水戸学
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水戸学(みとがく)は、日本の常陸国水戸藩(現在の茨城県北部)で形成された学問である。全国の藩校で水戸学(水府学、天保学ともいわれる)は教えられ、吉田松陰や西郷隆盛をはじめとした多くの幕末の志士等に多大な感化をもたらし、明治維新の原動力となった。 戦後は現代にいたるまで、批判を受けることがあるが、本来水戸学は非常に幅の広い学問体系を持っている。
[編集] 概要
一般的に日本古来の伝統を追求する学問と考えられており、第2代水戸藩主の徳川光圀が始めた歴史書『大日本史』の編纂を中心としていた前期水戸学(ぜんきみとがく)と、第9代水戸藩主の徳川斉昭が設置した藩校・弘道館を舞台とした後期水戸学(こうきみとがく)とに分かれるとされるが、前期と後期に分けることの可否も含め、多くの考え方がある。
寛永3年(1791年)に藤田幽谷が「正名論」を表してその主体をまとめる。その内容は、「君臣上下の名分を厳格に維持することが、社会の秩序を安定させる要となる。」というものである。この考えが、後の尊王論に理論的根拠を与えることとなる。
第9代水戸藩主の徳川斉昭は、藩校として弘道館を設け、水戸学を大幅に拡充したといわれる。このころから水戸学は「文武両道」を旨とし、学問としては、儒学・国学などの思想以外にも、医学や天文学などの応用科学を含む、総合的なものとなった。
このとき、教授頭取となったのが会沢正志斎であり、彼と後述する藤田東湖が、幕末水戸学を代表する人物として言及されることが多い。学問としては、古事記・日本書紀などの建国神話を基に『道徳』を説き、そこから日本固有の道徳を明らかにしようとした。中でも、この弘道館の教育理念を示したのが「弘道館記」で、署名は徳川斉昭になっているが、実際の起草者は藤田東湖であり、藤田は「弘道館記述義」を著し、解説の形で尊王思想を位置づけた。これらは水戸学の思想を簡潔に表現した文章として著名で、そこには「尊王攘夷」の語がはじめて用いられ、また「神儒一致、文武合併」の考え方が示されている
水戸藩で生まれた水戸学は、江戸幕末の尊王攘夷運動に決定的な影響を与え、明治維新の原動力になった。水戸学の舞台となった弘道館は、江戸幕府の最後の将軍であった徳川慶喜の謹慎先となったが、慶喜が薩長軍との全面戦争を避け、大政奉還したのは、幼少の頃から学んだ水戸学がその思想の根底にあったためである。
幕末水戸藩は、天狗党の筑波山挙兵(天狗党の乱)をはじめとして、他藩と比肩出来ないほどの多くの犠牲者を出した。徳川御三家であるにも関わらず、尊皇の旗を掲げそのさきがけを担ったことは、藩の分裂ともなり、水戸藩の悲劇でもあった。しかし、水戸の犠牲の上に明治維新が成ったことは、日本の歴史上特筆されることである。後に乃木希典陸軍大将は、明治天皇崩御後、当時の皇太子裕仁親王に水戸学に関する書物を献上した後に自刃している。
明治維新後、水戸学は、その源流でもある徳川光圀とともに、多くの人々に讃えられたが、最も心を尽くしたのは明治天皇である。天皇は、光圀・斉昭に正一位の贈位、その後光圀・斉昭を祀る神社の創祀に際して常盤神社の社号とそれぞれに神号を下賜し、別格官幣社に列した。また、明治39年(1906年)に『大日本史』が249年の歳月を経て完成され全402巻が明治天皇に献上されると、その編纂に用いた史書保存のための費用を下賜し、それによって彰考館文庫が建造された。
現在、水戸学は、茨城県水戸市にある水戸史学会によって研究されている。

