永淵洋三
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| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 出身地 | 佐賀県佐賀市 |
| 生年月日 | 1942年5月4日(67歳) |
| 身長 体重 |
168cm 65kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 左投左打 |
| 守備位置 | 外野手、投手 |
| プロ入り | 1967年 ドラフト2位 |
| 初出場 | 1968年4月16日 |
| 最終出場 | 1979年 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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この表について
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永淵 洋三(ながぶち ようぞう、1942年5月4日 - )は、元プロ野球選手(外野手、投手)。
現役時代は酒豪として知られ、水島新司の漫画「あぶさん」の主人公・景浦安武のモデルとなった[1][2]。
目次 |
[編集] 来歴・人物
佐賀県に生れ、佐賀市立城南中学校から、佐賀高校(現・佐賀西高校)でエースとして活躍する。甲子園出場は第40回大会の夏の選手権大会に補欠として経験がある。(当時のバッテリーは、山田龍生-坂井岩夫)3年生の春の九州大会で優勝する。
その後、東芝に入社し、小柄ながら実戦的な投手兼外野手として活躍する。
1965年、西鉄ライオンズの入団テストを受けるが落ちる。2年後の1967年、東芝の元監督の伊丹安廣が早稲田大学野球部の後輩で近鉄バファローズ代表の芥田武夫に永淵を紹介[1]。入団テストに合格し近鉄入団が決まった。ドラフトでは伊丹-芥田ラインに敬意を払ったため形式的にドラフト2位で指名されたが、契約金は330万円と3位の小川亨の1000万円より安価な額となった[1]。しかし、東芝当時の月給が3万円に対し飲み屋に20万円のツケがあり、返済のアテもなく契約金で返済するしかないと考えていた永淵はこの額を了承し、近鉄と契約を結んだ[1]。
投手として選手登録されたが翌年の1968年4月16日、対東映戦で代打としてプロデビュー。石川緑の投げた初球の内角のストレートを叩き初打席初本塁打を記録[1]。その次の守備ではそのまま投手として登板し、2回2/3を投げ2安打1失点を記録した[1]。この年、監督の三原脩は永淵に投手、外野手、代打の3役を与えた。試合途中で代打に出て、次の回にマウンドに登り、何人か投げて、外野の守備に回ったり、外野からワンポイントリリーフでマウンドに行き、終わると又外野に戻るというような起用を行った。しかし打者としては打率.274、5本塁打、30打点を記録し新人王候補にもなったが、投手としては実力不足を露呈したため6月以降は登板がなかった[1]。
翌年の1969年からは野手に専念。3番右翼として127試合に出場し、打率.333を記録[1]。首位打者を張本勲と分け合った。張本のいる東映が全日程を終了し、永淵のいる近鉄が1試合を残している時点で永淵の打率が張本を上回っており、永淵は最終戦に出場しなければ単独で首位打者を獲得していたが、永淵は最終戦にスタメンで出場。結果的に打率2位だった張本と並んだ。この時酒好きであったことから当時の新聞などには「酒(主)力打者」と書かれた[1]。
その後も主軸打者として活躍するが、佐々木恭介など若手外野手の台頭で、徐々に出番が減り、1976年、西本幸雄監督の若返り策もあり、阪本敏三・八重沢憲一のトレードで、服部敏和と共に、三原が球団社長を勤めていた日本ハムに移る。日本ハムでも、外野手、指名打者として活躍したが、年齢から来る体力の衰えには勝てず、1979年シーズンを最後に現役を引退した。
1980年からは日本ハムの関西地区担当のスカウトとなり自身のように小柄でもいい選手がいるという方針で活動したが、大型選手に目が行く球団と対立し、ドラフト前の9月に辞表[1]。その翌日に大阪の焼鳥店に見習いとして働き、12月に故郷の佐賀で焼鳥店「あぶさん」を開店、現在でも経営している[1]。
酒の強さは並外れており、毎日試合後に飲みに出かけては、二日酔いで試合に出場することも多く、酒量も20代の頃には一晩に一升をあけるほどであった[2]。試合中にグラウンドに吐きながら守っていて線審の田川豊に注意されたというエピソードもある[3]。この話には続きがあり、その晩も永淵は飲みに行ったが、トイレで吐いていた中年男を介抱してあげたところその男は田川であった(田川も酒豪で有名だった)[4]。また打席に入ったときに相手チームの捕手から酒のにおいを指摘されることもあった[2]。
