江戸三座
江戸三座の最新ニュースをまとめて検索!
江戸三座(えどさんざ)は、江戸時代中期から後期にかけて江戸町奉行所によって歌舞伎興行を許された芝居小屋。官許三座、公許三座、また単に三座ともいう。当初は数多くあったが、次第に整理されて四座、最終的に三座となった。
三座は江戸期を通じて日本独自の伝統芸能である歌舞伎を醸成、明治以降も歌舞伎の殿堂として大正末年頃まで日本の演劇界を牽引した。
目次 |
[編集] 概要
歌舞伎の元祖とされる出雲阿国や名古屋山三郎が寺院の境内などで歌舞伎踊りを披露して大評判をとったといわれるのは慶長年間 (1596–1615) のことである。その後、かれらを真似た遊女や若衆たちによって各地の寺院の境内や河原などで興行が行なわれるようになったが、江戸府内に常設の芝居小屋ができたのは、早くも寛永元年 (1624年) のことだった。
歌舞伎が泰平の世の町人の娯楽として定着しはじめると、府内のあちこちに芝居小屋が立つようになる。しかし奉行所は風紀を乱すという理由で遊女歌舞伎 (1629年) や若衆歌舞伎 (1652年) を禁止、野郎歌舞伎には興行権を認可制とすることで芝居小屋の乱立を防ぐ方針をとった。こうして府内の芝居小屋は次第に整理されてゆき、延宝の初めごろ (1670年代) までには中村座・市村座・森田座・山村座の四座に限って「櫓をあげる」ことが認められるようになった。これを江戸四座という。
櫓とは、人ひとりが乗れるほどの籠のような骨組みに、2本の梵天と5本の槍を組み合わせ、それを座の定紋を染め抜いた幕で囲った構築物で、これを芝居小屋の入口上方に取り付け、かつてはそこで人寄せの太鼓を叩いた。この櫓をあげていることが官許の芝居小屋であることの証だった。逆に櫓のない芝居小屋は「宮地芝居」(みやぢしばい)と呼ばれ、簡略な小屋掛けであること、舞台の上以外には屋根をつけないこと、引幕・回り舞台・花道などの装置を使わないことなど、さまざまな制限が設けられた。
正徳4年 (1714年) には山村座が取り潰されて中村座・市村座・森田座の江戸三座となる。その三座も座元(座の所有者)が後継者を欠いたり経営が困難になったりすると、興行権が譲渡されたり別の座元が代わって興行を行うことがしばしばあった。享保末年以降 (1735〜) になると、三座にはそれぞれ専属の控櫓がつき、本櫓が経営難で休座に追い込まれるとその興行権を代行した。
[編集] 歴史
[編集] 堺町・葺屋町
江戸の芝居小屋は、寛永元年 (1624年) に山城の狂言師で京で猿若舞を創始した猿若勘三郎が、中橋南地(なかばしなんち、現在の中央区京橋のあたり)に櫓をあげたのにはじまる。これが猿若座である。ところがこの地が御城に近く、櫓で打つ人寄せ太鼓が旗本の登城を知らせる太鼓と紛らわしいということで、寛永9年 (1632年) には北東に八町ほど離れた禰宜町(ねぎまち、現在の中央区日本橋堀留町2丁目)へ移転、さらに慶安4年 (1651年) にはそこからほど近い堺町(さかいちょう、現在の中央区日本橋人形町3丁目)へ移転した。その際、座の名称を座元の本姓である中村に合せて中村座と改称している。
一方、寛永11年 (1634年) には泉州堺の人で、京で座元をしていた村山又兵衛という者の弟・村山又三郎が江戸に出て、葺屋町(ふきやちょう、現在の中央区日本橋人形町3丁目)に櫓をあげてこれを村山座といった。しかし村山座の経営ははかばかしくなく、承応元年 (1652年) には上州の人・市村宇左衛門がその興行権を買い取って、これを市村座とした。
堺町の中村座と葺屋町の市村座は同じ通りに面した目と鼻の先に建っていた。また界隈にはこのほかにも小芝居の玉川座[1]、古浄瑠璃の薩摩座、人形劇の結城座などが軒を連ねていたので、この一帯には芝居茶屋[2]をはじめ、役者や芝居関係者の住居などがひしめき、一大芝居町を形成した。
[編集] 木挽町
寛永19年 (1642年)、山村小兵衛という者が木挽町四丁目(こびきちょう、現在の中央区銀座4丁目の昭和通りの東側)に櫓をあげ、これを山村座といった。続いて慶安元年(1648年) には筑前の狂言作家・河原崎権之助が木挽町五丁目(現在の銀座5丁目の昭和通りの東側)に櫓をあげ、これを河原崎座といった。さらに万治3年 (1660年) には摂津の人で「うなぎ太郎兵衛」と呼ばれた森田太郎兵衛がやはり木挽町五丁目に櫓をあげ、これを森田座といった。
