江本孟紀

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江本 孟紀
基本情報
国籍 日本
出身地 高知県高知市
生年月日 1947年7月22日(62歳)
身長
体重
189cm
77kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 投手
プロ入り 1970年 ドラフト外
初出場 1971年
最終出場 1981年
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
監督歴
日本の政治家
江本孟紀
えもと たけのり
生年月日 1947年7月22日(62歳)
出生地 高知県
出身校 法政大学

日本の旗 参議院議員
任期 1992年 - 2004年
退任理由 大阪府知事選挙への出馬のため。
  

江本 孟紀 (えもと たけのり、1947年昭和22年7月22日 - )は、高知県香美郡土佐山田町(現・香美市)生まれ、同県高知市出身の元プロ野球選手投手)。現役引退後は野球解説者政治家タレント俳優として活動している。元スポーツ平和党副代表、元参議院議員(スポーツ平和党→自由の会フロムファイブ民政党民主党)。現在は消費者金融武富士のCMの出演で知られている。

株式会社江本エンタープライズ代表取締役、政治団体「エモヤンサポーターズクラブ」代表、タイ王国ナショナルベースボールチーム総監督。

愛称は「エモやん」。あるいは「エモさん」「エモ」。最終学歴は法政大学経営学部中退。

目次

[編集] 経歴

[編集] 高校・大学時代

警官の息子として生まれ、実父の転勤に伴い小学校時代は転校を数回経験したが、長嶋茂雄に憧れ野球に打ち込んだ。高知商業時代、選抜高等学校野球大会への出場を決めたが、部員が不祥事を起こしたために辞退。

その後、西鉄ライオンズからドラフト指名を受けるが、4位という下位指名だったために拒否し、法政大学経営学部へ進学した。このときの西鉄1位指名が同じ高校で同級生の浜村孝であった。4番でピッチャーの自分が4位指名で、3番バッターの浜村が1位指名であることに納得できなかった、と江本は後に著書で語っている。大学時代は1年生の春からベンチ入りするも、松永玲一監督の方針に合わず幾度となく反発、最終シーズンはベンチからも外れ、半ば退部状態となった(のちに松永とは和解する)。法大の1年先輩には田淵幸一山本浩二、同期には六大学リーグで史上最多の通算48勝山中正竹がいる。

[編集] 社会人野球からプロ野球へ

その後、社会人野球熊谷組へ進み、1970年のドラフト外で東映フライヤーズに入団。この時の背番号は49。中継ぎしか出番がなかったが、翌1971年オフに南海ホークス野村克也監督が才能を見抜き、トレードで獲得する。

期待の証に背番号16を与えた野村監督のもと、移籍初年度の1972年に背番号と同じ16勝をマーク。先発・中継ぎを無難にこなし、1973年にはリーグ優勝に貢献した。優勝決定の試合では、最終回に一打同点の場面で阪急の代打本塁打世界記録保持者、高井保弘を迎えたところでリリーフ、見事空振り三振にとって胴上げ投手となった。しかし、それまで抑えの切り札佐藤道郎が投げており、江本は急遽登板で調整も全くしておらず、審判が運よくストライクを取ってくれたので助かったと後に著書で述べている。読売ジャイアンツV9を達成する同年の日本シリーズでは大阪球場での第1戦で3失点完投勝利。

1974年にはオールスターゲームへの出場を果たして第2戦に先発。阪神タイガース江夏豊と投げ合い、翌1975年オフに両投手は交換トレードされた(南海は江本と同時に島野育夫も放出)。その際、江夏との間で激しい舌戦を交わしているが、後に和解し、1993年に江夏が覚せい剤取締法違反で逮捕された際には、江本も法廷で情状陳述を行い、服役中も度々刑務所に面会に訪れて江夏をサポートするという間柄になった。

南海時代「ノムさん(野村克也)のリードのせいで打たれた試合で腹が立ったのでベンチでノムさんをヤジった」とのエピソードがある。

[編集] 阪神タイガースへ移籍

阪神移籍後初のキャンプでは甘いマスクで女性ファンの人気を集め、キャンプ地は押すな押すなの盛況となった。

阪神では先発投手として活躍するも、1978年オフに起きた江川事件で巨人からトレード移籍してきた小林繁にエースの座を奪われる。練習は手抜きの名人だったという。その後、中西太監督の起用に不満を募らせ、1981年8月26日の対ヤクルトスワローズ戦で、「ベンチがアホやから野球がでけへん」と中西監督を批判。その後「チームやファンに迷惑をかけて申し訳ない」と謝罪し、同年限りで現役を引退。

