榎本喜八
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| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 出身地 | 東京都中野区 |
| 生年月日 | 1936年12月5日(72歳) |
| 身長 体重 |
172cm 71kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 左投左打 |
| 守備位置 | 一塁手 |
| プロ入り | 1955年 |
| 初出場 | 1955年3月26日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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この表について
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榎本 喜八(えのもと きはち、1936年12月5日 - )は、東京都中野区上鷺宮出身の元プロ野球選手。左投左打。ポジションは一塁手。背番号は3番。
目次 |
[編集] 来歴・人物
戦時下の1943年3月、姉に連れられ職業野球を後楽園球場に観戦に行った事が、野球を始めたきっかけ。球場の美しさと巨人の1番センター・呉昌征、3番レフト・青田昇、大和軍の2番セカンドで兼任監督・苅田久徳に強い印象を受けた。早実高から1955年に毎日オリオンズに入団。開幕戦で5番を打つなど1年目からレギュラーとして活躍、新人王。早実高の先輩でチームメイトの荒川博(後のヤクルト監督)と共に合気道にヒントを得た打法を研究。1960年と1966年に首位打者。バットの芯で正確に球を捕らえ、事も無げにヒットを打つ様から「安打製造機」と呼ばれた(このように呼ばれた最初の選手である)。
才能・感性に裏打ちされた打撃理論で、いかなる投手のボールであってもストライクゾーンに来れば反応したと言われる。1968年7月21日の対近鉄戦で、史上3人目となる通算2000本安打を達成。31歳7ヶ月での達成は日本球界最年少記録。1972年、西鉄にトレード移籍、同年引退。現在は地元の中野区でアパートを経営している。
現役晩年は、後述するような球場の備品の破損やベンチで座禅を組むなど、奇行が多かったといわれ(人間は集中が高まると、時として奇行としか思えないような行動を起こすこともある、と榎本自身も認めている)、そのためか引退後、野球関係の仕事はしていない。日本プロ野球名球会が創設された当初は会員として名前が挙がっていたが、一度も参加していないため脱会扱いとされている。
沢木耕太郎によるノンフィクション作品『さらば 宝石』の主人公となったが、作品の中ではEと表現されている(最後の一文で実名が明かされる)。また、2005年には松井浩による評伝『打撃の神髄 榎本喜八伝』(ISBN 978-4-06-212907-7)が刊行されている。
[編集] エピソード
- 背番号3番を18シーズンにわたって使用。これは、パ・リーグ最長記録である(日本プロ野球史上最長記録は2009年立浪和義の22年)。1962年シーズン途中から1972年までオリオンズの本拠地だった「東京スタジアム(以下、東京球場)」で最も多く本塁打を打った選手でもある。
- 入団時、監督だった別当薫を「高校を出たばかりの打者にして、既に何も手を加える必要のないバッティングフォームを持っている」と驚かせた。
- 読売ジャイアンツの王貞治が伸び悩んでいた1962年、川上哲治監督は荒川博に「榎本を育てたように王を育ててくれ」と指示した。荒川自身も「バッターとしての完成度は王より榎本の方が上」と述べている。また川上は「打撃の神様の称号は自分ではなく、榎本が最も相応しい」とも語っており、その実力を「長嶋(茂雄)を超える唯一の天才」と評している。
- 王貞治の兄弟子的存在だった。一本足打法を身につける前の、王へのアドバイスを荒川から頼まれた際、素振りを見て「君はスイングの後右のひざが割れるからいけない。それだと力のある打球が飛ばないよ」と弱点を見抜き、右ひざの動きを直すため王の右足を踏みつけながら、素振りさせた。また王との練習として、1962年の11月に、荒川の勧めで剣道家羽賀準一の下で、王、広岡達朗、須藤豊と共に剣道を習い、その際真剣を使って藁を切る練習を行い、全員失敗した(スイングの際無駄な力が入ると、力を活かしきれないことを教えるためだった)。その翌週、榎本と王が再び真剣を使った練習を許され、王は一回で藁を切ったが、榎本は失敗した。その帰り道、自身の不甲斐なさと王に先を越された焦りから、涙したという。帰宅後、父に頼みありったけの藁束を集めさせ真剣で斬り始めるも上手くいかず、荒川を呼び寄せ指導を乞い、夕方に藁を斬ることができた。この際榎本は羽賀の言う、「無駄な力を使わない振り」を体得し、打撃への理解を深めたという(松井浩著 『打撃の真髄 榎本喜八伝』 講談社)。
