武利森林鉄道

武利森林鉄道の最新ニュースをまとめて検索!

武利森林鉄道(むりいしんりんてつどう)とは、北海道網走支庁管内の紋別郡丸瀬布町(現在の遠軽町丸瀬布)に存在した森林鉄道・軌道である。武利意森林鉄道と「意」を付す場合や、北海道に存在した森林鉄道全体から差す場合に武利線と呼ばれる場合がある。

目次

[編集] 概要

1925年(大正14年)に石北線の建設が決定したことにより、南湧別経営区(武利地区)にて林業を行うこととなり、伐採された木材の運搬を目的とした鉄道である。なお、北海道(内務省、営林区署)が森林鉄道事業も含めて直営で行う林業は、官行斫伐事業(かんこうしゃくばつじぎょう)と称されていた。

石北線の工事を終えた地崎組などの請負によって1927年(昭和2年)路床工事を開始、同年中に完成した。合わせて丸瀬布貯木場の整備にも着手し、翌年度までに完成させた。軌条敷設は1928年(昭和3年)5月より直営で開始。武利幹線は森林鉄道としては初めて、当時の国鉄と同じ1 mあたり22.5 kg(45ポンド)、長さ9.1 m(30フィート)の軌条を採用[1]、支線は9 kg(20ポンド)軌条が採用された。当時は木製橋梁が多かった中、草津鉄道(後の草軽電気鉄道)からガード6連を転用するなど、木製以外を積極的に採用した。武利幹線、カムイルベシベ支線、トムルベシベ支線、五十一点沢軌道の計約26 kmの敷設が完了し、同年7月2日に営業を開始した。

機関車の準備は若干遅れ[2]雨宮製作所製のワルシャトー型を3台購入。部品のまま輸送され丸瀬布貯木場にて組み立てが行われた結果、開業から1ヶ月が経過した8月までに2台が完成。19号は1929年(昭和4年)5月6日、20号は同年6月1日から本格的な運用を開始した。18号は遅れて同年中に完成、翌1930年(昭和5年)6月11日から運用に就いたものの、12日間運用されたのみで落合森林鉄道に配置転換された。

開業年は12月10日までに38,424石を搬出。この後、武利幹線とトムルベシベ支線を延伸するなどし、1935年(昭和10年)度をもって一応の完成を見た。同年度末時点で路線総延長は作業用軌道を含め34.302 km。これまでにかかった費用は、工事費445,493円、車両費60,244円[3]、貯木場建設費78,485円の計586,368円で、1972年(昭和47年)当時の価値に換算すると約6億円を費やした。年間[4]輸送量は当初6〜8万石だったものが、1933年(昭和8年)より10万石(28,000 m3)を超えるようになった。

この後数年は大きな変化は見られなかったが、太平洋戦争突入により国からの要請で増伐を重ね、上丸瀬布線を新たに着工するなど伐採現場は奥へ他方へ延びることとなり、1945年(昭和20年)時点では総延長は約80 kmに達した。運行回数は列車交換設備などの関係で1日12往復が限度であり、増伐体制によって輸送が追い付かなくなり、これを解消するために機関車を重連運用とし、貨車牽引能力を2倍に引き上げ15〜20両連結して対応した。機関車は応急車を含めて12両となり、除雪車を配して通年輸送を始めたのもこの頃で、最高年間輸送実績は38万石(約11万 m3)を記録した。乗務員不足も深刻になり、1944年(昭和19年)には全国でも例の無い女性の森林鉄道乗務員が誕生、5名が機関手機関助手制動手を勤めた。入山・下山する従業員は貨車や丸太の上に乗っていたが、戦後の1951年(昭和26年)には丸瀬布営林署自らが鉄製ボギー客車を1両製作したほか、他森林鉄道で不要となった客車2両も転用し、輸送量増加による従業員輸送の安全を図っている。

戦後は伐採現場の移動や戦時増伐体制の終了により使命を終えた路線や作業用軌道の撤去が始まる一方で、武利幹線は延長が続けられ、1953年(昭和28年)には末端の作業用軌道も含め40.32 kmに達したが、トラック輸送が開始されたのもこの頃で、同年をピークに輸送量が減少し始めた。その後も津別森林鉄道とともに北海道最後の森林鉄道として営業、機関車すべてを内燃機関車にして経済性を高めたり、新たに濁川支線を開通させるなど安定的な輸送・供給を図ったものの合理化の波には対抗し切れず、最後まで残った武利幹線は1962年(昭和37年)7月をもって営業が休止された。完全にトラック輸送に切り替えられ、同年中に内燃機関車すべてが廃棄されたため事実上の廃止であった。同年度末をもって正式に用途廃止となり、500万石(約137万4千 m3)の輸送実績を残して35年間の歴史に幕を閉じた。津別森林鉄道も同時期に廃止されており、1963年(昭和38年)5月20日に丸瀬布、津別の両営林署および北見営林局において森林鉄道輸送終了記念式(閉鉄式)が挙行された。

