横綱土俵入り
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横綱土俵入りの様子。写真は68代横綱・朝青龍明徳の土俵入りである
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横綱土俵入り(よこづなどひょういり)とは、大相撲の横綱が本場所の幕内取組前や巡業先などで行う土俵入りである。俗称、手数入り(でずいり)。土俵入りの型には雲龍型と不知火型がある。それぞれ10代横綱・雲龍久吉と11代横綱・不知火光右衛門の型が伝えられたものであるとされている。ただし実際には力士によって微妙に異なった型をもっている。さらに、現在伝えられている「雲龍型」と「不知火型」はその内容が逆であると指摘されている(詳細は後述)。
目次 |
[編集] 概説
横綱土俵入りは、幕内の土俵入りが終わった後で、露払いと太刀持ちの各1名、合計2力士を従えて行う。この役は通常横綱と同じ部屋で、地位が関脇以下の兄弟弟子の力士が務めている(本来は大関でもよいが、大関が務めたケースは、本場所では大鵬幸喜の太刀持ちを大麒麟將能が務めたくらいである)。なお、原則的に幕内力士でなければならないため、同部屋の幕内力士がいない場合は一門から借りる事が殆どであるが、まれに一門外から選ぶ場合もある。例として、千代の富士(九重部屋)が熊ヶ谷部屋の高望山、曙(東関部屋)が友綱部屋の魁皇、朝青龍(高砂部屋)が安治川部屋の安馬(のち日馬富士)など、それぞれ起用したケースがある。また露払いと太刀持ちは、たとえ幕内力士でも大銀杏を結えないと務めることができない(幕下付出で髪が伸びないうちに幕内に上がった場合。最近の例は雅山、高見盛=入幕1場所目のみ、など)。
土俵入りでは、概ね柏手を打ち、四股を踏み、せり上がった後再び四股を踏む。四股を踏むときには観客から「よいしょ!」と掛け声が飛ぶ。
露払いや太刀持ちでも部屋が異なれば、横綱と対戦することがある。その場合、当日は横綱土俵入りを憚り、別の力士を従える。通常の露払いと太刀持ちの間で対戦がある日も、どちらかが外れる事となる。
横綱の締め方は其々の型で異なり、雲龍型は輪を一つ、不知火型は輪を二つ作るように締める。このため、横綱力士の体格にもよるが、概して不知火型用の横綱は雲龍型用のそれより長く重い。
なお、雲龍型は攻守兼備、不知火型は激しい攻撃を表すという説が巷間信じられているが、これは10代秀ノ山(関脇笠置山)が、昭和初期に両者の違いについて説明を求められたとき、とっさに返答したものが後にもっともらしく流布したもので、根拠は特にない。
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[編集] 雲龍型
せり上がるときに左手を胸のあたりに当て右手を伸ばす。多くの横綱がこちらを選択している。明治時代の2代梅ヶ谷が完成したとされる。大正時代の大横綱・栃木山や、昭和の大横綱と言われた双葉山・大鵬・北の湖・千代の富士らは全てこの雲龍型である。特に千代の富士の土俵入りは四股を踏むとき足が頭より高く上がり華麗であった。平成以降に誕生した横綱では、曙・貴乃花・武蔵丸・朝青龍が雲龍型を選んでいるが、この4人の横綱は全て幕内優勝を10回以上果たし、また横綱の地位を4年以上にわたって務めている。
横綱として長く大いに活躍出来る縁起の良い型と言われているが、中には横綱在位場所数最短の前田山(6場所)と2位の三重ノ海(8場所)など、雲龍型を選択していながら短命に終わった横綱も多からず存在する。なお、出羽海一門と高砂一門および時津風一門の横綱は、すべてこの型である。
[編集] 不知火型
