極真会館
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極真会館(きょくしんかいかん)は、大山倍達が創始した空手道団体。正式名称は国際空手道連盟 極真会館(こくさいからてどうれんめい きょくしんかいかん)である。前身は日本空手道極真会 大山道場。極真の由来は「千日を以って初心とし、万日を以って極とす」という言葉の“心”を“真”に変え、名称とした。
目次 |
[編集] 組織概要
1964年(昭和39年)4月に財団法人極真奨学会を冠し、会長に佐藤栄作(当時国務大臣)、副会長に毛利松平(当時衆議院議員)を迎え、国際空手道連盟極真会館が設立された。館長(後に総裁)に大山倍達が就任。同年6月に東京都豊島区西池袋に本部道場(後に総本部)が竣工。なお、建設には資金援助をしてくれた人たちのほか、「黒崎健時の貢献がとても大きい」と中村忠は証言している[1]。
伝統派空手に対し、極真会館は対戦相手に技をそのまま相手に当てる、直接打撃制(フルコンタクト空手)の提唱と啓蒙を行い、年1回のオープントーナメント全日本空手道選手権大会と、4年に1回のオープントーナメント全世界空手道選手権大会を開催してきた。
現在、各々が極真会館を名乗り、団体毎に門下生が在籍。個々に上記大会や付随する各種大会が行われている。
[編集] 歴史
ここでは大山倍達が、館長及び総裁に就いていた時代を記す。会館設立前は日本空手道極真会 大山道場を参照。
極真会館は、
がそれぞれ相乗効果を働き、発展してきた。
[編集] 史上初のフルコンタクトによる大会
[編集] 開催までの道のり
極真会館竣工以降、大山倍達はオープントーナメント全日本空手道選手権大会(以降、全日本選手権に略)の開催に着手する。それは1964年(昭和39年)東京オリンピックの各種オリンピック競技をたびたびスタジアム観戦していた大山が、空手道でオープントーナメント制選手権大会を開催しようと検討し始めたことがきっかけであった[2]。今でこそ直接打撃制の選手権大会をいろいろな流派が開催しているが、当時はこのルールで選手権大会を行なうと主張する極真会館に対して、会場側は決して協力的ではなく、なかなか確保できなかった。東京体育館とは都合3年も交渉を行い、その頃、盛んになり出したキックボクシングの例をあげ、その安全性をよく説明することにより許可を得て、ようやく1969年(昭和44年)9月に念願であった第1回全日本選手権が開催できる運びとなった。
なお、遡ること1969年(昭和44年)4月にNETは「ワールドキックボクシング」を開催し始めたが、2ヶ月前から各方面より選手を集め、ムエタイ選手や日本拳法空手道らに出場要請をし、極真会館へも同様なオファーがあった。大山は高弟の山崎照朝、添野義二、及川宏[注釈 1]を選出し、極真ジム所属として参戦させた[3]。キックボクシングはNET他、TBS、日本テレビ、東京12チャンネルの4局で放映され、キック戦国時代と呼ばれるほど、4局が視聴率争いにしのぎを削るブームで、新興スポーツとして注目されていた。参戦した山崎照朝や添野義二がKO勝ちして強さをアピールしたことにより、結果的には後に開催される全日本選手権の宣伝となった。
[編集] 極真の看板を守り抜く
“オープントーナメント”と謳った全日本選手権は、「空手界の各流派はもちろんのこと、武道全般、拳法、ボクシング、キックボクシング等誰でも参加できる」というキャッチフレーズで参加の呼びかけを行なった。韓武舘をはじめ、申し込みをした選手の半数が他流派で、なかには柔道参段で体重 100 キログラムを超すギドン・ギダリー(イスラエル)、黒人ヘビー級ボクサーのポール・ジャクソン(アメリカ)、ムエタイのランキングボクサー、ビラホン・ハンビーン、サカオ・チャルムーン、サマンソー・アディソン(以上タイ)[3]と、他格闘技からもエントリーしてきたことで、さながら“異種格闘技戦”の様相を呈していた。無差別級で直接打撃制によるKOで決定するとし、反則は「顔面への正拳、肘打ち、貫手」「頭突き」「金的」攻撃のみで、投げや掴みも認められていた[注釈 2]。6時間にわたる激しい試合展開となったが、キックボクシングでも活躍をした山崎照朝が優勝、添野義二が準優勝と主催者である極真会館の選手が上位を守った。大山倍達も「これで極真の看板を下ろさずにすんだ……」と溜飲をさげ、興行的にも7,000人の観衆を集め、成功した。このことが翌年以降の継続的な開催に繋がった。
1972年(昭和47年)にパリで開催された世界空手道選手権大会で全日本空手道連盟翼下の日本選手が団体戦で惨敗。個人戦は試合を放棄したことで「柔道に続き、空手よ、お前もか」と各種マスメディアで取り上げた。これに対して大山倍達は「日本の空手は負けていない。近い将来、国際空手道連盟極真会館主催の世界選手権を開催して、日本選手の強さを示す」と声明を発表して、1975年(昭和50年)には第1回オープントーナメント全世界空手道選手権大会(以降、全世界選手権に略)を開催し、佐藤勝昭が優勝した。その後も年に1回の全日本選手権、4年に1回の全世界選手権が続き、現在に至っている。
[編集] ルールと運営の変遷
第1回全日本選手権のルールや運営手法が、選手権大会の回数を重ねるごとにそれぞれ改善、変更がされてきた。以下、その内容を記す。
[編集] ルール
1971年(昭和46年)第3回全日本選手権
- 「倒して決めの下段突き」は動きに少しの無駄もなく、スムーズな一連の流れによる一動作でも、技ありまでと改正される
- 1970年(昭和45年)第2回全日本選手権は閉幕後、「相手を投げ倒して決めにいけば、それで一本勝ちとする」というルールが問題となっていた。優勝した長谷川一幸は、山崎照朝には「絡み倒して下段正拳突きをピタリと顔面に止め」、添野義二にも「巻き倒しての決めの下段突き」で一本勝ちを得ている。他の試合でも同様な「倒して決めの下段突き」があまりにも多く、これがパターン化することを危惧したためである[2]。