- 荒川らとともに藤平光一や羽賀準一の道場に通い合気道や居合を習得し、打撃が開眼した。そのせいかトレーニングのことを「稽古」、バッティングフォームのことを「形」と言っていた。
- 試合前に座禅を組むことがあったという。また、自宅の庭に専用の打撃練習場を造ったことでも有名。
- 4打数4安打でも、自分が納得できる完璧な打球でなければ、どうして打てないんだろうと考え込んでいた。また4打数ノーヒットでも納得がいけば“4の4だ”と喜んだという。
- 選球眼が抜群で、新人から2年連続でリーグ最多四球の記録を持つ。なおデビュー戦の4打席目で早くも敬遠を受けている。
- 鏡の前でバットを構えたまま微動だにせず、30分程経過したところでようやく構えを解き、満足気な表情で「いい練習ができた」と言ったという逸話が伝えられている。後年榎本本人が語ったところによれば、構えたバットの先端が視界の端にちらつく状態がバッティングにおける理想型であり、その微調整をしていたのだという。更に榎本は「要はボールを最短距離でミート出来る位置にバットのヘッドがあるかどうかが重要なのであって、それを確認するのにスイングする必要は無い」と解説している。
- 稲尾和久がフォークボールを投じた唯一の打者である。稲尾和久は榎本を打ち取るためだけにフォークボールをマスター、稲尾も「自分が対戦した中で榎本さんは最高にして最強のバッター」と公言している。一方、榎本も「彼はどんな結果になっても絶対にブラッシュボールを投げなかった」と稲尾を讃えている。
- 野村克也が恐れていた唯一の打者である。野村は対戦相手の打者を「ささやき戦術」で料理する事で知られているが、榎本に対しては独特のオーラに恐れをなしてささやく余裕をなくしてしまったという。後年、榎本について、「王の選球眼は凄いと言われるが、榎本のほうがもっと凄い。王は際どい球にピクっとバットが動きそうになるので、こちらとしても攻めやすいが、榎本は全然動かない。ほんと、あんな恐ろしいバッターには、後にも先にもお目にかかったことはない」と語っている。
- 1960年から1962年までの3年連続を含み、通算で4回最多安打に輝いている。シーズン安打数リーグ1位を4回は、福本豊、ブーマー・ウェルズと並ぶパ・リーグ歴代2位の記録である(イチローに抜かれるまではパ・リーグ記録)。
- 1963年7月7日の阪急戦で米田哲也と対戦した際、自分の身体の動きが寸分の狂いも無く認識でき、次はどのコースにどんな球が来るのか手に取るように分かるという奇妙な感覚を体験している。この際に榎本は心身共にかつてない充実感を覚え、投手とのタイミングという概念が無用になるほどの極限の集中力を常に発揮出来たという。8月1日の東映戦で足を捻挫し以降の7試合を欠場するまでこの状態が続き、アウトになった打球も全てバットの芯で捉えた完璧な当たりだった。後年、榎本はこの時の様子を「野球の神様から“神の域”に到達する機会を与えていただいたんですよ」と語っている。
- 1968年7月21日の対近鉄ダブルヘッダーの第一試合で史上最年少記録で通算2000本安打を達成したが、その第二試合で近鉄の安井智規との間で起こった乱闘のドサクサに荒川俊三にバットで殴られ意識を失うという災難に見舞われている。
- 1971年にロッテから西鉄にトレードされた理由は奇行のためとされる。榎本は1965年頃から自分でもコントロールできないほど感情が爆発するという精神的発作に見舞われ、チーム名がロッテとなった1969年以降は代打を送られると自宅へ帰ればコーラの瓶などをバットで叩き割る、ベンチ要員にされると球場のドアの窓ガラスなどをバットで叩き割るという常軌を逸した行動を取るようになっていた。そしてこの年の8月7日の対西鉄戦では大沢啓二監督の起用法に不満をぶつけ、大沢監督がいた医務室のドアをバットで叩き割る事件を起こした。これが元で二軍落ちし、その後に自宅で猟銃を持って立てこもるという騒ぎを起こしたことが発覚している。
- 奇行の悪化は1959年シーズンオフ以降自身の理解者が相次いでチームを去ってしまった事と、番記者の若返りで自分の野球理論を理解する者がいなくなっために孤立した事が遠因だったという説がある。
