池上電気鉄道

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池上電気鉄道(いけがみでんきてつどう:以下・池上電鉄)は、現在の東京急行電鉄(東急)池上線に相当する路線を運営していた鉄道事業者である。

目次

[編集] 概要

[編集] 発足

東京都大田区池上にある日蓮宗の大本山池上本門寺への参詣輸送のために設立された。構想自体は古く、1912年に免許申請が行われている。1914年4月18日に免許が認可され、会社も1917年6月24日に成立している。しかし、発起人は信用力に乏しい者が多く、満足に資金を集められないまま時間だけが過ぎていた。泡沫会社として免許が失効するのも時間の問題と見られていたが、貴族院議員の高柳淳之助が支援を表明する。高柳は一般の資産家から資金を集め、資金繰りに行き詰まった企業を支援し再生させる事業(現在で言えば企業再生ファンド)を行っており、池上電鉄も高柳の傘下で再生されることになった。

池上電鉄が当初免許を受けたのは目黒 - 大森間の路線で、大森側から線路の敷設を計画した。しかし、大森付近で用地買収が難航したため、その支線として新たに池上 - 蒲田間の免許を受けて開業させることとし、ついに1922年10月6日に支線と位置づけられていた区間が開業する。

新製する電車の部品調達が開業に間に合わないことが判明すると、高柳は静岡県の駿遠電気(現在の静岡鉄道)に直談判し、中古の電車2両を調達し開業に間に合わせた。開業直後に開かれた本門寺のお会式に多くの乗客が詰め掛け、順調な滑り出しを見せた。

[編集] 高柳淳之助による私物化

しかし、その実態はひどいものであった。軌道はどう見ても仮設の単線、ターミナルの蒲田駅も調達してきた電車の1両を待合室代わりに使っていた。高柳は池上電鉄の資材調達を自らの会社を経由して行い、投資家から集めた資金の多くが高柳の懐へと流れていった。高柳が直談判で調達した廃車寸前の中古電車も、新品に近い価格で売却されていた。資金は不足し、通常なら都心に近い目黒から建設するところを、建設費のかかる目黒側を避けて建設せざるを得なかった。

高柳はさらに延長工事の資金を集める名目でダミー会社を多数作り、池上の実態を知らない地方の投資家から資金を吸い上げ続けた。実際に池上電鉄の延伸に使われた資金はわずかで、1923年5月4日にようやく雪ヶ谷駅(後に調布大塚駅と合併して雪ヶ谷大塚駅、現在の雪が谷大塚駅)まで開業させるのが精一杯で、乗客は伸びなかった。洗足池の水面利用権を得て観光開発を行うなど乗客の増加を図ったが、わざわざ省線から乗り換える不便が嫌われ、乗客の増加につながらなかった。

このような中、ついに私財の蓄積に奔走する高柳の実態が明らかになり、世間から手厳しい非難を浴びる。高柳は池上電鉄から手を引かざるを得なくなった。なお、高柳と当時の池上電鉄については『“虚業家”高柳淳之助による似非・企業再生ファンドの挫折 ―ハイ・リスクの池上電気鉄道への大衆資金誘導システムを中心に―』(小川功)という論文[1]に詳しくまとめられている。

[編集] 川崎財閥傘下へ

高柳に私物化されていた池上電鉄は、当時京成電気軌道や京王電気軌道(それぞれ現在の京成電鉄京王電鉄)などを傘下におさめていた川崎財閥に入ることになった。同財閥は都心への連絡線を建設し、まっとうな経営をすれば再建できると判断し、鉄道部門の番頭格であった後藤圀彦を専務として送り込んでいる。しかし、高柳による粉飾決算が判明し、足踏みをしているうちに1923年11月1日に、目黒蒲田電鉄(以下、目蒲:現在の東京急行電鉄)が池上電気鉄道の計画と完全に並行する目蒲線(蒲田駅 - 目黒駅)を開業させた。これにより目黒への乗り入れの計画を変更せざるを得なくなり、やむなく起点を五反田駅とした。