1979年(昭和54年)第2回全世界選手権
- 掴みを完全に禁止とした
1980年(昭和55年)第12回全日本選手権
- 柔道の技を完全に禁止
1984年(昭和59年)第3回全世界選手権
- 対戦相手の背後からの攻撃を禁止
- 各国選手により、対戦相手が試合の流れで後ろを向いてしまった時に攻撃を継続する選手としない選手がいた為、禁止と統一した。なお、対戦相手自らが逃げるために後ろを向くことは減点になり、回数が多いと技ありをとられることになる。
[編集] 運営
1971年(昭和46年)第3回全日本選手権
- 試合場を一つに集約した。
- 1970年(昭和45年)第2回全日本選手権まで試合場は2つあり、それぞれ試合が同時に進行する方式が採られていた。しかし、観客の気が散って試合に集中できないという理由で取り止めされた。
1973年(昭和48年)第5回全日本選手権
- 1972年(昭和47年)の第4回全日本選手権迄、参加選手は48名でA、B、Cとトーナメント分けられ、3つのトーナメントを勝ちあがった3名の選手による決勝リーグ戦であった。それをこの選手権大会から、64人の選手が参加する1日のトーナメントとして、決勝まで進めば6試合を行う形式に変更した。
1974年(昭和49年)第6回全日本選手権
- 128人の選手参加による2日間のトーナメント開催で、決勝まで進むには初日に2試合、2日目に5試合を行う形式になった。
1979年(昭和54年)第2回全世界選手権
- この年から、世界選手権のみ3日間のトーナメント開催となり、各国選手権の優勝、準優勝者などシードされた選手は初日の1試合が免除され、2日目に2試合、3日目に5試合行われる形式となる。その後の世界選手権も参加した選手がその時々で人数に差異があったが、3日間開催とシード権は継続された。
[編集] 大会結果
[編集] 全日本選手権
毎年11月に無差別級の「オープントーナメント全日本空手道選手権大会」を開催し、他流派や他団体の選手も参加できる。1984年(昭和59年)から毎年6月に体重制の「オープントーナメント全日本ウェイト制空手道選手権大会」も開催している。
| 回 | 年 | 優勝 | 準優勝 | 3位 | 4位 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 1969年(昭和44年) | 山崎照朝 | 添野義二 | 長谷川一幸 | 朴邦治 |
| 2 | 1970年(昭和45年) | 長谷川一幸 | 山崎照朝 | 添野義二 | 増田賢一 |
| 3 | 1971年(昭和46年) | 佐藤勝昭 | 大山泰彦 | 大石代悟 | 三浦美幸 |
| 4 | 1972年(昭和47年) | 三浦美幸 | ハワード・コリンズ[注釈 3][4] | 佐藤俊和[注釈 4][4] | 山崎照朝 |
| 5 | 1973年(昭和48年) | 盧山初雄 | 山崎照朝 | 佐藤俊和 | 佐藤勝昭 |
| 6 | 1974年(昭和49年) | 佐藤勝昭(2) | 東孝 | 盧山初雄 | 西田幸夫[注釈 5][4] |
| 1975年(昭和50年) | 第1回全世界空手道選手権大会と兼ねる | ||||
| 8 | 1976年(昭和51年) | 佐藤俊和 | 二宮城光 | 東孝 | 沢柳俊夫 |
| 9 | 1977年(昭和52年) | 東孝 | 中山猛夫 | 中村誠 | 浜井識安 |
| 10 | 1978年(昭和53年) | 二宮城光 | 三瓶啓二 | 中村誠 | 廣重毅 |
| 11 | 1979年(昭和54年) | 中村誠 | 三瓶啓二 | 東孝 | 野口敏郎 |
| 12 | 1980年(昭和55年) | 三瓶啓二 | 中村誠 | 為永隆 | 松井章圭 |
| 13 | 1981年(昭和56年) | 三瓶啓二(2) | 中村誠 | 松井章圭 | 白石昌幸 |
| 14 | 1982年(昭和57年) | 三瓶啓二(3) | 水口敏夫[注釈 6][4] | 松井章圭 | 三好一男 |
| 15 | 1983年(昭和58年) | 大西靖人 | 小笠原和彦 | 竹山晴友[注釈 7][4] | 三好一男 |
| 16 | 1984年(昭和59年) | 黒澤浩樹 | 竹山晴友 | 水口敏夫 | 木元正資 |
| 17 | 1985年(昭和60年) | 松井章圭 | 黒澤浩樹 | 増田章 | ジェームズ・北村 |
| 18 | 1986年(昭和61年) | 松井章圭(2) | 増田章 | 八巻建志 | 小井義和 |
| 1987年(昭和62年) | 第4回全世界選手権と兼ねる | ||||
| 20 | 1988年(昭和63年) | 桑島靖寛 | 石井豊[注釈 8][5] | 八巻建志 | 山口徹 |
| 21 | 1989年(平成元年) | 八巻建志 | 田村悦宏[注釈 9] | 桑島靖寛 | 増田章 |
| 22 | 1990年(平成2年) | 増田章 | 緑健児 | 岩崎達也 | 外舘慎一[注釈 10][5] |
| 1991年(平成3年) | 第5回全世界選手権と兼ねる | ||||
| 23 | 1992年(平成4年) | 田村悦宏 | 数見肇 | 岡本徹 | 七戸康博[注釈 11][4] |
| 24 | 1993年(平成5年) | 数見肇 | 田村悦宏 | 岡本徹 | 七戸康博 |
| 25 | 1994年(平成6年) | 八巻建志(2) | 数見肇 | 市村直樹 | 岡本徹 |
| 1995年(平成7年) | 第6回全世界選手権と兼ねる | ||||