せり上がるときに両手を伸ばす。太刀山が16代木村庄之助より習った型とされる。大正初期に最強を誇った太刀山の他、昭和前期の当時史上最長在位記録を樹立した羽黒山がこの型を選択している。堂々とした迫力のあるスタイルにはファンは多い。だが、この型を選んだ横綱吉葉山が、横綱昇進時33歳と高齢ながらも、その後4年勤めたにも拘わらず、これを記者が玉の海の昇進の際何故か「不知火型は短命」というジンクスを表現[1]、不幸にも玉の海が在位中に夭折した理由により、不吉とされる事が多くなってしまった。
また、一度も優勝せずに廃業した双羽黒の印象もあって、力士達にはあまり人気があるとは言えない。琴櫻と隆の里は横綱昇進当時既に30歳を過ぎていたが、後継者が少なかったことと、型の継承のために不知火型を選んだとされる。それでも、史上3番目の若さで横綱昇進を果たした白鵬が敢えて不知火型を選択、その後幕内優勝を20回の大台に乗せて現在も横綱の地位で活躍している事から、この不知火型の悪いイメージは払拭されたとも言われている。
ちなみに羽黒山以降の不知火型横綱はいずれも二所ノ関一門か春日山・伊勢ケ濱組合の部屋所属である(なお二所ノ関一門と春日山・伊勢ケ濱組合で雲龍型を選んだ横綱はいるが、出羽海・高砂・時津風一門の横綱が不知火型を選んだ事はない。太刀山も春日山・伊勢ケ濱組合の源流といえる友綱部屋出身であり、二所ノ関部屋創設の海山太郎の弟弟子でもある)。平成以降に誕生した横綱では白鵬の他、旭富士・3代若乃花の3人が不知火型。
[編集] 両方の型を経験した横綱
これまでに雲龍型・不知火型両方を行ったことがある横綱力士は2人居る。
雲龍型土俵入りをしていた北の富士はA班・B班の2班体制で行われていた1971年(昭和46年)8月の夏巡業中でA班に参加していたが、B班の玉の海が急病との報を受けて急遽B班に合流し土俵入りをすることになった。しかし、急な話だったため雲龍型の綱が間に合わず、玉の海の綱を締め、不知火型の土俵入りを行った(北の富士は高砂一門)。
不知火型の土俵入りをしていた白鵬は、2011年(平成23年)12月に双葉山生誕100周年を記念して宇佐神宮で行われた奉納土俵入りで、双葉山に敬意を表するために、自分の不知火型用の綱を切り[2]、雲龍型用の長さに調節した横綱を締めて双葉山と同じ雲龍型で横綱土俵入りを行った(白鵬は春日山・伊勢ケ濱組合)[3]。
[編集] 「雲龍型」と「不知火型」呼称の逆転
現在、「雲龍型」は「せり上がりで左手を胸に当て右手を伸ばす」、「不知火型」は「せり上がりで両手を伸ばす」、という区別が定着しているが、この内容があべこべであることがたびたび指摘されてきた。
モチーフである、不知火光右衛門の土俵入りについて、好角家・丸上老人の証言が残っている。それによると「腰を落として左手をワキに当てて右手を伸ばしてせり上がる」という動作をしている(→現在の「雲龍型」)。ただし、その後に「立ったところで両手を広げた」という形を示しており、終わりの場面だけを見れば現在の「不知火型」ともなるため、全体の流れとしては現在に残る二つの型のどちらにも当てはまるものではなく、むしろこの他の型が存在していたことを裏付けている(後述参照)。
しかし1869年(明治2年)の撮影と推定される、不知火と鬼面山が並んで土俵入りのポーズを取っている写真では不知火が左手を胸に当て右手を伸ばしており(→「雲龍型」)、鬼面山が両手を広げている(→「不知火型」)。鬼面山が実際に、最初から両手を広げてせり上がったかは不明だが、少なくとも不知火の方は、前述の証言と、この写真からしても現在の「雲龍型」に近い型であったことがうかがえる。
さらに太刀山(→「不知火型」)が横綱となった際に、16代木村庄之助から土俵入りを教わり、「常陸山関や(2代目)梅ヶ谷関と違い、私は横綱雲龍、即ち後の追手風になった人の型です」と発言している。また当時の相撲雑誌で、鳳(→「雲龍型」)については「梅ヶ谷同様不知火の型に則って」と報じられている。
