正親町天皇

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正親町天皇
第106代天皇
正親町天皇像(京都・泉涌寺蔵)
正親町天皇像(京都・泉涌寺蔵)
在位 1557年11月17日 - 1586年12月17日
在位中の時代 戦国時代安土桃山時代
在位中の年号 弘治
永禄
元亀
天正
在位中の首都 京都
在位中の皇居 京都御所
出生 1517年6月18日
死去 1593年2月6日
陵墓 深草北陵
先代 後奈良天皇
次代 後陽成天皇
子女 永高女王
誠仁親王
春齢女王
永尊女王
父親 後奈良天皇
母親 藤原栄子
  

正親町天皇(おおぎまちてんのう、永正14年5月29日1517年6月18日) - 文禄2年1月5日1593年2月6日))は、第106代天皇(在位:弘治3年10月27日1557年11月17日) - 天正14年11月7日1586年12月17日))。諱は方仁(みちひと)。

目次

[編集] 系譜

後奈良天皇の第二皇子。母は、参議万里小路賢房の娘、玄徳門院藤原栄子

  • 典侍藤原(万里小路)房子(清光院)(?-1580) - 万里小路秀房女
    • 第二皇女:永高女王(宝昌院)(1540-1551) - 大聖寺門跡
    • 第三皇女(1543-?)
    • 第五皇子:誠仁親王(陽光院)(1552-1586) - 譲位を受ける前に薨去
    • 皇女(1562-1567) - 母は推測
  • 典侍:目々典侍 - 飛鳥井雅綱
    • 皇女:春齢女王(1549-1569) - 大聖寺門跡
    • 皇女:永尊女王(1563?-1571) - 大聖寺門跡
  • 典侍:大典侍(御伊茶) - 万里小路賢房女
    • 第一皇女(1539-1543)

[編集] 系図

 
(102)後花園天皇
 
(103)後土御門天皇
 
(104)後柏原天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(105)後奈良天皇
 
(106)正親町天皇
 
誠仁親王(陽光院)
 
(107)後陽成天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
良恕法親王
 
 
智忠親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(桂宮)智仁親王
 
 
広幡忠幸
 
 


[編集] 経歴

[編集] 即位

弘治3年(1557年)、後奈良天皇の死去に伴って践祚した。当時、天皇公家達はすでに生活に窮するほど貧窮していた。戦国大名毛利元就の献上金があるまで、3年間即位の礼を挙げられなかった[1]。正親町天皇は、元就に褒美として従五位下右馬頭というつつましい位階を授け、皇室の紋章であるの模様を毛利家の家紋に付け足すことを許可した[2]

さらに、本願寺法主顕如も莫大な献金を行っており、天皇から門跡の称号を与えられた。これ以後、本願寺の権勢が増した。

[編集] 織豊政権との関係

天皇家の財政は逼迫し、権威も地に落ちかけていた。永禄11年(1568年)、戦国大名の織田信長は、正親町天皇をお護りするという大義名分により、京都を制圧した[3]。 この上洛によって、天皇家の危機的状況に変化が訪れた。信長は、逼迫していた天皇家の財政を様々な政策や自身の援助により回復させたその一方で、信長は天皇の権威を利用し、信長の敵対勢力に対する度重なる講和の勅命を実現させた[4]元亀元年(1570年)の朝倉義景浅井長政との戦い、天正元年(1573年)の足利義昭との戦い、天正8年(1580年)の石山本願寺との戦いにおける講和は、いずれも正親町天皇の勅命によるものである(ただし、本願寺との和議は本願寺側からの依頼という説もある)。その間の天正5年(1577年)には信長の最高位である右大臣を宣下した。

豊臣氏へ政権が移った後も、豊臣秀吉が正親町天皇を政権の後ろ楯として利用した。豊臣秀吉は低い身分の出身だったが、中国を征服して中国皇帝になるという誇大妄想的な野心を持っていた(文禄の役)。しかし、その秀吉も天皇に取って代わろうとはしなかった。秀吉は天皇の庇護者として振るまい、御料地や黄金を献上している。天正13年(1585年)、正親町天皇は関白位を秀吉に宣下した。このように、天皇家と織豊政権はお互いに利用しあう関係にあり、その過程で天皇家の権威は高まった。

天正14年(1586年)、孫の和仁(かずひと)親王(後陽成天皇)に譲位して仙洞御所に隠退した。文禄2年(1593年1月5日、死去した。

[編集] 信長が仕掛けた戦争への介入

永禄10年(1567年)、正親町天皇は高野山(和歌山県)の真言宗堂塔の破壊をやめるよう信長にはたらきかけ、寺院を救った。さらに、信長と本願寺勢力との間の和平を促し、天正8年(1580年)、両者の和解が成立した。この例は、天皇は非力だったとはいうものの、軍事的な支配者の間に割って入り、その意志決定に影響を与えることが可能だったことを示している[3]