| 27 | 1996年(平成8年) | 数見肇(2) | ギャリー・オニール | 高久昌義 | 高尾正紀 |
| 28 | 1997年(平成9年) | 数見肇(3) | ギャリー・オニール | 堀池典久 | 田村悦宏 |
| 29 | 1998年(平成10年) | 数見肇(4) | 田村悦宏 | 木山仁 | 野地竜太 |
| 1999年(平成11年) | 第7回全世界選手権と兼ねる | ||||
| 31 | 2000年(平成12年) | 木山仁 | 木村靖彦 | 市村直樹 | 木立裕之 |
| 32 | 2001年(平成13年) | 木山仁(2) | 木村靖彦 | 足立慎史 | 市川雅也 |
| 33 | 2002年(平成14年) | 数見肇(5) | 木山仁 | 田中健太郎 | 徳田忠邦 |
| 2003年(平成15年) | 第8回全世界選手権と兼ねる | ||||
| 35 | 2004年(平成16年) | 田中健太郎 | 徳田忠邦 | ミハエル・コズロフ | マキシム・デディック |
| 36 | 2005年(平成17年) | 内田義晃 | 塩島修 | 徳田忠邦 | 加藤達哉 |
| 37 | 2006年(平成18年) | 内田義晃(2) | アルトゥール・ホヴァニシアン | ディミトリー・ルネフ | クリストフ・ハブラシカ |
[編集] 全世界選手権
- 男子
[編集] 試割り
杉板で正拳、足刀[注釈 12]、手刀、猿臂で割った合計枚数により競い合う。第1回全日本選手権から行なわれ、以下の更新をしている。
| 年 | 大会 | 名 | 正拳 | 足刀 | 手刀 | 猿臂 | 合計 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1969年(昭和44年) | 第1回全日本選手権 | 山崎照朝 | 3 | 4 | 5 | 4 | 16枚 |
| 1973年(昭和48年) | 第5回全日本選手権 | 山崎照朝 | 4 | 7 | 6 | 7 | 24枚 |
| 1979年(昭和54年) | 第2回全世界選手権 | ウィリー・ウィリアムス | 5 | 6 | 8 | 7 | 26枚 |
| 1984年(昭和59年) | 第3回全世界選手権 | 増田章 | 6 | 8 | 7 | 8 | 29枚 |
| 1992年(平成4年) | 第24回全日本選手権 | 阿部清文 | 6 | 9 | 8 | 8 | 31枚 |
[編集] マスメディア戦略
下記の積極的な宣伝、啓蒙活動が、“極真カラテ”の知名度を飛躍的に拡げた。
[編集] 漫画・劇画
梶原一騎の原作で『虹を呼ぶ拳』、『空手バカ一代』、『四角いジャングル』などで、大山倍達と極真会館は実名で取り上げられた。特に『空手バカ一代』は大山を主人公にし、弟子も紹介された作品で、アニメ化や映画化もされた。
[編集] 通信教育
梶原一騎らとの協力によりマス大山カラテスクールを1972年(昭和47年)に設立。自宅に居ながらにして極真空手を学べるとして少年漫画誌を中心に大々的な宣伝活動を行い、多数の受講生を獲得した。1973年(昭和48年)には渋谷に通信生向けの実技道場を構え、師範代を山崎照朝、指導員を鈴木浩平[注釈 13]などが務めた。
[編集] 映画
『007は二度死ぬ』の撮影で、姫路城の屋根で忍者部隊役で戦うシーンに大沢昇と加藤重夫が出演した[6][注釈 14]。この撮影には各流派の空手家が集まっていたが、撮影の合間にも大沢と加藤は練習していた。その熱心さにジェームズ・ボンド役のショーン・コネリーが彼らを気に入り「あなた達の道場に行きたい」と言い、1966年(昭和41年)9月3日にコネリーが本部道場に来訪して演武会が行われた。大沢、加藤の他に大山茂、郷田勇三、芦原英幸らが参加し、数々の試割りや演武を披露した。なお、コネリーには名誉参段が贈呈された[7]。
東映は、大山道場時代からの弟子である千葉真一主演で、大山倍達を主人公にした『けんか空手 極真拳』1975年(昭和50年)、『けんか空手 極真無頼拳』1975年(昭和50年)、『空手バカ一代』1977年(昭和52年)を、三協映画が『地上最強のカラテ1・2』1976年(昭和51年)、『最強最後のカラテ』1980年(昭和55年)を制作し、それぞれ公開された。東映の3作品には、大山道場や設立直後の会館で師範代を務めた石橋雅史も出演している。これらの映画に極真会館は全面的に協力した。
[編集] 出版
大山倍達自らも精力的に執筆した。1966年(昭和41年)には極真会館の機関誌として、月刊『近代カラテ』[注釈 15]を発行。1978年(昭和53年)からは新たに『月刊パワー空手』を機関誌として創刊した。また、『空手バカ一代』に登場した弟子のほとんどが、各々自叙伝や技術本を出版した。
[編集] テレビ・雑誌
1973年(昭和48年)の第5回全日本選手権からテレビ中継され、その後、全日本・全世界選手権開催毎に東京12チャンネルやNETで放送された。雑誌では『ゴング格闘技』(日本スポーツ出版社)、『格闘技通信』(ベースボール・マガジン社)、『フルコンタクトKARATE』(福昌堂)にも頻繁に登場した。
[編集] 効果
以上により、影響や触発された読者、視聴者が観客や入門者となり、極真ファンや門下生の増加に貢献した。また、才能ある若者が集まる波及効果もあった。1980年(昭和55年)代に選手で活躍した松井章圭、増田章、黒澤浩樹らは、大山の著書や映画、劇画の影響で極真会館に入門したと言っている。
[編集] 極真カラテの啓蒙
[編集] 海外の要人への関係強化
外国の要人に空手道を指導したり、演武を披露することを積極的に進め、国際的な普及に務めた。
1968年(昭和43年)8月にヨルダン王室に招かれ、フセイン国王、モハメド皇太子(現国王のアブドゥッラー2世)など王室関係者に指導を行った[8]。
