠が決まるようになった決定戦を1号艇で迎える。決定戦は、伸び超抜の上瀧の4コースカドまくりを浴び、1マーク振り込んで終戦。完全復活は翌年におあずけになった。優勝は道中追い上げた田中信一郎であった。植木が敗れて3連単配当は5万円を超え、SG優勝戦史上最高配当(当時)の大波乱になった。

  • 2005年 - 昨秋からの好調を持続し常滑競艇場で開催された笹川賞競走で2年半ぶりのSG優勝。

笹川賞は2回目の戴冠である。SG通算優勝回数が10回の大台に到達(初代艇王・彦坂と並び歴代2位タイ)。常滑でのSG優勝は3回目で好相性水面といえる。桐生のオーシャンカップ競走優出、好調を維持し地元若松のモーターボート記念競走、苦手とされるナイターながら得点トップで準優勝戦を迎え、グランドスラムの期待が高まるが準優は3着惜敗。前年に続き賞金王決定戦に出場も負傷で帰郷。

例年のように秋から賞金ランキングを追い上げる。(最後の地元SG出場となった)福岡での全日本選手権競走では、予選3位の好成績で予選通過を果たすが準優は3着と惜敗し優出はならなかった。 児島競艇場で開催された周年記念競走「競艇キングカップ」で優勝戦を4号艇から出走しまくりを決め優勝を果たした。(自身最後のG1優勝となった) 丸亀競艇場で開催された競艇王チャレンジカップでは予選2位通過・準優1着を決め、賞金王決定戦出場には2着条件で優勝戦を迎えたが、惜しくも3着となり決定戦出場はならなかった。

  • 2007年 - 年始尼崎競艇場で開催された周年記念競走「近松賞」で優出3着、2007年SG初戦・総理大臣杯直前に三国競艇場で開催された周年記念競走「北陸艇王決戦」で同じく優出3着と、昨年秋から続くそこそこの好調ぶりを見せ、総理大臣杯へと臨んだ。

平和島競艇場でのSG第42回総理大臣杯、SGでは珍しく超抜モーターを手にした植木の豪快なイン逃げで誰も捲ることが出来なかったため、平和島競艇場審判課・松永良一アナ(通称:ベイ吉)に『ウエキング』という愛称を名付けられ、予選トップ通過・準優を見事なイン逃げで優出を果たすが1号艇で出走した同大会優勝戦にて、インスタートから僅かコンマ01ではあるが痛恨のフライングを犯し売上の9割以上にあたる17億4522万7700円という記録的な大返還の元凶となってしまった。 このフライングにより、植木は今後1年間賞金王決定戦競走を除く全てのSGへの出場資格を失い、予定されていた住之江でのSG笹川賞競走の出場・初日ドリーム戦(4号艇)出走も取り消されることとなった。(皮肉にもその笹川賞競走で優勝を果たしたのは、同年総理杯で優出3着、植木の代役としてドリーム戦に繰り上がり出走となった同郷の後輩である強豪選手・瓜生正義であった。総理杯の植木と同じく優勝戦を1号艇から出走し、見事SG初優勝を果たした。) また、植木はフライング休み明けの2007年6月15日からも、GIには規定に基づきフライング休み消化後6ヶ月間選出除外となることが決まった。(よって同年末に行われる初の地元開催となる賞金王決定戦競走(福岡)への出場が実質的に閉ざされることとなった。) その後、地元の2つの周年記念競走(若松・芦屋)に出場(自身最後のG1出場)し、F休みに入る(総理杯でのF)。休み明けの復帰戦は奇しくも(自身最後のSG出場となった地)平和島競艇場での「サントリーカップ」(一般競走)であった。レースはおせじにも好調とは見えなかったが、しっかりと優出を果たした(3着)。 平和島での復帰後、次に出場した鳴門競艇場での「ヤクルト杯競走」(一般競走)(惜しくも次点で優出ならず)の終了後、翌7月19日に突然の引退を宣言した。(結果的に18日の第10レース・「うずしお選抜戦」で1号艇からイン逃げを決めたレースが現役最後のレースとなった。) 7月20日、東京都港区ホテルパシフィック東京で行われた永年功労者祝賀会終了後(植木は現役勤続20年の表彰を受けた)に同ホテルにて引退会見を行い、正式に現役引退を表明した。

  • 通算成績は4500走1562勝、勝率7.58、優勝74回(SG10回・GI23回)、生涯獲得賞金は22億6184万2369円(現在歴代3位、競艇界で生涯獲得賞金が20億円を越えているのは今村豊・松井繁を含む3人だけ)だった。

[編集] 引退後

2008年4月より財団法人日本モーターボート競走会の理事職に付き、競艇選手育成機関であるやまと競艇学校の担当をしている[1]

そのため、選手引退後の現在でも競艇関係者の立場にある。このことから、規則上、予想行為や勝舟投票券の購入が許されず、また、それゆえ、レース関係のコメントを行うことがあっても、主に技術論や選手心理、水面状況、勝因敗因について語るのみにとどまり、直接的な結果予想を言及することはできない立場にある(ちなみに、選手引退後も競技団体の関係者であるため、植木同様に自身が名を成した競技で予想行為に制限が掛かっている著名人には、競輪の中野浩一地方競馬佐々木竹見中央競馬岡部幸雄などがいる)。

