池田大作

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池田 大作
生誕 1928年1月2日(81歳)
日本 東京都大田区
職業 宗教家作家
  

池田 大作[1][2]いけだ だいさく1928年1月2日 - )は、宗教家教育者作家詩人

日蓮仏法信仰し、広宣流布を推進する宗教法人創価学会の名誉会長[3][4][5][6]、SGI(創価学会インタナショナル)会長、創価学会元会長(3代目)、公明党創設者。

山本 伸一(やまもと しんいち)、法悟空の筆名で作家活動もしている。

目次

来歴

入信以前

1月2日 東京府荏原郡入新井町大字 不入斗<いりやまず>(現:東京都大田区大森北[7][8][9]海苔業者[10][2]の父、子之吉(ねのきち)と母、一(いち)の間の第6子(5男)として生まれる[11][12]
3歳頃、1923年関東大震災で大森の地形が変わったため、蒲田(羽田町大字糀谷 こうじや)3丁目に移転[11][12][7]
4月 羽田第二尋常小学校(現:大田区立糀谷小学校)に入学。生まれつき体が弱く、栄養失調で3・4回死にかけたこともある。
父がリューマチで寝込むようになったため、家業の海苔作りを手伝う。兄たちの出兵で家計が苦しくなったため、朝夕の新聞配達もする[13]
糀谷2丁目に移転[7]
3月 尋常小学校卒業の後、兄が勤めていた「新潟鐵工所」に就職[9]
4月(?)に高等小学校(後に「萩中国民学校」と改称)に進学[13][10]
少年・青年時代に多くの在日コリアンと出会い、父から韓国語を習う[14]
12月8日 太平洋戦争が始まる。
蒲田(糀谷)の家が強制疎開のため壊され、同区馬込町(後に大森区→大田区)の叔母の家に住む。
5月24日 実家が空襲により消失。蒲田区森ヶ崎(現:大森南)に移転[7]
8月15日 6度目の結核による肋膜炎を患う。茨城県の結核療養所へ入院するための順番待ちをしていた中で終戦を迎える[10]
9月 新橋にある「昭文堂印刷」で文選工をする傍ら、私立の「東洋商業高校」(現、東洋高等学校)夜間部の2年に編入学する[7]
東京都大田区森ヶ崎にある「協友会」に加入[15][16]
10人余りほどの青年たちと国家や人生や天皇制などを議論する「郷友会」という研究会(読書会)を作り、学者や労働組合の指導者を訪ねたりする。
高校卒業と同時に「昭文堂印刷」を退社。半年後、京急蒲田駅裏にある中小企業の組合「蒲田工業会」(現:「蒲田工業協同組合」)に書記として勤務[17]

入信以降

3月、東洋商業学校を卒業。
8月14日 小学校時代の同級生の女性から「仏教哲学のいい話がある」と誘われ、「協友会」の仲間で小学校の同級生の二人と共に蒲田(大田区北糀谷)の創価学会員宅で行なわれた座談会に出席。戸田城聖(4年後に創価学会の第2代会長となる)の御書講義を受け、教学部長の折伏を受けて、入信を決意する。池田は後に、当時の心境を「よし、この立派な(戸田)会長先生のもとであるならば、何でこの身を惜しもうか、学会のためにつくそう、広宣流布のために、凡愚の身であるがつくさせて頂こう」と決心した、と述べている[18]
8月24日 小平に付き添われ、中野区昭倫寺(当時は「歓喜寮」)で創価学会に入信手続きを行なう[19][16]。入信したことで、家からは勘当状態になる。
「大世学院」(後の東京富士大学短期大学部)の政経科夜間部に入学。
1月3日 座談会に誘われた女性の母親に、戸田を紹介してもらい、戸田が経営する出版社「日本正学館」に入社[10]。少年雑誌『冒険少年』(同年8月に『少年日本』と改題)の編集に携わる。
大森のアパートで一人暮らしを始める[7]
5月 「日本正学館」編集長に就任[7]
秋 戸田から自分が勉強を教えるからやめろと勧められ、「大世学院」を2年で中途退学する[20][21]
10月 「日本正学館」の倒産により、同じく戸田が経営する、金融業「東京建設信用組合」に日本正学館の全社員と共に入社。給料がまともに出ず苦しい生活を送る。
8月22日 「東京建設信用組合」が大蔵省から営業停止を命じられる。戸田は事業破綻の影響が及ばないように創価学会の理事長職を辞任。
10月 戸田が新しく設立し、顧問となった、手形割引を主業務とする金融会社・「大蔵商事」(現:「日章」)に移動。
11月27日 営業部長に昇格し[13]、業績を上げる[22]
5月3日 戸田城聖が創価学会の第2代会長に就任。
5月 蒲田支部大森地区の地区委員に任命される。
7月 戸田会長直属の青年部(男子部)が結成され、第4部隊の幹事長に任命され、間もなく第1部隊長になる[16]
2月9日 戸田会長の信頼を得て、創価学会青年部の教育参謀に任命される[20]
3月 参謀室長となる。青年部1万人総登山や、体育大会などの斬新な企画を立てる。さらに渉外部長に就任し、対外的交渉を行う。
5月3日 砂糖卸会社重役を勤める戦前からの有力会員の次女、白木香峯子と結婚[7]目黒区三田に住む[23]
8月27日 創価学会は日蓮正宗の信徒団体(法華講)として、東京都知事から宗教法人の認証を得る。
11月25日 25歳のとき長男の誕生を期に、正式に「太作(たいさく)」から「大作(だいさく)」に改名[7][24]。当時は創価学会の文京支部長代理の地位にあった[9]
3月30日 青年部参謀室長に任命される[7]。同日 設置された「情報部」[25]の最高顧問ともなる[7]。この頃、「大蔵商事」の仕事を離れる[7]
12月3日 新設された「渉外部長」を兼任。
3月11日 北海道小樽市の小樽公会堂における日蓮宗身延派と創価学会との法論において司会を務める。身延派を邪教と批判し、日蓮正宗の正当性を主張。
7月 第4回参議院議員通常選挙において、大阪地方区の選挙参謀を担当し、元プロ野球選手白木義一郎を初当選させる。
7月4日 参議院大阪地方区の補欠選挙が行われた際、渉外部長として6万人の創価学会員に戸別訪問を指示したとする公職選挙法違反の疑いで逮捕され、大阪東警察署大阪拘置所に15日間勾留される(「大阪事件」)。
7月29日 創価学会幹部45人と共に起訴され、検察官より禁固10か月の求刑を受ける[26]。ただし、後に裁判で無罪が確定する。
3月1日 日蓮正宗の総本山大石寺の大講堂落慶法要の後、戸田会長から後継指名がなされたとされる。
4月2日 急性心衰弱により、戸田会長が他界享年58)。4月28日の「学会葬」で司会を務める[27]
6月 自ら新設した総務を青年部参謀室長と兼任[27]
6月2日 第5回参議院議員通常選挙において選挙参謀を務め、全国で249万票を獲得、無所属で立候補した創価学会員6人を当選させる[27]
6月30日 同じ参謀室の北条浩龍年光と共に「創価学会」の理事に就任。青年部参謀室長からは降りる[27]