ただ、太刀山自身が「雲龍型」であると言う一方、当時の新聞ではこれを「不知火型」とするものと「雲龍型」とするものが分かれるなど、認識が一定していなかった。ところが戦前から戦後にかけて、相撲評論家・彦山光三が、この太刀山と同じ型を継承した羽黒山と吉葉山について「不知火型」と断定し、新聞や雑誌に書き広めたのをきっかけとしてこの呼称が定着していった。
この過程では相撲博物館初代館長の酒井忠正があべこべ説を提唱し、論争に発展した。彦山は、不知火光右衛門の師匠である不知火諾右衛門の錦絵に描かれた、両手を広げている姿が「せり上がり」であるから、これが「不知火型」であると主張。これに対し酒井は、(前述のように)「せり上がって立った後に両手を広げる」例もあり、ゆえに錦絵の一場面のみでせり上がりの形を断定することはできない[4]と反論したが、彦山は緻密な論証を成さぬままに、不知火諾右衛門が初めから両手でせり上がったとする自説を押し通した。
このように、彦山説が一般に流布された結果、「雲龍型」と「不知火型」は戦前までの証言や報道とは呼称が逆のものとなり、今日に定着している。その後もたびたびこの2つの型が「逆転」していると指摘されることはあるが、マスコミや日本相撲協会にも修正する動きは見られない。
しかし、不知火のように右手を広げてせり上がり、立ってから両手を広げるという動作は現在の横綱土俵入りにはないものであり、また雲龍が太刀山と全く同様、せり上がりの際に初めから両手を広げたという確証も得られていない。さらには太刀山時代にメディアを二分するほど混乱していることや、羽黒山以降の呼称逆転論争が不十分であることなどもあり、現在残っている2つの型を「雲龍型」「不知火型」と呼ぶこと自体がしばしば疑問視されている。ゆえに、現在に伝わる型を確立した2人の横綱から、「梅ヶ谷型」(=「雲龍型」)、「太刀山型」(=「不知火型」)と呼ぶのが正確ではないかという指摘もある。
[編集] それ以外の型
現在では「雲龍型」「不知火型」と呼ばれる2種類しか土俵入りの型が用いられていないが、古くはそれらとは異なる型が存在した。そもそも現在の型が明治後期(2代梅ヶ谷と太刀山)に確立したものとされているため、その前には古い型の土俵入りが存在したのは間違い無い所である。例えば大砲は雲龍型に近いせり上がりを行なった後で両腕を広げ、常陸山は拍手の直後に両腕を広げていた。いずれも映像が現存するので確認可能である。
またそれ以前の映像が無い時代の横綱についてはもはや土俵入りを見ることは不可能だが、恐らく現在見られるものとは全く異なる土俵入りをしていたと思われるものも少なくはない。ただし後継者が存在しないため現在に伝わっておらず推定の域を出ない。中でも不知火諾右衛門については綱姿で両腕を広げた錦絵が常陸山土俵入りの型を認める根拠にされたとも言われ、どのような土俵入りであったのか議論され今で言う不知火型の元祖だと言われたこともあったが、土俵入りのどの部分を描いたのか判明しておらず、錦絵のために特別に用いた構えの可能性もある(現在でも優勝額や銅像等において本来綱を締めて行なうことの無い構えを用いることがある)ため結論は出ていない。当時は写真も無かったため確認するのは非常に難しい。
また横綱が番付に記載されない名誉称号とされていた時代には綱の締め方も今とは異なっており、右に輪を作り綱の両端を左に出す、あるいはその左右逆という片輪結びとなっていた。現在に残る錦絵によれば江戸時代の横綱は全員この締め方で、現在のように正面の部分を太くした綱ではなく、正面と結び目でさほど太さの変わらない綱を用いていた時代には標準的な締め方だった。後に現在に見られる締め方が登場すると片輪結びは用いられなくなっていき、大正の末に横綱免許を獲得した3代西ノ海がこの締め方を復活させているが、これを最後にこの型で締めた横綱はいない。
[編集] 奉納土俵入り