この「ベンチがアホ」発言について、本人は発言自体を否定している。また、江本同様プロ野球選手から芸能界へ転進した板東英二も著書の中で「『ベンチがアホやから…』は江本の言葉を小耳に挟んだ記者による創作だ。江本はその記者に辞めさせられたようなものだ。辞めて結果が良かったから良いようなものの、もしそうでなかったらその記者は一生怨まれていただろう」と述べている。ただ、TV番組内で島田紳助に「言ってなくても、そう思ってたんでしょ?」と聞かれて、本人は「まあ思ってたけどね」と答えてはいる[要出典]。一方、この発言を現場で聞いたとされる産経新聞社記者の田所龍一は、「各新聞社の記者がロッカールームから江本を呼び出し、本人から確認を取った」、また後年江本自身から「アホやのう、お前がまだ通路の入り口で立っとると思ったから、わざと聞こえるように言うたんや。お前のせいで辞めたんやない。気にするな。」と慰められた、と産経新聞に書いている[1]

当時捕手だった若菜嘉晴と、絶えず黒い交際が噂されていた。阪神移籍当初、数年間は口ひげをトレードマークとしていたが、引退後はそり落としている。

上記のように、現役時代は幾度となくトラブルを引き起こしてきたが、実際には選手会長を務めたこともあるほど人望があり、決して一匹狼ではなかった。酒も飲まず、読書家であり、根は真面目であったという。

[編集] 現役引退、政界へ

1982年に発売された著書「プロ野球を10倍楽しく見る方法」が200万部を超える大ベストセラーとなった。1982年からはフジテレビニッポン放送野球解説者のかたわら、タレント活動も行い、映画、ドラマ、バラエティ出演、歌手デビュー、週刊誌コラムなど、1989年からは三田寛子とフジテレビ系ドキュメンタリー番組『なんてったって好奇心』の司会を務める。

その後政界入りし、1992年7月の第16回参議院議員通常選挙スポーツ平和党より、参議院比例代表選出で出馬。この年の阪神タイガースの躍進を「始めだけ」と冷評していたが、選挙運動では一転し、甲子園球場前の街頭演説では「阪神は必ず優勝する!」とアピール作戦をとった。結果、初当選。かつて清原和博が、初の日本シリーズで日本一決定を目前にして守備中に泣いていたことを指し、「人前で涙を見せるなど男じゃない」と『朝まで生テレビ』などで発言していたが、本人はこの初当選時に人目をはばからず号泣していた。

1995年、スポーツ平和党党首・アントニオ猪木の党運営上の金銭疑惑により猪木と対立して、党の副代表を辞任、離党して無所属になる。その後、自由連合無所属の会に短期間在籍(当時の無所属の会は院内会派で、政党化は1998年)。総理大臣指名選で支持した橋本龍太郎総裁たる自民党入党も検討したが、細川護熙らと1997年12月26日フロムファイブ、1998年の1月23日民政党、4月27日民主党の結成に参加。1998年7月の第18回参議院議員通常選挙に、民主党より比例代表選出で再選。1999年8月12日成立の通信傍受法案など組織犯罪対策三法案では、反対の党議に従わず退席した。

2004年に民主党を離党し、大阪府知事選挙に立候補するが、前職の太田房江に完敗。以降、政治活動からは身を引いた。

自身が代表の政治団体「エモヤンサポーターズクラブ」は現在も大阪府知事候補としての総務大臣届出資金管理団体として存続しており、政界を完全には引退していないことになる。また、法大の同窓で92年参院初当選同期の平野貞夫小沢一郎ら政治家や言論人などとも交流が続いている。

[編集] 政界引退後

2004年10月、アメリカ合衆国独立リーグであるノーザンリーグに加盟を予定していたカルガリー・フォースの特別顧問(スペシャルアドバイザー)に就任することを発表した。同球団は日本人の三沢博明と樋口直人の出資によるもので、彼らの依頼を受けた形だった。就任会見の席で2006年度からの日本独立リーグの設立構想を明かし、設立後はこちらもコミッショナーに就任することが予定されていた。しかし、カルガリー・フォースは進展がなかったことから、三沢と樋口は同年12月にリーグから運営権を剥奪されて頓挫(地元の経営者が引き継ぎ、カルガリー・ヴァイパーズとなる)。それに連動する予定だった日本独立リーグも事実上頓挫した状態になっている。

その後、2005年4月にアメリカ独立リーグのゴールデンベースボールリーグのバイスコミッショナーに就任し、このシーズンのみ同リーグに参加したジャパン・サムライ・ベアーズにも人脈面などで援助した。ジャパン・サムライ・ベアーズがシーズン後に日本でクラブチームなどと試合を行った際には監督を務めた。同年11月にはジャパン・サムライ・ベアーズは日本のクラブチームである京都ファイアーバーズとして再発足することとなり、監督兼主催者となる。この京都ファイアーバーズには上記の樋口直人も代表者として名を連ねている。