会長就任以降

5月3日 戸田の没後3年を経て、32歳の若さで創価学会第3代会長に就任。戸田の7回忌までに300万世帯の信徒獲得と邪教撲滅[28][29]を目標に掲げる。(この当時140万世帯だった創価学会は、池田の指導の下、10数年後には、公称800万世帯[30]を超える国内最大規模の宗教団体となる)。
10月 南米を訪問し、現地の創価学会員を激励。
5月3日 創価学会の「文化部」を「文化局政治部」に挌上げし、「文化局」内に「政治部」を設置[7]
8月24日 最初の『会長講演集』を発刊。
11月27日 「文化局」内の「政治部」を解消し、創価学会本部の外郭団体として「公明政治連盟」を発足(委員長:原島宏治、副委員長:北条浩、書記長:龍年光[7]
1月25日 1957年の「大阪事件」に関する裁判で、関わった創価学会員には罰金や公民権停止などが課せられたが、池田が戸別訪問を指示したとの事実は全く存在しないとして無罪判決が言い渡される。
10月30日 「EUの父」と呼ばれるリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーと会見。
5月3日 第27回本部総会において、政党の創設と衆議院進出、ならびに正本堂の建立・寄進の計画を発表。
宗門から法華講総講頭に任命される。
11月17日 「公明政治連盟」を改組して政党、「公明党」を結成(委員長:原島宏治、副委員長:辻武寿、書記長:北条浩)。結党宣言で、日蓮の『立正安国論』を引用し、「『王仏冥合』・『仏法民主主義』を基本理念とする」旨を謳う。
1月1日 『聖教新聞』紙上で小説『人間革命』の連載を始める。
1月29日 第31回衆議院議員総選挙で公明党が25議席を獲得し、衆議院に初進出。
9月8日 第十一回創価学会学生部総会における講演で、中華人民共和国正式承認と日中国交正常化、中国の国連加盟などを提言。
前年12月に行われた 第32回衆議院議員総選挙の直前に発刊された、創価学会と公明党に対する批判本に対して、公明党議員らが出版・流通を妨害したとされる「言論出版妨害事件」に関し、年明けの国会で野党議員から証人喚問の要請がなされる(公明党と自民党の反対により、実現には至らなかった)。
5月3日 創価学会第33回本部総会において、「言論妨害という意図はまったくなかったが、結果として、妨害と受けとられ、関係者に圧力を感じさせ、世間にもご迷惑をかけてしまったことは、まことに申し訳ないと残念に思っております」[31]と発言した。
4月1日 創価大学を創立。
イギリスの著名な歴史学者アーノルド・J・トインビーと対談。
4月1日 アメリカ・カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のディクソン講堂にて「二十一世紀への提言」と題し講演。
5月29日 夫人や幹部らと共に中国を初訪問。
9月 ソ連を初訪問し、アレクセイ・コスイギン首相と会見。「中国を攻撃する意思はない」との答えを引き出し、それを中国の首脳に伝える承諾を得たという。
10月29日 平和・文化の推進のため海外での活動期間が多くなっているという理由で創価学会の代表役員を辞任し、北条浩が代表役員並びに理事長に就任。
11月 『中国の人間革命』(毎日新聞社刊)を出版。(中国の文化大革命については、広い国土ゆえに生じる地域格差がある国を巨大な官僚機構が統治することによる弊害であったとしている。文革解放後の中国についての「発展性」については高く評価した)。
12月5日 再び訪中し、周恩来首相と会見した。
12月29日 作家松本清張の仲介により、日本共産党の宮本顕治委員長と松本の自宅で密かに会談。創価学会と日本共産党とが互いの存在を認め、相互不干渉を約束する、いわゆる「創共協定」を結ぶ(発表は約7ヶ月後の翌1975年7月)。
創価学会本部総会で、「七つの鐘」構想を発表。昭和54年(1979年)もしくは昭和65年(1990年)までに広宣流布の総仕上げを目標に掲げた。
1月1日 創価学会本部において本尊の開眼入仏法要を行う[32][33]
1月 創価学会の世界的組織、SGI(創価学会インタナショナル)の会長に就任。
この頃から全国に文化会館等の施設を建設[34]
1月9日 イェール大学客員教授だった加藤周一とニューヨークで会談。
創価学会の青年部が中心になって集めた廃絶・原水爆禁止の1千万人の署名ニューヨーク国連本部で事務総長と会見し、手渡した。
池田と創価学会員との関係を報じた月刊誌『月刊ペン』に対し、名誉毀損に当たるとして創価学会及び相手とされた創価学会員らと共に月刊ペン社の発行人と編集長隈部大蔵[35]刑事告訴詳細は月刊ペン事件を参照
8月 宮本委員長から「創共協定」を遵守するようにと、会見を申し込まれるが、拒否。公明党からの異論が大きくなり、「創共協定」は死文化する。
1月15日 第9回教学部大会で「仏教史観を語る」と題する講演を行う。寺院否定論など、独自の教義を打ち出し、創価学会独自の経本を作る(「昭和52年路線」と呼ばれる)。これに反発した宗門内の若手僧侶が創価学会の教義逸脱を正すという活動を始める。
6月30日 「教学上の基本問題について」と題し、教義逸脱を是正することを『聖教新聞』紙上で表明する。
9月3日 『聖教新聞』が本尊模刻の事実を認める記事を掲載[7]。創価学会側は本尊の謹刻について日達の失念等が宗門内で問題になり、事態の収拾のために他の7体の本尊は総本山へ納められることとなったとしている。
10月3日 宗門より「本尊謹刻について一切議論を禁ずる。」旨の院達が宗内に発布される。
11月7日 本尊謹刻などについての院達を不服とする一部宗内を治めるため、創価学会創立48周年記念登山代表幹部会として、2千人の創価学会幹部、全国の教師と共に大石寺に登山を行い、本尊模刻を初めとする教義逸脱を謝罪(おわび登山)[7]