1972年(昭和47年)2月にスペインのカルロス皇太子とソフィア夫人が来日した。カルロス皇太子(現・国王)は空手を習っていたことから、当時、極真会館副会長の毛利松平の仲立ちで演武会が催された。同月21日に大山倍達以下、大山泰彦、山崎照朝、添野義二、鈴木浩平[注釈 13]、三浦美幸、佐藤勝昭、磯部清次、大石代悟、ハワード・コリンズ[注釈 3]など黒帯、茶帯約20名からなるメンバーが、赤坂の迎賓館に訪問。基本稽古から各種試割りのあと、第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会チャンピオンの山崎照朝と第3回全日本選手権チャンピオンの佐藤勝昭の模範試合が行われるなど、国賓であるスペイン皇太子夫妻の前で数々の空手の技を披露した[9][10]。
また、1981年(昭和56年)6月にサウジアラビアのファイサル皇太子が総本部に来訪した。ファイサル皇太子は演武を堪能後、指導員の派遣を要請した[11]。
[編集] 弟子を世界各地へ派遣
1950年(昭和25年)代は大山倍達が国内外を遠征をしていたが、1960年(昭和35年)代半ばから、弟子を国内外各地に派遣し、支部の設立と門下生を育成した。海外では1966年(昭和41年)の黒崎健時が渡欧したのを皮切りに中村忠、大山茂、大山泰彦、三浦美幸、岸信行をアメリカ各地へ。加藤重夫をオーストラリア、松島良一[注釈 16]をシンガポール、磯部清次をブラジルへと派遣し、帰国した者を除き、支部長として永住させた。また、自ら来日し本部道場で稽古したジョン・ブルミン、ヤン・カレンバッハ、ルック・ホランダー[注釈 17](以上、オランダ)、スティーブ・アニール、ハワード・コリンズ[注釈 3](以上、イギリス)、ジャン・ジャービス(ニュージーランド)、ジョン・テイラー[注釈 18](オーストラリア)らを帰国後、現地の支部長や指導員に任命した。国内でも芦原英幸、添野義二、長谷川一幸、高木薫[注釈 19]、大石代悟、東孝、浜井識安、花澤明[注釈 20]らを派遣や帰郷などで、各地の支部長に据えた。
これらの活動が佐藤俊和[注釈 4]、二宮城光、田原敬三、水口敏夫[注釈 6]、増田章らが国内から出てきた。1985年(昭和60年)代以降は、山田雅稔の東京都下城西支部か、廣重毅の東京城南川崎支部のいずれから、チャンピオンや上位入賞者を多く輩出する時代が続いた。海外ではチャールズ・マーチン[注釈 21]、ウィリアム・オリバー、ウィリー・ウィリアムス(以上、アメリカ)、アデミール・ダ・コスタ、フランシスコ・フィリォ(以上、ブラジル)、ジャン・リビエール[注釈 22][4](カナダ)、ハワード・ロブマン、ミッシェル・ウェーデル、ジェラルド・ゴルドー、ピーター・スミット(以上、オランダ)、アンディ・フグ(スイス)、マイケル・トンプソン(イギリス)、ハンス・ラングレン(スウェーデン)、サム・グレコ(オーストラリア)、ケニー・ウーテンボガード(南アフリカ)らの孫弟子輩出となり、組織拡大に繋がった。しかし、1975年(昭和50年)代前後から相次いで弟子の破門、独立が発生(独立した団体)。ほとんどの支部が独立採算を取っていた為、現地の門下生も一緒に離れることとなった。一時的に縮小したりしたものの拡大の勢いは落ちず、1990年(平成2年)代に入ると各都道府県へ支部の設置が完了し、最盛期には世界123ヵ国、公認支部道場1,000以上、会員1,200万人の規模[12]となった。
[編集] 百人組手
百人組手(ひゃくにんくみて)とは極真会館の修行の一つであり、1人の空手家が連続して100人の空手家と1日で組手を行うことである。対戦者同士が握り棒[注釈 23]を持たせる。組手中の勝敗は問われない。完遂は、表の10人である。
| 達成者 | 達成日 | 組手時間 | 所要時間 | 一本勝ち | 優勢勝ち | 引き分け | 負け |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| ハワード・コリンズ[注釈 3] | 1972年(昭和47年)12月1日 | 2時間10分(どちらか不明) | |||||
| 三浦美幸 | 1973年(昭和48年)4月13日 | ||||||
| 松井章圭 | 1986年(昭和61年)5月18日 | 2時間24分 | 4時間 | 46 | 29 | 13 | 12 |
| アデミール・ダ・コスタ | 1987年(昭和62年)4月25日 | 2時間55分(どちらか不明) | |||||
| 三瓶啓二 | 1990年(平成2年)2月24日 | ||||||
| 増田章 | 1991年(平成3年)5月19日 | 3時間20分 | 41 | 5 | 40 | 14 | |
| 八巻建志 | 1995年(平成7年)3月18日 | 2時間17分15秒 | 3時間27分 | 22 | 61 | 12 | 5 |
| フランシスコ・フィリォ | 1995年(平成7年)3月18日 | 2時間9分9秒 | 3時間8分 | 26 | 50 | 24 | 0 |
| 数見肇 | 1999年(平成11年)3月13日 | 3時間20分40秒 | 4時間4分 | 16 | 42 | 42 | 0 |
| アルトゥール・ホヴァニシアン | 2009年(平成21年)3月29日 | 2時間27分 | 4時間7分 | 2 | 47 | 39 | 12 |
アデミール・ダ・コスタのみブラジル支部で行い、それ以外の完遂者は全て総本部で行なっている。当時、大山倍達は「アデミールが達成したことは、きたる第4回世界選手権に向けて末恐ろしい」と言う一方で「本部道場(現・総本部)以外での百人組手は認めない。理由は実施ルールが本部道場と支部は違うから」とも語り、それ以降の百人組手は他支部所属、他国所属の者もすべて総本部道場を訪れて挑戦するようになった。もっとも、本部道場での達成といっても、アルトゥール・ホヴァニシアンはフィットネスクラブichigeki内にある松井派総本部直轄恵比寿道場で、松井章圭は待田京介のプロデュースする映画の撮影で、東映東京撮影所で行われた。