- 引退後、コーチに就任するための体作りとして自宅と東京球場の間、約18キロをランニングしていた。ところが現役復帰を目指しているという噂が立ち(通算打率3割復帰が目標という憶測もあった)、結局コーチ就任の声は掛からなかった。ちなみに、既に古希を越えた今でも時々やっているそうである。
- 「打撃の天才」と言われている前田智徳について、インタビューで「話を聞く限り、彼には私と共通するものがあると思います」とコメント。実際、前田はアキレス腱の怪我さえなければ、2000本安打を榎本に匹敵、あるいはそれ以上に若い年齢で達成する可能性も十分にあったほどの打撃の実力を持つが、打撃へのこだわりなど奇人めいたものを持つところまで共通している。
- 祖父は新八、父は八雄、弟は省八、先祖は八十八、八佐衛門など、榎本家は男の子には、全て八の字を付けた。但し喜八は自分の二人の息子には、八の字を付けなかった。
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
チ | ム |
背 番 号 |
試 合 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 死 球 |
三 振 |
打 率 |
順 位 |
長 打 率 |
出 塁 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1955 | 毎日 大毎 東京 ロッテ |
3 | 139 | 490 | 84 | 146 | 24 | 7 | 16 | 232 | 67 | 12 | 0 | 5 | 97 | 55 | .298 | 10 | .473 | .414 | .887 |
| 1956 | 152 | 524 | 74 | 148 | 29 | 8 | 15 | 238 | 66 | 4 | 2 | 6 | 99 | 41 | .282 | 9 | .454 | .396 | .850 | ||
| 1957 | 128 | 446 | 68 | 120 | 22 | 6 | 9 | 181 | 50 | 4 | 5 | 7 | 73 | 46 | .269 | 15 | .406 | .372 | .778 | ||
| 1958 | 123 | 431 | 63 | 112 | 27 | 1 | 13 | 180 | 43 | 6 | 4 | 3 | 54 | 68 | .260 | 13 | .418 | .342 | .760 | ||
| 1959 | 136 | 496 | 68 | 137 | 23 | 2 | 11 | 197 | 49 | 8 | 7 | 4 | 74 | 47 | .276 | 15 | .397 | .370 | .767 | ||
| 1960 | 133 | 494 | 94 | 170 | 37 | 5 | 11 | 250 | 66 | 15 | 1 | 2 | 79 | 33 | .344 | 1 | .506 | .434 | .940 | ||
| 1961 | 137 | 543 | 93 | 180 | 28 | 7 | 8 | 246 | 42 | 9 | 0 | 2 | 52 | 22 | .331 | 2 | .453 | .390 | .843 | ||
| 1962 | 125 | 483 | 79 | 160 | 28 | 2 | 17 | 243 | 66 | 5 | 0 | 3 | 38 | 28 | .331 | 5 | .503 | .380 | .883 | ||
| 1963 | 143 | 532 | 70 | 169 | 25 | 0 | 18 | 248 | 64 | 8 | 0 | 3 | 52 | 23 | .318 | 2 | .466 | .378 | .844 | ||
| 1964 | 149 | 540 | 83 | 161 | 25 | 1 | 17 | 239 | 71 | 17 | 0 | 5 | 96 | 19 | .298 | 5 | .443 | .403 | .846 | ||
| 1965 | 139 | 493 | 64 | 132 | 30 | 4 | 10 | 200 | 57 | 16 | 0 | 3 | 66 | 29 | .268 | 14 | .406 | .354 | .760 | ||