[編集] 目黒蒲田電鉄との合併

1928年6月17日に五反田駅までの全線が開通した。五反田駅まで開通したことで乗客数は増えたが、建設費の償還が重くのしかかることとなった。しかも池上電気鉄道の地盤は目蒲に封じ込められた形となり、これ以上の乗客の伸びは期待できなかった。そのため、勢力拡大を目指して五反田駅より先、京浜電気鉄道(現・京浜急行電鉄)の青山線(未成線)に呼応する形で白金・品川方面への延伸計画を立てた。五反田駅が山手線を乗り越えるような高架駅となっているのはこのためである。

しかし、小川平吉鉄道大臣による免許ばらまきの一環で、京浜電鉄が東京地下鉄道への乗り入れを狙った免許を取得。これは後年、失効しているが、池上の地盤を侵食するものであったため池上と京浜の関係は一転して悪化。結局五反田から先の延長は中止されてしまう。

なお、この延長計画時に導入された車両はデハ100形(後の目蒲モハ120形)で、2年後の1930年に増備されたデハ200形(同・モハ130形)とともに大東急発足後もデハ3250形として運用されていたが、制御機器が英デッカー (EEC) 社製で目蒲車と技術的な互換性がないこと等から、終戦後に国電の戦災損傷車等を大量購入したのと引き換えに1949年までに京福電気鉄道(福井地区、現・えちぜん鉄道)、庄内交通1975年に鉄道廃止)、静岡鉄道に譲渡された。

白金延長は頓挫したものの、池上電気鉄道は沿線の拡大のため、免特許を次々と申請する。当初の構想通りに大森への併用軌道による延長もその一つであったが、道幅の狭い道路に軌道を敷設することを東京市に反対され挫折している。唯一実現したのが雪ヶ谷 - 国分寺間の敷設計画で、1928年10月6日新奥沢線として一部区間(雪ヶ谷 - 新奥沢間1.4km)が開業した。しかし、これは目蒲の地盤を侵略することとなり、目蒲の総帥である五島慶太はあらゆる手を使って潰しにかかる。

一向に経営が上向かないのに拡大路線をとり続ける後藤らに対し、川崎財閥は不信感を持ちつつあった。また、川崎財閥は鉄道への投資から中国への投資に興味を移していた。これらのことを知った五島は、「目蒲と池上電気鉄道の無駄な競合は避けるべきだ」と川崎財閥の川崎肇に直接掛け合い、一夜にして池上電気鉄道の株を譲り受けることに成功。ついに1934年10月1日、池上電気鉄道は目蒲に吸収合併され、同社の池上線となった。この池上電鉄こそが「強盗慶太」と揶揄された五島の乗っ取り例の第一号であったようである。これにより後藤ら川崎財閥の出身者は追放されている。後藤は川崎財閥の仕打ちに落胆し、失意のうちに去っていったという。また、両社の駆け引きの象徴的存在の新奥沢線は合併後の翌1935年に廃止されている。

このように、目蒲と対立した経緯からか、戦後も池上線は東急社内でも冷遇される傾向があった。乗客数もさほど伸びなかったことから、冷房車や新車の投入などの近代化投資には消極的であったといってよい[2]。都心近くを走りながら、今日に至ってもどこかローカル線のようなのんびりとした雰囲気を保っているのも、これが一因といえよう。

東急の社史にまで、「池上電気鉄道時代は沿線の宅地開発事業を行わず、事業といえば洗足池にボートを浮かべる程度であった」という趣旨のことを書かれているありさまである。この記述については、高柳淳之助による池上の私物化に対する批判と、都市開発で成功した東急の矜持を見て取ることもできよう。

[編集] 保有路線

  • 本線:蒲田 - 池上 - 五反田間11.0km
  • 新奥沢線:雪ヶ谷 - 新奥沢間1.4km

[編集] 脚注

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  1. ^ 滋賀大学経済学部研究年報Vol.11 P.55 - 78
  2. ^ 池上線向けの新車はデハ200形以降、1992年1000系1024編成まで62年間登場しなかった。

[編集] 関連項目

最終更新 2009年11月5日 (木) 00:10 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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