江草隆繁
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| 江草隆繁 | |
|---|---|
| 1909年9月 -1944年6月15日 | |
| 渾名 | 艦上爆撃機の神様 |
| 生誕地 | 広島県芦品郡有磨村 |
| 所属政体 | |
| 所属組織 | 大日本帝国海軍 |
| 軍歴 | 1930 - 1944 |
| 最終階級 | 海軍大佐 |
| 戦闘/作戦 | 太平洋戦争 |
江草 隆繁(えくさ たかしげ、1909年9月 - 1944年6月15日)は、大日本帝国海軍の海軍大佐。海軍兵学校58期。広島県芦品郡有磨村(現・福山市芦田町)生まれ。「艦上爆撃機の神様」として知られる。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 海軍兵学校
江草姓は広島と岡山県の県境に多く見られる姓で戦国時代の豪族の家系。旧制府中中学校(現・広島県立府中高等学校)を第1期生として卒業。1925年海軍兵学校に合格するが翌1926年、入校直前の身体検査で結核と誤診され入校は翌1927年、昭和に入って初めての生徒として海軍兵学校の門をくぐる。1930年、機体・発動機とも初めて日本人の手になる「九〇式艦上戦闘機」が完成。同年11月に卒業した58期生たちの空への憧れを駆り立て、多くの者が飛行機搭乗員となった。江草も重巡洋艦「羽黒」を1年で退艦。1933年、飛行科学生を経て同年11月館山海軍航空隊に配属され、艦上爆撃機の操縦訓練を受ける。中尉に昇進後、1934年源田実大尉の研究により正式採用された急降下爆撃の訓練をさらに受ける。空母「龍驤」に配属され、のちの「九九式艦爆」の原型・「九四式特殊爆撃機」で訓練が行われたが、急降下爆撃の訓練は過酷を極め、荷重と気圧の激変による航空障害などに悩まされる、命懸けのものであった。
1936年11月、大尉となり佐伯航空隊分隊長として南京爆撃に参加。1937年12月、空母「龍驤」分隊長となり中国の沿岸封鎖作戦と発艦訓練に当たる。隊内の江草に対する高い評価に海軍戦闘機隊のエースといわれた岡村基春中佐が「妹の結婚相手は江草しかいない」と惚れ込み、江草は岡村の妹・聖子と1939年10月、大西瀧治郎夫妻の媒酌で結婚式をあげた。同年11月、横須賀航空隊(横航)分隊長兼教官となり、陸上勤務につく。寡言実直な人柄に、部下の全てが心酔したという。また指導の傍ら急降下爆撃法の研究に没頭する。1941年8月、空母「蒼龍」の艦爆隊長となり、真珠湾攻撃のための猛特訓を積む。
[編集] 真珠湾攻撃
1941年12月8日、真珠湾攻撃では嶋崎重和少佐を総指揮官とする第二次攻撃隊の急降下爆撃隊78機を指揮。嶋崎少佐直率の水平爆撃隊54機、進藤三郎大尉率いる制空隊35機とともに、第一次攻撃隊の機影が姿を消した直後の真珠湾上空に姿を現す。あたりは敵の高角砲弾が撃ち上げる弾幕でかすんでいたが、濃緑色の地に虎の縞模様の入った江草指揮機は大胆にも4000メートルという危険な高さから、弾幕を突き切って大編隊のまま湾上空を大きく旋回し一巡。これは第1次の戦果確認と第2次の攻撃目標を見極めるための冷静かつ沈着な行動だった。黒煙に覆われた湾内は目標を視認するのもままならず、敵の対空砲火や迎撃してくる戦闘機も増大。「トツレ」(突撃準備隊形つくれ)の下令とともに、急降下爆撃隊は第1次攻撃を免れた戦艦「ペンシルベニア」、湾外へ逃げようとした戦艦「ネバダ」などに襲いかかった。江草隊はほぼ1時間攻撃を繰り返したが、指揮機に積んでいたのは空母爆撃用の250キロ爆弾であり、米空母の不在で使用することなく「蒼龍」に帰還している。第一次攻撃隊の未帰還9機という数字は真珠湾攻撃が完全奇襲であった事の証明だが、第二次攻撃隊の未帰還は20機と、その後の米軍の防御が立ち直り始めたことを証明している。帰還後江草は「敵空母は必ずこの近辺にいますよ。探し出して叩きましょう」と、山口多聞司令官に二次攻撃を要求。山口は南雲司令部に信号で催促したが、南雲司令部は第1撃止まりにしてしまったといわれる。
