櫓 (城郭)

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近世城郭の櫓群
(大坂城本丸東面の三重櫓と多門櫓 1865年頃)

(やぐら)とは、城郭に防御用あるいは物見用に建てられた仮設または常設の建築物である。

火の見櫓、芝居小屋(劇場)の太鼓櫓など、また建物以外の物の構造や将棋の技などについてはを参照のこと。

目次

[編集] 歴史

[編集] 起源

物見櫓
吉野ヶ里遺跡
  1. 簡単な物見の建物が発達したものとする説。
  2. 「矢倉」・「矢蔵」を本来の呼称と見て、武器庫が発達したものとする説
  3. 「矢の坐」すなわち「弓を射る場所」が原型だとする説。


初期の頃は、『後三年合戦絵詞』や『一遍上人絵伝』など中世の絵巻物に見られるように、篭城戦での防御・物見のための仮設の建造物としての要素が強かったが、戦国時代末期、近世城郭が築かれ始めると、櫓は礎石の上に建ち、防火と防弾を考慮して厚い土壁が塗られ、屋根で葺かれるなど恒久的建築に発展した。織田信長近畿平定の頃からは、その家臣団達の居城に築かれ始め、全国的に広まった。

[編集] 安土桃山時代

豊臣秀吉天下統一を成し遂げた天正末期より、配下の武将達により各地で築城工事が始まる。特に西国の城では二重櫓や平櫓を多く建て並べた。この頃のものは構造も旧式といわれている望楼型が主流である。なお、この時代の櫓は天守を除き現存するものがなく、最古の櫓として残るのは関ヶ原の戦い以後の慶長6年(1601年)前後に建てられた熊本城宇土櫓、福山城伏見櫓(伏見城からの移築)である。

[編集] 江戸時代以降

創建当初の櫓
松山城乾櫓)

関ヶ原の戦い後、各地に移封され、大幅に加封された外様大名達によって次々に城が建設され、既存の城も多くで改築を施された。この時期、徳川幕府による天下普請を媒介もあり、近世の築城技術が全国に広まった。天守を除き現存する櫓は全てこの時期に建設されたもので、関ヶ原の戦い以前に建設されたものは1棟も残されていない。

櫓も元和頃までに大きく発達し、構造は新式の層塔型が主流になり、機能では石落・狭間が増加し、隠狭間が登場した。

慶長末期になると、外様大名による築城は幕府への遠慮などにより自主的に憚られるようになった。さらに大坂の役後、1615年(元和元年)7月に2代将軍徳川秀忠伏見城で諸大名に発布した武家諸法度によって新規築城が原則禁止されると、天下普請による大坂城再築や、福山城など一部の譜代大名を除いて城は築かれなくなり、櫓も次第に実戦から離れていった。天守を失った城では江戸城の富士見櫓のように櫓が天守を代用することもあった。

明治まで、城には多くの櫓が立ち並んでいたが、廃城令に伴う取り壊し、火災、戦災により、ほとんどの櫓は失われ、現在109棟を残すのみである。

[編集] 構造

望楼型の二重櫓
松山城野原櫓)
層塔型の二重櫓
大坂城千貫櫓)

櫓は天守に比べて、概ね作りは貧弱で、使用される部材も細めのものが多い。そのため、櫓は天守より耐用年数が短く、また土蔵と同様に、厚い土壁が湿気を呼ぶため構造材が腐りやすく、多くの櫓は江戸時代の内に建て替えられ、創建当初の櫓は明治にはあまり残っていなかった。

大型の櫓の平面構成は、中央に身舎を設け、周囲に入側(武者走)を巡らしており、その構成は天守に近いものになっている。江戸城大坂城名古屋城など幕府と関わりの深い大城郭に建てられた櫓は、中央に設けられた身舎をさらにいくつかの部屋に区切るなど天守とほぼ同じ構成となり、規模は小規模な天守を凌ぎ、幕府権力の象徴となっていた。

地方の城郭に建てられた小型の櫓では、内部が一室で身舎と入側の区別もなく、1階の中央に1本か2本ほど独立したを立てるか、室内に1本も柱を立てないものが多かった。二重櫓と三重櫓は、天守と同じく望楼型・層塔型に区別でき、前者が旧式、後者が新式で、層塔型の櫓は慶長末期に現れた。現存例は層塔型の方が圧倒的に多い。櫓には通柱(2階以上を貫き通す柱)があまり使われず、全ての柱が1階ので止まっていることが多かった。

櫓の外観は、全体的に同じようなデザインにすることが多い。壁の材質、色、屋根の葺き方、屋根の反り、などをほぼ統一することで、一体化した美観を作ることもできた。天守がない城などでは、事実上の天守や天守の代わりにしていた三階櫓などを他の櫓との格式の違いを示すために、長押や、装飾性の高い破風、特殊な窓(華頭窓など)などで飾ることも多くあった。また、特別な役目を持つ櫓も同様に飾られることがあった。