名誉会長就任以降

4月24日 宗門との問題で創価学会会長を引責辞任。新しく創設したポストである名誉会長に就任。池田時代は終身制だった会長職は5年の任期と変更し、後任の会長には北条浩が就任。
4月26日 法華講総講頭を引責辞任。他の法華講と同様に日蓮正宗の監督を受けることを約束する。日蓮正宗の管長日達より、法華講名誉総講頭の辞令をもらう。
5月3日 日達が創価学会第40回本部総会において、宗門の法主、日達が池田名誉会長ら創価学会幹部の反省を受け入れ、問題の収束を宣言。
7月 本格的に財務を再開する[7]
10月15日 東京地裁における『月刊ペン』に関する差し戻し裁判(第27回公判)に検察側の証人として出廷(詳細は月刊ペン事件を参照 )。
1月25日 「SGIの日」記念提言を発表(これ以後、毎年発表)。
6月 ルーマニアを訪問し、大統領官邸で故ニコラエ・チャウシェスク大統領(現在、大統領については、国民の生活を守った人物であったとも、また悪評等もあり詳細は不明とされているが、その墓標にはルーマニア市民からの献花が今でも絶えることは無いという。)と50分間に渡り会談。「大統領は愛国主義者であり、平和主義者であり、民族主義者であることがよく、理解できました」との賛辞を贈る[36]
8月8日 「世界保健機関」を初め、国連機関への貢献が評価され「国連平和賞」を受賞。
1月2日 日達の後を継ぎ、67世の法主となった 日顕により再び「法華講総講頭」に再任される。
7月10日 東京高裁は『月刊ペン』について、被告人である月刊ペン社の編集長隈部大蔵に対して当時の名誉毀損罪では最高額にあたる「罰金20万円」の有罪判決を下した。

宗門との決裂以降

10月31日 アフリカ民族会議(ANC)副議長だったN.マンデラと会談。学会の機関紙聖教新聞は、N.マンデラは会見を終える際に「私たちがきょう、ここで得た最大の“収穫”は、名誉会長の英知の言葉です。勲章は、いつか壊れてしまうかもしれない。賞状も、いつか焼けてしまうかもしれない。なくしたり、盗まれてしまうかもしれない。しかし、英知の言葉は不変です」と語り、別れを惜しんだと報道[37]
11月16日 衛星放送で全国の会員に中継された創価学会第35回本部幹部会において、宗門および日顕を批判。
12月13日 宗門は、創価学会に対して池田のスピーチの真意を問う文章を提出したが、「出処不明のテープを本とした文書は受け取ることができない」と創価学会は受け取りを拒否。
12月27日 宗門は法華講総講頭に任期制を導入。これにより1990年末の任期終了と共に池田が法華講総講頭の資格を自動的に失うことになる。
JNN”の報道特集で、直撃インタビューされた映像が放映される。宗門との対立については、「より高い次元に行くための現象」と説明、宗門からの独立についてはきっぱりと否定する。
11月28日 創価学会とSGIが宗門から破門される。
8月11日 池田自身を含む全創価学会員が日蓮正宗から信徒除名処分にされる。
日寛の本尊を創価学会が会員に配布。
8月8日 第69回創価学会本部幹部会において、細川連立政権の内閣発足前日に公明党が大臣ポストを獲得した[38]と語ったことが、国会で問題となる[39][40][6]
9月24日 アメリカのハーバード大学で「21世紀文明と大乗仏教」と題して講演。
4月 『中央公論』1995年4月号において、田原総一朗と対談。14年ぶりに国内ジャーナリストのインタビューを受ける[41]
11月28日 国会の宗教法人に関する特別委員会において、宗教法人法改正の問題で、池田を参考人招致しようとする自民党に対し、公明党出身の新進党議員やその秘書ら約三百人が、佐々木満委員長を委員長室に閉じ込め、 ピケを張り、座り込みをして審議再開を妨害する。
11月30日 創価学会の会則上では責任者ではない池田の招致は見送られ、会則上の代表者となっている秋谷栄之助会長を翌月4日に招致することで決着する。
2月11日 「戸田記念国際平和研究所」を設立[41]
12月1日 宗門の「宗規」の一部改正に伴い、創価学会員の日蓮正宗の檀信徒資格が喪失。
11月27日 東京・元赤坂迎賓館で中国の江沢民国家主席と約20分間会談。「文化、宗教のわかる指導者です。主席は、実務上の経験も豊富であり、世界にとって、どれほど大切な存在か」と賛辞を贈る[42]
6月4日 フィリピンジョセフ・エストラーダ大統領と会談。
創価学会は会則を変更し、初代牧口会長、第二代戸田会長、第三代池田会長の「三代会長」を、「永遠の指導者」とする規定を入れる。
3月22日 元ソ連大統領のミハイル・ゴルバチョフと「聖教新聞社」で会談。
4月末~6月にかけて、池田が重病で入院したという情報がマスメディアを書け巡る。脳梗塞心臓病だとの憶測が飛んだが、創価学会広報室は「風邪疲労で体調を崩した」とのコメントを出す。
12月 アメリカの世界的経済誌『フォーブス』(Forbes、2004年12月27日号)は、2004年9月6日号に「先生の世界」(「Sensei's World」)と題して、池田及び創価学会に関する記事を特集したが、記事内容に多くの誤りがあった事を全面的に認め、アメリカSGI(創価学会インタナショナル)のガイ・マクロスキー主任副理事長の抗議文を掲載。編集部名にて訂正した。
3月10日 長男の博正 が創価学会の副理事長に就任。
9月22日 首相就任直前の安倍晋三の希望で、極秘裏に東京都内の創価学会の施設で、会談を持ったと主要新聞(『産経新聞』を除く)を初め各種メディア[43]が伝えた[44][45]
9月28日 小泉純一郎からの総理辞任挨拶の申し入れを受け、東京都内の聖教新聞本社で会談[46]
11月30日 東京・信濃町の聖教新聞本社で国際原子力機関IAEA)のM.エルバラダイ事務局長と会談。
4月12日 来日中の中国の温家宝首相と会談。日中友好を訴えた[47]首相の国会演説を「不滅の名演説だった」と讃える[48]
5月8日 都内の宿舎にて来日中の中国の胡錦涛国家主席と会談[49]