こうして木挽町四五丁目界隈にも芝居茶屋[2]や芝居関係者の住居などが軒を連ね、一時は堺町・葺屋町に匹敵する芝居町を形成、「木挽町へ行く」と言えば「芝居見物に出かける」ことを意味するほどの盛況となった。この山村座・河原崎座・森田座の三座を、木挽町三座という。
しかし間もなく河原崎座が座元の後継者を欠いて休座になったので、寛文3年 (1663年) に森田座がこれを吸収するかたちで合併した。さらに正徳4年 (1714年) には絵島生島事件に連座して座元の山村長太夫が伊豆大島に遠島となり、山村座は官許取り消し、廃座となった。こうして木挽町にはひとり森田座が残るのみとなり、あたりには次第に閑古鳥が鳴きはじめる。森田座の経営は年を追うごとに悪化の一途をたどり、ついに享保19年 (1734年) には地代の滞納がかさんで地主から訴えられてしまう。南町奉行大岡越前の裁きは地主側の訴えを全面的に認めたものとなり、森田座は返済で首が回らなくなって、とうとうこれも休座に追い込まれてしまった。
慌てたのは芝居関係者だった。芝居小屋は役者や作家を雇っているだけではなく、周囲に数々の芝居茶屋[2]や浮世絵の版元などを従えた歓楽街の中核である。それがなくなってしまうということは、木挽町全体の死活問題でもあった。そこで森田座に代わる新しい櫓をあげることが模索されたが、すでにこの頃までに官許三座制が確立しており、新規の櫓が認められることはまず望めない。それならばと、かつて官許を得ながら廃座になった河原崎座・都座[3]・桐座[4]の座元の子孫が名乗り出て、それぞれ先祖の由緒書とともに旧座の再興を願い出た。
街の灯が消えてしまうことは治安の面からも望ましいことではなかったので、町奉行所としては何らかのかたちで座の再興は容認することにしていた。しかし三座制の手前もあり、彼らすべてにこれを許すわけにはいかない。そこで再興するのはあくまでも森田座であるとし、三者のうちの一人が森田座の興行権を代行するというかたちでこれを許すことにした。そして森田座の勝手向きが改善したあかつきには、代興行主はすみやかに興行権を元へ戻すという条件をこれにつけ加えた。
こうして三者によるくじ引きの結果、二代目河原崎権之助が代興行権を引き当て、翌享保20年 (1735年) に河原崎座を再興した。のちには都座と桐座もそれぞれ経営難におちいった中村座と市村座の興行権を代行し、この中村座と都座、市村座と桐座、森田座と河原崎座、という枠組みが「本櫓と控櫓」という代興行の制度として定着した。
控櫓の中でも河原崎座は森田座の興行権を頻繁に代行した。これは森田座の経営が極めて不安定で、資金繰りに行き詰まっては休座するということが特に多かったためである[5][6]。森田座の地には、時に20年近くにわたって河原崎座が櫓をあげていたこともあった[7]。今日残る江戸三座を描いた錦絵や江戸府内の地図には、中村座と市村座にならんで河原崎座が描かれているものが多いのはこのためである。
[編集] 猿若町
天保12年 (1841年) 10月、中村座が失火により全焼、火災は堺町・葺屋町一帯に延焼し、市村座も類焼して全焼、浄瑠璃の薩摩座と人形劇の結城座も被災した。
折しも幕府では、老中首座の水野忠邦を中心に天保の改革が推進されていた。改革は逼迫した幕府の財政を立て直すことを目的としたものだったが、水野はこれと同時に倹約令によって町人の贅沢を禁じ、風俗を取り締まって庶民の娯楽にまで掣肘を加えた。特に歌舞伎に対しては、七代目市川團十郎を奢侈を理由に江戸所払いにしたり、役者の交際範囲や外出時の装いを限定するなど、弾圧に近い統制下においてこれを庶民へのみせしめとした。