[編集] 路線データ

  • 路線距離(営業キロ):最大約80 km(1945年)
    • 武利幹線
      • 15.03 km(開通時)
      • 18.23 km(1933年)
      • 32 km(1945年)
      • 39 km(1951年)
      • 40.32 km(1953年)
      • 40.06 km(1959年)
    • 上丸瀬布線 - 13.99 km:貯木場より分岐
    • 小金沢軌道 - 1 km:貯木場より分岐
    • 五十一点沢軌道:5 km地点より分岐
      • 0.46 km(一次)
      • 0.6 km(二次)
    • 湯の沢支線(カムイルベシベ支線):12 km地点より分岐
      • 7.26 km(開通時)
      • 10 km(1945年)
    • 五の沢軌道 - 2.50 km:12 km地点より分岐
    • 上武利支線(トムルベシベ支線):十五粁より分岐
      • 3.81 km(開通時)
      • 6.21 km(1934年)
      • 9.6 km(1955年)
      • 6.0 km(1960年)
    • 七の沢支線:「分岐」より分岐
      • 3.6 km(開通時)
      • 5.4 km(1960年)
    • 十の沢軌道 - 3.4 km:27 km地点より分岐
    • 十二の沢支線 - 5.6 km:28.7 km地点より分岐
    • 十三の沢軌道 - 2.84 km:32 km地点より分岐
    • 濁川支線 - 1.9 km:37.7 km地点より分岐
    • 濁川軌道 - 5.8 km[5]:濁川支線終端より分岐
  • 軌間:762 mm
  • 施設:
    • 停車場(交換、入替、滞泊):貯木場(丸瀬布駅)、滝、十五粁、分岐
    • 保線詰所(交換):荒川沢など3箇所

[編集] 車両

輸送は1列車あたり貨車20台(10両)編成が標準で、山での積み込みに20台、運搬に20台、貯木場卸部に20台が必要とされたことから、機関車1台につき貨車60台配備が標準とされていた。

なお、車両番号は北海道庁拓殖部林務課、あるいは1947年の林政統一後は農林省林野局で、それぞれ北海道内の各森林鉄道用をまとめた通し番号を与えられていた。

[編集] 蒸気機関車

  • Nos.18 - 20
11t C型飽和式サイド・ウェルタンク機。1928年9月、東京深川の雨宮製作所にて製造。弁装置はワルシャート。石炭と木材を燃料として使用可能。
  • Nos.26・30
10t C型飽和式サイドタンク機。1939年8月(No.26)と1940年12月(No.30)にそれぞれ札幌市の中山機械で製造。道産品使用を奨励する北海道庁の意向で、渚滑森林鉄道へ1935年に納入された本江機械製作所製10t機をデッドコピーして製造した、一連の同社製森林鉄道用蒸気機関車の一つ。津別森林鉄道へ納入されたNo.22の同型機で、弁装置はワルシャート式、燃料は石炭専燃。
  • Nos.36・38
10t C型飽和式サイドタンク機。1941年5月、富山市の本江機械製作所にて製造。製造番号82・84。Nos.26・30の原型となった本江機械製作所製で、それらと仕様や諸元が一致する。
  • Nos.49 - 51
10t B1型飽和式リアータンク機。1943年1月(Nos.49・50)、1943年2月(No.51)、鉄道省釧路工機部にて製造。鉄道省札幌鉄道局と帝室林野局、それに北海道庁拓殖部の合意の下、1940年10月製の置戸森林鉄道No.32を皮切りに、合計14両が北海道内の各森林鉄道へ供給された、ボールドウィン・ロコモティブ・ワークス製機関車のデッドコピー機の一つ。北海道庁に図面があったことと、森林鉄道向けとして好評であったことからこの形式がプロトタイプとして選定されたが、動輪のタイヤは鉄道省のラッセル車のものを転用するなど資材の入手性を考慮し、更にボイラー缶胴部を電気溶接組み立てとするなど、戦時体制下での製造であったためもあり、全体に簡素化した設計に改変されている。弁装置はアメリカ型スチーブンソン式、燃料は木材・石炭併燃。なお、No.51は当初置戸森林鉄道に配置されたが、1943年頃に本鉄道へ移管されている。

