楠木正成
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| 楠木正成 | |
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皇居外苑にある楠木正成像
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| 時代 | 鎌倉時代末期 - 南北朝時代 |
| 生誕 | 不詳 |
| 死没 | 延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日) |
| 改名 | 多聞丸、正成 |
| 別名 | 大楠公 |
| 戒名 | 霊光寺大圓義龍卍堂 |
| 墓所 | 観心寺 |
| 官位 | 兵衛尉、従五位上、検非違使、左衛門少尉、河内国・和泉国・摂津国守護、贈正一位 |
| 主君 | 後醍醐天皇 |
| 氏族 | 楠木氏 |
| 父母 | 父:楠木正遠(諸説あり)、母:橘盛仲の娘 |
| 兄弟 | 正俊(俊親)、正成、正季、正家 |
| 妻 | 南江正忠の娘・久子 万里小路藤房の妹・滋子 |
| 子 | 正行、正時、正儀 |
楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての河内の武将。鎌倉幕府からは悪党と呼ばれた。建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍。恩賞方・武者所・記録所寄人・雑訴決断所奉行、和泉守護。贈正一位(1880年)。尊氏反抗後新政の軍事主体の主力の一方になり、最後まで勤王をつらぬく。足利尊氏の軍と戦い湊川で自害。明治以降「大楠公」(だいなんこう)と称される。父は系図により楠木正遠あるいは正玄、正澄、正康、俊親などと伝え、はっきりしていない。
目次 |
[編集] 楠木氏の出自
楠木氏は、伊予国の伊予橘氏(越智氏)の橘遠保の末裔ともいう。しかし、正成以前の系図は諸家で一致せず、後世の創作と見られる。河内には楠木姓の由来となるような地名はなく、北条得宗家被官の一族で、得宗領の河内へ移ってきたとする説、武蔵国(関東地方)の出身であるとする説などがある。また、秦氏の系統の説もある。
昭和37年(1962年)に三重県上野市の旧家から『上嶋家文書』(江戸時代末期の写本)[1]が発見された。
[編集] 生涯
河内国石川郡赤坂村(現大阪府南河内郡千早赤阪村)の出生とする。生年に関しての確実な史料[2]は存在せず、正成の前半生はほとんど不明で、日本史上きわめて有名でありながら出自がこれほど謎に包まれた人物はほかにいないといわれる。様々な歴史家による懸命な研究努力にも拘らず、正成が確かな実像として捉えられるのは、元弘元年の挙兵から建武3年の湊川での自刃までのわずか6年ほどに過ぎない。
元弘元年(1331年)臨川寺領和若松荘「悪党楠木兵衛尉」として史料に名を残しており、鎌倉幕府の御家人帳にない河内を中心に付近一帯の水銀などの流通ルートで活動する「悪党」とよばれる豪族であったと考えられている。また、この時既に官職を帯びていることから、これ以前に朝廷に仕え、後醍醐天皇もしくはその周囲の人物達と接触を持っていたと思われる。
この年に後醍醐天皇の挙兵を聞くと下赤坂城にて挙兵し、湯浅定仏と戦う(赤坂城の戦い)。後醍醐天皇と正成を結びつけたのは、伊賀兼光、あるいは真言密教の僧である文観と思われる。後醍醐天皇が隠岐島に流罪となっている間にも、大和国(奈良県)の吉野などで戦った護良親王とともに、河内国の上赤坂城や金剛山中腹に築いた山城、千早城に籠城してゲリラ戦法や糞尿攻撃などを駆使して幕府の大軍を相手に奮戦する。
元弘3年 / 正慶2年(1333年)、正成らの活躍に触発されて各地に倒幕の機運が広がり、足利尊氏や新田義貞、赤松円心らが挙兵して鎌倉幕府は滅びた(元弘の乱)。後醍醐天皇が京へ凱旋する際、兵庫まで出迎え、同道警護についた。
後醍醐天皇の建武の新政が始まると、正成は記録所寄人、雑訴決断所奉行人、河内・和泉の守護となる。建武の新政においては正成は後醍醐天皇の絶大な信任を受け、結城親光、名和長年、千種忠顕をあわせて「三木一草」と併称され、「朝恩に誇った」とされる(『太平記』の記述)。建武元年(1334年)冬、正成が北条氏残党を討つために京を離れた直後、護良親王が謀反の嫌疑で捕縛され、足利尊氏に引き渡された。その直後、正成は建武政権の役職の多くを辞職したと見られることから、正成は護良親王の有力与力であったと見られている。
建武2年(1335年)の中先代の乱を討伐に向かった尊氏がそのまま新政に離反し、尊氏追討の命を受けた義貞が箱根・竹ノ下の戦いに敗北して足利軍が京へ迫るが、北畠顕家らと連絡して足利方を京より駆逐する。
