横濱競馬場

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横濱競馬場
横濱競馬場
横濱競馬場
施設情報
通称・愛称 根岸競馬場
所在地 神奈川県横浜市
開場 1866年
閉場 1943年6月10日(事実上)
所有者 日本レース・クラブ
コース
  
競馬場内の様子(1908年)
競馬場内での調教の様子(1908年)
レース風景(1934年)

横濱競馬場(よこはまけいばじょう)は、かつて神奈川県横浜市(現在の中区根岸台)に存在した競馬場。その地名から根岸競馬場(ねぎしけいばじょう)とも呼ばれていた。

目次

[編集] 歴史

[編集] 草創期

幕末1866年、横浜の外国人居留地における娯楽施設として建設され、翌年から競馬に使用された。当初は居留外国人の組織である横浜レース倶楽部と横浜ユナイテッド・クラブとの共催により施行されていたが、1876年に内紛により横浜レース・アソシエーションが分離独立。1878年に2団体は統合され横浜ジョッキー倶楽部が設立、1880年には日本レース・クラブに改称され、それまで居留外国人のみだった入会が日本人にも認められた。

[編集] 全盛期

1888年より馬券の発売が行なわれた。1905年より明治天皇から御賞典が下賜されエンペラーズカップ(のちの帝室御賞典、現在の天皇賞)が始まった。また、1928年には横濱特別(のちに横濱記念に改称、1944年限りで廃止)、1939年からは横濱農林省賞典四歳呼馬(現在の皐月賞)がそれぞれ創設されている。

[編集] 競馬場としての終焉

第二次世界大戦の激化に伴ない、横濱競馬の開催は1942年限りで休止された。翌1943年6月10日には馬場を閉鎖し旧日本海軍の徴用に供したため、同年の番組は春季を東京競馬場・秋季を中山競馬場で代替開催した。

高台の上に存在するため無線通信所として適していること、また見晴らしのよさから横須賀軍港の動向が丸見えになってしまい、防諜上民間人を立ち入らせないようにすることが、海軍に徴用された理由といわれている。文壽堂の印刷工場が置かれた。

[編集] 戦後

日本が降伏文書に調印した翌日の1945年9月3日、他の市内軍用施設と同様に、横濱競馬場も進駐してきた連合軍(実質はアメリカ軍)に接収された。スタンドは取り壊されずに残ったものの、馬場はゴルフ場や住宅や駐車場などになったため、この地で再び競馬が開催されることはなかった。

戦後長らくの間、名目上では「日本中央競馬会管轄の開催休止競馬場」として扱われ、競馬場一覧等にも「横浜競馬場(休止中)」などと記されていた。しかし接収が年数を重ねるうちに、周囲の住宅地化や他の競馬場の近代化・大型化などによって、仮に接収が解除されても、中央競馬を開催できる施設として復活することは現実性を失っていく。事実、1969年に馬場の大部分は接収解除されたが、そこには横浜市所有の根岸森林公園と日本中央競馬会所有の根岸競馬記念公苑、1977年には馬の博物館が設けられ、競馬場の再建は考慮されなかった。しかし、行政上の「休止中」扱いは1994年競馬法の改正により正式に開催競馬場から削除されるまで続く。

[編集] 現存する遺構

アメリカ人建築家J.H.モーガンによって設計され、1930年に竣工した一等馬見所と二等馬見所の2つの観客スタンド、および下見所(パドック)は、馬場よりも遅れて1981年に接収解除されたが、二等馬見所と下見所が1988年に耐震性の低さを理由により解体された。一等馬見所は現在も残存するものの、解体されることも修復されることもなく、侵入防止のために設けられたフェンスの中で朽ち果てている。今日、横濱競馬場の遺構として存在するのはこの一等馬見所の廃墟のみであり、横浜市当局は歴史的建造物として保存の意向を示してはいるものの、現在のところ、具体的な修復・保存計画は発表されていない。内部は横浜市の歴史的建造物を解体して倉庫代わりに使用している、VIPルームのパーツ類も当然保存されている。

[編集] 横濱競馬場遺構関連の画像

[編集] 横濱競馬場を記念するイベント

毎年1月に東京競馬場(ダートコース・1400m)で、この横濱(根岸)競馬場を記念した重賞競走「根岸ステークス」が施行されている。この競走は2月のフェブラリーステークスの前哨戦的位置づけとされている。

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年10月16日 (金) 12:15 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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