堺町・葺屋町一帯が焼けたことは、こうした綱紀粛正をさらに進めるうえでの願ってもいない機会だった。奉行所は早くも同年暮れには中村座と市村座に芝居小屋の再建を禁じ、一方で幕府は浅草聖天町(しょうでんちょう、現在の台東区浅草6丁目)にあった丹波園部藩の下屋敷を収公。翌天保13年 (1842年) 2月にはその跡地一万坪余りを代替地として中村・市村・薩摩・結城の各座に下し、そこに引き移ることを命じた。聖天町は外堀のはるか外側、堺町・葺屋町からは東北に一里はあろうかという辺鄙な土地だった。水野はそこに芝居関係者を押し込めることで、城下から悪所を一掃しようとしたのである[8]。
同年4月、聖天町は江戸における芝居小屋の草分けである猿若勘三郎の名に因んで猿若町(さるわかまち[9])と改名された。夏頃までには各芝居小屋の新築が完了、9月には中村座と市村座がこの地で杮落しを行なっている。さらに同年冬には木挽町の河原崎座にも猿若町への移転が命じられ、翌天保14年 (1843年) 秋にはこれが完了した。芝居茶屋や芝居関係者の住居もこぞってこの地に移り、ここに一大芝居町が形成された。
河原崎座の移転が完了した直後に、幕府では水野が失脚、天保の改革は頓挫する。そして水野の目論見とは裏腹に、猿若町では三座が軒を連ねたことで役者や作者の貸し借りが容易になり、芝居の演目が充実した。また城下では常に頭を悩まされていた火災類焼による被害もこの町外れでは稀で[10]、相次ぐ修理や建て直しによる莫大な損益も激減した。そして浅草寺参詣を兼ねた芝居見物客が連日この地に足を運ぶようになった結果、歌舞伎はかつてない盛況をみせるようになった。浅草界隈はこうして江戸随一の娯楽の場へと発展していく。
この猿若町に軒を連ねた中村座・市村座・森田座(または河原崎座)の三座を、猿若町三座という。
[編集] 明治以降
慶応3年 (1867年) 暮れに幕府が崩壊すると、翌慶応4年 (1868年) は春先から江戸開城・船橋の戦い・上野戦争などの騒擾が続き、猿若町への庶民の足も遠退いて、芝居興行は不振をきわめた。秋には六代目河原崎権之助が自宅で浪人の押し入り強盗に刺されて絶命するという、物騒な世情を象徴するような事件が起り、多くの芝居関係者を震撼させている。
そんな中、新政府は同年9月末になって突然猿若町三座に対し、他所へ早々に移転することを勧告した。しかし三座は困惑する。天保の所替えからすでに25年、世代も交替し、猿若町は多くの芝居関係者にとって住み慣れた土地となっていた。ただでさえ御一新で先行き不透明な時勢、三座の座元はいずれも移転には慎重にならざるを得なかったのである。
業を煮やした東京府は、明治6年 (1873年) 府令によって東京市内の劇場を一方的に十座と定めてしまった。これをうけて市内には、中橋(現在の中央区京橋)に澤村座が、久松町(現在の中央区日本橋久松町)に喜昇座[11]が、蠣殼町(現在の中央区日本橋蛎殻町)に中島座が、四谷(現在の新宿区四谷)に桐座が、春木町(現在の文京区本郷3丁目)に奥田座[12]が、新堀町(現在の港区芝2丁目)に河原崎座[13]が、次々に開場していった。猿若町三座は頭ごなしに「十座」のなかに取り込まれてしまったうえ、新劇場がいずれも外濠の内側にあるのに対して、猿若町は歓楽街とはいえ東北に偏った地にあることは否めなかった。これが重い腰をあげるひとつの理由となる。
三座のなかで最初に猿若町を離れたのは守田座[6]で、明治5年 (1872年) に新富町(しんとみちょう、現在の中央区新富2丁目)に移転、明治8年 (1875年) にこれを新富座と改称した[14]。次が中村座で、明治15年 (1882年) に失火により全焼すると、明治17年 (1884年) に新劇場を浅草西鳥越町(にしとりごえちょう、現在の台東区鳥越)に新築、これを猿若座[15]と改称した。最後が市村座で、明治25年 (1892年) に下谷二長町(にちょうまち、現在の台東区台東1丁目)に 三階建煉瓦造の新劇場を建てて移転した。
新富座の座元・十二代目守田勘彌には先見の明があり、明治9年 (1876年) 9月に新富座が類焼により全焼すると、その場は仮小屋でしのぎ、その間に巨額の借金をして、明治11年 (1878年) 6月には西洋式の大劇場・新富座を開場した。杮落としの来賓に政府高官や各国公使を招いて盛大な開場式を挙行するというのも前代未聞だったが、なによりも新富座は当時最大の興行施設で[16]、しかもガス灯による照明器具を備えてそれまでできなかった夜間上演を可能した[17]、画期的な近代劇場だった。以後この新富座で専属役者の九代目團十郎・五代目菊五郎・初代左團次の三名優が芸を競いあい、ここに「團菊左時代」(だんぎくさ じだい)と呼ばれる歌舞伎の黄金時代が幕を開けた。
