毛利敬親

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毛利敬親 / 毛利慶親
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時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文政2年2月10日1819年3月5日
死没 明治4年3月28日1871年5月17日
改名 猶之進(幼名)→教明→慶親→敬親
別名 渾名:そうせい侯
諡号 忠正公
神号 敬親命
官位 従四位下 大膳大夫 左近衛権中将、従二位 権大納言、贈正一位
長州藩
氏族 毛利氏
父母 父:毛利斉元、母:不明
養父:毛利斉広
兄弟 敬親、孝子(伊達宗徳継室)、女(益田親興室)
正室:都美子(毛利斉広女)
養子:順明、元徳、女(毛利元運室)、女(毛利元敏室)、女(山内豊範室)
  

毛利 敬親 / 慶親(もうり たかちか / よしちか)は、長州藩の第14代藩主。

目次

[編集] 生涯

[編集] 家督相続

文政2年(1819年)2月10日、第12代主・毛利斉元の長男として生まれる。母は側室。天保7年(1836年)に父が死去し、その後を継いで第13代藩主となった毛利斉広もすぐに死去したため、斉広の養子となって天保8年(1837年)に家督を継いで第14代藩主となる。後に斉広の娘を正室に迎え、第12代将軍・徳川家慶の一字を与えられ慶親と名乗った。

[編集] 藩政改革

天保9年(1838年)に萩に入り、翌年より質素倹約と貨幣流通の改正を行う。村田清風を登用して、藩政改革を断行。村田の死後は、村田とともに藩政改革を担った坪井九右衛門を登用した。天保12年(1841年)、江戸に文武修業の場である有備館を建設、領内の実態調査を実施し、天保14年(1843年)には萩で練兵を行い、藩の軍事力の強化にも務めた。敬親の改革はこれだけに留まらず、嘉永2年(1849年)、藩校である明倫館の改革をも断行した。

[編集] 第一次長州征伐

嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国の提督・ペリーが来航すると相模国周辺の警備に当たった。安政5年(1858年)8月、密勅を受け、「尊王」に尽力することとなった。同年、坪井九右衛門を引退させ、周布政之助らを登用。藩論として「攘夷」の意見を幕府に提出した。以後敬親は周布を重用し、藩是三大綱を決定、藩の体制強化と洋式軍制の導入する改革を開始した。

文久元年(1861年)、長井雅楽を登用し、航海遠略策により朝廷と幕府との協調策を模索するが、政局の主導権を長州藩に握られることを恐れた薩摩藩の妨害によって長井の政略は失敗した。この後、藩論は周布や桂小五郎らが主導する攘夷へと大きく方針を転換した。文久2年(1862年)7月、攘夷の実行を藩の方針とし、文久3年(1863年)4月には藩庁を萩城より山口に移転させ、5月には外国船の打ち払いを開始。8月、これに反発したアメリカイギリスオランダフランスの4ヵ国の連合艦隊が下関に襲来し敗北する(下関戦争)。そして同年の「八月十八日の政変」により長州藩は京を追われ、池田屋事件で多くの長州藩士が会津藩麾下の新選組によって殺害・捕縛されるにおよび、藩は京に出兵し、翌元治元年(1864年)の禁門の変を引き起した。この長州の暴挙に対して朝廷は幕府に対し長州征討を命じ、8月には敬親の官位を剥奪した。第1次長州征伐が開始されると、国司信濃益田右衛門介福原越後ら3家老を切腹させ恭順し、10月に萩に謹慎した。

[編集] 尊王攘夷から尊王開国、薩長同盟と倒幕

慶応元年(1865年)、松下村塾出身の高杉晋作らが馬関で挙兵。俗論派(保守派)を打倒するクーデターを実行、正義派(倒幕派)政権を成立させる。そして高杉らは西洋式軍制を採用した民間の軍事組織である奇兵隊や長州藩諸隊を整備し、大村益次郎を登用してゲベール銃ミニエー銃など新式兵器を配備し、戦術の転換など大規模な軍事改革を行う。慶応2年(1866年)、坂本龍馬の仲介で薩長同盟を結び、同年8月の第二次長州征伐にも勝利した。慶応3年(1867年)、イギリスとの関係を構築し、10月には討幕の密勅を受けた。そして同年11月には薩摩藩らと共に官軍を組織して上京。王政復古のクーデターを成功させる。敬親は慶応4年(1868年)5月に上洛し、明治天皇に拝謁して左近衛権中将に任ぜられると山口へと帰った。