また、それぞれ挑戦者はその時の状況、環境により、
- ルールが曖昧
- 対戦者のレベルがまちまち
- 挑戦者によっては女性、緑帯、黄帯、初心者である白帯が対戦者に含まれていた
- 同支部の黒帯は対戦者から除外
- サポーターの装着有無
と差があり、難易度は一様でない。ただし、直接打撃制である点は共通している。
怪我で組手自体が続行不可能になることもあり、完遂しても身体へのダメージ(脱水症状、全身打撲、肝機能障害、腎不全)が残る。達成した松井、増田章、八巻建志、数見肇は入院をした。とりわけ増田と八巻は急性腎不全で人工透析の危機に陥り、両名とも医者の薦める透析を拒み、後に自然治癒で回復した。完遂者以外では1972年(昭和47年)9月に大山泰彦は61人、1979年(昭和54年)8月24日(19時開始)に三瓶啓二は49人(1回目の挑戦)、同年8月26日に中村誠(13時開始)は35人、三好一男(16時開始)は45人、1984年(昭和59年)11月18日に小笠原和彦は43人で失敗に終わった。泰彦は後述を参照。三瓶、中村誠、三好らは真夏の死闘であった。小笠原は26人目で相手の道着に引っかかって負傷した右足小指が悪化したため、大山倍達がストップをかけた。
ちなみに小笠原は第16回全日本選手権(5位入賞)から2週間後に行い、告知も4日前に言われた[13]。三浦美幸も一週間前に大山倍達から指名された[14]。松井は大山倍達から「やりなさい」言われた時に、最大限の準備期間と夏を避けたいことから「3か月、時間をください」と頼み、実施日を調整した[15]。
泰彦、コリンズ、三浦は海外インストラクターとしての旅立つ前の儀式として実施された。三瓶、中村誠、三好は『四角いジャングル』の撮影を兼ね、小笠原は千葉県内神社特設リングで『最強のカラテ キョクシン』の撮影中に実施された。増田、八巻、フィリォ、数見は、世界大会優勝候補筆頭の「通過儀礼」としてそれぞれ行われた。アデミールは自らやりたいと申し出た[16]珍しい例で、ほとんどが自らの意志ではなく、大山倍達や各々の師匠の命令で挑戦している。三瓶は当初50人組手の予定だった[16]のを大山倍達に頼み込み、2回目の挑戦となった[17]。
挑戦者は極限状況に陥ることから、闘争本能がより激しくなったり、意識朦朧となりやすい。松井は67人目で頭突きと道着をつかんでの膝蹴りを行い、増田は76人目で噛み付きをした。また、増田は99人目で金的攻撃を受け、苦しんだ。
三瓶は現役引退者としては初で最高齢(35歳)の達成者である。しかし、約1時間の休憩を2回取り、その間に立会い責任者である大山倍達が途中で退室してしまい無効ではないかという意見もある。もっともコリンズの場合も大山倍達は四国に滞在していたので、その場に立ち会っていない[13]。
八巻とフィリォは同一対戦者であった。八巻が真っ向勝負で組手を行なっていたの対し、フィリォはリーチを生かして、左手を伸ばし間合い[注釈 24]をとり、カウンターの横蹴り、足掛け、回し蹴りを使っていた[18]。セコンドについたアデミールが「技をちらせ」、「間合いをとれ」とアドバイスし続けたのも良かった。フィリォは終了後、それまでの達成者が病院で精密検査を受けたのに対して「大丈夫。問題ない」と言い、病院へは行かなかった[18]。なお、フィリォは総本部での百人組手のシミュレーションを兼ねて、1ヶ月前の2月5日にブラジル支部で既に百人組手(一人1分30秒)を行い、2時間45分で達成していた。
もともと百人組手は、外国人門下生が帰国する、もしくは海外に長期派遣する門下生への送別の意味を込めて行われていた。1965年(昭和40年)5月21日にスティーブ・アニール、同年10月15日に中村忠、1966年(昭和41年)9月17日に大山茂、1967年(昭和42年)8月5日にルック・ホランダー[注釈 17]、同年11月10日にジャン・ジャービスがそれぞれ達成している。しかし、その当時の百人組手は、2日もしくは3日間かけて行なわれていた。その後、大山倍達が百人組手は1日で行うものと定義付けしてからは、上記5名は正式な達成者として認められていない。
ただし、スティーブ・アニールの百人組手の場にいた加藤重夫は「私はスティーブの百人組手に立ち会ってるけど、彼は百人組手をやっていないですよ。スティーブなんて8人か10人やったら空手衣なんて破れちゃって、後は立ってるだけでした。真っ赤な顔して可哀想になりましたよ。せいぜいやったって20~30人でしょう。何で百人組手達成したことになっているのかは知りませんが・・・[19]」と証言している。ちなみに1日で行われた百人組手の最初の挑戦者は、大山泰彦である。このときの死闘は、後年史上最激の百人組手と云われるほど、激しいものであった。
[編集] 分裂騒動
[編集] 1994年
1994年(平成6年)4月26日に大山倍達は逝去した。その翌々日に極真会館の審議(評議)委員長であった梅田嘉明が「大山総裁は遺言で松井章圭を次期後継者に指名された」と発表。5月10日に、梅田を財団法人極真奨学会理事長、松井を館長、郷田勇三を最高顧問、盧山初雄を最高顧問・主席師範、支部長協議会の会長を西田幸夫[注釈 5]とし、新体制で運営が始まった。6月に入り、遺族が記者会見を行い「遺言に疑問があるので法的手段にでる」と発表し、本葬時にも抗議活動を行なった。国内の支部長では、9月迄に高木薫[注釈 19]ら計5人が離れた。
[編集] 1995年
