武恵妃
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武恵妃(ぶ・けいひ、? - 開元25年(737年))は、唐代玄宗朝に仕えた皇妃。姓は武、名は伝わっていない。恵妃は皇妃としての順位を表す称号である。玄宗の寵愛を得、皇子の寿王・李瑁を皇太子にしようと運動したが、失敗した。「旧唐書」では『貞順皇后武氏』、「新唐書」では『貞順武皇后』で立伝されている。
[編集] 生涯
則天武后のいとこにあたる武攸止の娘。武攸止の死後、幼くして後宮に入った。玄宗の即位後、寵愛を得た。当時、他に寵愛を得ていたものに、趙麗妃[1]、皇甫德儀、劉才人らがいたが、彼女らの寵愛が薄れた後は、武恵妃が独占したと伝えられる。
開元年間の初めに、二人の男子、一人の女子を産んだが、赤子の時に夭折し、玄宗は悼んでいた。そのため、寿王・李瑁は宮中で育てずに、寧王・李憲に命じて、宮中の外で育てさせた。その後、盛王・李琦と咸宜公主と太華公主を産んだ。
開元12年(724年)、皇后であった王氏が廃された後は、恵妃の地位を与えられ、宮中でも扱いは皇后に対するものと同等とされた。母の楊氏は、鄭国夫人に封じられ、弟の、武忠は国子祭酒に、武信は秘書監に昇進した。
開元14年(726年)、玄宗は、武恵妃を皇后にしようとした。しかし、御史の潘好礼から「武一族は陛下の不倶戴天の仇であり、また、張説が立后の功をたてて、宰相になろうと噂されている現状である。さらに、太子の李瑛(趙麗妃の子)が危険にさらされる」という反対にあい、取りやめたと伝えられる。なお、この年に趙麗妃も死去している。
その後、李林甫からの運動をうけて、彼を抜擢した。そのため、彼は宰相にまで昇進した。
開元24年(736年、武恵妃は、太子・李瑛と鄂王・李瑤(皇甫德儀の子)、光王・李琚(劉才人の子)を、武恵妃に対する恨み言を語っていた件で玄宗に訴えた。李林甫は、武恵妃の意をうけ、李瑁(妃は楊玉環)を太子にするために、朝廷において工作をおこなった。
開元25年(737年)、李瑛ら3名は廃された上、自殺を命じられた。しかし、李瑁が太子に任じられないまま、12月に死去した。40余歳であった。玄宗はこれを悼み、皇后を贈名し、長安に立廟した。
その後、太子には李璵(楊氏の子)が任じられた。
[編集] 脚注
- ^ 倡(身分の低い女性)の出身で容姿に優れ、歌舞を長けていたと伝えられる。

