武田信実
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武田 信実(たけだ のぶざね、1524年(大永4年) - 1555年(弘治元年))は、戦国時代の人物。国人領主としての安芸武田氏最後の当主。若狭守護武田元光の子。安芸武田氏当主武田光和の急死により、その養子として迎えられ、安芸武田氏の当主となる。
武田光和の後継に迎えられたものの、重臣間では周防の大名大内氏との講和についての意見対立が起き、ついには品川一党が香川氏の居城八木城を攻撃した。しかし平賀氏・熊谷氏らが香川氏に援軍を出すとの報に接した品川一党は退却。大混乱をきたした武田氏家臣は佐東銀山城を逃亡。事態の急変に対して何の手を打つことができなかった信実も、佐東銀山城を捨て、若狭に逃亡した。
1540年、尼子詮久が毛利元就討伐のため安芸に出陣すると、信実は尼子詮久に願い、安芸武田氏復興のための援助を要請する。詮久はこれを受け入れ、牛尾幸清に兵2000を与え、信実とともに佐東銀山城に入城させた。尼子詮久は郡山城を攻撃したが、攻略は遅々として進まず、翌1541年、陶隆房率いる大内氏の援軍と毛利方の反撃により、詮久は無残な退却を強いられることとなる(吉田郡山城の戦い)。
尼子氏の敗北により再度佐東銀山城は孤立し、信実はまたもや城を捨てて牛尾幸清と共に出雲へ逃亡。城兵の多くも逃亡した。佐東銀山城には300余の兵が籠城していたが、武田氏の重臣香川氏らは毛利氏と和睦を進め、ついに佐東銀山城は開城した。これにより安芸武田氏は終焉を迎えることとなる。
この後、安芸武田氏の血を受け継ぐ(武田信実の従兄弟武田信重の子、もしくは武田元繁の女婿伴繁清の息子とも)安国寺恵瓊が毛利氏の外交僧として活躍することとなる。
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最終更新 2008年12月18日 (木) 13:16 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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