1995年(平成7年)2月に高木ら5人の支部長は大山智弥子未亡人を館長とし、結集(遺族派)。4月に新体制が松井派と、西田、三瓶啓二ら35人の支部長がいる支部長協議会派に分裂。この国内の分裂は海外にも波及し、世界各地で支部の取り合い、選手の引き抜きも行われ、分裂が生じた。松井派は中村誠や山田雅稔ら12人にまで減ったが、半年後には川畑幸一ら9人が支部長協議会派から復帰した。8月には智弥子館長を頭とし支部長協議会派と遺族派が合流(大山派)。同年から各種大会が松井派と大山派に分裂して開催されるようになった。
[編集] 1996年以降
松井派と大山派は、それぞれの機関誌である『ワールド空手』と『極真魂』誌上で数年間、双方の正当性を主張しあっていた。1997年(平成9年)3月17日に遺言書の有効性を否定する判決が最高裁で確定した。 その間に大山派は、協議会派と遺族派に再分裂。協議会派は1997年(平成9年)に西田、増田章が離脱。さらに理事の役職にあった田畑繁、七戸康博[注釈 11]、桑島靖寛らが離れ、前後して離脱した長谷川一幸、大石代悟らと全日本極真連合会を発足させる。協議会派に残留した者が現在の新極真会となった。遺族派は松島派、手塚グループ、宗家に分かれる。
一方、松井派でも2002年(平成14年)に梅田が財団法人極真奨学会と共に、松井と袂を分かつ。同年に盧山も離脱すると地区本部長を務めていた廣重毅、湖山彰夫らも続き、彼らは極真館を興し、財団法人極真奨学会の傘下に入る。2005年(平成17年)に水口敏夫[注釈 6]、河西泰宏らが、2006年(平成18年)に浜井識安が離脱し、同様に極真奨学会の傘下に入った。2008年(平成20年)には木村靖彦が全日本極真連合会へ移り、分裂が続いている。この期間に黒澤浩樹、小笠原和彦、八巻建志、数見肇が独立し、自派を発足している。選手ではニコラス・ペタス、野地竜太が離脱した。この間に松井は組織を株式会社化し、正式名称を株式会社国際空手道連盟極真会館と刷新した。
なお、松井派はフジテレビとの提携、K-1参戦、ゲームを販売するなど独自のマスメディア戦略を展開している。バンダイの『一撃~鋼の人~」というゲームは実名の選手が登場し、フルコンタクト空手が再現されている。また育成モードも存在し、宮村優子が隠しキャラとして使用できる。
[編集] 現在の状況
「国際空手道連盟 極真会館」もしくは「極真」を名乗る主な団体として(順不同)、
- 極真会館 松井派(松井章圭)
- 新極真会(緑健児)
- 極真会館 松島派(松島良一[注釈 16])
- 極真会館 手塚グループ(手塚暢人)
- 全日本極真連合会(田畑繁、七戸康博、桑島靖寛、長谷川一幸、大石代悟、高橋康夫、岡田幸雄、瀬戸利一、他)
- 極真館(盧山初雄) ※財団法人極真奨学会参加協力団体
- 極真会館 宗家(大山喜久子)
- 極真空手 清武会(西田幸夫)
- 極真会館 極眞會(水口敏夫) ※財団法人極真奨学会参加協力団体
- 極真会館 浜井派(浜井識安) ※財団法人極真奨学会参加協力団体
- 極真会館 増田道場(増田章) ※全日本極真連合会参加協力団体
- 極真会館 木村道場(木村靖彦) ※全日本極真連合会参加協力団体
- 極真大山空手(津浦伸彦)
などが存在している。また、小規模の道場や海外も含めれば更に増加する。
松井派、宗家、新極真などは、自らが正当であるとして他の極真諸派の存在を認めなかったり、認めていても消極的である。それに反して連合会や奨学会は、他の極真諸派の存在を認めようとする団体である。奨学会には極真館、極眞會、浜井派などがそれぞれ参加協力している。現在、“極真”の商標裁判で宗家、連合会、奨学会らは、それぞれ松井派と係争中である。
なお、この分裂騒動を報道の他では家高康彦が『極真大乱』で、小島一志が『実戦格闘技論』で著している。
[編集] 極真会館から派生、独立した団体
以下はあくまでも著名な団体のみを上げる。こちらも小規模な団体や海外も含めれば更に増加する(独立した順で記す)。
- 極真武道会(ジョン・ブルミン)
- 誠道塾(中村忠)
- 佐藤塾(佐藤勝昭)
- 正道会館(石井和義)
- 芦原会館(芦原英幸)
- 士道館(添野義二)
- 真樹道場(真樹日佐夫)
- 大道塾(東孝)
- 国際大山空手道連盟(大山茂・大山泰彦)
- 徹武館(田原敬三)
- British Karate Kyokushin-kai(スティーブ・アニール)
- 円心会館(二宮城光)
- 逆真会館(山崎照朝)
- 勢和会 (アデミール・ダ・コスタ)
- 黒澤道場(黒澤浩樹)
- 三浦道場(三浦美幸)
- 八巻空手(八巻建志)
- 数見道場(数見肇)
- 創天会(小笠原和彦)
- ニコラス・ペタス道場(ニコラス・ペタス)
[編集] 注釈
- ^ 拳真塾塾長。現在は大川宏と名乗り、千葉県を中心に空手を指導している。
- ^ 現在は、投げや掴みは完全に禁止されている。
- ^ い ろ は に ウェールズ出身。極真会館イギリス支部で稽古していたが、日本でどうしても極真カラテを修行したいので、1970年(昭和45年)代初期に単身来日し、本部道場に入門した。第3回オープントーナメント全日本空手道選手権大会に初出場後、第4回全日本選手権準優勝。その2ヵ月後、百人組手を完遂。第1回オープントーナメント全世界空手道選手権大会ベスト16、第2回全世界選手権5位に入賞した。現在はスウェーデンに道場を構えている。
- ^ い ろ 極真会館秋田支部所属で、第3回全日本空手道選手権に初出場。第4、5回全日本選手権は共に3位、第6回全日本選手権5位、第1回全世界選手権5位とそれぞれ入賞し、第8回全日本選手権で念願の初優勝を遂げた。正拳突き、前蹴り、回し蹴りを得意とし、その戦いぶりから闘将と呼ばれた。第2回全世界選手権に推薦枠で出場。5回戦でウィリー・ウィリアムスと対戦し、延長戦で一本負けをし、引退。現在は新極真会の秋田本庄道場の師範である。