2005年堀江貴文率いるライブドアによるニッポン放送の株式所得問題が起こった際、「ニッポン放送をホリエモンが買収するようなことがあれば、同局の解説から撤退する」ことを示唆する発言が行われた。

2007年7月24日タイ王国ナショナルベースボールチームの総監督に就任。この年11月に台湾・台中で行なわれた第24回アジア野球選手権大会に出場したが、予選リーグ敗退に終わった。

[編集] 人物

落合博満を批判することが多い。2007年の日本シリーズ第5戦で、8回まで完全試合ペースであった山井大介を9回に岩瀬仁紀に交代させた落合監督の采配(2007年日本シリーズにおける完全試合目前の継投)について、翌日の産經新聞の記事では「他球団の監督だったら100%投げさせているだろう。投手も『行く』と言わなきゃ。あそこで続投させる監督は、プロ野球界全体のことを考えている監督。完全試合を達成していれば、野球に興味のない人まで関心を持ってくれるチャンスだった。それが野球人気につながっていくのに」とコメントしている[2]。また、週刊誌のインタビューでも「たとえ、あの試合を落としたとしても、ダルビッシュを使い切った日ハムに流れが変わることは絶対にない。川上を残している中日が断然有利」と述べている。 また雑誌EX大衆2009年9月号にて理想の監督は森祇晶原辰徳であると持論を述べた際、「ファンや記者を子供扱いして見下す落合監督とは対照的」とわざわざ名を挙げ批判するなどその執着は異常なまでである。

長嶋茂雄への敬愛の念から野球選手を志した経緯もあり、『週刊プレイボーイ』(集英社)や『宝石』(光文社)誌上の連載を担当した際には大体において巨人びいきの論調に終始していた。長嶋監督の後期に足手まといになりつつあった桑田真澄清原和博の2人に対して口を極めて罵倒している。

現役時代、敬遠球を安打にされた私怨から、元ヤクルトの若松勉を酷評していた時期がある。ただし、後年著書の中では打撃技術と貪欲さを絶賛している。

江川卓に関しては当初は擁護していたが(シーズン成績が第2位の西本聖沢村栄治賞が授与されたのは不自然だ等)、ある時期から過激な批判派に転じている。江川氏が長島監督の後任の候補として名前が挙げられた際には「巨人が常勝軍団から転落したのは江川のせい」(『宝石』)とまで断言している。

とくダネで北京五輪野球日本代表を率いた星野仙一について「星野さんは現場、実戦から長く遠ざかっていた。実際、パリーグの試合なんてほとんど見てないでしょ。」と発言した。

また、前述の通り東映で芽が出ない状態の時に、当時南海の監督であった野村克也が”あのひょろっと外人の様に背が高いピッチャー”と江本の事を目をかけたことが、南海へのトレードに繋がり、江本自身大成功を収めたことから、今でも野村の事を師と仰いでおり、オフの時を中心にトーク対談も少なくない。

自著(十倍シリーズ)の中で阪神時代古沢憲司と組んで賭けマージャン(本来なら違法)に手を染めていたことを告白している。古沢がミスを犯した瞬間からすっぱりと足を洗ったという。

金銭に関しては淡白な性格の持ち主とされており、契約更改の席で賃上げ闘争を行ったことは殆んどないと述べている。かつてラジオ番組(「プロ野球 ズバッとど真ん中」、1986年)の中で共演者の田丸美寿々に対し薄給(月給3万円ほどだったという)の東映時代を楽しそうに回想したことがある。

1994年野茂英雄投手がMLBに行くと騒がれた時、スポーツニュース番組で7,8人の解説者が本問題について論じている中、「だって、あいつは肩壊してもうダメだから、もう通用しないからアメリカに行くんですよ」と発言した。

趣味はバロック音楽鑑賞。好きな歌手は、親友でもあった大塚博堂。知人を介して知り合い、大塚の生前に、新宿のロフトで一緒にコンサートをしたこともある。また、大塚のメモリアルイベントに、何回か出演している。