明治22年 (1889年)、福地源一郎らが演劇改良運動の一貫として推進していた新たな歌舞伎の殿堂・歌舞伎座の建設が始まる。しかし守田はこれを良しとせず[18]、中村座・市村座・千歳座[11]と連繋して歌舞伎座が興行できないよう画策した。これは四座がむこう5年間にわたって團菊左をはじめ、大芝翫・家橘・宗十郎・源之助など当時の人気役者を順繰りで使って出ずっぱりにし、その他の劇場に出る余裕がないようにしてしまうという協定で、これを四座同盟といった。これが功を奏して、歌舞伎座は完成後もいっこうに演目が立てられず立ち往生してしまう。福地はついに折れて、四座側に巨額の見舞金を支払うことで妥協が成立[19]、歌舞伎座はやっと開場できるはこびなった。
守田はこののち、一時は経営陣の内紛で揉めにも揉めた歌舞伎座に招かれてその経営にもあたるなど、團菊左時代を通じて歌舞伎界の中心に居続けたが、やがて團菊左が衰えて舞台を去ると新富座も衰退した。代わって表舞台に躍り出たのは歌舞伎座の内紛で飛び出した田村成義で、明治41年 (1908年) に市村座の経営権を取得すると、ここで六代目菊五郎や初代吉右衛門の若手を育て、この二人が大正に入って「菊吉時代」(きくきち じだい)と呼ばれる第二の歌舞伎全盛期を築く。菊吉はもっぱら二長町の市村座に出ていたので、この一時期を「二長町時代」(にちょうまち じだい)ともいう。これが江戸三座の放った最後の輝きだった。やがて市村座と新富座は歌舞伎座とともに関西系の松竹合名会社に買収され、その独自性を失っていく。
大正12年 (1923年)、関東大震災で新富座と市村座はともに焼失。新富座はその後再建されずに廃座となった。市村座は仮小屋を再建したが、それも昭和7年 (1932年) には失火で焼失、以後再建されずに廃座となる。中村座はすでに明治26年 (1893年) に失火で焼失、廃座になって久しかった。ここに300年の伝統を誇る江戸三座はその歴史に幕を下ろした。
[編集] 座の変遷と出来事
| 中村座 系 | 市村座 系 | 森田座 系 | 山村座 | |
|---|---|---|---|---|
| 寛永元年 1624 |
猿若勘三郎が中橋に猿若座を開場。 | |||
| 寛永 9 年 1632 |
禰宜町に移転。 | |||
| 寛永11年 1634 |
村山又三郎が葺屋町に村山座を開場。 | |||
| 寛永19年 1642 |
山村小兵衛が木挽町に山村座を開場。 | |||
| 慶安元年 1648 |
初代河原崎権之助が木挽町に河原崎座を開場。 | |||
| 慶安 4 年 1651 |
堺町に移転、中村座と改称。 | |||
| 承応元年 1652 |
市村宇左衛門が興行権を買い取り市村座と改称。 | |||
| 万治 3 年 1660 |
森田太郎兵衛が木挽町に森田座を開場。 | |||
| 寛文 3 年 1663 |
後継者を欠いた河原崎座を森田座が吸収。 | |||
| 延宝年間 1673–81 |
官許四座制が確立。 | 官許四座制が確立。 | 官許四座制が確立。 | 官許四座制が確立。 |
| 正徳 4 年 1714 |
絵島生島事件に連座して座元の山村長太夫が伊豆大島に遠島。官許を取り消され、廃座。 | |||
| 享保19年 1734 |
地代滞納で地主と訴訟となり敗訴、休座に追い込まれる。 | |||
| 享保20年 1735 |
二代目河原崎権之助が絶えていた河原崎座を再興し、森田座の興行を代行(控櫓のはじまり)。 | |||
| 延享元年 1744 |
森田座復興にともない河原崎座が休座。以後、森田座は経営難に陥るたびに休座して河原崎座が興行を代行するという交替が繰り返されるようになる。 | |||
| 天保12年 1841 |
失火により全焼。 | 類焼により全焼。 | ||