| 1966 | 133 | 476 | 81 | 167 | 31 | 1 | 24 | 272 | 74 | 14 | 1 | 6 | 75 | 20 | .351 | 1 | .571 | .439 | 1.010 | ||
| 1967 | 117 | 372 | 55 | 108 | 13 | 1 | 15 | 168 | 50 | 10 | 0 | 5 | 91 | 33 | .290 | 7 | .452 | .430 | .882 | ||
| 1968 | 129 | 487 | 70 | 149 | 31 | 0 | 21 | 243 | 77 | 7 | 0 | 3 | 64 | 62 | .306 | 4 | .499 | .387 | .886 | ||
| 1969 | 123 | 400 | 60 | 109 | 17 | 1 | 21 | 191 | 66 | 9 | 0 | 7 | 55 | 42 | .273 | 16 | .478 | .360 | .838 | ||
| 1970 | 110 | 303 | 42 | 86 | 10 | 0 | 15 | 141 | 39 | 7 | 0 | 1 | 50 | 46 | .284 | - | .465 | .385 | .850 | ||
| 1971 | 45 | 90 | 10 | 22 | 3 | 1 | 4 | 39 | 18 | 1 | 0 | 2 | 10 | 15 | .244 | - | .433 | .320 | .753 | ||
| 1972 | 西鉄 | 61 | 163 | 11 | 38 | 6 | 0 | 1 | 47 | 14 | 1 | 0 | 0 | 27 | 16 | .233 | - | .288 | .342 | .630 | |
| 通算成績 | 2222 | 7763 | 1169 | 2314 | 409 | 47 | 246 | 3555 | 979 | 153 | 20 | 67 | 1152 | 645 | .298 | 27 | .458 | .389 | .847 | ||
- 太字はリーグ最高。
[編集] タイトル・表彰・記録
- 新人王(1955年)
- 首位打者:2回(1960年、1966年)
- 最高出塁率:1回(1966年)
- 最多安打:4回(1960年 - 1962年、1966年)
- ベストナイン:9回(1956年、1959年 - 1964年、1966年、1968年)
- 24歳9ヵ月で通算1000本安打達成(1961年)※史上最年少記録。
- 31歳7ヶ月で通算2000本安打達成(1968年7月21日)※史上最年少記録。
- 通算二塁打:409(1955年 - 1972年)※歴代7位。
- 入団以来12年連続20二塁打以上(1955年 - 1966年)
- 23試合連続安打(1962年5月2日 - 6月3日)
- 49試合連続出塁(1966年7月15日 - 9月27日)※歴代8位タイ。
- 打撃ベストテン入り:10回(1955年、1956年、1960年 - 1964年、1966年 - 1968年)※歴代8位タイ。
- シーズン連続打席無三振:173(1964年6月30日 - 8月25日)
- シーズン守備機会:1665(1956年)※一塁手としての日本記録。
- シーズン刺殺:1585(1956年)※一塁手としての日本記録。
- シーズン補殺:122(1965年)※一塁手としてのパ・リーグ記録。
- シーズン守備率:.9992(1968年)※一塁手としての日本記録。
- シーズン守備機会連続無失策:1128(1968年4月6日 - 9月3日)※一塁手としての日本記録。
- 守備機会連続無失策:1516(1967年8月13日 - 1968年9月3日)※一塁手としての日本記録。
- オールスター出場:12回(1955年 - 1964年、1966年、1968年)
- オールスターMVP:1回(1966年第2戦)
- オールスター満塁ホームラン:1回(1963) ※過去に記録したのは榎本と大島康徳の二人のみ
- 通算1000試合出場 1962年6月20日(70人目)
[編集] 関連項目
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最終更新 2009年10月17日 (土) 13:50 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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