- ^ い ろ 第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会から第6回まで連続出場し、第6回全日本選手権で4位に入賞した。現在は国際武道連盟・極真空手 清武会の師範である。
- ^ い ろ は 浜井識安の石川支部出身。第13回全日本選手権初出場し、4回戦で竹山晴友(注釈8)に敗退。しかし、第14回全日本選手権では中村誠を破ったブラジルのアデミール・ダ・コスタ、松井章圭に勝ち、決勝進出。三瓶啓二に惜敗したものの準優勝した。第3回全世界選手権にも出場し、第16回全日本選手権では竹山と再戦したが、判定負けで3位入賞。これを最後に選手権大会から退く。岡山県支部長に就任して、現在では松井派から離れて、極真会館 極眞會の代表である。
- ^ 極真会館本部道場内弟子出身。第12回全日本選手権に初出場で7位。第13回全日本選手権7位、第14回全日本選手権5位、第15回全日本選手権3位、第3回全世界選手権出場。優勝候補の一人に挙げられ、人間風車の異名を持ち、身長 197 センチメートル、体重 98 キログラムの南アフリカのケニー・ウーテンボガードと対戦。延長4回に及び死闘をしたが、惜敗した。この試合は同選手権の屈指の名勝負の一つに挙げられている。第16回全日本選手権準優勝。その後、極真会館を離れ、大沢ジムに入会し、キックボクシングへ転向した。デビュー戦から13連続KO勝ちをし、MA日本キックボクシング連盟ウェルタ-級新人王を獲得。そしてMA日本キックボクシング連盟ミドル級チャンピオンの座にもついた。タイ遠征も行い、ノップディに判定負けしたが、ラクチャートに勝ち、その試合を最後に引退した。
- ^ 総本部所属。第20回全日本選手権準優勝。第8回全日本ウエイト制重量級3位、第5回全世界選手権6位。身長 175 センチメートル、体重 90 キログラム。サウスポーからの下突きと鎖骨を狙う正拳突きと、前蹴り、マサカリキックと呼ばれた外回し蹴りを得意とした。
- ^ 1965年(昭和40年)6月14日生まれ。東京都世田谷区出身。城西三軒茶屋支部所属。第8、9回全日本ウエイト制重量級優勝。第21、25、30回全日本選手権準優勝。第24回全日本選手権優勝。第5、6、7回全世界選手権代表。現在は、極真会館松井派湘南支部長である。
- ^ 身長 191 センチメートル、体重 100 キログラム。北海道支部所属で高木薫(注釈19参照)の一番弟子。1983年(昭和58年)、1984年(昭和59年)北海道選手権優勝、第1回オープントーナメント全日本ウエイト制重量級3位、第4回全世界選手権ベスト16、1990年(平成2年)全アジア選手権3位、第22回全日本選手権4位、第5回全世界選手権代表。長身を生かした上段回し蹴り、踵落とし、膝蹴りを得意とした。現在は新極真会北海道支部外舘道場師範である。
- ^ い ろ 1961年(昭和36年)9月2日生まれ。青森県出身。本部道場所属。身長 185 センチメートル、体重 110 キログラム。第12回全日本選手権でデビュー後、全世界選手権、全日本選手権、全日本ウエイト制重量級に参戦すること実に20回。ウエイト制重量級で4度チャンピオンに輝いている。ちなみに通算成績は88戦70勝18敗。全日本選手権は第24回、第25回の4位が最高。全世界選手権では第4回、第5回で7位が最高と上位入賞を果たすが、優勝を獲得することができなかった。しかし、その攻撃力は怪物と呼ばれ、突き、蹴り共に激しいものがあるが、特に膝蹴りは強烈であった。現在は全日本極真連合会の理事を兼務しながら、沖縄支部を管轄している。
- ^ 親指を起こして、反対の小指の根元からかかとにかけての足の外側部分。組手時には横蹴りで使用される。
- ^ い ろ 第3回、第4回全日本選手権ベスト8。第9回全日本選手権ベスト16。鈴木は、幼児期の長患いで下肢は常人と変わらないが背骨の成長を妨げ、身長が 150 センチメートル余りしかない体格にも関わらず、上段回し蹴りや二段蹴りを得意とした。現極真館吉川支部長。
- ^ そのシーンは宣伝のスチール写真に使われたが、映画ではカットされている。
- ^ 後に『現代カラテ』→『現代カラテマガジン』と誌名が変わり、真樹日佐夫が編集長になった。
- ^ い ろ 現・極真会館松島派代表。総本部指導員を経て、シンガポールで1年間指導後、郷里の群馬県で支部を開設した。
- ^ い ろ 現・極真会館松井派オランダ支部長で国際委員を務めている。
- ^ 当時のオーストラリア支部長。ハワード・コリンズ(注釈3)と同時期に数ヶ月間、本部道場の内弟子となり、修行していた。現在は極真会館 松島派に所属している。
- ^ い ろ 添野義二が設立した極真会館傘下城西大学空手道部出身で第二期生。後輩に第三期生の三浦美幸、吉岡幸男(注釈29)、第六期生の花澤明がいる。在学中に第1回全日本選手権出場。2回戦で添野と対戦し、敗退した。卒業後、北海道支部設立に尽力し、同地支部長に任命された、その後、全日本選手権や全世界選手権で主審や副審を務めている。2000年(平成12年)以降、糖尿病で体調を悪化。人工透析を受ける日が続き、2005年(平成17年)10月7日死去。享年56。
- ^ 現・空手道総武館館長、MA日本キックボクシング連盟花澤ジム会長、同連盟副理事長。城西大学空手道部出身。第六期主将。先輩に添野、高木、三浦、吉岡らがいる。大学4年生の時、第6回全日本選手権に出場してベスト16。卒業後、極真会館花澤道場を開設。弟子では中山明が第8回全日本選手権8位入賞。その後、極真会館から独立し、総武館と花澤ジムを発足。MA日本キックボクシング連盟設立にも関わり、白須康仁、早田寛、西村鋼太、菅原忠幸、鈴木秀男、細川英男、ハンマー松井、ソルジャー緒形、山上健悟ら連盟内で史上最多の各階級王者を生み出した。