| 天保13年 1842 |
中村座を猿若町に再建。 | 市村座を猿若町に再建。 | 河原崎座が猿若町に移転を命じられる。 | |
| 天保14年 1843 |
移転完了。 | |||
| 安政 2 年 1855 |
失火により全焼。 | |||
| 安政 3 年 1856 |
森田座を再建 | |||
| 安政 4 年 1858 |
守田座と改称 [6]。 | |||
| 明治元年 1868 |
新政府が移転を勧告。 | 新政府が移転を勧告。 | 新政府が移転を勧告。 | |
| 明治 5 年 1872 |
新富町に移転。 | |||
| 明治 6 年 1873 |
東京府が市内の劇場を十座と定める。 | 東京府が市内の劇場を十座と定める。 | 東京府が市内の劇場を十座と定める。 | |
| 明治 8 年 1875 |
新富座と改称。 | |||
| 明治 9 年 1876 |
類焼により半焼。 | 類焼により半焼。翌年仮小屋を再建。 | ||
| 明治11年 1878 |
西洋式大劇場を新築。夜間上演を開始。「團菊左時代」の全盛期が始まる。 | |||
| 明治15年 1882 |
失火により全焼。 | |||
| 明治17年 1884 |
浅草西鳥越町に再建、猿若座と改称。 | |||
| 明治18年 1885 |
失火により全焼。 | |||
| 明治22年 1889 |
開場した歌舞伎座に四座同盟を結んで対抗。 | 開場した歌舞伎座に四座同盟を結んで対抗。 | 開場した歌舞伎座に四座同盟を結んで対抗。 | |
| 明治25年 1892 |
下谷二長町に新築移転。 | |||
| 明治26年 1893 |
類焼により全焼。以後再建されず、廃座。 | 類焼により半焼。 | ||
| 明治27年 1894 |
再建。 | |||
| 明治41年 1908 |
田村成義が経営権を取得、「菊吉時代」の全盛期が始まる。 | |||
| 明治43年 1910 |
松竹が経営権を取得、以後衰退。 | |||
| 大正10年 1920 |
松竹が経営権を取得、以後衰退。 | |||
| 大正12年 1923 |
関東大震災で被災。仮小屋を再建。 | 関東大震災で被災。以後再建されず、廃座。 | ||
| 昭和 7 年 1932 |
失火により全焼。以後再建されず、廃座。 |
[編集] 補注
- ^ 承応元年 (1652) に玉川彦十郎(たまがわ ひこじゅうろう)という者が葺屋町に櫓をあげ、これを玉川座といったが、間もなく経営難で廃座となった。
- ^ い ろ は 明和年間 (1764–71) の堺町・葺屋町では、中村座が大茶屋(高級料理屋)16軒と小茶屋(一般向けの小料理屋)15軒を従え、市村座が大茶屋10軒と小茶屋15軒を従えていた。また木挽町では森田座が大茶屋7軒を従えていた。
- ^ 寛永10年 (1633) に都伝内(みやこ でんない)という者が堺町に櫓をあげ、これを都座といったが、間もなく経営難で廃座となった。
- ^ 寛文元年 (1660) に桐大蔵(きり おおくら)という者が木挽町五丁目に櫓をあげ、これを桐座といったが、これも間もなく経営難で廃座となっている。
- ^ ただし時代が下ると、本櫓と控櫓の関係は表裏一体に近いものとなり、代興行は負債逃れのひとつの手段として用いられるようになる。つまり本櫓の借金がかさんで首が回らなくなると、休座によってその負債をいったん棚上げにし、代わって控櫓がゼロから商売をやり直す。控櫓が行き詰まるとやはり同じように休座して負債を棚上げにし、ほとぼりの冷めた本櫓がこれにとって代わるという具合である。
- ^ い ろ は 森田座は安政4年 (1858) に座名を守田座と改めているが、これは積年の経営不振を座名のせいにした改称として知られている。「森の下に田」では陽当たりが悪くて実のりが悪いのも当然で、これを「田を守る」と改めればきっと豊作になるだろう、という験をかついだのだった。
- ^ 天保8年 (1837) から安政3年 (1856) まで。
- ^ 同じ年には吉原を唯一の公娼とし、城下での遊郭を一切禁じている。聖天町はこの吉原に隣接した地にある。