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
チ | ム |
試 合 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 死 球 |
三 振 |
打 率 |
順 位 |
長 打 率 |
出 塁 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1968 | 近鉄 | 109 | 270 | 29 | 74 | 15 | 4 | 5 | 112 | 30 | 11 | 5 | 2 | 22 | 35 | .274 | - | .415 | .329 | .744 |
| 1969 | 127 | 486 | 80 | 162 | 18 | 8 | 20 | 256 | 74 | 23 | 5 | 5 | 39 | 41 | .333 | 1 | .527 | .383 | .910 | |
| 1970 | 128 | 461 | 59 | 136 | 29 | 3 | 14 | 213 | 47 | 25 | 4 | 1 | 53 | 40 | .295 | 9 | .462 | .368 | .830 | |
| 1971 | 128 | 490 | 68 | 147 | 22 | 4 | 13 | 216 | 58 | 24 | 4 | 4 | 34 | 44 | .300 | 12 | .441 | .345 | .786 | |
| 1972 | 128 | 503 | 72 | 151 | 16 | 0 | 22 | 233 | 57 | 15 | 4 | 3 | 34 | 35 | .300 | 8 | .463 | .345 | .808 | |
| 1973 | 114 | 355 | 30 | 82 | 8 | 0 | 4 | 102 | 30 | 11 | 6 | 4 | 17 | 28 | .231 | - | .287 | .266 | .553 | |
| 1974 | 94 | 158 | 22 | 39 | 2 | 0 | 7 | 62 | 13 | 12 | 2 | 0 | 25 | 17 | .247 | - | .392 | .350 | .742 | |
| 1975 | 29 | 35 | 3 | 5 | 1 | 0 | 0 | 6 | 5 | 0 | 1 | 0 | 9 | 4 | .143 | - | .171 | .318 | .489 | |
| 1976 | 日本ハム | 81 | 242 | 27 | 63 | 12 | 1 | 5 | 92 | 26 | 5 | 1 | 1 | 22 | 26 | .260 | - | .380 | .322 | .702 |
| 1977 | 100 | 243 | 19 | 54 | 7 | 0 | 10 | 91 | 41 | 8 | 0 | 5 | 24 | 22 | .222 | - | .374 | .292 | .666 | |
| 1978 | 86 | 197 | 16 | 46 | 3 | 0 | 9 | 76 | 24 | 0 | 0 | 3 | 17 | 29 | .234 | - | .386 | .294 | .680 | |
| 1979 | 26 | 21 | 0 | 3 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 6 | .143 | - | .190 | .308 | .498 | |
| 通算成績 | 1150 | 3461 | 425 | 962 | 134 | 20 | 109 | 1463 | 409 | 134 | 32 | 28 | 301 | 327 | .278 | - | .423 | .336 | .759 | |
- 表中の太字はリーグ最多数字
[編集] 通算投手成績
- 12試合 0勝1敗 19.1回 奪三振9 防御率2.84
[編集] 背番号
- 10(1968年 - 1979年)
[編集] タイトル・表彰
- 首位打者:1回(1969年)
- 最多安打:1回(1969年) ※当時はタイトルではない
- ベストナイン:1回(1969年)
- オールスターゲーム出場:3回(1969年、1970年、1972年)
- 通算1000試合出場 1977年7月17日(192人目)
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
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最終更新 2009年10月20日 (火) 22:17 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【永淵洋三】変更履歴