- ^ 当時の極真会館全米選手権のチャンピオンであり、第1回全世界選手権では最強の外国人選手と云われた。黒人特有のバネを生かしたヒット・アンド・アウェイの戦法で、突き、蹴りとバランス良く攻撃してきた。3回戦ではイスラエルの 100 キログラムで柔道参段でもあるギドン・ギダリーを上段後ろ回し蹴りで一本勝ち、4回戦では若きテクニシャンの東谷巧を破り、破竹の勢いで勝ちあがってきた。準々決勝で盧山初雄と対戦し、延長1回で判定負けしたが、7位入賞した。現在は誠道塾師範を務めている。
- ^ 1971年7月2日生まれ。カナダモントリオール出身。1990年、1991年カナダ優勝。この時点でキャリア5年だが、同年の第5回オープントーナメント全世界空手道選手権大会のカナダ代表として出場。身長 188 センチメートル、体重 128 キログラムの巨漢でありながら、軽快なフットワークとサウスポーからの突き、上中下段回し蹴りで一本勝ちを奪い、勝ち上がっていく。特に岩崎達也との対戦では岩崎が右上段後ろ回し蹴りのカウンターで左上段後ろ回し蹴りを出し、一本勝ちを奪ったときには会場が一瞬シーンとなり、大歓声が沸くほどの見事な勝利だった。準決勝では増田と対戦。増田の左上段回し蹴りや右上段後ろ回し蹴りを顔面にヒットされたり、突きを水月に決められ、下を向いて動きが止まるなど自分のペースで試合できなかったが、延長2回まで粘り、惜敗した。3位決定戦では黒澤浩樹に破れ、4位入賞を果たした。その後、1992年米国国際スーパーヘビー級優勝、1994年米国国際優勝の成績を収めた。分裂騒動が起きた時には、政治的問題に巻き込まないよう、極真会館を脱会する。その後、キックボクシングに転向、国際大山空手道連盟に所属し、バーリ・トゥードにも参加したり、K-1へ参戦したりした。
- ^ い ろ 直径 1.5 センチメートル、長さ 7 センチメートルの棒で、対戦者同士に掴みを防止する為に両手に持たせる棒のことである。
- ^ 対戦相手と自分の距離のこと。間合いを見極めることで自分の技を相手にヒットさせることができる。間合いには以下の3通りがある。
- 限度間合い - 一撃では攻められず、かといって追撃をかけても逃げられる間合いで、相手の攻撃パターンを読むまでの一時的なものとして用いられる。
- 誘導間合い - どちらか一方が誘いを入れる間合いで、待ち拳として用いる。
- 相応間合い - 両者が互角の力量で戦う場合の、共に攻撃範囲内にある間合いのこと。
[編集] 脚注
- ^ 『月刊フルコンタクトKARATE別冊-大山倍達と極真の強者たち』 福昌堂、1995年(平成7年)、57頁。
- ^ い ろ 『ゴング格闘技』 日本スポーツ出版社、3月8日号、1996年(平成8年)、52-53頁。
- ^ い ろ 「第2章-再検証極真ジム」『極真外伝-~極真空手もう一つの闘い~』 ぴいぷる社、1999年(平成11年)、76-91頁、93頁、101頁、104頁、108頁。
- ^ い ろ は に ほ へ と 『新・極真カラテ強豪100人(ゴング格闘技1月号増刊)』 日本スポーツ出版社、1997年(平成9年)、72頁、78-79頁、85頁、105頁、114-117頁、150-151頁、164-165頁。
- ^ い ろ 「ゴング格闘技12月6日号増刊」『極真カラテ強豪100人-BATTLE SERIES Vol.9』 日本スポーツ出版社、1994年(平成6年)、123頁、125頁。
- ^ 「特集●郷田勇三-空手行路四十年」『格闘Kマガジン』 ぴいぷる社、3月号、2001年(平成13年)、12頁。
- ^ 「国際空手道連盟極真会館-年度別昇段登録簿-国内」『極真カラテ総鑑』 株式会社I.K.O.出版事務局、2001年(平成13年)、62頁。
- ^ 『極真カラテ総鑑』 株式会社I.K.O.出版事務局、2001年(平成13年)、57頁、60頁。
- ^ 極真館吉川支部→思い出の写真→昭和47年(1972)スペイン皇太子来日-迎賓館
- ^ 佐藤勝昭 『王道の空手』 講談社、1987年(昭和62年)、245-248頁。
- ^ 「極真カラテ強豪100人-大山倍達追悼記念出版」『ゴング格闘技-12月6日号増刊』 日本スポーツ出版社、1994年(平成6年)、45頁。
- ^ 高木薫(注釈19) 『わが師大山倍達』 徳間書店、1990年(平成2年)、16-17頁。
- ^ い ろ 『ワールド空手』 ぴいぷる社、3月号、1999年(平成11年)、49-50頁。
- ^ 『フルコンタクトKARATE』 福昌堂、OCTOBER NO.2、1986年(昭和61年)、55頁。
- ^ 松井章圭 『極真カラテ 我が燃焼の瞬間』 池田書店、1992年(平成4年)、151頁。
- ^ い ろ 『ゴング格闘技12月号増刊-極真黄金伝説』 日本スポーツ出版社、1993年(平成5年)12月15日発行、43-44頁。
- ^ 「拳の眼-大山倍達」『月刊パワー空手』 パワー空手出版社、5月号、1990年(平成2年)。
- ^ い ろ 『ワールド空手』 ぴいぷる社、6月号、1995年(平成7年)、6-13頁、28-39頁。
- ^ 「大山道場生たちの真実-“牛若丸”加藤重夫」『蘇る伝説「大山道場」読本』 日本スポーツ出版社、2000年(平成12年)、81-82頁。
[編集] 外部リンク
最終更新 2009年11月13日 (金) 03:12 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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