横綱に推挙された後その土俵入りを初めて披露するのが横綱推挙式と共に明治神宮で行われる奉納土俵入りである。奉納土俵入りは毎年の正月に同じく明治神宮で行われる他、伊勢神宮の神宮奉納大相撲や国家関連の行事・イベントなどでも執り行われる[5]。
新横綱誕生の際には、横綱力士碑のある富岡八幡宮や野見宿禰神社への奉納土俵入りと、横綱碑への刻名式も行われる。
[編集] 引退土俵入り
元横綱が引退相撲を行う際に、断髪式の前に最後の横綱土俵入りを行う。かつては、この時に従える露払いと太刀持ちに現役の横綱を充てることが原則であった。また横綱が露払いと太刀持ちを務める場合は、自身も綱を締めて登場する。
但し、引退相撲時に現役横綱が不在または一人だったり、又は直前の本場所での休場などの事情があると、大関・関脇以下の現役幕内力士が、それぞれ露払いと太刀持ちを務める場合がある。
大関が務めた例としては北勝海の露払い小錦のように、当時の一人横綱(曙)に次ぐ大関として採用されたもの、また北の湖の露払い北天佑、武蔵丸の太刀持ち武双山のように、同部屋の現役大関が務めるというものもある。さらにこの両パターンを合わせ持つ例として、隆の里の露払い若嶋津(同じ二子山部屋、太刀持ちは当時一人横綱の千代の富士)がある。なお、現役横綱が2人以上存在しても、休場が出た場合には三重ノ海(2代若乃花が休場のため、露払い大関千代の富士)、曙(貴乃花が休場のため、露払い大関武双山)のように、大関が務める場合がある(なお、前出・北の湖の露払い北天佑も、横綱隆の里の休場という事情が含まれていると思われる)。
こうした現役横綱の休場や不在が顕著になることにより、同部屋又は同一門で関脇以下の現役幕内力士が露払い・太刀持ちを務める例も現れる。1968年(昭和43年)の佐田の山(露払い福の花・太刀持ち海乃山)の場合は大鵬・柏戸の両横綱が休場したことに起因する。また1992年(平成4年)には大乃国(露払い隆三杉・太刀持ち三杉里)・旭富士(露払い旭里・太刀持ち旭道山)と、同年のうちに2例続く異例の事態が生じたが、これは同年に一人横綱だった北勝海が引退し、60年ぶりの横綱不在という事態を迎えていたことが影響していた。
ところが2003年(平成15年)の貴乃花の際には、武蔵丸(実際には前場所を休場)・朝青龍と現役横綱が2人いたにも拘らず、露払い・太刀持ちのいずれも同部屋から貴ノ浪(当時、前頭)と安芸乃島(実際は引退直後で年寄・藤島)が選ばれた。その後に引退した横綱もこうした方法を半ば踏襲しており、近年、引退土俵入りの露払いと太刀持ちに現役の横綱・大関を優先する原則が薄れる傾向にある。2012年(平成24年)現在、3横綱が揃っての引退土俵入りは、2000年(平成12年)の3代若乃花(露払い貴乃花・太刀持ち曙)が最後である。
以下に今までの元横綱の引退土俵入りを示す。
- 常陸山谷右エ門(1914年(大正3年)5月場所後) 露払:梅ヶ谷藤太郎 (2代) 太刀持:太刀山峯右エ門
- 2代梅ヶ谷藤太郎(1915年(大正4年)6月場所後) 露払:鳳谷五郎 太刀持:太刀山峯右エ門
- 太刀山峯右エ門(1918年(大正7年)1月場所後) 露払:鳳谷五郎 太刀持:大錦卯一郎
- 栃木山守也(1926年(大正15年)1月場所前) 露払:3代西ノ海嘉治郎 太刀持:常ノ花寛市
- 男女ノ川登三(1942年(昭和17年)1月場所後) 露払:羽黒山政司 太刀持:双葉山定次
- 双葉山定次(1946年(昭和21年)11月場所後) 露払:照國万藏 太刀持:羽黒山政司
- 安藝ノ海節男(1947年(昭和22年)6月場所後) 露払:照國万藏 太刀持:羽黒山政司
- 前田山英五郎(1950年(昭和25年)5月場所後) 露払:東富士欽壱 太刀持:羽黒山政司
- 照國万藏(1953年(昭和28年)5月場所後) 露払:鏡里喜代治 太刀持:東富士欽壱
- 羽黒山政司(1954年(昭和29年)1月場所後) 露払:鏡里喜代治 太刀持:千代の山雅信
- 鏡里喜代治(1958年(昭和33年)5月場所後) 露払:栃錦清隆 太刀持:千代の山雅信
