池田屋事件

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京都市 池田屋跡(2005年時点ではパチンコ屋だった)

ファイル:Traceofikedaya.JPG 池田屋事件(いけだやじけん)とは、幕末元治元年6月5日1864年7月8日)に、京都三条木屋町(三条小橋)の旅館・池田屋(北緯35度0分32秒東経135度46分11秒 )で京都守護職配下の治安維持組織である新撰組が潜伏していた長州藩土佐藩などの尊皇攘夷派を襲撃した事件である。池田屋騒動池田屋事変三条小橋の変等ともいわれている。近藤勇は書面で洛陽動乱と名づけている。

目次

[編集] 経緯

[編集] 発覚

幕末の京都は政局の中心地となり、尊皇攘夷や勤皇等の思想を持つ諸藩の浪士が潜伏して活動していた。長州藩は会津藩薩摩藩による宮中クーデターである八月十八日の政変で失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていた。尊皇攘夷派は勢力挽回を試みており、京都守護職は新撰組を用いて市内の警備や探索を行わせる。

5月下旬頃、諸士調役兼監察の山崎烝島田魁らによって四条小橋上ル真町で炭薪商を経営する枡屋(古高俊太郎)の存在を突き止め会津藩に報告。武器や長州藩との書簡等が発見される。古高を捕らえた新選組は、土方歳三の拷問により古高を自白させる。計画は祇園祭の前の風の強い日を狙って京都御所に火を放ちその混乱に乗じて中川宮朝彦親王(後の久邇宮朝彦親王)を幽閉し、一橋慶喜(徳川慶喜)・会津の松平容保らを暗殺し孝明天皇を長州へ連れ去るというものであった。

さらに探索に於いて長州藩・土佐藩・肥後藩等の尊王派が古高逮捕をうけて襲撃計画の実行・中止について協議する会合が池田屋か四国屋に於いて行われる事を突き止める。

[編集] 捜索

現在の三条小橋

新選組は会津藩・桑名藩等に応援を要請するが、会津らの動きが遅く時刻になっても動かなかった。このため事態は一刻を争うと見た局長の近藤は単独行動に踏み切り、近藤隊と土方隊の二手に分け捜索を開始する。当時、新選組では病人が多い等の理由で人手が少なく実際に捜索に当たったのは近藤隊10人・土方隊24人の総数わずか34名だった(異説有り、出動隊士一覧を参照)。新選組は八坂神社から縄手通を土方隊、三条大橋を渡って木屋町通を近藤隊が探索した。

[編集] 戦闘

亥の刻(22時ごろ)過ぎ、捜索の末に近藤隊は池田屋で謀議中の尊攘過激派志士を発見した。近藤隊は数名で斬り込み、真夜中の戦闘となる。20数名の尊攘過激派に対し当初踏み込んだのは近藤・沖田総司永倉新八藤堂平助の4名で、残りは屋外を固めた。 屋内に踏み込んだ沖田は奮戦したが、戦闘中に肺結核により喀血し倒れて戦線離脱する。また1階の藤堂は汗で鉢金がずれたところに太刀を浴びせられ、額を斬られ血液が目に入り戦線離脱した。

襲撃を受けた宮部鼎蔵ら志士達は応戦しつつ、現場からの脱出を図った。 裏口を守っていた安藤早太郎奥沢栄助新田革左衛門達のところに土佐藩脱藩望月亀弥太ら浪士が脱出しようと必死で斬りこみ逃亡。これにより奥沢は死亡し、安藤・新田も1ヶ月後に死亡した。望月は負傷しつつも長州藩邸付近まで逃げ延びたが、追っ手に追いつかれ自刃した。

新撰組側は一時は近藤・永倉の2人となるが土方隊の到着により戦局は新選組に有利に傾き、9名討ち取り4名捕縛の戦果を上げる。会津・桑名藩の応援は戦闘後に到着した。土方は手柄を横取りされぬように、一歩たりとも近づけさせなかったという。

この戦闘で数名の尊攘過激派は逃走したが、続く翌朝の市中掃討で会津・桑名藩らと連携し20余名を捕縛した。なお市中掃討では激戦となり会津藩は5名、彦根藩は4名、桑名藩は2名の即死者を出した。