略歴

人物

関連団体の設立

執筆

随筆小説、対談集などの他、仏法哲学の解説書、子ども向けの童話なども執筆している。また、写真家詩人としても活動している。

人間革命は創価学会を描いた小説で、2代目会長戸田が書いていたのを引継ぎ、『聖教新聞』紙上に、1965年から1993年まで連載。続編の『新・人間革命』を1993年11月18日から現在まで同新聞に連載中。いずれも山本伸一のペンネームで発表している。

2007年3月7日にリリースされたアグネス・チャンの新曲『そこには 幸せが もう生まれているから』の作詞を手がけた(山本伸一名義、作曲はアグネス・チャン)。

対談・講演

国家指導者を初め、教育者、文学者、科学者、芸術家、社会活動家などと会見を多数行なっている。[50][4]また、海外の大学・学術機関で講演を多数行なっている。

海外の大学・学術機関での講演

  • 1974年 『21世紀への提言 -- ヒューマニティの世紀に』 カリフォルニア大学ロサンゼルス校(アメリカ)
  • 1975年 『東西文化交流の新しい道』 モスクワ大学(ロシア)
  • 1980年 『新たな民衆像を求めて』 北京大学(中国)
  • 1981年 『メキシコの詩心に思うこと』 グアダラハラ大学(メキシコ)
  • 1981年 『東西融合の緑野を求めて』 ソフィア大学(ブルガリア)
  • 1983年 『文明の十字路に立って』 ブカレスト大学(ルーマニア)
  • 1984年 『平和への王道 -- 私の一考察』 北京大学(中国)
  • 1984年 『人間こそ歴史創出の主役』 復旦大学(中国)
  • 1989年 『東西における芸術と精神性』 フランス学士院(フランス)
  • 1990年 『「融合の地」に響く 地球主義の鼓動』 ブエノスアイレス大学(アルゼンチン)
  • 1990年 『教育の道 文化の橋 -- 私の一考察』 北京大学(中国)
  • 1991年 『新しき人類意識を求めて』 マカオ大学(マカオ)
  • 1991年 『平和とビジネス』 フィリピン大学(フィリピン)
  • 1991年 『ソフト・パワーの時代と哲学』 ハーバード大学(アメリカ)
  • 1992年 『中国的人間主義の伝統』 香港中文大学(香港)
  • 1992年 『不戦世界を目指して -- ガンジー主義と現代』 ガンジー記念館(インド)
  • 1992年 『文明の揺籃から 新しきシルクロードを』 アンカラ大学(トルコ)
  • 1992年 『21世紀と東アジア文明』 中国社会科学院(中国)
  • 1993年 『新しき統合原理を求めて』 クレアモント・マッケナ大学(アメリカ)
  • 1993年 『人間文明の希望の朝を』 ブラジル文学アカデミー(ブラジル)
  • 1993年 『21世紀文明と大乗仏教』 ハーバード大学(アメリカ)
  • 1994年 『「人間主義」の限りなき地平』 深セン大学(中国)
  • 1994年 『人間 -- 大いなるコスモス』 モスクワ大学(ロシア)
  • 1994年 『レオナルドの眼と人類の議会-- 国連の未来についての考察』 ボローニャ大学(イタリア)
  • 1995年 『平和と人間のための安全保障』 ハワイ・東西センター(アメリカ)
  • 1995年 『21世紀文明の夜明けを-- ファウストの苦悩を超えて』 アテネオ文化・学術協会(スペイン)
  • 1995年 『人間主義の最高峰を仰ぎて -- 現代に生きる釈尊』 トリブバン大学(ネパール)
  • 1996年 『牧口常三郎 -- 人道と正義の生涯』 サイモン・ヴィーゼンタール・センター(アメリカ)
  • 1996年 『「地球市民」教育への―考察』 コロンビア大学(アメリカ)
  • 1996年 『新世紀へ 大いなる精神の架橋を』 ハバナ大学(キューバ)
  • 1997年 『「ニュー・ヒューマニズム」の世紀へ』 ラジブガンジー現代問題研究所(インド)

顕彰

国家勲章、大学からの名誉学位、国連や学術機関からの表彰など、多くの顕彰を受けており、授賞のたびに、創価学会の機関紙『聖教新聞』の一面を華々しく飾る。2007年10月20日現在において、受賞した名誉称号は223ある(名誉学術称号内訳:名誉博士107 名誉教授101 名誉学長3[51][52])。

