水谷八重子 (初代)
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| みずたに やえこ 水谷 八重子 |
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| 本名 | 松野 八重子 |
|---|---|
| 生年月日 | 1905年8月1日 |
| 没年月日 | 1979年10月1日(満74歳没) |
| 出生地 | 東京市牛込区神楽坂 (現在の東京都新宿区神楽坂) |
| 職業 | 女優 |
| ジャンル | 新劇、新派劇、映画 |
| 活動期間 | 1914年 - 1979年 |
| 配偶者 | 十四代目 守田勘彌 (離婚) |
| 家族 | 二代目 水谷八重子 長女 |
| 主な作品 | |
| 舞台 映画 |
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初代水谷八重子(みずたに やえこ、1905年8月1日 - 1979年10月1日)は、大正・昭和期の日本の女優である。本名は松野 八重子(まつの やえこ)。位階勲等は従四位勲三等宝冠章受章、紫綬褒章を受章している。
目次 |
[編集] 人物・来歴
[編集] 新劇のころ
1905年(明治38年)8月1日、東京市牛込区神楽坂(現在の東京都新宿区神楽坂)に、時計店の娘として生れる。幼少時に父が死去し、母とともに姉の夫、義兄にあたる水谷竹紫の元に身を寄せる。
竹紫が「芸術座」の創立にかかわった関係で、島村抱月に招かれて、1914年(大正3年)、舞台に端役で出演する。小山内薫に認められ、1916年(大正5年)、11歳になるころ、帝劇公演『アンナ・カレーニナ』に松井須磨子扮する「アンナ」の息子役で出演する。1918年(大正7年)、雙葉高等女学校(現在の雙葉高等学校)に入学する。1920年(大正9年)、15歳にして、畑中蓼坡が主宰していた新協劇団の公演『青い鳥』で好演し、本格的に女優の道を歩むこととなる。この舞台で共演した友田恭助と親しくなり、2人で「わかもの座」という劇団を作り、野外劇などを上演する。その頃、畑中が監督として招かれていた国際活映から誘われ、1921年(大正10年)、畑中が監督した『寒椿』で井上正夫と共演し、映画デビューする。ただし、高等女学校からの圧力により、名前を出すことが出来ず、「覆面令嬢」として匿名での出演だった。
同校を卒業後、「研究座」に入り、新劇、大衆劇双方から引っ張りだこになる。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災後、義兄の水谷竹紫が第2次芸術座を1924年(大正13年)に創立すると、その中心メンバーとして活躍した。
1935年(昭和10年)、竹紫が死去した。その間、井上正夫と一座を組み、本郷座で公演、新派劇の隆盛に尽力する傍ら、松竹等で映画にも出演した。私生活でも、1937年(昭和12年)、十四代目守田勘弥と結婚し、1939年(昭和14年)に娘・好重(のちの水谷良重、現在の二代目水谷八重子)を授っている。
[編集] 新派劇へ
40歳で迎えた第二次世界大戦の終戦後、1945年(昭和20年)の解散まで、劇団の屋台骨を支えた。自宅を焼かれ、静岡県熱海市で終戦を迎え、女優引退を考えていたが、松竹社長大谷竹次郎に促され、1946年(昭和21年)、東京劇場に出演し舞台復帰した。以後、夫と共演し、地方巡業にも出た。1949年(昭和24年)、花柳章太郎らの「劇団新派」の結成に参加する。夫の十四代勘弥とはのちに正式離婚、好重は八重子が引き取った。
以後、劇団の看板を花柳と共に支え、次々と名女形が没していったのちは、彼らの残した新派演目の女主人公の芸を継承した。また、新劇の演出家、菅原卓の指導の下、滝沢修、森雅之らと共演、新派劇と新劇の融合を目指した演劇の上演で注目された。
1962年(昭和37年)、舞台『黒蜥蜴』直後の57歳での癌発病と、1965年(昭和40年)の花柳死去を機に、新派の舞台に専念し、水谷良重や菅原謙次など若手の相手役を勤め、その育成に心血を注いだ。
その後、再発・他部位への転移など度重なる癌の逆境にめげず自身の舞台活動、新派の後続世代の指導に精進、1974年(昭和49年)、「舞台生活60年」を記念して『大尉の娘』の露子や、『皇女和の宮』等、水谷の当たり役の中から10種を選び、「八重子十種」として記念公演を持った。
1979年(昭和54年)、公演中に倒れ、同年10月1日、乳がんのため死去した。満74歳没。
[編集] 受賞歴
- NHK放送文化賞(1953年)
- 日本芸術院賞(1956年)
- 菊池寛賞(1957年)
- 紫綬褒章(1958年)
- 大阪府民芸術賞(1963年)
- 芸術院会員(1967年)
- 文化功労者(1971年)
- 朝日賞(1972年)
[編集] テレビ番組
- 徹子の部屋(テレビ朝日)
最終更新 2009年9月15日 (火) 03:56 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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