[編集] セイロン沖海戦
1942年1月、江草は再び「蒼龍」に乗り太平洋を南下。赤道を越えた機動部隊は1月〜2月にアンボンを攻撃、2月に豪州ポートダーウィンを攻撃した。同月南雲機動部隊に参加。ジャワ沖掃蕩作戦では走行中の米・英・蘭の連合軍の艦船を次々に沈めた。3月5日の航空爆撃では在泊20隻をほとんど撃沈、連合軍は白旗を揚げた。この時期の南雲艦隊は太平洋狭しと暴れ回り、戦えば必ず勝った。とりわけ艦隊の中心である空母群とその航空部隊はめざましい活躍を見せた。4月5日の南雲機動部隊によるインド洋作戦時、セイロン島沖にて英重巡洋艦「ドーセットーシャー」同「コンウォール」を攻撃した際には、九九式艦上爆撃機での急降下爆撃の命中率は実に87%に及んだ。4月9日には英空母「ハーミス」をこれまた82%に及ぶ命中率で沈没させた。これほど正確無比な爆撃は稀有、あるいは未曾有ともいわれ、太平洋戦争中に行われた最良の航空攻撃とも評価される。
[編集] ミッドウェー海戦
このように南雲機動部隊は、開戦から4ヶ月、日本の破竹の快進撃を支えた。同年6月のミッドウェー海戦では高速を誇る名機「彗星」を「蒼龍」に2機搭載したといわれるが、偵察を重視した江草の意に反し、南雲司令部は偵察を軽視し「彗星」出撃命令は降りなかった。経験の浅い他の偵察機が敵空母の位置を大きく見誤り、日本艦隊は米軍機の猛攻撃を受けた。この海戦で日本海軍はそれまでにない大敗北を喫した。「蒼龍」も攻撃を受け、江草は負傷、江草艦爆隊はこの海戦で遂に出撃していない。これに関してアメリカ海軍歴史センター所長・ロナルド・H・スペクター博士は「江草艦爆隊の(急降下爆撃機)36機がもし出撃していたら、アメリカ空母に多大な損害を与えたことであろうと思います。アメリカの戦闘機は、緒戦の段階では日本のものより力が劣っていたと思います」と述べている。戦史研究家・妹尾作太男は「仮に相討ちに終わったとしても、日本海軍はとても強くて倒せないという感情がアメリカ側を支配し、ガダルカナル島へのアメリカ軍の進出は、1年間は遅れただろう。戦局の局面全体が大きく変わったことは間違いない」と述べている。 しかし現実として無敵を誇った南雲機動部隊はただ一度の戦いで壊滅し、日本海軍はこの後ついにこれに勝る航空戦力を揃えることが出来ないまま、敗戦を迎える。
[編集] あ号作戦
燃えさかる「蒼龍」からあやうく逃れ、一命を取りとめて帰還した江草は1942年7月、ふたたび横須賀海軍航空隊勤務となり輸送任務に従事した。ハワイで空母を取り逃がしたことを非常に悔やんでいたといわれる。1943年7月、基地航空部隊として再編成された第一航空艦隊内に開隊された第五二一航空隊の飛行隊長に着任。新鋭機「銀河」の改良と実用実験・及び搭乗員の養成に尽瘁する。「銀河」は守勢挽回の切り札ともいうべき画期的な性能を備えていた。守勢に立たされた日本海軍は、この頃マリアナ諸島で米軍に対して最後の組織的海・空戦を挑むため「あ号作戦」を計画。戦局挽回の切り札ともいうべき大作戦の中心戦力こそ、江草が率いる基地航空部隊五二一航空隊、「銀河」を主力機とする通称「鵬部隊」だった。この年の秋、江草は中佐昇進が決まり、地上勤務に回ることも可能だったが、自ら改良に心を砕いた「銀河」を実戦に役立てることに最後の情熱を傾けた。しかし「銀河」は小型大馬力を実現しようとした誉エンジンなどに不良箇所が多く、操縦も難しく部下の訓練は至難を極めた。