延元元年 / 建武3年(1336年)、足利方が九州で軍勢を整えて再び京都へ迫ると、正成は後醍醐天皇に新田義貞を切り捨てて尊氏と和睦するよう進言するが容認されず、次善の策として、一旦天皇の京都からの撤退を進言するがこれも却下される。絶望的な状況下で義貞の麾下での出陣を命じられ、湊川の戦い(兵庫県神戸市)で足利直義の軍と戦い敗れて、弟の楠木正季と刺し違えたとされる。法名は霊光寺大圓義龍卍堂。
正成の息子である小楠公こと楠木正行を筆頭に、楠木正時、楠木正儀らも正成と同じく南朝方について戦った。
正成の妻・久子は、夫・正成、長男・正行らの死後、戦乱の中、河内(甘南備村)を離れ、美濃乃国伊自良村長滝釜ヶ谷奥の院に隠棲。奥の院には、それを祀る甘南備神社がある。地域の尊信を得て、河内乃国甘南備の字名、長滝、平井、掛、松尾等々を与える。その墓は伊自良湖の登り口、長滝七社神社境内横にある。
[編集] 後世の処遇と影響
南朝寄りの古典『太平記』では正成の事跡は強調して書かれているが、足利氏寄りの史書である『梅松論』でさえも同情的な書き方をされている。理由は、戦死した正成の首(頭部)を尊氏が「むなしくなっても家族はさぞや会いたかろう」と丁寧に遺族へ返還しているなど、尊氏自身が清廉な彼に一目置いていたためであろう。
今日でいうゲリラ戦的戦法を得意とした正成の戦法は、江戸時代に楠木流の軍学として流行し、正成の末裔と称した楠木正辰(楠木不伝)の弟子だった由井(由比)正雪も南木流軍学を講じていた。
佩刀であったと伝承される小竜景光(東京国立博物館蔵)は、山田浅右衛門の手を経て、明治天皇の佩刀となった。明治天皇は大本営が広島に移った時も携えていたとされる。
また、明治政府は南朝の功臣の子孫にも爵位を授けるため、正成の子孫を探したが、正成の末裔を自称する氏族は数多く全国各地に存在したが、直系の子孫であるかという確かな根拠は国家権力を以てしても確認することが出来なかった。このため、新田氏、菊池氏、名和氏の子孫等は男爵に叙せられたが、楠木氏には爵位が与えられなかった。
しかし、大楠公600年祭(昭和10年)を前後して楠木氏の子孫が確認され、湊川神社内に楠木同族会が組織されて現在に至っている。
[編集] 死後の楠木正成
永禄2年(1559年)、正成の子孫と称した楠木正虎が献金により朝敵の赦免を嘆願し、正親町天皇の勅免を受けて朝敵でなくなる。また江戸時代には水戸学の尊皇の史家によって、忠臣として見直された。
江戸時代後期には尊皇家によって頻繁に祭祀されるようになり、その動きはやがてのちの湊川神社の創建に結実し、他方で靖国神社などの招魂社成立に大きな影響を与えることとなる。
明治になり南北朝正閏論を経て南朝が正統であるとされると大楠公と呼ばれ、講談などでは『三国志演義』の諸葛孔明の天才軍師的イメージを重ねて語られる。また、皇国史観の下、戦死を覚悟で大義の為に逍遥と戦場に赴く姿が「忠臣の鑑」、「日本人の鑑」として讃えられ、修身教育でも祀られる。
戦後は価値観の転換と歴史学における中世史の研究が進むと悪党としての性格が強調されるようになり、吉川英治は『私本太平記』の中で戦前までのイメージとは異なる正成像を描いている。
[編集] 軍歌「桜井の決別」
楠木正成と息子正行との決別を歌った歌で、1899年(明治32年)6月に発表された。作詞落合直文、作曲奥山朝恭。
国学者で一高教授だった落合は、学校生徒行軍歌「湊川」の第一篇に「桜井決別」として発表した。作曲の奥山朝恭は岡山師範学校の教師。
[編集] 墓所・霊廟・史跡
- 大楠公首塚
- 大阪府河内長野市にある高野山真言宗の寺院、檜尾山観心寺の境内にある。湊川の戦いの後、足利尊氏の命によって送り届けられた楠木正成の首級が葬られている。観心寺塔中院は、正成の曾祖父楠木成氏が再建したと伝えられる、楠木家代々の菩提寺。
- 南木神社
- 大阪府南河内郡千早赤阪村に鎮座する建水分神社の摂社で、祭神は楠木正成。本社の建水分神社は楠木家の氏神とされる。1337年(延元2年 / 建武4年)に後醍醐天皇により自ら彫刻の正成像が祀られたのが起源であり、後に後村上天皇より「南木(なぎ)明神」の神号を受けた。楠木正成を祀る最古の神社。
- 大阪府富田林市甘南備にある臨済宗妙心寺派の寺院で、楠木家の香華寺とされる。楠公史跡河南八勝第二蹟、河内西国霊場第二十番札所。1348年(正平3年/貞和4年)に楠木正行・正時が四條畷の戦いで戦死した後、正成の妻で正行・正時の母の久子が、草庵を建立。敗鏡尼と称して入寂するまでの16年間、この草庵楠妣庵に隠棲し、楠木一族郎党の菩提を弔った。敗鏡尼の入寂後、楠木正儀は観音殿を観音寺と改め、不二房行者(授翁宗弼)を住まわせた。観音寺は楠妣庵と共に、兵火による度重なる衰退を繰り返し、更に廃仏毀釈により廃寺となった。1917年(大正6年)に草庵楠妣庵が復元再建、1922年(大正11年)に観音寺本堂が再建された。
