流鉄流山線

流鉄流山線の最新ニュースをまとめて検索!

流山線(ながれやません)は、JR常磐線と接続する千葉県松戸市馬橋駅と同県流山市流山駅を結ぶ流鉄鉄道路線である。

流鉄流山線
流山駅にて並ぶ電車。編成ごとに名前や塗装が違うのが特徴。(2007年8月14日撮影)
流山駅にて並ぶ電車。
編成ごとに名前や塗装が違うのが特徴。
(2007年8月14日撮影)
路線総延長 5.7 km
軌間 1067 mm
電圧 1500 V (直流)
馬橋 - 幸谷間の住宅街を走り抜ける流山線(2007年8月12日)
流山市総合運動公園に静態保存されている、1933年 - 1949年に走っていたガソリンカーキハ31形(2007年撮影)

目次

[編集] 概要

みりん産業がある流山市中心部とJR常磐緩行線を結ぶ。

以前は「総武流山線」と呼ばれていたが、2008年8月1日からは「流山線」が正式な路線名となった[1]。「流山線」への改称以前から利用者からは「流山線」あるいは「流鉄」「流電」などと呼ばれており、JRの車内放送でも当路線への乗り換え案内では「流山線」が用いられることが多かった。また、馬橋駅の乗り場案内標識や車内掲示の路線図、最近導入された自動放送でも「流山線」と案内されている。JR常磐緩行線に乗り入れる東京地下鉄6000系06系の車内LEDの乗り換え案内では「総武流山電鉄線(Sobu-Nagareyama Line)」と表示される。路線図では馬橋の上部にある「総武流山線」の表記が修正されていないものもある。

接続するJR常磐線の複々線区間とは対照的に、2両または3両編成の電車が走行する郊外の単線鉄道である。

沿線風景は1970年代頃までは雑木林や農地などが広がるのどかなものだったが、その後は沿線の宅地化が進み、都心への通勤利用が増加した。だが、1993年から利用者が減少しており、特につくばエクスプレスが開業した2005年度は移乗などで大幅な減少となっている。

[編集] 路線データ

流山線路線図(2009年9月29日作成)


[編集] 駅一覧

駅名 駅間キロ 累計キロ 接続路線 所在地
馬橋駅 - 0.0 東日本旅客鉄道常磐線(各駅停車) 松戸市
幸谷駅 1.7 1.7 東日本旅客鉄道:常磐線(各駅停車)・武蔵野線新松戸駅
ただし、連絡運輸の設定なし。
小金城趾駅 1.1 2.8  
鰭ヶ崎駅 0.8 3.6   流山市
平和台駅 1.5 5.1  
流山駅 0.6 5.7  

[編集] 運賃

大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。2007年7月1日現在。

キロ程 運賃(円)
初乗り1 - 2km 120
3 130
4 160
5 170
6 190

[編集] 運行形態

全列車が普通列車(各駅停車)で、全線所要時間11分、昼間は20分間隔、朝ラッシュ時は13分間隔で運行されている。それ以外は15分 - 20分間隔、土休日の夜間のみ20分 - 30分間隔での運転となっている。

列車交換設備のある小金城趾駅

区間運転はなく、すべての列車が馬橋 - 流山間の全線を行き来する。行き違いは交換設備がある途中の小金城趾駅で行う。

朝ラッシュ時は3両編成を、日中は2両編成を中心に使用する。2001年に「あかぎ」号が廃車になり、2両編成が3本から2本に減ったため、以降一部列車が朝のラッシュ時以外にも3両編成で運行されるようになった。また2009年4月に「明星」号が運用から外れ、3両編成も2本になったため、朝ラッシュ時も一部が2両編成で運行されている。このため、日によって運用編成が異なることがある。利用者の多い幸谷駅などでは、乗客への配慮として「本日は全列車2両編成にて運転しております」などの旨の案内を出している。

日本のほとんどの鉄道事業者が「土曜・休日ダイヤ」を設定しているのに対し、流山線では現在でも土曜日の運転は「平日ダイヤ」で運行されており、日曜日祝日振替休日年末年始のみ「休日ダイヤ」で運行している。

2009年6月21日に、日中のワンマン運転開始と、終日に渡る運転間隔の均等化・パターン化を伴うダイヤ改正を行った。1990年11月18日以来、実に18年7か月振りのダイヤ改正である。

[編集] 利用状況

[編集] 最近の動向

流山線沿線は、日本の他の公共交通機関の例に漏れず少子化の影響も現れており、1993年度から収益・乗車数とも減少傾向が続いている。

つくばエクスプレスの列車

中でも流山線の近くにつくばエクスプレス (TX) が開業した2005年は、年間の乗車人員が2004年に比べて約16%減少、特に流山駅では1日の利用客が50%近く減少した。

TX開業前の2004年時点では、朝ラッシュ時3両編成の上り列車は流山駅ですべての座席が埋まり、幸谷駅に到着する頃には通勤客で立錐の余地もない状態だったのに対し、2006年時点ではほぼ全区間にて朝ラッシュ時の上り列車で座れる程度にまで乗客が減っている。

このため、流鉄では2005年度末から2両編成車をワンマン対応に改造するなどの工事を行い、2006年5月17日から比較的乗客の少ない昼間に限り一部列車でワンマン習熟訓練を実施し、2009年6月21日のダイヤ改正より昼間時の列車をワンマン化した。このワンマン化の経費は約1,500万円かかるという。この他、柏市に流鉄の不動産を売却して鉄道事業の損失を補うなどの対策を採っている。一方、流山市としては都市計画と合わせた活性化策を検討している。

[編集] 輸送実績

[編集] 収入実績

[編集] 営業成績

[編集] 車両

車両は1994年以降全車が西武鉄道からの譲渡車で統一され、4編成10両の車両(2009年6月現在)が使用されている。各編成ごとに異なる独特の塗装が施され、塗色に応じた愛称が付けられている。「青空」「なの花」は2両編成で、それ以外は3両編成である。2両編成車はワンマン運転開始に伴い行先表示器が幕式から四角系の枠2個のみで行先を表示するLED式に交換されている他、ドア開閉チャイムと案内放送、自動の車内アナウンス装置が取り付けられている。

[編集] 現有車両

[編集] 3000系

3000系は、「若葉」(2代目)と「流星](2代目)の2編成が運用されている。

  • 「若葉」(2代目)- 黄緑色 元西武101系131F(2000年入線、3両編成)
  • 「流星」(2代目)- 橙色 元西武101系135F(1999年入線、3両編成)
3000系「流星」(2007年11月9日、流山駅にて撮影)
3000系「若葉」(2007年12月7日、鰭ヶ崎 - 平和台間にて撮影)


[編集] 2000系

2000系は、「なの花」と「青空」の2編成が運用されている。

  • 「なの花」(2代目)- 黄色 元西武701系757F(1997年入線、ワンマン対応、2両編成)
  • 「青空」 - 青色。クモハ2001・2002。1994年に入線した元西武801系。1968年、西武所沢工場製。西武鉄道の1803F(1803+803+804+1804)のモハ803+モハ804の2輛ユニットにクハ1803とクハ1804の運転台を取り付けて総武流山電鉄に譲渡され、それぞれ、クモハ2001、クモハ2002となった。総武流山電鉄初の冷房付きカルダン駆動車である[2]。ワンマン対応、2両編成。
2000系「なの花」(2006年11月2日、流山駅にて撮影)
2000系「青空」(2008年撮影)

これらの編成は、「なの花」が黄緑帯の他はすべて白帯で、側面に大きな「N」の文字が描かれている。なお、2000系の「なの花」「明星」はマイクロエースからNゲージ鉄道模型化されている。

[編集] 運行予定車両

[編集] 5000系

5000形

本鉄道では、2009年に西武鉄道から新101系を導入することになり、6月17日に流鉄カラーになった新101系2両編成が武蔵丘車両検修場を出て南入曽車両基地まで輸送され[3]6月22日にはJR新秋津駅から馬橋駅まで輸送された。本鉄道では5000系クモハ5001+クモハ5101として[4]、同年冬から運行される予定。水色基調の塗装から「(三代目)流馬」になるものと見られる。

[編集] 過去の車両

[編集] 2000系

2000系には、クモハ2000形・モハ2000形・クハ20形の3形式があり、元西武鉄道の車両である。

2000形「明星」(2007年6月13日、鰭ヶ崎 - 平和台間にて撮影)
2000形「流馬」(2007年8月12日、馬橋 - 幸谷間にて撮影)

クモハ2000形は、2001 - 2003、の合計3輛が在籍した。

  • クモハ2001・2002 -「青空」。現有車両を参照。
  • クモハ2003 - 1995年に「銀河」の置き換えとして入線した元西武701系。1965年、西武所沢工場製[2]

モハ2000形は、2101が1輛在籍した。

  • モハ2101 - 1995年に「銀河」の置き換えとして入線した元西武701系。1965年、西武所沢工場製[2]