これらの勲章、名誉称号は中国の大学から授与されることが多い。このことについて、池田や創価学会を親中派に取り込み、日本の世論形成に影響を与えようと画策している中国政府の意向が働いているという指摘もある[53]。近年は外国の大学[54]より「名誉博士号」を授与されることが多いが、日本の大学からは創価大学を除き、授与されていない[55]。日本では静岡県富士宮市名誉市民となっている他、第2代会長、戸田城聖の故郷の北海道厚田村(現「石狩市」)から「栄誉村民章」(1977年)を授与されている[56]

「平和活動」

創価学会系のメディアは、池田が精力的に平和活動をしていると度々報じている。その主な内容は上述したような著名人との対談や諸外国の大学等での講演等である。

批判者側からは、池田が平和活動をしているとアピールするのは池田に「ノーベル平和賞」を取らせるための戦略だとの見方がなされることがある。一方で池田自身は「ノーベル平和賞」について、「そのような栄誉はほしくもありません。また下さるといっても、受けることもありません。そのような人間が世界に一人くらい、いてもいいでしょう」と語っている[57]。永年の平和活動への多大な貢献に対し1995年マハトマ・ガンディー民衆福祉財団よりガンディー平和賞が贈られている[58]。1988年年、平和と相互理解に功績のあった人物に贈られる「国際理解のためのG・ラマチャンドラン賞」を受賞し、この他国連より数々の賞(国連平和賞(1983年)、国連栄誉表彰(1988年)、人道賞(1989年) 、平和貢献・国連事務総長表彰(1989年))を授与されている。 

中国との関係

これまで10度訪中し、北京、西安、鄭州、上海、杭州、広州、武漢、蘇州、無錫、南京、桂林を訪れている。また、周恩来総理、鄧小平副総理、李先念国家主席、江沢民国家主席、胡錦濤国家主席、温家宝首相、王毅駐日大使、崔天凱駐日大使、唐家セン国務委員、国学大師・季羨林常書鴻元敦煌研究所所長、作家・巴金等と会見するなど、中国各界の要人と親密な関係にある。

国交正常化への貢献

1968年9月8日 「日中国交正常化提言」を発表。
※この提言について、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科長の天児慧教授は、「既存の枠組みを超えて、正常化を大きな流れにする面から、大きな意味をもった」と述べている。[59]
1974年5月30日 中国の招聘により初訪中。
李先念副総理と会見。席上、李先念は、池田による「国交正常化提言」等の活動に対し、「大きな働きをされました。大変に価値あるものです。周総理も重大な関心を寄せておられます。本来なら総理が会って、ごあいさつすべきなのですが、総理は今、病気療養中です。『池田会長にお会いしたいけれども、今回はお会いできないので、くれぐれもよろしく伝えてほしい』と申しておりました」と語った。[60]
1974年12月5日 2度目の訪中。
鄧小平副総理と会見。その直後、病気療養中の周恩来総理の強い意志により、周恩来と池田との会見が行われる。席上、周恩来は「池田先生とは、どうしても、お会いしたいと思っていました」「池田先生が再三にわたって、中日両国人民の友好関係を発展させねばならないと提唱されてきたことをうかがい、私は大変にうれしかった」「これからは世界の国々が互いに尊敬し、励まし合って進むべきです」「中日平和友好条約の早期締結を希望します!」と語った。
2007年4月12日 温家宝首相と会談。
温家宝首相は、「贈池田先生/慈航創新路/和諧結良縁/温家寶/二〇〇七年四月」という自筆の書を贈り、「私は、先生のことを、大変、尊敬しています。池田先生は、文化、文学の面において、大変、造詣が深いだけでなく、中日両国の友好のために、自ら多くの努力を捧げてこられました」「私は、先生の著作を読ませていただくときに、これは哲学であり、修養だという気持ちを抱いています」と語った[61]

青年交流への「貢献」

1984年、池田の提案により、「中華全国青年連合会(全青連)」と創価学会青年部との交流が始まる。池田自身が全青連の訪日団と会見した。また、池田が創立した創価大学は、1975年に日本で初めて、新中国から日本への正式な留学生を受け入れた。

教育交流への「貢献」

北京大学中国社会科学院などで記念講演を行っている。また、創価大学との教員・学生の交換などが活発である。さらに、池田の思想・哲学・行動を研究するための機関として、「池田大作研究会」(北京大学)等の研究機関が設立されている。

文化交流への「貢献」

1967年に北京芸術団が、池田が設立した民主音楽協会で公演。池田が創立した東京富士美術館で中国敦煌展、北京・故宮博物院名宝展を開催した。

政見

公明党に関して

1976年11月16日に、「天下を取れることが少し私には見えて来た。天下を取らない党ならやる必要はない、私が控えているから心配するな」など公明党議員と記念撮影において述べた[6]

その他の政見

安全保障
憲法改正の論議はいいが、憲法第9条だけは絶対に変えてはいけない。」との見解を持っている[62]。日本は国連の常任理事国入りを望んでいるが、安全保障理事会の機軸である集団的自衛権という考えと、それを禁じる日本の憲法との間には矛盾があるので、「国際連合平和維持活動」(PKO)に参加するために、自衛隊とは別個の組織を作るというのが正しい道であろうと思う」との見解を示した(1991年・第16回「SGIの日」記念提言)。1991年湾岸戦争の直前には、5人の識者と共に、「戦争回避のための『緊急アピール』」をイラクフセイン大統領宛に送ったが、「イラク戦争」の開戦が迫っていた2003年1月26日の「SGIの日」を記念しての『聖教新聞』紙上の提言では、「軍事力を全否定するということは(中略)政治の場でのオプションとしては、必ずしも現実的とはいえない」、「武力を伴った緊急対応も必要とされるかもしれない。そうした毅然たる姿勢がテロへの抑止効果をもたらすという側面を全く否定するつもりはない」と武力行使を容認する見解を示した。
選挙
1999年 SGI(創価学会インタナショナル)の日(1月25日)付の『聖教新聞』で首相公選制を提言。
多様化した日本社会には、幅広い選択できるという理由で、中選挙区制が一番合っているとしている[62]
早くから「外国人参政権」を認めるべきだと主張してきており[63]、創価学会を支持母体とする公明党も積極的に推進している。
教育
『朝日新聞』(2001年5月23日付)の「私の視点」というコラムで、「教育基本法」の見直しについて、「拙速は慎むべきである」、「『教育勅語』に盛られたような具体的な徳目は、基本法の性格になじまないと思う。法文化されれば、必然的に権威主義的な色彩を帯びてしまう」と述べている。