- 長滝七社神社
- 岐阜県山県市長滝にある七社神社横に、八王寺宮と刻まれた楠公夫人久子の墓がある。正成の妻が楠木一族郎党の菩提を弔った後、戦乱の中、この地を離れ、美濃乃国伊自良村長滝釜ヶ谷奥の院に隠棲。地域の尊志を得て、久子(旧姓・南江)の生地甘南備村の字名、長滝、平井、掛、松尾等を伊自良に与えた。奥の院にある甘南備神社は、楠木家の遠祖と称える橘諸兄の父、美努王(みぬのおおきみ)を祀る。甘南備村の口碑には、楠木正成夫人久子は、観音像を念持仏にして、行脚に出たが、終わるところ知らずとある。墓は、伊自良湖の登り口、長滝七社神社境内西にある。楠公夫人がこの地に訪れた最大の理由は、新田義貞亡き後、その弟の脇屋義助が大将となり、北陸で敗れ、美濃の南朝一派と共に、最後の根尾城の戦いでも敗れ、根尾川の下流、本巣地区の北朝の根城を避け、一緒に戦った伊自良次郎左衛門の家臣と共に、伊自良に流れ、吉野に帰ったその経路に従ったものと思われる。
- 楠木正成(大楠公)の神霊を主祭神とし、子息の楠木正行(小楠公)および湊川の戦いで斃れた一族十六柱と菊池武吉の神霊を配祀。戦後になって大楠公夫人久子の神霊も合祀された。神社として創建されたのは比較的新しく、明治5年(1872年)のこと。神社創建以前から存在した墓所には、徳川光圀によって墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」が建立されている。湊川の戦いで楠木正成が一族郎党と共に自害したとされる戦没地(異説あり)と、墓所の両方を境内地に含んでいる。
- 奉建塔(楠公六百年記念塔)
- 没後600年を記念して、昭和15年(1940年)に全国の児童学生や教職員等の募金により浄心寺塞(上赤坂城支塞)跡に建てられた記念塔。正成討死の年齢43歳に因み、高さはおよそ43尺(約13m)。塔には家紋の菊水紋、旗印の「非理法権天」の文字が刻まれている(但し、旗印は史実ではなく伝承。非理法権天の記事を参照)。
- 楠公産湯の井戸
- 生誕の地から徒歩数分のところに「楠公産湯の井戸」とされる井戸がある。
[編集] 脚註
[編集] 関連項目
- 楠木氏
- 桜井の別れ
- 楠宏 - 正成の子孫で地理学者・地球物理学者
- 湊川神社- 正成の殉節地に祀られる神社。
- 建水分神社- 楠木氏の氏神で、摂社に正成を祭神とする神社では最古の南木神社を祀る。
- 能の演目。四番目物の侍物。桜井 (能)(さくらい、喜多流)、桜井駅 (能)(さくらいのえき、金剛流)、楠露(くすのつゆ、観世流)
- 茨木神社
- 千早赤阪村 - 正成の出身地で、村内に多くの史跡がある。
- 福井城 (摂津国)
- 二上山城 (大和国)
[編集] 登場作品
- 小説
- 吉川英治『私本太平記』 講談社文庫:吉川英治文庫全8巻ほか
- 大佛次郎『大楠公 楠木正成』 徳間文庫、1990年10月 ISBN 4195991838
- 北方謙三『楠木正成』(上下) 中央公論新社 のち中公文庫 2003年6月、上 ISBN 4122042178、下 ISBN 4122042186
- 吉川佐賢『楠木正成 夢の花』(上下) 叢文社、上 2005年12月 ISBN 4794705387、下 2006年1月 ISBN 4794705395
- 漫画
- 『ナギ戦記』(作:内野正宏・スーパージャンプ連載)
- TVドラマ
[編集] 参考文献
- 童門冬二『楠木正成 物語と史蹟をたずねて』(成美文庫)成美堂出版 1995年6月 ISBN 4415065724
- 湊川神社「神戸と楠公さん」編集委員会 『神戸と楠公さん 悲運の名称楠木正成の生涯』 神戸新聞総合出版センター 2006年10月 ISBN 4343003795
以下は絶版品切れ
- 平泉澄『楠公・その忠烈と余香』 鹿島研究所出版会 1973年8月
- 森田康之助『楠木正成 美しく生きた日本の武将』 新人物往来社 1982年6月
- 森田康之助『湊川神社史上巻(祭神篇)・中巻(景仰篇)・下巻(鎮座篇)』湊川神社社務所 1984年3月・1978年2月・1987年12月
- 植村清二『楠木正成』(中公文庫)中央公論新社 1989年2月 ISBN 4122015871
[編集] 外部リンク
最終更新 2009年11月8日 (日) 02:16 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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