クハ20形は、クハ21が1輛在籍した。

  • クハ21 - 1995年に「銀河」の置き換えとして入線した元西武701系。1965年、西武所沢工場製[2]

2000形3輛編成とその愛称

  • 明星 - クハ21+モハ2101+クモハ2003。カラーリングは、茶色に白帯。西武鉄道745F(1745+745+746+1746)のクハ1745の運転台がモハ745に取り付けられた、「青空」に続く2編成目の冷房付きカルダン駆動車である[2]。2009年4月29日をもって運用終了。
  • 流馬(2代目)- 水色 元西武801系809F。2007年11月18日を最後に運用を外れて廃車となり、愛称が消滅した。前述の5000系がこの水色基調の塗装となっている。


[編集] 1300系

1300系には、クモハ1300形・クハ70形の2形式があり、元西武鉄道の車両である。

クモハ1300形は、クモハ1301の1輛が在籍した。

  • クモハ1301 - 1962年 西武所沢工場製。元西武551系。流山入線時に台車をFS40に換装[2]。2001年廃車。

クハ70形は、クハ71の1輛が在籍した。

  • クハ71 - 1963年 西武所沢工場製。元西武601系。流山入線時に台車をFS40に換装[2]。2001年廃車。

1300形・70形2輛編成とその愛称

  • あかぎ - クモハ1301+クハ71。1987年に入線。カラーリングはワインレッドにアイボリーの帯[2]
1300形「あかぎ」(2001年5月13日撮影)


[編集] 1200系

1200系には、クモハ1200形・サハ60形・クハ80形の3形式があり、元西武鉄道の車両である。

「流星」クモハ1201+サハ61+クモハ1202[5](1979年4月15日、流山駅にて撮影)
「なの花」クモハ1210+クハ81[2](1986年11月3日、鰭ヶ崎 - 平和台間〔鰭ヶ崎付近〕にて撮影)

クモハ1200形は、1201 - 1203、1205 - 1209、1210、の合計9輛が在籍した。

クモハ1201 - 1203、1205 - 1209は、1979年から1981年にかけて[2]、在来車の老朽化と乗客増加に対処するために増備された車輛である。元西武501系で、西武所沢工場製。車内は壁板まで鋼鈑となっており、流山初の電照式行先表示器を装備している。西武からの譲渡時に、ATS、列車無線、列車種別選定装置を撤去し、標識灯を埋込式に変更している[5]

クモハ1210は、元西武551系で、流山入線時に台車をKBD107に換装後、TR25に再換装[2]

  • クモハ1201 - 1959年 西武所沢工場[2]。元西武501系(1999年廃車)。
  • クモハ1202 - 1959年 西武所沢工場製[2]。元西武501系(1999年廃車)。
  • クモハ1203 - 1958年 西武所沢工場製[2]。元西武501系(1996年廃車)。
  • クモハ1205 - 1958年 西武所沢工場製[2]。元西武501系(1996年廃車)。
  • クモハ1206 - 1957年 西武所沢工場製[5]。元西武501系(1995年廃車)。
  • クモハ1207 - 1957年 西武所沢工場製[5]。元西武501系(1995年廃車)。
  • クモハ1208 - 1959年 西武所沢工場製[2]。元西武501系(1999年廃車)。
  • クモハ1209 - 1959年 西武所沢工場製[2]。元西武501系(1999年廃車)。
  • クモハ1210 - 1962年 西武所沢工場製。元西武551系[2](1996年廃車)。

サハ60形(中間車)は、61 - 63、65、の合計4輛が在籍した。車体はクモハ1200形と大差はないが、全金属車と木造鋼体化車との2種類がある。台車はTR-11Aを装備しており、クモハ1200形のようなエアサスではない[6]

  • サハ61 - 1956年 西武所沢工場製[2]。元西武501系(1999年廃車)。
  • サハ62 - 1955年 西武所沢工場製[2]。元西武501系(1996年廃車)。
  • サハ63 - 1957年 西武所沢工場製[2]。元西武501系(1995年廃車)。
  • サハ65 - 1956年 西武所沢工場製[5]。元西武501系(1999年廃車)。

クハ80形は、クハ81の1輛が在籍した。

  • クハ81 - 1963年 西武所沢工場製。元西武601系。流山入線時に台車をKBD107に換装後、TR11Aに再換装[2]。1996年廃車。

各編成とその愛称 1200形3輛編成の愛称 - 各編成の愛称「流星」「流馬」「銀河」「若葉」は一般公募により付けられた[5]

  • 流星(初代)- 元西武501系(1999年廃車)。1979年2月より使用され、編成は、クモハ1201+サハ61+クモハ1202。西武時代はクモハ515、サハ1527、クモハ516で、譲渡時にサハを入れ換えている。クモハは1959年製で、サハは1956年製で、サハは木造鋼体化車である。パンタグラフはクモハ1201がPS-16、クモハ1202がPS-13と異なる。流星の入線時はヘッドライトが1灯式であったが、後に2灯式のシールドビームに換装されている。カラーリングはオレンジ色に白帯[5]。サハ61は西武時代にクモハ1201やクモハ1202と編成を組むことはなかった[2]
  • 流馬(初代)- 元西武501系(1996年廃車)。1979年より使用されており、編成は、クモハ1203+サハ62+クモハ1205[5]。旧番はクモハ509、サハ1509、クモハ510で、クモハが1958年製、サハが1956年製で、西武時代から編成を組んでいた。パンタグラフは流馬以降はPS-16を装備するようになった。カラーリングはスカイブルーに白帯[7]
  • 銀河 - 元西武501系。1980年4月より使用開始。編成は、クモハ1206+サハ63+クモハ1207[5]。旧番はクモハ523、サハ1524、クモハ524で、全車1959年製、全金属製である。カラーリングは銀色にオレンジ色の帯[7]。1995年に廃車となる。
  • 若葉(初代)- 元西武501系(1999年廃車)。1981年6月より使用開始。編成は、クモハ1208+サハ65+クモハ1209[5]。旧番はクモハ511、サハ1511、クモハ512で、クモハが1959年製、サハが1956年製の木造鋼体化車である。カラーリングは緑に白帯[7]

1200形2輛編成の愛称 -「なの花」。

  • なの花 - クモハ1210+クハ81。1984年に入線。カラーリングは黄色に緑色の帯。この2輛は西武時代には編成を組んだことがない。1992年1月から1994年6月までは小松製作所のCM塗装になり、愛称も「コマツ」となっていた[2]


[編集] 電化後の車両(戦前・終戦直後製造車両)

太平洋戦争直後の化石燃料(石炭、ガソリン)事情の悪化に対応するために、戦後初の公選選挙で選ばれた流山町長が中心となって流山鉄道の電化に動き出す。町長は5.7kmの小私鉄である流山鉄道自社で変電所を建設及び維持することは採算に合わないと考え、国鉄常磐線の電化を見越して、国鉄から直流1500Vの電力を購入するために千葉県選出の参議院議員を通じて運輸省に働きかけ、国鉄からの電力購入に成功する。そして本鉄道は常磐線電化から半年後に電化を為し遂げる。電化当初の電車の輛数は3輛であった[8][9]

モハ101(1977年3月25日、流山駅にて撮影)
モハ102(1979年4月15日、流山駅にて撮影)
モハ103(流山駅にて1979年4月15日撮影)
モハ105(1979年4月15日、流山駅にて撮影)

電化前はガソリンの入手が困難で、ガソリンカーによる定時運行が思うようにいかない状況であった。そのためこの時期には蒸気機関車による旅客列車も復活した。国鉄から客車や救援車、蒸気機関車を借り入れて営業を行ったが、車両の増備は行われなかった。この車両不足の状況は電化によって改善することになる。

1949年末に電化は完成し、国鉄から電車を3両(モハ100形)購入した。その後100形が1両(モハ105)が増備され、クハ51、Mc+Tc編成(モハ1001+クハ52)も入線した。キハ31とキハ32はエンジンを撤去され、付随車として電車に牽引されていたが、電車の増備により廃車となった[10]

[編集] モハ100形

モハ100形は、本鉄道電化の際に国鉄から払い下げを受けた車両で、元南武鉄道モハ100形である。台車ボールドウィン製BW78-25A系[11]。単行[12]あるいは増結用として使われていた他、貨車を牽引して混合列車として運行されることもあった[13]。14m級半鋼製2扉車である。車体各部には若干の相違がある。通風器は101・103がお碗形、102・105がガーランド形である[14]。3ドア車の入線により増結用として使用されるようになった[15]。100形は本鉄道電化以来使用されてきた車輛のため、電気部品も老朽化が進んでいるため、2輛ぐらいを中間車化を兼て更新する予定があった[16]