[編集] 2人の統治者

イエズス会宣教師は、日本には正親町天皇と織田信長の2人の統治者がいると報告書に記述した[5]コスメ・デ・トーレスは、フランシスコ・ザビエルの後任の布教責任者である。1570年(元亀元年)、以下のように報告している[6]

日本の世俗国家は、ふたつの権威、すなわちふたりの貴人首長によって分かたれている。ひとりは栄誉の授与にあたり、他は権威・行政・司法に関与する。どちらの貴人も〈みやこ〉に住んでいる。栄誉に関わる貴人は〈おう〉と呼ばれ、その職は世襲である。民びとは彼を偶像のひとつとしてあがめ、崇拝の対象としている。

[編集] 正親町天皇の譲位問題

織田信長#朝廷政策」も参照

[編集] 信長が譲位を要求したとする説

正親町天皇は天正元年(1573年)頃から信長にその存在を疎まれるようになる。そして、たびたび譲位を要求されるようになる。同年12月8日の『孝親日記』にその事が記されている。また、2年後には譲位後に居住する仙洞御所の予定地を探していたともされた。信長としては、儲君の誠仁親王を早く天皇にすることで、より朝廷の権威を利用しやすいものにしようという思惑があったようである。しかし、天皇はそれを最後まで拒んだ。ちなみに本能寺の変に関する一説として朝廷関与説が浮上するのも、このような事情によるものである。

[編集] 信長が譲位に反対したとする説

上記の説とは違い、正親町天皇が譲位を希望して信長がこれに反対していたという説もある。朝廷の内部資料(清涼殿に仕える女官の日誌)である『お湯殿の上の日記』によると、天正9年(1581年)信長が京都で大規模な馬揃えを行った直後の3月9日に、正親町天皇から退位の意向が信長に伝えられた。同年3月24日に譲位がいったん朝議で決定されて、この事を「めでたいめでたい」とまで記されている。

それにもかかわらず、『兼見卿記4月1日の条に、一転中止になったと記されている。これは前述のように当時仙洞御所が存在しておらず、天皇・信長のどちらかが譲位を希望したとしても、「退位後の生活場所」という現実的な問題から何らかの形式で仙洞御所を用意できない限りは譲位は困難であった(実際の正親町天皇の譲位については、それに先立って豊臣秀吉が仙洞御所を造営している)。だが、譲位に関する諸儀式や退位後の上皇の御所の造営などにかかる莫大な経費を捻出できる唯一の権力者である信長が、譲位に同意しなかったからとするのが妥当とされている(戦国時代に在位した3代の天皇が全て譲位をすることなく崩御しているのは、譲位のための費用が朝廷になかったからである)。

天正元年の時点で、正親町天皇は57歳(同9年には65歳)、誠仁親王は22歳(同30歳)である。天正9年の時点では、天皇の病気の記事が頻出するようになる。つまり、譲位を行う好機にさしかかっていた。それにもかかわらず、信長が譲位に関して積極的な行動を取らなかったのは、むしろ譲位に消極的だったからではないかという。

[編集] 在位中の元号

[編集] 陵墓・霊廟

京都市伏見区深草坊町の深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)に葬られた。

[編集] 出典

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  1. ^ シロニー『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』p137頁(第4章「非力で女性的な天皇像」、9「ソフトで柔弱な君主たち」)。
  2. ^ シロニー、p137(第4章9)。さらに本書は以下を出典としている。
    1. 永井ほか「武家政権はなぜ天皇を立て続けたのか」『月刊現代』1992年2月号、p278。
  3. ^ シロニー、p147(第4章「非力で女性的な天皇像」、10「非力な天皇の秘めたる強さ」、「ふたりの元首―信長と正親町天皇」)。
  4. ^ 今谷明『信長と天皇―中世的権威に挑む覇王』講談社〈講談社現代新書〉、1992年/講談社〈講談社学術文庫〉、2002年。
  5. ^ シロニー、p146(第4章10「ふたりの元首―信長と正親町天皇」)
  6. ^ 田中義成『足利時代史』明治書院、1923年。松本清張・今谷明「天皇になろうとした男、足利義満」『朝日ジャーナル』1991年3月15日号。Akira Imatani & Kozo Yamamura, 'Not for Lack of Will or Wile: Yoshimitsu's Failure to Supplant the Imperial Lineage' Journal of Japanese Studies, vol.18, No.1 (Winter 1992), pp. 45-78.Bob T. Wakabayashi, 'In Name Only: Imperial Sovereignty in Early Modern Japan', Journal of Japanese Studies, vol.17, No.1 (Winter 1991), p.38.

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ
先代:
後奈良天皇
天皇
第106代: 1557-1586
次代:
後陽成天皇

最終更新 2009年11月21日 (土) 09:02 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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