歴史観

豊臣秀吉朝鮮出兵を、朝鮮から仏教を初め、様々な文化的恩恵を受けたことを踏みにじる侵略だとして強く非難している[64]

池田本仏論

池田が創価学会会長となった1960年以降、後に離反した福島源次郎など一部の過激な幹部が池田会長をであるかのように喧伝。宗門との軋轢を招いた[65]

1980年の『聖教新聞』において、池田は「代々の会長を神格化などしてはなりません」「私などを絶対視してはならない」「私自身、罪業深き、過ち多き身であることをよく知っております」と創価学会会長は指導者であって、仏ではないことを明言している[66]

1983年10月31日、元創価学会幹部の山崎正友の裁判に証人として出廷した際に、「一部の同志が調子に乗って自分を美化したのでは」という旨を述べている。

マスメディアとの関係

創価学会と関わりのない国民にとっては長らくテレビで見ることがなかったが、2007年には約14年ぶりに、各局のニュースで温家宝と会談する池田の姿が見られた[67]

関係する人物や団体

  • 安倍晋太郎 1985年、大石寺正本堂完成記念の祝典に岸信介の代理で安倍晋太郎が出席して以来、何度も面会したという。「きれいな心で学会のこと、世界のことなど私と話し合うことを楽しみにして下さったようである」と池田は述べている[68]

評価

  • 冬柴鐵三(公明党元幹事長の衆議院議員、国土交通大臣):「人生で最も影響を受けた人物」として池田大作の名を挙げ、「あらゆる面で影響を受けた」と語っている[69]
  • 遠藤乙彦(元外交官、公明党所属の衆議院議員):「人生に関するどんなことでも相談して、教えを受けられる先生」、「池田先生の思想・仏教に基づいた教えに耳を傾ければ、もっと(世界の)問題が解決していくでしょう」などと語っている[70]
  • 蘇歩青(そ・ほせい 復旦大学名誉教授):「日本人に、桁違いの大人物がいる。それが池田先生だ」(『聖教新聞』 2006年5月7日付)。1984年6月9日、池田を同校の名誉教授とした。
  • 石井英朗(東日本国際大学学長):池田が250番目の名誉学術称号を受けた(2009年3月21日)ことに対して「洞察力、審美力、行動力が統合された余人に例のない池田先生の活動の軌跡を見るとき、そこに、人類の共同体的原則を基盤に据えて、人間同士の関係性に信頼と希望を託する池田哲学のスケールを想うのであります。250を数えた今回の栄誉は、私たち日本人の大先輩の偉業として、誇るべきことであります」等の声を寄せている。[71]

批判

  • 田中角栄(元首相、自民党元幹事長):秘書の早坂茂三によれば「池田大作はしなやかな鋼だ。煮ても焼いても食えない。公明党は法華さんの太鼓を叩くヒトラーユーゲントだ」と語ったという[8][72]
  • ポーリー・トインビー(アーノルド・J・トインビーの孫娘):「池田氏のように、絶対的権力者の雰囲気をにじみ出させた人物と会ったことはありませんでした。」と語った[73]
  • 石原慎太郎東京都知事選挙を直前に控えた1999年3月、池田大作に対する人物評価を尋ねたアンケートに「一言で表現すれば、『悪しき天才、巨大な俗物』。」と答えた[74]

世間からの攻撃や批判について、池田は「古今東西を問わず、歴史に残る人物は、みな迫害の連続です。そのなかで鍛え抜いて、精神的・肉体的に強靭な自分をつくっています。」、「(攻撃や批判は)ない方がいいに決まっているが、それをバネにして、どう自分を鍛えるかを考えたほうが利口だ」という旨を語っている[4]

批判する立場になった元幹部たち

エピソード

  • 評論家・高瀬広居のインタビューにおいて、自らを「私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者・最高権力者である」と豪語したという[83]
  • 1969年、『月刊宝石』紙上での「話せるなァ、会長は!」と題する青島幸男との対談において、「もし、それだけの理由と力があって、しかも誰にも迷惑をかけないという場合には、一夫一婦制の枠外の行為でも私は男性として認めます。」と述べた。池田の女性スキャンダルを書いた『月刊ペン』を告訴した裁判の中で、最高裁の裁判長はこの発言に言及し、「学会幹部の男女問題に疑惑を感じていた者らにとってはやはりそうであったかと思わせる素地につながっていることも否定し難いのである。」と述べた。(最高裁判所 第一法廷1981年4月16日)
  • 2005年6月、韓国の『東亜日報』(2005年6月18日付)が「小沢一郎自民党幹事長(当時)の要請で、海部俊樹首相が韓国の盧泰愚大統領に池田大作との会見を依頼する親書を送った」と報じた。

家族

  • 父 子之吉(ねのきち):生涯、真言宗の信仰を持ち続けた[24]
  • 母 一(いち)[要出典]
  • 兄 4人の兄がおり、長兄はビルマ(現:ミャンマー)で戦死[84]
  • 妻 香峰子(かねこ)「インド創価池田女子大学」名誉校長。「創価世界女性会館」名誉館長。「創価女子会館」名誉館長。
  • 長男 博正:創価学会副理事長。
  • 次男(著名活動をしていないので名前は伏せる):1984年10月 29歳で急逝。
  • 三男 尊弘: 創価学会の総東京組織の副総東京長。