  • モハ101 - 1949年に入線した元南武鉄道モハ107。1979年廃車。汽車会社製であるが、購入に際しては小糸製作所で改修を行い、機械はほとんど新品に換装し、その後も車内等の改装も本鉄道で行っているが[14]、座席は木製であった。塗色は緑色であった(1952年1月27日現在)[17]。モハ101の車歴は、南武鉄道モハ107(1928年)→国鉄モハ107(1944年)→流山(1949年)[18]
  • モハ102 - 1949年に入線した元南武鉄道モハ115。1979年廃車。汽車会社製であるが、購入に際しては小糸製作所で改修を行い、機械はほとんど新品に換装し、その後も車内等の改装も本鉄道で行っているが[14]、座席は木製であった。塗色は緑色であった(1952年1月27日現在)[17]。モハ102の車歴は、南武鉄道モハ115(1931年)→国鉄モハ115(1944年)→流山モハ102(1949年)[18]
  • モハ103 - 1949年に導入された元南武鉄道モハ106。1979年廃車。汽車会社製であるが、購入に際しては東急横浜製作所で改修している。機械はほとんど新品に換装し、その後も車内等の改装も本鉄道で行っているが[14]、座席は木製であった。塗色は緑色であった(1952年1月27日現在)[17]。車歴は、南武鉄道モハ106(1926年)→国鉄モハ106(1944年)→流山モハ103(1949年)[18]
  • モハ105 - 1954年に追加で1両が導入された。元南武鉄道モハ113(汽車会社製)であるが、電装を解除されクハ6002となり、流山電車区で再電装し、両運化された[14]。このような経緯から前述の3両とは微妙に形態が異なっていた。1979年廃車。車歴は、南武鉄道モハ113(1931年)→国鉄モハ113(1944年)→国鉄クハ6002(1953年)→流山モハ105(1954年)[18]


[編集] モハ1000形

モハ1000形はクハ50形と組んで2両編成で運用されることが多かった。

  • モハ1001(鰭ヶ崎 - 平和台間にて1978年3月19日撮影)
    モハ1001 - 西武クハ1212を1963年に譲受。元武蔵野鉄道デハ1321で、西武所沢工場で改修されたものを購入。同車はこのときに再電装された。車歴は、武蔵野デハ1321(1927年)→西武農業デハ1321(1945年)→西武デハ1321(1946年)→西武モハ222(1948年)→西武モハ216(1954年)→クハ1212(不明)→流山モハ1001(1963年)[18]。窓枠をアルミサッシに取り換え、前面は外板を張り替え、窓下帯(シル)がなくなった[15]1988年に廃車になった。
  • モハ1002(1986年11月3日、流山駅にて撮影)
    モハ1002 - 1927年に(旧)西武鉄道が川崎造船で製造したモハ554[19]東濃鉄道からモハ111を1975年に譲受。東濃鉄道時代にパンタグラフを連結側に移設し、パンタグラフ部分を低屋根化し、車体総張り替えを実施した。流鉄譲渡時に、名鉄住商車両工場で、ヘッドライトのシールドビーム2灯化、アルミサッシ化、運転台を中央から左側への移設などが行われた[19]。1988年に廃車となった。車歴は、(旧)西武[20]モハ554(1927年)→(旧)西武モハ105(1940年)→西武農業モハ105(1945年)→西武モハ105(1946年)→西武モハ155(1948年)→東濃モハ111(1963年)→流山モハ1002(1975年)[18]


[編集] モハ1100形
  • モハ1101(馬橋行、平和台 - 鰭ヶ崎間にて1986年3月16日撮影)
    モハ1101 - 車体は1947年に三井造船玉野製作所製で、京急クハ480形の車体を西武所沢工場で更新し、下回りは所沢工場の手持ちの部品を使用している。この時に両運転台化され、ヘッドライトもシールドビーム2灯化された。半鋼製である[5]。流山入線時は最も近代的なデザインの車輛であった。運転台であり、1輛でも運転することができる[15]1994年廃車。両運転台の車両だったが、片側は貫通路を備えており、クハ50形と組んで2両編成で運用されることが多かった。車歴は、東急デハ5400系(1947年)→京急400(1948年)→車体のみ屑鉄として西武所沢工場へ(1965 - 1966年)→流山モハ1101(1968年)[18]


[編集] クハ50形

クハ50形は、モハ1000形あるいはモハ1100形と編成を組んで運用された。

  • クハ51(流山駅にて1977年11月5日撮影)
    クハ51 - 国鉄クハ5601を1955年に譲受。元豊川鉄道クハ60形。モハ100形と編成して3輛運転を行うために国鉄から購入した[15]。いわゆる川崎造船のでき合いの車輛で、同型車は各地で活躍した。豊川鉄道時代は両運であったが、国有化後片運化された。国鉄から譲渡されたときには屋根は雨漏りがし、外板各柱とも腐食し、台枠は歪曲、窓枠も腐食しているという酷い状態であったが、ブレーキを制御管式に改造し、車体内外を大改修し[21]、台車や通風器は交換された[15]。1970年に休車となり、流山駅構内に留置され、石蹴りの標的になっていた。車体を更新して再度利用する話もあったが[16][22]、1970年代後半に廃車となる。車歴は、豊川附23(1927年)→豊川クハ62(1937年)→国鉄クハ62(1943年)→国鉄クハ5601(1953年)→流山クハ51(1960年)→休車(1970年)[18]
  • クハ52(1983年12月27日撮影)
    クハ52 - 西武クハ1215を1963年に譲受[23]。元武蔵野鉄道サハ2321。車歴は、デハ1323→モハ223→モハ217→クハ1213(流山の書類ではクハ1215を購入したことになっている)→流山クハ52[14]。西武時代は密着連結器を装備していた[24]。木製の窓枠の痛みが目立ち、1975年度中に車体を更新する予定であったが[16]、1977年に日本電装で外板と屋根布の張り替えなどの更新を行った[5]。車歴は、武蔵野デハ1323(1927年)→西武農業デハ1323(1945年)→西武デハ1323(1946年)→西武モハ223(1948年)→西武モハ217(1954年)→西武クハ1213(1958年)→流山クハ52(1963年)[18]。1988年廃車。
  • クハ53(旧幸谷駅にて1977年10月23日撮影)
    クハ53 - 富士山麓電気鉄道ロハ901を1969年に譲受。元青梅鉄道モハ103。富士急行で使用されていた車体をのまま使用[24]。国鉄時代に電装解除されたようだが詳細は不明[16]。車歴は、青梅モハ103(1928年)→国鉄モハ103(1928年)→富士急ロハ300(1949年)→富士急ロハ900(不明)→流山クハ53(1968年)[18]
  • クハ55 - 東濃鉄道クハ211を1975年に譲受。元西武クハ555名鉄鳴海工場で検査および塗装して流山に入線する[16]。車歴は、(旧)西武クハ605(1927年)→(旧)西武クハ1106(1940年)→西武農業クハ1106(1945年)→西武クハ1106(1946年)→西武クハ1156(1948年)→東濃クハ211(1963年)→流山クハ55(1975年)[18]。1981年廃車。
クハ55(鰭ヶ崎 - 平和台間にて1978年3月19日撮影)
クハ53の連結面(流山駅にて1979年4月15日撮影)


[編集] 改軌後(軌間1067mm)の車両

駿豆鉄道から蒸気機関車2両(No.15・No.16)を借り入れ、後に正式に購入した。客車は国鉄から4輪客車を3両購入し、貨車も国鉄から購入した。1933年から1934年にかけて内燃動力の併用認可を得て、4輪ガソリンカーを2両(キハ31・キハ32)を新製で購入。当時は鉄道で内燃動車が実用化された頃で、経済性とフリークエントサービスを目的に採用した。ガソリンカーの導入により客車は休車となり、その後廃車。蒸気機関車は貨物及び入換専用となった。1938年には国鉄から蒸気機関車(No.105・No.1255)を購入し、No15とNo.16を廃車にした[10]