- 吉葉山潤之輔(1958年(昭和33年)5月場所後) 露払:栃錦清隆 太刀持:千代の山雅信
- 千代の山雅信(1959年(昭和34年)5月場所後) 露払:若乃花幹士 太刀持:栃錦清隆
- 栃錦清隆(1960年(昭和35年9月)場所後) 露払:朝潮太郎 太刀持:若乃花幹士
- 朝潮太郎(1962年(昭和37年)5月場所後) 露払:柏戸剛 太刀持:大鵬幸喜
- 初代若乃花幹士(1962年(昭和37年)9月場所後) 露払:柏戸剛 太刀持:大鵬幸喜
- 栃ノ海晃嘉(1967年(昭和42年)5月場所後) 露払:柏戸剛 太刀持:大鵬幸喜
- 佐田の山晋松(1968年(昭和43年)5月場所後) 露払:福の花孝一△ 太刀持:海乃山勇△
- 柏戸剛(1970年(昭和45年)1月場所後) 露払:玉の海正洋 太刀持:北の富士勝昭
- 大鵬幸喜(1971年(昭和46年)9月場所後) 露払:北の富士勝昭 太刀持:玉の海正洋
- 琴櫻傑将(1975年(昭和50年)1月場所後) 露払:輪島大士 太刀持:北の湖敏満
- 北の富士勝昭(1975年(昭和50年)1月場所後) 露払:輪島大士 太刀持:北の湖敏満
- 三重ノ海剛司(1981年(昭和56年)5月場所後) 露払:千代の富士貢○ 太刀持:北の湖敏満
- 輪島大士(1981年(昭和56年)9月場所後) 露払:若乃花幹士(2代) 太刀持:北の湖敏満
- 2代若乃花幹士(1983年(昭和58年)5月場所後) 露払:北の湖敏満 太刀持:千代の富士貢
- 北の湖敏満(1985年(昭和60年)9月場所後) 露払:北天佑勝彦○ 太刀持:千代の富士貢
- 隆の里俊英(1986年(昭和61年)5月場所後) 露払:若嶋津六夫○ 太刀持:千代の富士貢
- 千代の富士貢(1992年(平成4年)1月場所後) 露払:旭富士正也※ 太刀持:北勝海信芳
- 大乃国康(1992年(平成4年)5月場所後) 露払:隆三杉太一△ 太刀持:三杉里公似△
- 旭富士正也(1992年(平成4年)9月場所後) 露払:旭里憲治△ 太刀持:旭道山和泰△
- 北勝海信芳(1993年(平成5年)1月場所後) 露払:小錦八十吉○ 太刀持:曙太郎
- 若乃花勝(2000年(平成12年)9月場所後) 露払:貴乃花光司 太刀持:曙太郎
- 曙太郎(2001年(平成13年)9月場所後) 露払:武双山正士○ 太刀持:武蔵丸光洋
- 貴乃花光司(2003年(平成15年)5月場所後) 露払:貴ノ浪貞博△ 太刀持:安芸乃島勝巳△※
- 武蔵丸光洋(2004年(平成16年)9月場所後) 露払:雅山哲士△ 太刀持:武双山正士○
- 朝青龍明徳(2010年(平成22年)9月場所後) 露払:朝赤龍太郎△ 太刀持:日馬富士公平○
○当時大関 △当時幕内(関脇以下) ※ なお、横綱・旭富士と幕内・安芸乃島の二人は当時引退直後
[編集] 脚註
- ^ 平成19年五月場所 支度部屋より その2 大相撲コラム集 - 大相撲ホームページ:下家義久筆
- ^ 横綱は東京場所毎に新調するので以降の不知火型土俵入りに支障は生じない
- ^ 白鵬 双葉山生誕地で雲竜型初披露「これが最後」- スポーツニッポン・2011年12月5日閲覧
- ^ 不知火諾右衛門のみならず、雲龍にも両手を広げての土俵入り姿が描かれた錦絵が現存する。この両者とも、「立ってから両手を広げる」型と記録される不知火光右衛門と違って、せり上がりの詳細を示す証言などがないので、錦絵の場面がせり上がりとは必ずしも断定できない。
- ^ 過去には1998年長野冬季オリンピック開会式に於いて、曙太郎が横綱土俵入りを行った例や、1995年の硫黄島戦没者追悼式に於ける貴乃花光司と曙太郎の日米出身両横綱による土俵入りが行われた例が存在する。
[編集] 関連項目
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