[編集] 年度別投手成績

  • 表中の太字はリーグ最多数字

チ|ム 登板 完投 完封



セ|ブ 勝率 投球回

















W
H
I
P
1971 東映 26 0 0 0 0 4 - .000 60.2 61 4 35 29 34 5.02 - 4.30 1.58
1972 南海 38 14 1 0 16 13 - .552 237.1 205 15 127 115 80 3.04 6 4.36 1.40
1973 34 12 5 0 12 14 - .462 217.1 167 17 96 95 66 2.74 5 3.93 1.21
1974 34 9 0 0 13 12 0 .520 216.2 185 19 125 116 76 3.15 13 4.82 1.43
1975 31 13 3 0 11 14 0 .440 207 185 18 83 109 68 2.96 11 4.74 1.29
1976 阪神 38 8 2 2 15 9 0 .625 239.2 239 27 75 115 100 3.75 10 4.32 1.31
1977 36 10 3 0 11 14 1 .440 223.2 202 21 103 129 92 3.70 6 5.19 1.36
1978 56 2 0 0 11 13 11 .458 150.2 124 16 79 103 52 3.10 2 6.15 1.35
1979 47 5 3 0 12 12 6 .500 178.2 181 21 83 141 87 4.37 18 7.10 1.48
1980 31 4 0 0 8 15 0 .348 160 168 28 73 108 85 4.78 19 6.08 1.51
1981 24 1 0 0 4 6 1 .400 87 77 11 40 70 34 3.52 - 7.24 1.34
通算成績 395 78 17 2 113 126 19 .473 1978.2 1794 197 919 1130 774 3.52 - 5.14 1.37

[編集] タイトル・表彰

  • 最多完封1回(1977年)
  • オールスター出場4回(1974年、1976年、1977年、1979年)

[編集] 背番号

  • 49(1971年)
  • 16(1972年~1975年)
  • 29(1976年~1981年)

背番号について江本は「東映時代は四苦八苦(49)、南海に行って色男(16)、阪神ではニクイ奴(29)」とコメントしている。

[編集] プレースタイル

通算24ボーク、1イニング3ボークは日本タイ記録。1973年のシーズン10ボークも、2003年に広島東洋カープクリス・ブロックに抜かれるまで日本記録であった。記録の背景にはパ・リーグが1973~74年の2年間、ボークの取締りを極端に強化したことが大きく影響している。

王貞治が現役時代に苦手としていた投手であり、通算対戦打率は約1割と、50打席以上の対戦がある投手の中では1位。被本塁打はわずかに1本。これは満塁ホームランで、いつもと違う攻めを試した結果であったという(自著『おれ、紆球曲球』)。

球速は高校時代は150キロを超えていたと自称するが、プロ入り後すぐに速球派から技巧派へ転向している(自著『プロ野球を20倍楽しむ方法』)。変化球に関しては「エモ・ボール(魔球)はフォークのスッポ抜け」(前著)、「フォークボールは高校時代から得意にしていた」「エモ・ボールは一種の都市伝説のようなもので、実際には投げていない」(自著『プロ野球 勝てる監督・使える選手』)、「ストレートとカーブしか投げられなかった」(近藤唯之『引退そのドラマ』)といったぐあいに、微妙に発言の内容を変えている。

高橋慶彦の連続試合安打を阻止した投手である(1979年)。実は高橋慶は日本記録を更新した試合で負傷して長期のリタイアを余儀なくされており、復帰戦で対決した江本は「ボールに目が慣れていない」と判断、速球で押し通す配球で無安打に抑え込んだという(近藤唯之『運命を変えた一球』)。

投手としてはバッティングが良く、ロッテの金田正一監督から批判された時に金田自身の実績を逆手に取って(金田は投手としてのホームラン最多記録保持者)反論したことがある(自著『プロ野球を20倍楽しむ方法』)。

[編集] エピソード

著書において、「法政大学には片手で数えられる程しか通わなかったが卒業できた。」と実際には卒業できず中退であるにもかかわらず、卒業したと思わせる ような記述がある。また、別の著書では「法政大学は東京六大学の底辺」などと、大学に対する中傷に近い記述をしている部分もある。熊谷組在職中には、公共事業の入札に参加した事もある(『おれ、紆球曲球』より)。

[編集] 著書

[編集] 出演作品

[編集] 映画・ドラマ

[編集] 現在の出演番組

[編集] CM出演

[編集] ディスコグラフィー

  • あぶさん台詞水島新司)c/w 暖炉(1973年)
  • 恋する御堂筋(1979年)入江マチ子とデュエット
  • 霜降り橋まで(1980年)  
  • アカシヤの面影(1982年)
  • あなたまかせの夜(1983年)
  • 素敵なジェラシー(1987年、アルバム)

[編集] 脚注

  1. ^ 『やっぱり「書いてよかった」』産経新聞2009年4月15日8時25分配信
  2. ^ 落合監督「言わせておけばいい」山井交代に賛否両論 産経新聞2007年11月2日22時11分配信

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月9日 (月) 20:54 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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