1944年4月〜5月、五二一空は機材整備、乗員訓練とも未完のまま、当時本土防衛のための最後の防波堤といわれたグアムに到着。6月に入るとペリリュー島が連日米機動部隊の空襲を受ける。同月11日〜12日、グアム、テニアン、サイパンが攻撃される。13日、総計133隻に上るアメリカ艦隊がサイパン島を砲撃、15日には米軍はサイパンに上陸した。同日、日本海軍は「あ号作戦」を発動、「鵬部隊」に出撃命令が下令された。同日夕刻、江草指揮官機を先頭に「銀河」8機はヤップ島を発進、サイパン島西沖の米空母群を襲う。が、既に制空権を手中に収め、高性能レーダーと近接信管を装備していた米艦隊の対空砲火は熾烈を極め、8機はサイパンの夕焼けに散華した。江草隆繁、享年34であった。1945年1月、二階級特進にて大佐。
米空母「サンジャシント」の戦闘報告には「奇襲は成功したが、日本軍の勇敢さにもかかわらず、江草の決死行動はむなしく撃退された。このようにして、日本の、そして恐らく世界の指導的な海軍急降下爆撃機パイロットであった江草が、友軍にも敵軍にもほとんど気づかれることなく、死んでいった。彼は、立派なサムライならばだれでもやるように、戦闘で死んだ。彼が達成した偉業は、現在でも航空・海上戦史の中で比べるものがなく、特別の地位を占めている。彼の死は太平洋戦争の最後の問題を象徴していた。つまり練達の勇士の時代が、大量火器の時代に取って代わられたということであった」と記述されている。
翌7月6日〜7日、サイパンの日本軍は玉砕し「B-29」がサイパンに到着。18日に東條内閣は総辞職し、11月からサイパン島を飛び立ったB-29による日本本土空襲が始まった。
英軍事・海軍関係のノンフィクション作家・ピーター・C・スミスは、第二次大戦の航空戦史・『爆撃王列伝』で、輝かしい功績を残した急降下爆撃のエース7人を挙げ、そのトップに江草を紹介している。
江草の墓は、高知市筆山に義兄・岡村基春の墓と並んで建っている。
[編集] 略歴
- 1933年11月 - 館山海軍航空隊
- 1934年10月 - 佐伯航空隊
- 1936年11月 - 佐伯航空隊分隊長
- 1937年12月 - 空母龍驤分隊長
- 1939年11月 - 横須賀航空隊分隊長兼教官
- 1941年8月 - 蒼龍飛行隊長(爆撃)
- 1942年7月 - 横須賀航空隊教官
- 1942年9月 - 横須賀航空隊飛行隊長
- 1943年8月 - 第521航空隊飛行隊長
[編集] 参考文献
- 二つの時代 夫は艦爆の神様と言われて(江草聖子著、光人社刊、1983年10月発行)
- 艦爆隊長江草隆繁 ある第一線指揮官の生涯(上原光晴著、光人社刊、1989年発行、ISBN 4769804288)
- 艦爆隊長の戦訓 勝ち抜くための条件(阿部善朗著、光人社刊、2003年9月18日発行、ISBN 4769823959)
- 良い指揮官 良くない指揮官(吉田俊雄著、光人社刊、1996年発行)
- 爆撃王列伝(ピーター・C・ スミス著、妹尾作太男訳、光人社刊、1987年発行)
- 太平洋戦争海戦全史(新人物往来社戦史室、新人物往来社、1994年発行)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
最終更新 2009年11月8日 (日) 11:55 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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