[編集] 蒸気機関車

蒸気機関車は、本鉄道所有機が4輛、国鉄からの借用機が1輛在籍していた。

  • 甲2形蒸気機関車(腰高康治撮影)[25]
    形式 - 甲2[26]、番号 - 15・16ボールドウィン製B形サドルタンク。車軸配置 2-4-2、動輪直径 953mm[27]、動輪ホイールベース 1524mm、先従輪直径 610mm、先従輪間のホイールベース 5398mm、車高〈キャブ屋根〉2845mm。1890年製。北海道炭砿鉄道が輸入し、No.15・No.16となる。その後、1898年豆相鉄道へ2両共譲渡され、豆相鉄道の電化に伴い1924年に流山鉄道に移り、流山鉄道で最期を迎える[28]。代価は2両で15,800円。1933年にガソリンカーが入線するまで旅客及び貨物輸送を担っていたが、それ以降は貨物輸送専門となる。映画『牛づれ超特急[29]』にも出演したことがある。1938年11月14日付でNo.16が、1939年1月16日付でNo.15が廃車となる[30][31]
  • No.105 形式図[32]
    形式 - 105、番号 - 105[26]、B形サイドタンク。車軸配置 2-4-0、動輪直径 1370mm。1913年秋田鉄道(現・JR花輪線)カー・スチュアート社から購入した機関車(製番1198)で、秋田鉄道が国鉄に買収された時に「105」という形式が付けられた。1938年に流山に入線した(11月21付払下認可、1月12日付使用開始)[26]。「105」という番号は国鉄の型式番号をそのまま継承する。貨物列車用及び入換用として電化後まで使用される[31]1951年5月に日車東京支店に売却された。番号については、『鉄道趣味』(No.25)では国有後も秋田鉄道時代と同番号で使用された、とある。秋田鉄道に入線した時の番号は「4.1」(4は動輪数、1は番号を表すそうである)であったらしい[33]
  • No.1255 形式図[34]
    形式 - 1255、番号 - 1255[33]ピッツバーグ製C形サイドタンク。車軸配置 0-6-0。1897年製。ドームは3個ある[33]。105号機と共に国鉄から購入し、貨物列車用及び入換用として電化後まで使用し[31]1938年から1954年まで走り続けた[33][35]。『鉄道ピクトリアル』(No.20 1953年3月号 p28)には「1938年11月21日払下認可、1939年4月29日付使用開始」とある。この機関車の経歴は、阪鶴鉄道 No.3(1987年)→高野鉄道 No.3(1905年6月)→南海鉄道 No.3(1922年9月)→庄川水電 No.不明(1925年7月)→新宮鉄道 No.7(1930年頃)→鉄道省 No.1255(1934年7月買収)→流山鉄道 No.1255(1938年11月)。帳簿上はボールドウィン製になっているが、シリンダー上部を石でこすると「PITTSBURGH」の文字が判読できる。太平洋戦争中に機銃掃射を至る所に受けて、その穴を埋めた跡がある(「蒸気機関車No.1255の被弾」を参照)。1952年12月まで馬橋駅での貨車入換専用であったが、ディーゼル機関車DB-1の入線によりその仕事がなくなった[33]1955年10月25日に流山車庫で解体された(廃車年月日は不明)[30]
  • 借用機
    • 形式 - 1325、番号 - 1325。1911年アルコ・ロジャース製。1944年に国有化された西日本鉄道のNo.8である。この機関車は借用機で、田端機関区に私鉄貸出用としてあった機関車である。電化後に入線して、1951年の春頃まで在籍していたようである。本社の話によると、整備して使用する予定でいたが、余りにも状態が酷くて使用できなかったそうである。同年正月の時点では全体が赤錆ていた[33][36]

[編集] ディーゼル機関車

ディーゼル機関車は、馬橋駅での貨車入れ換え用機と1輛在籍していた。

  • 廃車後のディーゼル機関車DB-1(1981年5月15日撮影)
    DB-1 - 森製作所製。凸型B型ロッド式10t機関車。老朽化した蒸気機関車No.1255に代わって導入されディーゼル機関車で、馬橋駅での入換専用であった。1952年12月20日付認可で入線した。エンジンは三菱日本重工製の130PS(2000rpm)、ホイールベース 2000mm、車輪径 660mm、製番 3299、プレートには10月製とある。エンジンは馬橋側のボンネットにあり、流山側には変速機と逆転機、バッテリーなどがある。1966年頃は1日2回程出場して入換作業をしていた。1970年代は休車状態になり、その後は夜間の保線用資材の運搬などに使用された。1975年には保線機械への改造が計画されていた[16]1977年4月1日付で貨物営業が廃止され、1978年5月31日付で廃車となり、1981年6月に解体処分された[37][33][38][39]

[編集] バッテリー機関車
  • 番号不明 - メーカー・製造年不明。キャブは木造で、車体は凸型かL型、動力はバッテリーと推察される。馬橋駅構内での入れ換え機である。車籍は本鉄道か国鉄と推察されるが、不明である。1965年1月に馬橋駅構内で稼働していることが確認されている[40]

[編集] ガソリンカー

ガソリンカーは、2輛在籍していたが、2輛とも後に動力装置を外され、客車として使用された後で廃車となった。

  • キハ30形・キハ31 - 1933年3月汽車会社製の半鋼製2軸ガソリンカーである。定員40名(座席20名)。同年4月から使用を開始し、電化されるまで旅客輸送の主力車両であった。窓・ドア配置は「F3-1D5D1」で、馬橋側に荷台がある。また、ドアにはステップが付いている。エンジンはフォードBB 4気筒 29kW(1600rpm)。座席はロングシート。1952年秋にエンジンと運転装置が撤去され、ラッシュ時に電車に牽引されて使用された。1959年に荷台の部分を窓1個だけ客室を延長してサハ31と改称した(窓・ドア配置は「F3-1D6D1」)。1963年5月15日付で廃車となった[41][38]。なお、キハ31は現在エンジンをおろした客車時代の姿で流山市総合運動公園に静態保存されている。
  • キハ32形式図[42]
    キハ30形・キハ32 - 1934年10月汽車会社製の半鋼製2軸ガソリンカーである。車体寸法はキハ31とほぼ同じ。同年12月から使用を開始した。窓・ドア配置は「F3-1D5D1」である。エンジンはウォーケシャー6mS 6気筒 42kW(1600rpm)。当時の燃料事情を反映して木炭ガス発生装置が取り付けられていたのだが、成績不良のため、1944年末に撤去され、その跡は荷台となり、前後両端に荷台を持つことになった。1934年にこの装置が取り付けられた経緯は、政府がその装置の費用の半額以内(最高300円)の補助金を与えたからである[43]1950年9月にエンジンと運転装置を撤去しサハ32となったが、実際には1949年にエンジンを撤去している。廃車は1963年5月15日付。1966年頃は車体のみが流山で物置になっていた[41][38]

[編集] 客車
サハ32〔荷台付〕(流山駅にて永井信弘撮影)
廃車後のサハ31車体〔荷台無し〕(流山駅にて1979年9月撮影)
色褪せた廃車後のサハ31車体(流山駅にて1977年3月25日撮影)

客車は、本鉄道所有車が5輛(うち2輛はガソリンカーからの動力装置を外した二軸車)、国鉄からの借用車が4輛在籍していた。

  • フハ11 - 改軌の際して国鉄から購入した木造4輪2・3等合造車。1923年12月21日付で認可を得て入線。国鉄での車番はフロハ920(形式フロハ920)で、新橋工場製である[44]。初期の国産客車で、非貫通の区分席形[45]。であった。この客車は並等車として使用された。1933年にガソリンカーが入線したため、1937年3月5日付で廃車になった[38]
  • フロハ21 - 改軌の際して国鉄から購入した木造4輪2・3等合造車。1923年12月21日付で認可を得て入線。国鉄での車番はフロハ925(形式フロハ924)で、神戸工場製である[44]。初期の国産客車で、非貫通の区分席形[45]。であった。この客車は合造車として使用された。1933年にガソリンカーが入線したため、1937年3月5日付で廃車になった[38]
  • ハニ1 - 木造4輪3等荷物合造車。山陽鉄道兵庫工場製。国鉄から購入。旧番号はハニ3560(形式3558)。入線は1924年9月30日付で認可を受けた。1933年にガソリンカーが入線したため、1937年3月5日付で廃車になった[38]
  • サハ31 - キハ31の項目を参照。
  • サハ32 - キハ32の項目を参照。
  • 借用車
    • キハ502 - 1945年1月26日付の認可で、客車代用として国鉄から借り入れ。五日市鉄道南武鉄道買収車である。1年間使用し、その後、茨城交通ケハ502となった[46]
    • キハ42000形(42033)- 1948年頃に国鉄から一時的にエンジンなしで借り入れた車両で、電化後に返還された。ラッシュ時には小型ガソリンカーのキハ31とキハ32では輸送力不足なので、この42033を蒸気機関車で牽引して使用した。国鉄へ返還後はガスカー キハ42200形となった[41]
    • ナハ23818 - 1949年7月に国鉄から借り入れた4輪ボギー客車である。借入代金は1日850円であった。借入後2ヶ月で返還した[36]
    • ヤ5010 - 1949年10月、国鉄の都合で返還したナハ23818の代車として借り入れ、電化まで使用され、その後返還した[36]