これら10両の内、No.18は1928年に落合森林鉄道へ移管され、No.26・30・38は1947年の林政統一後にそれぞれ上札鶴森林鉄道、渚滑森林鉄道、それに生田原森林鉄道へ移管されてNo.30はNo.28へ、No.38はNo.37へそれぞれ改番された。

それら以外の6両はその後も本鉄道で継続使用されたが、その内、Nos.19・36・49 - 51については1949年にNos.21・35・13 - 15へ改番されている[6]

以後は1958年の全車廃車まで、Nos.13 - 15・20・21・35の6両体制で運行された。

[編集] 内燃機関車

  • 加藤型 - 5 t車1台(1951年 - 1958年)
  • 野村型 - 5 t車2台(1951年 - 1958年)
  • 酒井
    • 5 t車1台(1954年 - )
    • 10 t車1台(配置年不明 - )
  • 協三
    • 5 t車2台(1955年 - )
    • 10 t車4台(1958年 - )
    • 15 t車4台(1958年 - )
    • 12 t除雪車1台(1958年 - )

[編集] その他

[編集] 歴史

  • 1925年(大正14年) - 武利森林鉄道建設決定。
  • 1926年(大正15年) - 測量開始。
  • 1927年(昭和2年)5月1日 - 工事開始。
  • 1928年(昭和3年)7月2日 - 武利幹線、カムイルベシベ(湯の沢)支線、トムルベシベ(上武利)支線、五十一点沢軌道(一次)開通。
  • 1935年(昭和10年) - 五十一点沢軌道廃止。
  • 1941年(昭和16年) - 七の沢支線、五の沢軌道開通。
  • 1942年(昭和17年) - 上丸瀬布線開通。
  • 1943年(昭和18年) - 五十一点沢軌道(二次)開通。
  • 1944年(昭和19年) - 十二の沢支線、小金沢軌道開通。
  • 1947年(昭和22年)
    • 五十一点沢軌道廃止。
    • 丸瀬布営林署設置。
  • 1949年(昭和24年) - 上丸瀬布線、小金沢軌道、五の沢軌道廃止。
  • 1950年(昭和25年) - 湯の沢支線廃止。
  • 1951年(昭和26年) - 内燃機関車を導入、運用開始。
  • 1952年(昭和27年) - 十の沢軌道開通。
  • 1953年(昭和28年) - 十三の沢軌道開通。
  • 1955年(昭和30年) - 十の沢軌道廃止。
  • 1957年(昭和32年)
    • 濁川支線開通。
    • 蒸気機関車の運用を廃止、内燃機関車に統一。
  • 1958年(昭和33年) - 十三の沢支線廃止。
  • 1960年(昭和35年) - 濁川軌道開通、十二の沢支線廃止。
  • 1961年(昭和36年) - 上武利支線、七の沢支線廃止。
  • 1962年(昭和37年)
    • 濁川支線、濁川軌道廃止。
    • 7月 - 武利幹線休止。
  • 1963年(昭和38年)
    • 4月1日 - 武利幹線廃止で全線廃止。
    • 5月20日 - 森林鉄道輸送終了記念式(閉鉄式)挙行。

[編集] 雨宮21号

動態保存される「雨宮21号」

蒸気機関車で1台のみ廃棄されずに残された雨宮ワルシャトー型(21号)は、国内で唯一残る国産の森林鉄道用蒸気機関車として丸瀬布営林署にて保存されることとなった。1961年(昭和36年)5月13日には格納式の輸送納めとして、1957年(昭和32年)に蒸気機関車運用が廃止されて以来、4年振りの走行(さよなら運転)を行っている。その後1976年(昭和51年)に丸瀬布町が払い下げを受け、修復の後に動態保存が行われている。詳細は雨宮21号を参照されたい。

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

  • 丸瀬布町編「丸瀬布町史」(1974年
  • 小熊米雄『日本の森林鉄道 上巻:蒸気機関車編』、エリエイ出版部プレス・アイゼンバーン、1989年

[編集] 脚注

[ヘルプ]
  1. ^ 45ポンド軌条は、森林鉄道ではこの後足寄森林鉄道足寄幹線で採用されたのみである。
  2. ^ 軌条敷設工事用および機関車必要数が揃うまで、温根湯1号、淕別14号が一時的に配置された。
  3. ^ 機関車3台、貨車150台、手押車50台、腕用車1台。
  4. ^ 当時の営業期間は5月〜12月(冬季休止)。
  5. ^ 濁川支線を合わせた距離。
  6. ^ No.20は改番されていない。

最終更新 2009年9月19日 (土) 19:44 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【武利森林鉄道】変更履歴

ご利用上の注意