2008年11月16日若松競艇場内に「フェニックスホール-植木通彦記念館-」がオープンした。

また2009年3月11日から、若松競艇場で新鋭リーグ戦「植木通彦フェニックスカップ」が開催されている。

[編集] 主な勝利

[編集] SG

10勝

V 大会名 優勝日 開催場 艇番 ヒストリー
V1 第28回
総理杯
1993年(平成5年)
3月23日
戸田 1号艇 あの大事故から4年。初SGタイトルは戸田総理杯・この時、植木は24歳。
V2 第41回
競艇ダービー
1994年(平成6年)
10月12日
常滑 4号艇 ここから競艇SG・3大タイトルを4つも続けて奪取。1つ目は常滑ダービー
V3 第10回記念
賞金王決定戦競走
1995年(平成7年)
12月24日
住之江 5号艇 競艇ファンにとって今でも忘れられない超壮絶レースとなったのがこのレース。
前年に優勝して連覇が懸かっていた中道善博との息の詰まる激闘は最後のゴールラインまで縺れ込んだ。
最後は併走のままゴールへ不死鳥・植木がマジシャン・中道を数十センチ差で賞金王決定戦を制する。
V4 第11回
賞金王決定戦競走
1996年(平成8年)
12月23日
戸田 4号艇 前回・住之江で世紀の激闘を繰り広げた植木と中道の年末決戦・第2章は舞台を植木の初SGタイトル奪取の地、埼玉の戸田に移して開催。
しかし、舞台を移してもディフェンディングチャンピオンの意地で植木が中道の挑戦を再度、退けて賞金王・連覇達成。尚、前回死闘を演じた中道は4着に終わった。植木は翌年、三連覇を目指して賞金王に3年連続ファイナリストになったが6着・最下位に終わる。
V5 第24回
笹川賞
1997年(平成9年)
5月27日
常滑 6号艇 是で競艇SGの中でも最も欲しいタイトル・3つを総なめ。
V6 第11回
グラチャン
2001年(平成13年)
6月24日
唐津 2号艇 この大会は寺田千恵が女性レーサー史上初のファイナリストに名を刻んだ歴史的な大会だった。優勝戦も進入で寺田選手が果敢に1コースをゲット(然しスタートが出遅れて4着に沈む)。
V7 第7回
オーシャンカップ競走
2002年(平成14年)
8月4日
若松 1号艇 2002年は将に植木一色の年。そんな名に相応しい1つ目がこの若松オーシャン。
V8 第5回記念
競艇王CC
2002年(平成14年)
12月1日
1号艇 2つ目は秋深まる津での競艇王。1年で複数のSGの制覇するのは初。
V9 第17回
賞金王決定戦競走
2002年(平成14年)
12月23日
住之江 3号艇 そして3つ目は自身、3度目の賞金王制覇。これで2002年に彼が獲得した年間獲得賞金は2億8000万円を超えた。
V10 第32回
笹川賞競走
2005年(平成17年)
5月29日
常滑 1号艇 植木自身、最後のSGタイトルはSG5勝目と全く大会も場所も同じ常滑笹川賞であった。94年のダービーも含め常滑でのSGは3勝目。
中部国際空港 セントレア開港記念競走として開催)

G1 23勝

[編集] エピソード

  • 桐生競艇場での事故の際、搬送中の救急車の中で、付き添いの競艇場職員に「スタートが正常だったか否か」の確認を求め、「それどころじゃない!!」と職員に怒られた。

手術の途中で担当医を務めた前沢病院の上野武男医師が「これが鼻かな」「これが瞼かな」と言いながら傷を縫っていたこともあって、いよいよ心配になったのだろうか、「先生、大丈夫ですか?」と問い合わせると、「喋ったらいけない、喋ると顔が変形してしまうから」と返答された。 後に『別冊宝島』誌上でのインタビュー[2]で、スタートを確認した件について「(怪我した)場所が顔だったから、自分の目に見えなくて、どんだけ切ってるとかわかんなかっただけなんです(苦笑)」と語ったほか、「手術台に上がったら、先生が『これが瞼かな』とか話してるのが聞こえてきて(中略)『ひょっとしてダメかな』とか、ちょっと考えましたね」と後になってことの重大さに気づいたことを述べている。


  • 事故直後は出血量の多さ、手術直後は施術部の腫れがひどかったため、何も見ることが出来なくなり、その間本人は失明したと思い込み、今後の生活を考え絶望的になっていたと語っている。
  • 退院後、北九州へ戻る際に傷を隠すためにメガネをしていたが、いかんせん目と目の間(日月)の骨が無くなっていたために、メガネがずれまくって全く意味を成さなかった。そして北九州に戻り、北九州総合病院にて顔の皮を剥いで頭蓋骨を摘出し、顔(日月)の部位に移植手術を行った。

植木は5号艇から奇襲の2コース進入、1マークはイン中道に対してマクリを打ち、中道も受け止め凌ぐ。 ターンマークの度に順位が入れ替わる死闘を演じ、2人は併走でゴール、わずかの差で植木が20代初の賞金王覇者となった。 「賞金王での植木と中道の死闘は艇史に名勝負である。」とファンの間では語り継がれている。 が、植木と中道は後にこの名勝負を振り返って、お互いがターンマークの度に失敗を重ねていたと振り返っている。

  • 1993年から2002年まで、10年連続で賞金王決定戦に出場。全SG競走を制覇する「グランドスラム」に最も近いといわれたが、モーターボート記念競走だけは優勝に縁がなく、グランドスラマーの偉業を達成することは叶わなかった。輝かしい成績を残しているにもかかわらず、意外にも完全優勝の経験はない。

[編集] 著書など

植木通彦・著 『水に舞う不死鳥・艇王の二十年』 弦書房(福岡) 2008年9月 ISBN 978-4-86329-008-2

[編集] 脚注

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  1. ^ http://www.kyotei.or.jp/infomation/topics/200804/01_001.html
  2. ^ 別冊宝島318「競艇ツケマイ読本」pp.34 - 43

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク


最終更新 2009年11月13日 (金) 15:11 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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