[編集] 貨車

貨車は、本鉄道で有蓋車と無蓋車を保有していた。

  • 有蓋車
    • ワム301(流山駅にて1977年3月25日撮影)
      ワム301 - 1957年11月に本鉄道で製造[47][48]。1983年には屋根にパンタグラフが取り付けられていた。写真参照。
    • ワ203 - 木造。1958年5月に庄内交通から購入[47]
    • ワ202(流山駅にて1979年4月15日撮影)
      ワ202 - 1957年9月に本鉄道で製造[47]
    • ワフ31。車体は流山駅構内で倉庫として使用されていた(1986年3月16日、流山駅にて撮影)。
      ワフ31 - 木造[17]1950年1月に本鉄道で製造した。貨物の減少と車両の老朽化により1965年10月に廃車となった[47]。車体のみ流山駅構内で倉庫代用として使用されていたが、1970年8月の時点では車掌室側妻板が撤去されていたが[49]、その後引き戸が設置された。写真参照。
    • ワフ1 - 改軌の際に国鉄から購入。車番変更あり。ワフ1→ワブ1(1947年廃車)[38]
    • ワ11
      • 初代 - 改軌の際に国鉄から購入。車番変更あり。ワ11→ワ1(1937年廃車)[38]。木造[17]
      • 2代目 - 1950年1月に本鉄道で製造。貨物の減少と車両の老朽化により1964年10月に廃車となった[47]
    • ワ1
      • 初代 - ワ11の項目を参照。
      • 2代目 - 1943年に国鉄から購入。詳細は不明[38]
  • 無蓋車[50](1977年3月25日、流山駅にて撮影)
    無蓋車(1977年3月25日、流山駅にて撮影)
    無蓋車
    • ト21 - 改軌の際に国鉄から購入。車番変更あり。ト21→ト1(1939年廃車)[38]
    • ト22 - 改軌の際に国鉄から購入。車番変更あり。ト22→ト2(1939年廃車)[38]
    • ト1
      • 初代 - 木造[17]。ト21の項目を参照。
      • 2代目 - 1952年1月に本鉄道で製造[47]
    • ト2
      • ト22の項目を参照。
    • 無蓋車(国鉄の「ト」に相当)- 木造
    • 無蓋車(国鉄の「チ」に相当)- 木造


[編集] 保線車輛等

保線車両等にはキャブ付タンク車、トロッコ、車輛整備時に使用する台車などがある。

  • トロッコ - トロッコは本鉄道検車区で製作する[51]


[編集] 軽便鉄道(軌間762mm)時代の車両

流山市立博物館に写真が展示されている。

開業時に準備した車両は蒸気機関車・客車・貨車がそれぞれ2両であり、営業運転上最小限の必要両数であった。この状態は電化時まで続けられた。蒸気機関車のうちC形9t機は使用を中止し、頸城鉄道の3号機(初代)を代わりに購入。その後、雨宮製作所製のB形6t機を購入して3号機とし、1号機を売却。さらに田中鉱山からB形5.7t機を購入して4号機とし、2号機を売却した[52]

[編集] 蒸気機関車(軌間762mm)

(※参考文献によって、No.1とNo.2の車歴の記述が異なり、その影響で、この2輛の後継機となるNo.3とNo.4の当鉄道への入線経緯が錯綜することに注意)

  • 1号機(No.1)- コッペル製。頸城鉄道から購入[53](1915年月4日付認可)。1914年製のB形4.7t機。主力機関車として改軌直前まで活躍したが、No.3と交替し、1922年1月26日付認可で東京の永井弥五郎商店へ売却した<[10]。本機は二つの動輪の間にシリンダーがある非常に珍しい構造であった[54]
  • 2号機(No.2)- 1909年製のコッペルB形5.2t機。No.1と共に開業に先立ち購入した(1916年3月11日付認可)[10]。ドイツから輸入後の約1年半、川崎付近で土木工事に使用されていたものを購入した、と言われている。一説によると、品川駅の後ろの海の埋め立て工事に使用されていた、とも伝えられている。土木工事用の機関車であったことは事実のようである[53]。購入時にはすでに相当損傷したいたようで、当鉄道では手離したかったが、改軌直前まで活躍し、1924年10月13日付認可で東京本所(現・東京都墨田区)の横田鉄太郎に譲渡した[10]。本機の車歴はこのように伝わっていたが、本機は土木業者・大丸組が品川海岸の埋立て工事に使用していた機関車を当鉄道が購入したがすぐに交換として頸城鉄道へ転出させ、実際には使用されておらず、代わりに入線したがのNo.1であり、それと混同されてしまったらしい[54]
  • 3号機(No.3)- No.1の老朽化により代替機として購入(1922年4月9日認可)。雨宮製作所製のB形6t機。製造年、前歴などは不明。書類には「既製新品」とある。改軌まで活躍したが、1925年2月21日付で廃車になった[10]
  • 4号機(No.4)- B形5.7t機。製造年、メーカー共に不明。1924年6月18日付認可で田中鉱山(釜石)から入線。No.2の代替機として入線したが、認可時より1年以上早く入線したようである。当機認可時(1924年)にはすでに改軌認可が出た後であった。改軌後の1925年2月21日付で廃車になった[10]
  • 未購入機・代替機
    • コッペル製C形9t機(1911年製)- 設計認可を得たが、購入しなかった機関車である[10]
    • 水管式6t機 - 製造所などは不明。No.2の状態が悪いため、No.2購入時の服部商店に対して代替機の斡旋を要求し、服部商店は水管式6t機を提示し、1917年1月30日に入線し試験運転を行ったが、成績不良で返還された[10]

[編集] 客車(軌間762mm)
  • ロハ1・2 - 開業に際して、大日本軌道鉄工部で新造した[55]木造4輪ボギー特並合造車で、認可は1916年3月2日付。妻面3枚窓の非貫通、両端デッキ、側面の窓は8個。室内はロングシートで、室内灯は油灯であったが、1924年に電灯に改造された。改軌後は廃車となり、小坂鉄道に売却されハ10・ハ11となり、後に有蓋荷物緩急車ホニ1・ホニ2に改造された[30][55]。ホニ1・ホニ2の主要諸元は、台車ホイールベース 1016mm、車輪直径 610mm、台車中心間 4267mm[56]。車内には3HPの発電用ガソリンエンジンを搭載していた[55]

[編集] 貨車(軌間762mm)
  • ワフ1(有蓋車)- 4t積み。大日本軌道で新製。改軌に伴い廃車となる[30]
  • トフ1(無蓋車)- 4t積み。大日本軌道で新製。改軌に伴い廃車となる[30]
  • 4輪緩急車 - 大日本軌道で新製。改軌に伴い廃車となる[30]


[編集] 歴史

[編集] 沿革

[編集] 日本鉄道土浦線 田端 - 土浦間開業

日本鉄道の社紋

1896年明治29年)12月25日日本鉄道土浦線田端 - 土浦間(現常磐線)が開通し、それに伴い松戸駅が新設され[57]流山町の人々も松戸駅まで約2時間徒歩で向い鉄道を利用した。和船蒸気船では東京両国まで数時間かかり、また、1 - 2時間の遅延が頻発したが、それに比べて鉄道は40 - 50分ですみ、時間も正確であった。1898年(明治31年)には馬橋駅が開業し、流山から徒歩1時間半で鉄道を利用できるようになる。その後、1911年(明治44年)になると北小金駅が開業し、流山から鉄道駅まで徒歩1時間になり、流山の人々の喜びは一入であった。このような交通事情の変化のもと、「流山町にも鉄道を」という気運が湧き上がってきた[58]

[編集] 鉄道敷設免許申請と流山軽便鉄道株式会社設立

鉄道敷設免許申請

1912年大正元年)、秋元平八ら31名(その後、8名増える)の商工人が発起人となり、鉄道建設の行動を起こし、流山の人々もみんな賛成した[59]。そして、同年9月17日に鉄道敷設免許申請を提出し[60]1913年(大正2年)7月1日付で認可された[61]

流山軽便鉄道株式会社設立

東京府庁(東京市役所との合同庁舎)

1913年大正2年)11月7日流山軽便鉄道株式会社設立[60][62]。同日、流山町で会社の創立総会を開催し、都築六郎が初代社長に就き、同年11月20日に東京地方裁判所において会社登記を行う[63]。会社の本社は、当初は東京市神田連雀町18番地にあり、鉄道建設申請の受付窓口は東京府庁にあった(本社は1967年昭和42年)5月、流山に移転[64])。 資本金は7万円で、株主数は116人であった。会社創立時の役員は以下のとおり。

  • 取締役 - 都築六郎(社長、東京出身)、岡本文平(東京の技術者)、田中長次郎、大川角蔵(馬橋村の米穀商)、吉場利右衛門
  • 監査役 - 子爵・桜井義功、鈴木金左衛門(流山の金物商・町議会議員)、富山久太郎(埼玉県早稲村[65]の大地主)
  • 相談役 - 堀切紋次郎(流山の醸造業者・町議会議員)、秋元平八(醸造業者・町議会議員)、秋元三左衛門(醸造業者・町議会議員)、中村権次郎(流山の砂糖・金物商・流山銀行頭取
  • 評議員 - 大川五兵衛、森田音次郎(流山の醤油醸造業者)、染谷兼三郎(流山の米穀商)、松本幾太郎(流山の材木商)、葛木栄橘

このような経営陣で会社を運営し、鉄道用地の買収を開始する[66]

株による資金調達の状況は、流山駅前にある商店店主の話によると以下のようなものであった。

「このあたりの商店もみんなで株を買ったものです」(商店店主)

当初は本鉄道の社員も役員も地元の住民が多く、流山町長が取締役に就任していたことなどから町民のための鉄道ということで「町民鉄道」と呼ばれていた[67]。このときの出資者が一株株主に至るまで流山居住の人々であったことから「町民鉄道」の名称が当鉄道の代名詞のように使われるようになったが、利益の見込めない地方鉄道に他の地域の人々が出資することは稀であるため、祭りの寄付金のような一種の地域分担金として流山の住民が所得に応じて株を購入し、出資に応じた[62]