[編集] 晩年と最期

明治2年(1869年)1月、敬親は薩摩藩土佐藩肥前藩と連署して版籍奉還を奉請した。6月には権大納言の位を得て、養嗣子の毛利元徳と共に10万石を下賜されている。6月4日に家督を元徳に譲って隠居した。明治4年(1871年)3月、山口藩庁内殿で死去。享年53。

[編集] 経歴一覧

※日付は旧暦。明治5年以降は新暦。

[編集] 人物・逸話

  • 家臣の意見に対して異議を唱えることが無かったため「そうせい侯」(常に「うん、そうせい」と返答していたため)と呼ばれ、政治的には賢明な藩主ではなかったとの評価がある。幕末の動乱の中心を担った藩の藩主であるにもかかわらず、幕末の四賢侯にも数えられていない。
  • しかし、ことに教育に熱心な藩主であり、彼の家柄や年齢にこだわらずに優秀な才能を信頼する性格が、幕末の世に多くの人材を輩出させている。特に11歳も年下の下級武士の息子である吉田松陰の才に惚れこみ、自ら山鹿流兵学の門下となったエピソードは、松陰の秀才ぶりと同時に敬親の人柄を示すものとしても語られることが多い。
  • 敬親は有能な家臣を登用し活躍させ、また若い才能を庇護することで、窮乏していた長州藩を豊かにし、果ては毛利260年の宿願である「倒幕」をも成し遂げさせた、当時としては奇異なタイプの藩主と言える。
  • また倒幕後すぐ隠居した事が示すように、私欲や野心にも囚われる事もなかったとされることから、歴史ファンからの評価はおおむね好意的である。長州志士からの人望も厚く、彼らが維新後に敬親を顕彰して建てた石碑などが、旧長州藩内に多く現存する。
  • 司馬遼太郎は『世に棲む日々』の中で以下のような評価を与えている。「敬親に世界観がなかった、といえばかれに酷だろう。かれはかれ自身独創力というものはもたなかったが、人物眼もあり、物事の理解力にも富んだ男で、それにうまれつきおそろしく寛大であった」。「ある意味では、かれほど賢侯であった人物はいないかもしれない。かれは愚人や佞人を近づけようとはせず、藩内の賢士を近づけた」。
  • 清水義範は『偽史日本伝』の短編で敬親を取り上げ、「この殿様がもっと馬鹿でも、もっと利口でも、長州藩は途中でつぶれていたであろう。無能な名君、という不思議な人も歴史の中には存在するということだ。」と評している。

[編集] 主要家臣

慶応年間の江戸武鑑に登場する主要家臣は以下のとおり。

《一門八家》

宍戸備前、毛利筑前、毛利能登、毛利出雲、毛利豊之進、毛利隠岐、益田右衛門介、福原越後

《家老》

根来主馬、益田源兵衛、浦靱負、益田伊豆、宍戸播磨、井原主計、清水美作、根来上総、国司信濃、清水清太郎、志道安房、内藤佐渡

用人

井原孫右衛門、岡部内記、湯浅速水、児玉惣兵衛、福間舎人、梨羽直衛、河内尊令、毛利舎、大西将曹、天野九郎右衛門、粟屋刑部、林主悦、粟屋集太、出羽源八

側用人

中川衛士、高杉小忠太、湯浅忠右衛門、飯田左門、久芳安積、上山縫殿、佐伯丹下、児玉主殿、毛利登人、三田杢、井上小豊後、有地藤馬、小幡彦七(城使兼務)、藤井一学、大和国之介、榎本隼人、香川半介、八木隼雄、井原主水、杉徳輔、児玉準、高杉東一、桂小五郎、内藤五郎兵衛、平田新右衛門、上田寛治、神村斎宮

《城使》

山添金之介

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月22日 (日) 17:56 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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