翌日の正午(夜のうちに帰ったのでは闇討ちの恐れがあるため夜が明けるまで休息をとっていた)、新選組は壬生村の屯所に帰還した。沿道は見物人であふれていたという。

桂小五郎(後の木戸孝允)は到着が早すぎたので一度本拠地にもどり時間を待っている間に事件が起こってしまい難を逃れたと言われているがそれは自叙に基づくもので、京都留守居役であった乃美織江は手記に「桂小五郎議は池田屋より屋根を伝い逃れ、対馬屋敷へ帰り候由…」と書き残している。乃美の手記に基づくなら桂は池田屋事件当時池田屋にいて、逃げ延びたと言うことになる。

[編集] 影響

御所焼き討ちの計画を未然に防ぐ事に成功した新選組の名は天下に轟いた。逆に尊攘派は吉田稔麿北添佶摩宮部鼎蔵大高又次郎石川潤次郎杉山松助松田重助らの実力者が戦死し、大打撃を受ける(彼らは後の新政府により俗に「殉難七士」と呼ばれる)。落命した志士達は三条大橋東の三縁寺に運ばれて葬られた。

長州藩はこの事件をきっかけに激高した強硬派に引きずられる形で挙兵・上洛し、7月19日8月20日)の禁門の変を引き起こす。

池田屋事件により明治維新が1年遅れたとも、尊攘派を刺激してしまい維新を早めてしまったともいわれる。作家の司馬遼太郎は「この事件がなかったら薩長主力の明治維新は永遠にこなかったであろう」と解釈している。

[編集] 異説

  • 池田屋事件の尊皇派の陰謀が捏造とする説もある。「京都大火計画」「松平容保暗殺」「天皇拉致」などの尊攘派の陰謀は幕府側の記述にはあるものの尊攘派側の記録には一切なく、『木戸日記』にもこのときの池田屋で計画されていたのは新撰組に拉致監禁され拷問されている仲間を救うための会合としか記されていない。証拠と言えるものは土方に壮絶な拷問を受け、無理矢理自白させられた人物が語ったとされる発言のみでその人物も早々に処刑されており、客観的な証拠が乏しく尊攘派の威信失墜や新撰組の威信高揚を狙った捏造もしくは瑣末な話を大袈裟に誇張した可能性がある。
  • 近藤は故郷への書簡の中で、当日は病人が多く人手が少なかったとしているが、事件直前に脱走者が多く出ていたためとする説がある。
  • 司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」などでは、山崎蒸が薬屋に変装し事前に池田屋に潜入して探索し、突入前に戸の錠を開けたことになっている。しかし、山崎の確報があったならば最初から主力を池田屋に差し向けたはずであり、山崎の名は報奨者名簿には無いことから、実際は屯所残留組だったと推定される。
  • 近藤の書簡や永倉新八の手記「浪士文久報国記事」によると、当日は近藤隊10名、土方隊12名、井上源三郎隊12名の三手に別れて探索を行っており、応援に駆けつけたのは井上隊である。
  • 近藤の書簡によると池田屋に乗込んだのは、近藤、沖田、永倉、藤堂、近藤周平の5名ということになっているが、永倉の手記や、事件後の褒賞者名簿から推定すると、近藤、沖田、永倉、藤堂、奥沢、安藤、新田、谷万太郎武田観柳斎浅野薫の10名である。
  • 沖田は肺結核で喀血し離脱したと言われるが、永倉の手記によると「病にてひきとる」とのみ記されており、喀血したかどうかは不明。
  • 桂小五郎の手記によると、池田屋での会合は古高捕縛後に急遽決定されたものなので、事前に新撰組が場所を察知していたとは考えにくい。永倉新八は「片っ端から」探索した旨述べており、また事件直前に祇園の井筒屋に新撰組が探索を行った記録があるため、実際には会合場所がどこであるかは把握しておらず、多くの場所を探索していたと考えられる。


[編集] 新撰組出動隊士一覧

池田屋事件に参戦した新選組隊士は以下の通り(諸説有り)

なお、当時所属していた馬詰信十郎・馬詰柳太郎はこの日に脱走した為に不参加。

[編集] 尊攘派志士

など

最終更新 2009年11月7日 (土) 16:45 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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