[編集] 鉄道用地買収から軽便鉄道開業まで

用地買収と建設費

1914年大正3年)の前半までに鉄道用地買収は完了した。買収した総面積は4丁4反2畝11歩(約43,871m2)、買収費用は11,880円38銭6厘(11,800.386円)、建設費は80,274円92銭(80,274.92円)であった[68]。 同年3月には工事認可が出て、会社は工事を開始する。鰭ヶ崎付近を除くとほんとどが平地なので工事は順調に進んだが、馬橋駅構内の工事の進捗に遅延が生じ、会社は何度も工事竣工延期願を担当の役所に提出している[69]

軽便鉄道(軌間762mm)開業

1916年大正5年)2月に工事が完了し、3月13日には営業開始準備が完了。会社は政府の許可を得た翌日の3月14日に営業を開始する。開業時の乗車賃の記録は残っていないが、地元の古老の記憶によると、流山 - 馬橋間(5.7km)は12銭(0.12円)であったという。当時は上野 - 馬橋間(21.3km)が18銭(0.18円)、上野 - 北小金間(24.2km)が21銭(0.21円)であった。 鉄道業務に関わる人員の構成は、書記2名、主任技術者1名、駅長1名、助役1名、車掌2名(うち1名は助役を兼任)、駅員2名、機関庫主任1名、機関士1名、機関助手1名、給炭・給水職員1名、清掃職員2名、保線職員4名である[70]

同年2月、流山鉄道開設記念協賛会が『流山案内』を発行し、それには次のように書かれている。

「流山軽便鉄道は、国鉄常磐線馬橋駅を起点にし、流山町(流山駅)を終点とする旅客と貨物の輸送を目的として敷設された路線であり、流山町と国鉄常磐線を結ぶ唯一の交通機関である」(『流山案内』)[60]

[編集] 軽便鉄道営業と社名変更(流山鉄道へ)

開業当初の経営状況

開業時の駅は、馬橋駅、大谷口駅[71]鰭ヶ崎駅流山駅の4駅で、機関車2輛と客車2輛、貨車2輛で営業を開始する[54]。開業当初の経営状況は苦しく、蒸気機関車の燃料である石炭がときどき底をつき、当鉄道の重役などが経営する味醂会社などから石炭を借用することもあった。石炭が入手できないときは「本日汽車休み」の張り紙が流山の町の主要な場所に張り出されたという[54]

1916年(大正5年)3月14日から12月31日までの業績

開業の年の1916年大正5年)3月14日から12月31日までの乗客数は50,508人であった。季節により乗客数に変動があり、3月と4月は旅客と貨物は好調であったが、5月と6月は農繁期のため乗客数は少なかった。農村地域を走る小さな鉄道のため、農繁期など季節の影響を諸に受ける鉄道であった。意外なことに、流山の人々は当初は鉄道をあまり利用しないで、今までどおり徒歩で移動したり荷車を引いて荷物を運んでいた。当時の会社の営業報告書には次のようにある。

「徒歩や荷車を引くような昔ながらの方法を引き続き行い、時間と労力を無駄にするこを考えない地方にありがちな因習を未だに打破できない…」(営業報告書)

しかし、年を追うごとに乗客数、貨物輸送量ともに増加していく[72]

乗客数貨物輸送量推移と社名変更(流山鉄道へ)

乗客数と貨物輸送量は下記の表のように年々増加していく。また、改軌前(軌間762mm時代)の1922年大正11年)には社名を流山鉄道に変更している[73]

西暦(和暦) 乗客数(人) 貨物輸送量(t) 世の中の動向
1916年大正5年) 50,508 不明 3月14日、本鉄道開業(流山軽便鉄道軌間762mm)。
1917年(大正6年) 76,595 1,569
1918年(大正7年) 81,483 1,898 11月、第一次世界大戦終結
1919年(大正8年) 92,577 2,367
1920年(大正9年) 98,783 2,171 同年後半、第一次世界大戦後の不況が顕在化。
1921年(大正10年) 99,573 2,232
1922年(大正11年) 114,160 2,638 社名を流山鉄道に改称。平和記念東京博覧会開催
1923年(大正12年) 129,607 7,750 関東大震災江戸川改修工事。
陸軍糧秣本廠流山出張所建設工事開始。
1924年(大正13年) 139,879 6,217 本鉄道、軌間762mmから1067mm改軌
1925年(大正14年) 158,016 8,638 6月、陸軍糧秣本廠流山出張所建設工事完成[74]
1977年当時の陸軍糧秣本廠流山出張所跡地(1977年11月23日撮影)

乗客数と貨物輸送量が増加した大きな要因は1914年大正3年)に始まった第一次世界大戦である。日本は大戦特需となり、旅客および貨物の輸送量が増加し、その影響は本鉄道にも及んだ。1918年(大正7年)11月の第一次世界大戦終結後も日本経済は好調で、鉄道輸送も好調であった。大戦後の不況が顕在化したのは1920年(大正9年)の後半であるが、本鉄道では流山の人々が鉄道を利用することがごく普通のこととなってきており、1922年(大正11年)に上野公園で開催された平和記念東京博覧会への見物には本鉄道を利用した。1923年(大正12年)に行われた江戸川改修工事のために多数の工事関係者が本鉄道を利用し、また、関東大震災により人や物資の移動が活発となり、これらが本鉄道の乗客数、貨物輸送量増加の要因となった。そして、同年には現在の平和台駅付近の南西側に陸軍糧秣本廠流山出張所の建設工事が始まり、工事関係者や建設資材の輸送量が増加し、本鉄道は第一次世界大戦後の不況や関東大震災による経済的損失を被ることなく、むしろ業績は好調であった。陸軍糧秣本廠流山出張所が建設されたことにより、本鉄道は軍用鉄道として位置付けされることになる[75]

[編集] 改軌(軌間1067mm)から電化まで

改軌(軌間1067mm)

改軌時に入線した蒸気機関車(腰高康治撮影)

1924年大正13年)12月、軌間を762mmから1067mmに改軌し、国鉄貨車の直通を可能にした。陸軍糧秣本廠流山出張所が完成する前年である。この陸軍の出張所へは現在の平和台駅付近から引込線が敷設され、貨物輸送量が飛躍的に増加した[76]。改軌時に蒸気機関車No.15とNo.16が入線。サドルタンクにダイヤモンド形の火の粉止め付き煙突という特異な形態の本機は映画『牛づれ超特急』に出演する。蒸気機関車のほかに、明治期の旧型の木造2軸客車2輛と貨車2輛を国鉄から購入して、営業を開始した[77]1938年昭和13年)にNo.15とNo.16の交替でNo.1255が入線する[8]1933年(昭和8年)にキハ31、1934年(昭和9年)にキハ32のガソリンカーも入線する[78]。当初、キハ32には当時の燃料事情の都合により木炭ガス発生装置が装備されていたが、後に撤去される[43]。 本鉄道を訪ずれた大木貞一は雑誌『鉄道趣味1933年(昭和8年)9月号に、

「(馬橋発のガソリンカーには)客は私のほかに爺さんだけ、途中の三駅は客がなければさっさと通過する。…流山発のガソリン車に客は私一人、中間駅は(乗降客がいないため)皆通過し」(大木貞一)

と本鉄道訪問記を寄稿しているほど閑散で、当時の年間乗客数は7万9千人であった[79][80]

太平洋戦争中の出来事

ボーイングB29戦略爆撃機

太平洋戦争中の流山町は、本鉄道と陸軍糧秣本廠流山出張所など各種の軍事施設があり、軍都の役割を果していた。そのため流山町はアメリカ軍から攻撃目標とされた。1942年昭和17年)4月18日には同町に初めて米軍機が現われたが、このときは偵察飛行であった。1945年(昭和20年)2月に米軍機は東京を爆撃し、この米軍の作戦行動により同町で初めて犠牲者が出る。2月24日8:30pm頃に東京から鹿島灘に向かった1機の爆撃機B29が約10発の爆弾で同町各地を爆撃した。翌25日の午前には関東地方一帯が米軍艦載機により攻撃され、同日午後にはB29が東京を攻撃した。同日のB29は低空飛行をしたために日本軍の迎撃により撃墜されるものも出て、そのうちの1機が現流山市初石地区に墜落した。また、パラシュートによる乗員脱出もあり、同町に隣接する柏町では米兵が逮捕された。7月10日朝には米軍艦載機の攻撃により現同市東初石で犠牲者が出る。このような戦況のなか、同月17日には米軍艦載機により本鉄道の列車が攻撃されて機関士が重症を負い、列車には約40ヶ所に着弾した跡があった[81]

戦後の動力エネルギー事情と電化の経緯

電化時に入線したモハ102(馬橋駅にて伊藤昭撮影)[82]

