池田成彬
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池田 成彬(いけだ しげあき、慶応3年7月16日(1867年8月15日) - 昭和25年(1950年)10月9日)は、日本の財界人、政治家。日本銀行総裁、大蔵大臣。通称せいひん。
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[編集] 来歴・人物
[編集] 慶應義塾
現在の山形県米沢市に米沢藩士池田成章の長男として生まれる。幼名は慎平。米沢中学(現・米沢興譲館高校)を経て、1888年(明治21年)7月、慶應義塾別科を卒業。東京・横浜で英米人について英語を学んだ後、1890年(明治23年)1月、新設された大学部理財科(現在の慶應義塾大学経済学部)に入学。慶應義塾より推薦され渡米、1895年(明治28年)ハーヴァード大学を卒業。帰国後、福澤諭吉の主宰する時事新報社に入社するが、2週間で辞める。辞めた理由は諸説あってはっきりしないが、自分の力量にあった給与でないと感じたとも、新聞がビジネスとして確立されていないことに嫌気が指したとも、ハーヴァード大学での知識や経験が生かされないことに不満を持ったからとも言われる。
[編集] 三井銀行
同年12月には慶應義塾塾長小幡篤次郎の紹介で三井銀行に入行する。調査係を振り出しに大阪支店勤務、足利支店長。コール制度や大阪市債の引き受け、銀行間の預金協定など新機軸を次々に打ち出していく。1898年(明治31年)欧米出張を命ぜられ、銀行業務の近代化について学ぶ。明治33年(1900年)本店に転勤し、営業部次長。1904年(明治37年)に営業部長となる。その間に、三井財閥の実力者、中上川彦次郎の長女艶と結婚する。1911年(明治44年)合名会社組織だった三井銀行を株式体制に改める改革に際して、常務取締役に選任される。以後、23年間にわたって常務のポストに就く。1919年(大正8年)に筆頭常務となる。同年8月の三井銀行の増資と株式公開は池田の意思によって実現されたという。
[編集] 金融恐慌
1927年(昭和2年)3月の台湾銀行の融資引き上げによる鈴木商店の破綻とこれに伴う昭和金融恐慌発生は、台湾銀行・鈴木商店の経営悪化のなかで池田が強引に資金を引き揚げたことが原因であるとも批判された。また、1931年(昭和6年)夏にヨーロッパの世界恐慌はドイツからイギリスに波及したが、金輸出禁止を打ち出した英国により、金本位制は崩壊する。この時、池田の指令で三井は横浜正金銀行を通じてドル買いに走った(ドル買事件)。イギリスの金輸出停止は日本に早晩波及し、日本も金輸出が禁止になる時に備えて思惑買いに走ったわけである。これに対し金解禁を実施した、時の蔵相井上準之助は、公定歩合を引き上げ、金融引き締めを取り、ドル買い資金の不足を打ち出した。国内の不況は一段と厳しさを増し、ドル買いの元凶として三井は名指しで非難されたが、池田は三井はロンドンに保有している8,000万円もの金の日本本国への引き揚げを差し止められたためにやむなく行った行為でありその額も4,324万円相当に過ぎないこと、加えて日本が金輸出を認めているのにドル買いをして何が悪いかと資本の論理で反駁した。だが、不況で日々の生活にも難渋し、かつ経済学的知識が不足していた一般庶民はこれを「金持ちの傲慢」と受け止めて激しく反発した。
[編集] 三井合名理事
1932年(昭和7年)に三井合名理事となり、三井財閥の実質的な責任者となる。このとき三井合名の理事は有賀長文、福井菊二郎、米山梅吉、牧田環、安川雄之助に池田を加えた6名であったが、翌1933年(昭和8年)9月に筆頭常務理事となっている。三井家当主の三井高広から請われたものであるが、三井家と対立することもあった。池田が取った改革としては、三井系企業からの三井家同族の退職、株式の公開、社会事業への寄付(三井報恩会を設立)などがある。又、ワンマンの傾向があった安川雄之助の勇退を勧告し、1936年(昭和11年)には、三井合名・直系6社に定年制を導入し、自らも70歳で退職するなど、自らをも含めた経営者にも規律を求めた。
[編集] 公職歴任
三井を退職した翌1937年(昭和12年)日本銀行総裁に就任した。同年10月15日に近衛文麿に請われ、内閣参議の参議となる。1938年(昭和13年)5月26日から1939年(昭和14年)1月5日まで第1次近衛内閣で大蔵大臣兼商工大臣をつとめた。陸軍の専横に対して、池田は資本の合理的論理で対抗したが、虚しかった。この頃首相候補にも名前があがったが、陸軍の反発で立ち消えになっている。1941年(昭和16年)に枢密顧問官となるが、東条英機内閣成立後は、親英米と見なされた池田は、憲兵隊の監視対象となる。1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終後、戦犯容疑を受け、同年12月にA級戦犯容疑者に指定されるが、1946年(昭和21年)5月に指定解除され容疑は晴れる。公職追放となり大磯に引きこもり隠遁する。近所に住む吉田茂首相が財政や人事についてしばしば池田に相談に来た。1950年(昭和25年)腸潰瘍のため死去。享年83。
[編集] 家族・親族
長女敏子は岩崎隆弥に嫁いだ。二男池田潔は英文学者、評論家、慶應義塾大学名誉教授。妹婿に加藤武男(元三菱銀行頭取)宇佐美勝夫(元東京府知事)、甥に宇佐美洵(元日本銀行総裁)、宇佐美毅(元宮内庁長官)などがいる。長男は戦没している。
[編集] エピソード
- 池田はその寡黙さで知られていた。その理由は父親の厳格な教育の影響ともいわれているが、池田自身は「方言が出ると困るから」だと語っていたという。
- 慶應義塾時代に学生達が食堂の食事が悪いと抗議のボイコットをした際、「(勉強をするために寮に入ったのに)飯がまずいからと言ってストライキをするのか」と呆れ果て、一人だけこれに加わらなかった。
- 戦後の財閥解体に際して、今はGHQに率先して協力したほうが将来訪れるであろう三井の再起の際に得策と考えこれに積極的に協力した。このため三井家や関係者から「恩知らず」「冷酷」と非難され、深く恨まれたといわれている。
[編集] 関連文献
- 『財界回顧』 世界の日本社 1950年
- インタビュー集 柳沢健編、復刊:経済人叢書・図書出版社 1990年、解説吉野俊彦
- 『故人今人』 世界の日本社、1949年
- 『私の人生観』 文芸春秋新社 1951年
- 『私のたけのこ哲学』 北辰堂 1952年
伝記研究
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- 「小島直記伝記文学全集」 中央公論社全16巻
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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最終更新 2009年11月26日 (木) 07:05 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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