- ^ 安政期から明治初年ごろまでの錦絵や書籍には、「猿若町」に「さるわかまち」と仮名を振ったものと「さるわかちょう」したものが混在する。明治末年以後に出た町名便覧などの官庁発行による文書では「さるわかちょう」としているものが多いが、地元では一貫して「さるわかまち」と呼んでいたという。
- ^ 三座が猿若町に軒を連ねた30年間に火災で焼失したのは安政2年 (1855) 河原崎座のただ一度のみだった。その後の30年間には三座とも度重なる失火や類焼による被災で頻繁な修理や再築を余儀なくされていたのとは対照的である。
- ^ い ろ 喜昇座 → 久松座 → 千歳座 → 明治座と改称。
- ^ 奥田座 → 春木座 → 本郷座と改称。
- ^ 河原崎座は安政2年 (1855) に失火で全焼すると休座に追い込まれ、代わって翌年には本櫓の森田座が再興された。その後座元の六代目河原崎権之助は市村座の舞台に立ち金主(財務責任者)を兼ねるなど活躍したが、明治元年 (1868) 9月に自宅に押し入った強盗に刺し殺される。このとき戸棚に隠れて九死に一生を得たのが養子の七代目権之助、のちの河原崎三升で、これが明治7年 (1874) に芝新堀町に河原崎座を再興し、のちにこれを新堀座と改めている。三升はこれを節目に生家の市川家に戻って九代目市川團十郎を襲名、明治9年 (1876) には旧本櫓筋にあたる新富座(森田座)の座頭(興行の責任者)になっている。
- ^ この守田座の新富町への移転と新富座への改称も、山積する負債からなんとか抜け出したいという願いを込めた験かつぎだった。文字通り「新しい富」を求めたのである。
- ^ 猿若座 → 鳥越座 → 中村座と改称。
- ^ 幕末の中村座の舞台間口は6間(約11メートル)、明治11年 (1878) 落成の新富座は8間(約15メートル)、明治22年 (1889) 落成の歌舞伎座は13間(約24メートル)あった。
- ^ それまでの芝居小屋は天窓から明かりをとっていたため、上演は早朝から日没までと決っていた。明治7年 (1874) 1月に刷られた中村座の番付(演目表)は上演時間帯を明記したものの初見だが、そこにも「午前七時より相始め、午後五時迄」と書かれている。
- ^ 歌舞伎座はかつての芝居町だった木挽町4丁目に建設されたが、この界隈はそもそも森田座の本貫であること、歌舞伎座は当時最大だった新富座よりもさらに大きい劇場となったこと、新富座がガス灯照明なのに対し歌舞伎座は当時最新の技術だった電灯を使用していたこと、法人として新設された歌舞伎座には従前の座と座の間の因習が通じないことなど、守田にとって歌舞伎座は面白くないことばかりだった。
- ^ このとき守田に支払われたのは2万円で、これは劇場が一つ建つほどの大金だった。歌舞伎座の総工費が3万5千円だった時代のことである。
[編集] 参考文献
- 『明治劇談 ランプの下にて』(岡本綺堂 著、岩波文庫)
- 『歌舞伎談義』(岡本綺堂 著、青蛙房)
- 『綺堂年代記』(岡本経一 編、青蛙房)
- 『続々歌舞伎年代記』(田村成義 編、鳳出版)
- 『岩波講座 日本文学史』第七巻『演劇の興隆』(鎌倉恵子・小笠原恭子 共著、岩波書店)
- 『歴史散策 東京江戸案内』巻の二『歌舞伎と落語篇』(桜井正信 編、八坂書房)
- 『浅草猿若町』(新美武 著、新美商店)
- 『写楽仮名の悲劇』(梅原猛 著、新潮社)
- 『江戸文化誌』(西山松之助 著、岩波書店)
- 『ロングフェロー日本滞在記』(チャールズ・ロングフェロー 著、山田久美子 訳、平凡社)
- 『歌舞伎座百年』「木挽町の芝居」(川尻清潭 述、株式会社歌舞伎座)
- 『江戸食文化紀行』「江戸の芝居小屋と木挽町」「芝居茶屋」(松下幸子 監、株式会社歌舞伎座)
ほか
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
最終更新 2009年11月9日 (月) 09:41 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【江戸三座】変更履歴