太平洋戦争後は燃料となる石炭やガソリンが不足しており、列車の運行がままならぬ状況であった。その打開策として動力エネルギーを経費が安価で比較的入手しやすい電力に移行することになった。1949年昭和24年)12月に電化が完了し、国鉄から直流1500Vの電力を購入し、電車3輛で運行を開始する[8]。国鉄常磐線は同年6月1日に松戸 - 取手間が電化ずみ。電化に際しては、1947年(昭和22年)に公選で初めて流山町長になった中村寛次が電化のための活動を開始する。5.7kmの営業路線で変電所を建設したのでは採算に合わないため、常磐線松戸 - 取手間が電化されたら、その電力を融通してもらうために早くから参議院議員小野哲(てつ)(元・千葉県最後の官選知事)に陳情し、当時の運輸省の上層部に働きかけてもらい、部長級官僚への働きかけは千葉県選出の参議院議員山崎亘(わたる)に行ってもらった結果、国鉄から電力を供給してもらえることになった[9]。日本の電化私鉄のなかで、変電所を持たない電化私鉄は本鉄道だけであった[8]

[編集] 朝鮮戦争

この節は執筆の途中です この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています

[編集] 乗客数増加と社名変更(流山電気鉄道、流山電鉄へ)

乗客数増加と社名変更(流山電気鉄道へ)

電化後の1951年昭和26年)11月28日、社名を流山電気鉄道と改称。当時の年間乗客数は119万6千人。1962年(昭和37年)度は200万人超。1966年(昭和41年)度には313万9千人。これは本鉄道沿線の宅地開発が行われたためである[83]

列車交換設備整備と社名変更(流山電鉄へ)

ワム301のドアに記された旧社名と社紋(1979年4月15日、流山駅にて撮影)

1967年昭和42年)5月、本社を流山に移転し[64]、同年6月20日、社名を流山電鉄に変更[84]。同年7月1日から輸送量を倍増するために、小金城趾駅に列車交換設備を整備し、一日の列車本数を上下各32本から各46本に増発した。朝の通勤通学時間帯は、馬橋駅流山駅の両駅では、列車が到着すると隣のホームで発車時刻待ちしていた列車がすぐに発車する運行形態をとった[79]

[編集] 経営陣交替と社名変更(総武流山電鉄へ)

1971年昭和46年)1月20日、社名を総武流山電鉄と改称。経営陣も交替が激しく、平和相互銀行の小宮山グループの傘下に入り、第2位の株主は銚子電気鉄道のオーナー内野屋工務店[85]である[84]

国鉄武蔵野線開業の影響

開業5年後の武蔵野線南流山駅(高架ホームに停車中の列車は101系、1978年2月25日撮影)

1973年昭和48年)の国鉄武蔵野線開業の影響により、乗客数の伸びは今までのように急増はしていない[84]

1970年代半ばの収益

1976年昭和51年)度の鉄道部門の収入は2億7千万円である。当時の経済状況はインフレであったが、このような状況下でこの収入であることから、当鉄道の規模の小ささがわかる[86]。この頃、当鉄道では70歳以上の流山市民の乗車賃を無料にしていた[87]

[編集] 列車本数増便と車輛増備

1978年昭和53年)以降は西武鉄道から18輛の車輛を譲り受け、各編成ごとに車体のカラーリングを変えて、オレンジ色の「流星」、青の「流馬」、銀の「銀河」、若草色の「若葉」、黄色の「なの花」、赤の「あかぎ」という愛称が付けられた。「青空」は青地に白の「N」の文字をあしらったデザインで、本鉄道初の冷房車である。各編成の愛称は一般公募で決められた。 また、乗客数は伸び続け、1993年平成5年)度の乗客数は610万人を超え[84]1996年(平成8年)には一日の列車本数が上下各72本になった[88]

この節は執筆の途中です この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています

変電所建設

輸送量の増加に対応して本鉄道は変電所を建設[79]

この節は執筆の途中です この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています

[編集] 社名変更(流鉄へ)

2008年(平成20年)8月1日、本鉄道は社名を流鉄に、路線名を流山線に変更した[1]

この節は執筆の途中です この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています

[編集] 日本鉄道土浦線敷設に関する逸話

復元された京都の高瀬船

流山軽便鉄道が作られた遠因には鉄道忌避があった(鉄道忌避があったため常磐線が流山を通らなかった)とする説が過去には通説とされていたことがあった。忌避説が文献に最初に発表されたのは1964年昭和39年)の『松戸市史』である。その後忌避説は北野道彦が執筆した『「町民鉄道」の60年 - 総武流山電鉄の話』と『総武流山電鉄七十年史』へ受け継がれる[89]

流山町は醸造と水運で繁栄していた[90]日本鉄道土浦線(現常磐線)は流山町を通るはずであったが、これに対して流山町では水運業者(当時の水運業者数は十数と推定される[91])を中心に激しい反対があった。水運業が成り立たなくなってしまうからである。土浦線には醸造業者も反対した。水運には高瀬船[92]を使用していたが、その建造には費用(1隻約3千円と推定される[93])がかかるため、それを調達するために水運業者は裕福な醸造業者から長期ローンによる借入金に依存していた。そのため、もし鉄道が流山町を通り、水運業が衰退してしまうと、醸造業者は水運業者へ融資した資金の回収が不可能になってしまう。こうのような関係から醸造業者と水運業者の連携が成立したものと考えられる。このようにして、町ぐるみの鉄道反対運動は成功し、流山町を迂回して土浦線は敷設されることになった[94]

しかし、流山市立博物館学芸員山下耕一はこの説を否定している。鉄道に詳しい山下によると、流山に土浦線が通らなかった理由は以下のようなものである。

常磐炭鉱から石炭を輸送するために敷設された土浦線は、最初は流山経由で川口方面に延伸する計画でしたが、鉄道局から『直接東京へ乗り入れよ』という指示があり、流山を通らない田端への経路に変更されたのが真実です」(山下耕一)[67]

[編集] 鉄道建設運動の中心人物 秋元平八

酒類問屋 (株)秋元(流山市流山、1981年3月13日撮影)

鉄道建設発起人には、秋元平八、中村権次郎、鈴木金左衛門、村松喜太郎、秋元三左衛門、堀切紋次郎などの流山の名士が名を連ねたが、中心となって活動したのが秋元平八である。平八は1869年(明治2年)に流山で生まれ、現在の早稲田大学を出た。「平八」という名前は代々の襲名である。平八の家は秋元家の分家であるが、本家の秋元三左衛門とともに味醂「天晴(あっぱれ)」の醸造を手掛け、ほかに醤油も製造していた。

平八は家業にはあまり熱心とはいえず、新し物好きで風流人であったらしい。流山では1900年(明治33年)頃に自転車が流行りだしたが、平八は自転車に夢中になり、自転車を趣味とする人たちの親睦会「曙輪友会」(あけぼのりんゆうかい)が発足した際に、その会長の座についた。そして、ツーリングに出かけたり、各地のロードレースに参加した。そしてまた、馬場山の一部を切り開き、自転車競技場を建設し、自転車レースも主催した。こうした指導力を持っていたことに起因して、平八が鉄道建設運動の指導者に推されたものと考えられる。

また、平八は俳句も趣味とし、「洒汀」(しゃてい)という俳号を持っていた。文学・美術も好きで、小説家や画家とも交流が深く、彼らの後援者でもあった。平八の家には多くの小説家・画家が訪ずれた。小説家では国木田独歩田山花袋、画家では岡倉天心横山大観などである。

平八は1935年(昭和10年)に74歳で亡くなった。

(この参考文献 -『「町民鉄道」の60年 - 総武流山電鉄の話』p19 - 21)

[編集] 蒸気機関車No.1255の被弾

No.1255 形式図[34]
日本本土空襲に使用された米軍艦載機SB2C(No.1255を攻撃した艦載機か否かは不明)
流山駅前の城南通運のトラックと営業所(1979年9月撮影)

太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)7月17日、本鉄道の列車が米軍艦載機の攻撃を受け被弾した。『流山市史研究』「流山と空襲」[95]には次のようにある。

「昼過ぎに馬橋を出て流山へ向った列車で、当時の大谷口駅(現在の幸谷駅と小金城趾駅の間、大谷口城跡の下)を過ぎたところで遭難した。機関士が左腕に重症を負った」(『流山市史研究』創刊号)