著書

  • 人間革命聖教新聞社
  • 『新・人間革命』 聖教新聞社
  • 『私の履歴書』 日本経済新聞社
  • 『若き日の日記』
  • 『忘れ得ぬ同志』 聖教新聞社
  • 『心に残る人びと』 角川書店
  • 『法華経の智慧』 聖教新聞社
  • 『アレクサンドロスの決断』 集英社
  • 『青春対話』 聖教新聞社
  • 『母の詩』 聖教新聞社(発行部数120万部のベストセラー)
  • 『明日をみつめて(Embracing the Future)』ジャパンタイムズ

ほか

共著

脚注

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  1. ^ 池田本人によれば、親から「太く大きく丈夫に育ってもらいたい」との願いをこめて「太作(たいさく)」と名づけられる。自然と「ダイサク」と読まれるようになるが、「太作」を「ダイサク」とは読みにくいので、「大作」に改名したという。
  2. ^ 池田大作 『私の履歴書聖教新聞社 1993年4月
  3. ^ 池田自身によれば名誉会長の職は名誉職ではなく、創価学会の会則としては「信心指導」「布教」「会員の擁護・育成」の役目があるという。そして、創価学会の基本方針は会長を中心とした中央会議や総務会が決めるという。SGI会長としては日本も含めて全世界の会員の指導・育成・布教、全般に関与するという。
  4. ^ 田原総一朗 『戦後五十年の生き証人』 (中央公論社 1996年4月)に収録された 池田大作と田原総一朗の対談
  5. ^ 1995年の国会で、当時、創価学会の会長であった秋谷栄之助は池田名誉会長の位置づけを「信仰の指導の上の指導者」と説明した。
  6. ^ 第134回国会 参議院 宗教法人等に関する特別委員会 第8号 平成7年(1995年)12月4日(議事録
  7. ^ 古川利明 『シンジケートとしての創価学会=公明党』(第三書館 1999年11月20日) ISBN 978-4-8074-9924-3
  8. ^ 新「創価学会」を斬る【第7回】(『週刊新潮』2003年12月18日号)
  9. ^ 『月刊ペン』1976年5月号(月刊ペン社)
  10. ^ 小口偉一(編)『新心理学講座4 宗教と信仰の心理学』(河出書房 1956年)
  11. ^ 溝口敦 『池田大作 権力者の構造』(三一新書(1972年3月)、講談社(2005年9月) ISBN 978-4-380-72004-8 ISBN978-4062569620
  12. ^ 週刊宝石』(1996年4月号)
  13. ^ 年譜・池田大作編集委員 『年譜・池田大作』(第三文明社 1981年、1989年3月、1995年3月)
  14. ^ 創価学会機関誌『大白蓮華』(2000年3月号)での池田大作談
  15. ^ 「協友会」は東大出身の経済学者が主導していた20名ほどの青年グループであり、文化芸術政治経済哲学などを研究していた
  16. ^ 『財界』(財界研究所 1967年8月1日号)
  17. ^ 加盟業者への社会保険の指導と業界内の連絡などの仕事を任される。
  18. ^ 創価学会機関紙『聖教新聞』昭和32年(1957年)10月18日付
  19. ^ 『聖教新聞』(1957年
  20. ^ 朝日新聞』(1965年2月)「新人国記」
  21. ^ 創価学会の会長になった後、富士短大からの勧めで卒業論文を提出し、退学から20年後になる1968年に経済科の卒業が認められた。
  22. ^ 当時の『聖教新聞』の名刺広告に「大蔵商事」の幹部としての肩書きが載っている。『週刊新潮』平成15年(2003年)12月18日号
  23. ^ 『随筆 人間世紀の光』「師弟正義の目黒」(『聖教新聞』 2004年3月27日付)
  24. ^ 戸口浩 『創価学会の真実―「地涌正統」からの通信』(日新報道 1992年4月)P200 ISBN 4-8174-0278-4
  25. ^ 1954年6月6日付の『聖教新聞』によれば、「情報部」は池田会長の目となり耳となって、各支部各地区の状況や社会各層の動きを把握すべき任があるとされている。
  26. ^朝日新聞』 1957年7月29日付夕刊
  27. ^ 古川利明 『システムとしての創価学会=公明党』(第三書館 1999年10月25日) ISBN 978-4-8074-9922-9
  28. ^ 池田は会長就任の際に「西の天理教・東の立正佼成会を討て」と会員に指導した。
  29. ^ 池田大作監修 創価学会教学部編 『折伏教典』(1965年11月、P208、P286)には「邪宗教の本尊を拝めば、不幸になるのは当然」、「日蓮正宗以外は ぜんぶ邪宗教であり害毒を流すもの」とある。
  30. ^ NHK出口調査などからは会員数は約400万人強であると推測されている。平成7年(1995年)度の文化庁統計における日蓮正宗の会員数は576万人であり、平成12年(2000年)度は創価学会員の数を差し引いた会員数として約34万人となっていることから創価学会の会員数を542万人と推定する見方もある。(「わが国における主な宗教団体名」 日本における宗教の概要)
  31. ^週刊実話』 1970年5月18日号
  32. ^ 『 聖教新聞』 1975年(昭和50年)1月4日付
  33. ^ 原島嵩 『池田大作先生への手紙―私の自己批判をこめて』(晩声社 1980年8月)
  34. ^ 全国にある施設は池田の名を冠して「池田文化会館」と名づけられている。
  35. ^ 隈部大蔵は以前に創価学会の批判本を書いたことで、創価学会・公明党から出版に対する介入を受けた(言論出版妨害事件」の記事を参照)。
  36. ^ 『聖教新聞』昭和58年(1983年)6月10日付
  37. ^ 聖教新聞(1990年11月1日)
  38. ^ この細川内閣に公明党は非自民連立政権の一角として参加、郵政大臣厚生大臣のポストを獲得した他、総務庁長官環境庁長官にも議員が起用された。
  39. ^ 第129回国会 衆議院 予算委員会 第8号 平成6年(1994年)5月24日(議事録