[編集] 種類

[編集] 形状

三重櫓・二重櫓・平櫓
それぞれ3重・2重・1重の屋根を持つ櫓。階層はこれに準じない場合もある。
隅櫓(角櫓)
曲輪の隅に配置される櫓。その方位・位置により二十四方位にちなんだ名称が与えられることが多い。たとえば東南(辰巳)に配置された櫓は、「巽(辰巳)櫓」など。
多聞櫓(多門櫓)
多門とは長屋状の建物のことで、明治以降に多聞と書かれることが多くなったといわれる。金沢城では今でも「三十間長屋」「五十間長屋」というように、多聞櫓を長屋と称している。櫓の間を繋ぐように建てられたものは渡櫓という。平時には住居や物置も兼ねており、江戸城の多聞櫓には武士の名簿が保存されており、「江戸城多聞櫓文書」といわれる。松永久秀多聞城に創築したともいわれている。宮崎市定は、久秀が中国の城郭建築の城門の上に立てる楼閣(門楼)から発想して創築したものではないかと推測している。門の上のものは「櫓門」、櫓門から連続した多聞櫓は「続櫓」と呼ばれる。
重箱櫓
重箱造の二重櫓の総称で、1階と2階の平面が同規模のもの。1重の屋根は腰屋根となる。総二階造りともいう。岡山城(岡山県)や臼杵城(大分県)に現存例がある。
基本的な櫓の図。
左から平櫓・多門櫓・重箱櫓・三重櫓・渡櫓・二重櫓を示している。


[編集] 用途による種類

櫓は、冒頭にあるとおり防御のための建物であり、江戸時代前後の大坂城や姫路城などのように数も多く建てられていることが多かったため櫓の名称には「一番櫓(大坂城)」や「イの櫓(姫路城)」と付けられているところや「辰巳隅櫓(名古屋城)」のように方位を冠して呼ぶところもあった。物資を貯蔵した倉庫としての役割もあり、糒(ほしいい)を備蓄すれば干飯櫓で、旗指物ならば旗櫓、鉄砲なら鉄砲櫓という城もあった。 そのほかに、特殊な役割のある櫓、代表的なものでは太鼓櫓(たいこやぐら)がある。城郭の中で、比較的見晴らしのよい場所に設置され、時を知らせたり戦いの合図を打ち鳴らしたりするための太鼓が置かれた。太鼓の代わりに鐘を釣るせば鐘櫓(かねやぐら)である。

特殊な用途で名づけられた櫓の中では、城主などが生活や趣味のために用いたことから名づけられているものもある。

月見櫓(つきみやぐら)は、その名の通り月見を目的とした櫓であるため、他の櫓に比べ開放的な構造で極端に開口部が大きいことが多い。御殿の奥向きの近くまた城の東側に造られることが多い。その類で涼櫓(すずみやぐら)というものもある。 富士見櫓(ふじみやぐら)も同様に富士山を眺めるための櫓とされる。関東地方に集中し、御三階櫓と同様に、幕府に憚って事実上の天守である櫓に名づけることが多かった。

そのほか、その役割・形状・由来にちなんだ名称を持つ櫓が数多く存在する。

[編集] 物見櫓

櫓は防御の目的だけではなく、ものを観察、監視するためにも用いられる。これを物見櫓(ものみやぐら)という。物見櫓は、弥生時代にはすでに建てられており『魏志倭人伝』では、「楼観」という記述が見られ、同時期の遺跡と考えられている吉野ヶ里遺跡では物見櫓と見られる掘立柱建築の跡が出土している。時代を遡り、縄文時代中期に当たる紀元前3000年 - 紀元前2000年の遺跡である三内丸山遺跡(青森県)では大型の掘立柱の構造物または建築物の跡と見られる遺跡が出土しており、物見櫓の跡であるという説がある[出典 1]

戦国時代には井楼櫓(せいろうやぐら)という木材を組上げただけの仮設の建物が造られており、逆井城や高根城 (遠江国)の跡から掘立柱建物の遺構が出土している。同様の目的で城郭だけではなく、京都市街の路上に建てられた監視用の櫓が『一遍上人絵伝』に描かれており、現在でも街中で見ることのできる火の見櫓もその類である。近世には、礎石の上に建てた土蔵造りの恒久的な建物とされたが用途は同様で、着見櫓(つきみやぐら)は月見櫓と名前は似ているが、着到櫓(ちゃくとうやぐら)とも呼ばれる将兵の到着などを確認するための物見櫓である。主に門の近くなどに建てられた。同様のもので、海城にのみあるが海の様子を観察する潮見櫓(しおみやぐら)がある。[出典 2][出典 3]



[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

  1. ^ 坂井秀弥・本中眞 編『野外復元 日本の歴史』新人物往来社 1998年
  2. ^ 西ヶ谷恭弘編著『城郭の見方・調べ方ハンドブック』東京堂出版 2008年
  3. ^ 三浦正幸著『城のつくり方図典』小学館 2005年

最終更新 2009年11月14日 (土) 05:26 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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