  40. ^ 当時創価学会会長であった秋谷栄之助は国会で、「当日の新聞の閣僚予想記事の内容を話したのであって、党から何か事前に連絡や相談があったのではない」という旨の説明をした
  41. ^ 朝日新聞アエラ編集部 『創価学会解剖』(朝日新聞社 2000年1月1日) ISBN 978-4-02-261286-1
  42. ^ 『聖教新聞』(1998年11月28日付)
  43. ^ 日経・毎日・朝日・読売の各紙の他、『週刊文春』は会談の詳細を報じた。
  44. ^ 公明党の太田昭宏代表は同年10月11日の記者会見で、安倍首相と池田との会談について、「全く承知していない」と語った。(『朝日新聞』1996年10月12日付)
  45. ^ 安倍晋三は国会で池田との面会の事実を全面否定した。 第165回国会 参議院 予算委員会1号 平成18年(2006年)10月11日(議事録)、 第166回国会 衆議院 予算委員書会 7号 平成19年(2007年)2月13日(議事録)(「インターネット審議中継」での亀井静香の安倍晋三への質疑の動画)
  46. ^ 創価学会広報室が発表。東京・中日新聞にも記事あり。
  47. ^ 公明党幹部はこの来日は、日中間の政治問題となっている「首相の靖国神社参拝問題」に釘を刺す狙いがあるとの見方を示した。
  48. ^ 温家宝首相が創価学会の池田大作名誉会長と会談asahi.com 2007年4月12日20時51分)
  49. ^ 『聖教新聞』2008年5月9日付
  50. ^ 特に印象に残った人物として周恩来を挙げている。「名優のごとく、言葉がわかりやすく、しかも深い。鋭さと温かさがある。」と評している。
  51. ^ 創立者 池田大作SGI会長に授与された名誉博士号・名誉教授称号財団法人「東洋哲学研究所」
  52. ^ 「池田大作名誉会長の足跡 主な顕彰」SOKAnet
  53. ^ 創価学会を日本最大の親中派に仕立てた中国の「特命工作」<袁翔鳴>(『SAPIO』 2007年5月9日号)
  54. ^ モスクワ大学グラスゴー大学ほか、北京大学を始め、特に中華人民共和国所在の大学からが多い。
  55. ^ 創価大学からは1974年に名誉教授を、1983年11月に名誉博士を授与されている(『池田大作なき後の創価学会―巨大教団が迎える危機の研究』 宝島社、2007年、P189)
  56. ^ 北海道創価学会「池田大作第第会長と北海道」北海道SOKA net
  57. ^ 1967年10月13日、 オーストリアの政治学者、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーが対談の中で池田がいずれはノーベル平和貰をもらえるでしょうと語った際の言葉
  58. ^ 財団法人東洋哲学研究所。本賞の日本人の受賞は笹川良一(1987年)、ドクター中松(1993年)、福永法源博士(1995年)に続いて4人目の快挙である。
  59. ^ 「聖教新聞」2008年9月15日
  60. ^ 「聖教新聞」2004/12/05
  61. ^ 『聖教新聞』2007年4月13日付
  62. ^ 『毎日新聞』(2001年9月25日付)でのインタビュー
  63. ^ 櫻井よしこ 「野中幹事長さん、国を売る気ですか!」(『諸君!』(文藝春秋 平成12年(1990年)10月号)
  64. ^ 韓国SGI機関紙『和光新聞』(2005年4月22日 633号) コラム「来光」
  65. ^ 日達は1974年4月25日の法華講登山において、「最近ある所では、新しい本仏ができたようなことを宣伝しておるということを薄々聞きました。大変に間違ったことであります。もしそうならば正宗の信仰ではありません」と会長本仏論を批判した
  66. ^ 「所感恩師の二十三回忌に思う」(『聖教新聞』昭和55年(1980年)4月2日付)
  67. ^ テレビ朝日系『スーパーJチャンネル』 2007年4月12日放送
  68. ^ 『聖教新聞』(2001年3月付)
  69. ^ 大臣のほんね 冬柴鐵三国土交通大臣(後編)政府広報オンライン
  70. ^ 第129回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成6年(1994年)2月21日(議事録
  71. ^ 『聖教新聞』2009年4月5日付
  72. ^諸君!』 2005年6月号
  73. ^ イギリスの新聞『ガーディアン』 1984年5月19日付での手記。
  74. ^週刊文春平成11年3月25日号
  75. ^週刊新潮』 2007年4月12日号
  76. ^ 藤原行正 『池田大作の素顔』(講談社 1989年4月) ISBN 978-4-06-204186-7
  77. ^ 山崎正友 『闇の帝王、池田大作をあばく』(三一書房 1981年12月)
  78. ^ 『朝日新聞』の連載「秘話・・・55年体制のはざまで」1998年8月26日~9月18日
  79. ^ 矢野絢也 『二重権力・闇の流れ―平成動乱を読む、政界仕掛人・矢野絢也回想録』(文藝春秋 1994年8月)
  80. ^ 『月刊Asahi』1991年4月号
  81. ^ 石田次男 『内外一致の妙法 この在るべからざるもの』(縁友会 1995年)
  82. ^ 大橋敏雄 『吹けば飛ぶ男の奮戦記--古参代議士が見た創価学会』(人間の科学社 1900年1月15日)ISBN 978-4-8226-0000-6
  83. ^ 高瀬広居 『人間革命を目指す池田大作・その思想と生き方』(有紀書房 1965年)
  84. ^ 『聖教新聞』 2005年6月19日付

関連項目

外部リンク


最終更新 2009年11月3日 (火) 01:14 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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