また、以下のような列車の乗客および乗員の証言がある。

乗客の証言(1)
空襲警報が出ていました。馬橋駅では、「柏方面が空襲されているので危険だ」という情報が流れていましたが、機関士は「怖くない」と流山駅へ向けて出発しました。大谷口駅の先約100mのところで駅の職員が何か合図をするのが見えました。その直後に機銃掃射があり、乗客は車内に身を伏せ、それから車外に出ました。米軍機は旋回して来て、機関車だけが被弾したようでした。
乗客の証言(2)
突然銃撃音がして、乗客は車内の後部へ移動しました。米軍機は3回ぐらい旋回して来ました。車外に出ると男性が「汽車の下に入れ!」と言うので、いったん列車の下に入りましたが、近所の農家へ走り、縁の下に身を隠しました。機関士が銃撃を受けて、「戸板!、戸板!」という叫び声が聞こえました。
機関助手の証言
主に機関車に攻撃が集中しました。機関車はNo.1255です。列車は12輛編成で、機関車の後部が貨車で、最後尾に客車が1輛の列車でした。貨車には陸軍糧秣本廠流山出張所へ運ぶ乾燥芋などを積載していましたが、機関車の後部の貨車の3輛目までが被弾しました。米軍機の最初の攻撃は西側からあって、低空飛行で銃撃してきました。高度は約50mぐらいでした。当時は馬橋駅に転車台がなくて、機関車をバック運転させて流山駅へ向っていました。「Aさん(機関士)、米軍機が来たら列車を止めて降りよう!」と叫ぶと、機関士は列車を止めました。私は機関車から飛び降りて、車掌に「乗客に車輛の下に入るように指示して!」と言ってから機関車に戻ると、機関士が上腕部に被弾していました。銃弾は貫通しており、腕がぶらついていました。乗客のBさん(鉄道省勤務)がかけつけて来て、私と二人で近所の農家へ機関士を連れて行き、そこで布をもらって止血して、機関士にはその農家にいてもらいました。機関車に戻ってみるとタンクから水が漏れていましたが、Bさんと二人で蒸気圧がゼロになるかもしれない機関車を流山へ向けて走らせました。機関士は城南通運のトラックで柏の病院へ運ばれましたが、被弾した腕を切断することになりました。

(この参考文献 -『総武流山電鉄七十年史』p66 - 69、140)

[編集] 年表

1977年当時の流山駅構内。写真右上の建物は流山市役所。(1977年3月25日撮影)
1979年当時の流山駅構内。モハ102+モハ103+ワ202、ワム301。(1979年9月撮影)
給水塔(1977年11月5日撮影)
1977年当時の馬橋駅構内。車庫内はDB-1。(1977年3月25日撮影)
  • 1945年(昭和20年)8月15日 - 太平洋戦争敗戦。
  • 1949年(昭和24年)6月1日 - 国鉄常磐線松戸 - 取手間直流電化。
  • 1973年(昭和48年)4月1日 - 国鉄武蔵野線府中本町 - 新松戸間開業。
  • 2006年(平成18年)5月17日 - 昼間時間帯に限りワンマン運転の習熟訓練を開始。
  • 2007年(平成19年)11月18日 -「流馬」号が運用終了。
  • 2008年(平成20年)8月1日 - 流鉄に社名変更、同時に路線名を総武流山線から流山線に変更[1][99]

[編集] 映画

映画『牛づれ超特急』 - ボールドウィン製サドルタンク機(形式 - 甲2)が登場する[100]映画

[編集] 参考文献

鉄道ファンウェブサイト

『鉄道ホビダス』ウェブサイト

労働省ウェブサイト

書籍

年刊誌『世界の鉄道』(朝日新聞社)

月刊誌(増刊号含む)『とれいん』(プレス・アイゼンバーン)

  • 林嶢 編集「流山電気鉄道(1960年撮影)」『とれいん増刊 “電車の風景” No.1』プレス・アイゼンバーン、2003年
  • 吉川文夫「チビッコ ガソリンカー」『とれいん』1978年5月号、プレス・アイゼンバーン
  • 堤一郎「小坂鉄道(同和鉱業)- 味のある客車たち」『とれいん』No.1 1975年1月号、プレス・アイゼンバーン

月刊誌(増刊号含む)『Rail Magazeine』ネコ・パブリッシング

  • 『DETAIL FILE 2/私鉄の車輌たち』レイル・マガジン 1月号増刊 ディテール・ファイル2、ネコ・パブリッシング、1997年
  • 谷口幸夫、北村裕「流山の電車に乗りに来ませんか」『レイル・マガジン』No.24 1985年12月号、ネコ・パブリッシング、p41 - p45

月刊誌(増刊号含む)『鉄道ピクトリアル』(鉄道図書刊行会)

  • 谷知幸「総武流山電鉄」『鉄道ピクトリアル』No.620 1996年4月号臨時増刊〈特集〉関東地方のローカル私鉄、鉄道図書刊行会
  • 宮田敦彦、関健一「総武流山電鉄」『鉄道ピクトリアル』No.418 1983年6月号臨時増刊 関東地方のローカル私鉄特集、鉄道図書刊行会
  • 立教大学鉄道研究会「総武流山電鉄」『鉄道ピクトリアル』No.312 1975年11月号 ★学鉄連研究シリーズ[7]、鉄道図書刊行会
  • 宮沢元和「流山電気鉄道」『鉄道ピクトリアル』No.186 1966年7月号〈臨時増刊〉私鉄車両めぐり 第7分冊、鉄道図書刊行会
  • 青木栄一「流山電気鉄道」『鉄道ピクトリアル』No.20 1953年3月号 私鉄車両めぐり(6)、鉄道図書刊行会

月刊誌『鉄道模型趣味』(機芸出版社)

月刊誌『散歩の達人』(交通新聞社)

[編集] 関連文献

研究文献

  • 山下耕一「常磐線の流山通過案と流山線敷設について - 線形からの考察」『流山市史研究』16号、流山市立博物館、2000年、p75 - p105、流山市立図書館
  • 飯島章「日本鉄道土浦線の路線策定をめぐって - 龍ヶ崎・流山の鉄道忌避伝説批判」『茨城史林』18号、茨城地方史研究会 編、筑波書林、1994年、p28 - p46、国立国会図書館
  • 松戸市誌編さん委員会 編『松戸市史』「第9章 鉄道の発達と江戸川水運の衰退」〔2 鉄道の開設とその影響〕松戸市役所、1964年、松戸市立図書館 蔵

書籍

  • 野口冬人「総武流山電鉄」『ローカル私鉄の旅』刊々堂出版社 発行、星雲社 発売、1980年12月25日 新装1刷発行
  • 吉川文夫 文、廣田尚敬 写真「総武流山電鉄」『カラー 日本の私鉄1 ローカル編』山と渓谷社、1976年9月15日 初版発行

雑誌

  • 北野道彦 文、秋元恒 絵「ふるさとを歩く(1)流山駅」『流山わがまち 第1巻』Vol.1 No.1 1979年4月、流山わがまち社、流山市立図書館 蔵

[編集] 脚注

[ヘルプ]
  1. ^ 鉄道ニュース 最新鉄道情報 総武流山電鉄 社名と線名を変更」鉄道ホビダス、2008年6月27日。
  2. ^ 『鉄道ピクトリアル』(No.620 1996年4月臨時増刊号 p154)より。
  3. ^流鉄色となった新101系が出場」2009年6月18日16:20 掲載、鉄道ファン・railf.jp
  4. ^流鉄5000系が甲種輸送される」2009年6月23日15:56 掲載、鉄道ファン・railf.jp
  5. ^ 『鉄道ピクトリアル』(No.418 1983年6月臨時増刊号 p129)より。
  6. ^ 『鉄道ピクトリアル』(No.418 1983年6月臨時増刊号 p129)より。
  7. ^ 『鉄道ピクトリアル』(No.418 1983年6月臨時増刊号 p130)より。
  8. ^ 『ちばの鉄道一世紀』(p204)より。
  9. ^ 『流山電鉄七十八年』(p50)より。
  10. ^ 『鉄道ピクトリアル』(No.186 1966年7月臨時増刊号 p57)より。
  11. ^ 『世界の鉄道 '75』(p160)より。
  12. ^ 『鉄道ピクトリアル』(No.186 1966年7月臨時増刊号 p10、p60)に単行走行中の写真が掲載されている。
  13. ^ 『鉄道ピクトリアル』(No.186 1966年7月臨時増刊号 p54)にモハ101が牽引する混合列車、『戦後を走った木造車1』(p103)にモハ105が牽引する混合列車の写真が掲載されている。
  14. ^ 『鉄道ピクトリアル』(No.186 1966年7月臨時増刊号 p60)より。
  15. ^ 『世界の鉄道 '75』(p63)より。
  16. ^ 『鉄道ピクトリアル』(No.312 1975年11月号 p67)より。
  17. ^ 『鉄道ピクトリアル』(No.20 1953年3月号 p30)より。
  18. ^ 『鉄道ピクトリアル』(No.312 1975年11月号 p68)より。
  19. ^ 『鉄道ピクトリアル』(No.418 1983年 6月臨時増刊号 p128)より。
  20. ^ (旧)西武とは、現在の西武新宿線を主とした鉄道で、1945年に武蔵野鉄道と合併し、西武農業鉄道となり、翌年西武鉄道と社名を改称した鉄道のこと。『鉄道ピクトリアル』(No.312 1975年11月 p68)より。
  21. ^ 『鉄道ピクトリアル』(No.186 1966年7月臨時増刊号 p60)より。
  22. ^ 『世界の鉄道 '75』(p63)では「予備車」となっている。
  23. ^ 『世界の鉄道 '75』(p161)より。
  24. ^ 『世界の鉄道 '75』(p62)より。
  25. ^ 「口絵写真」『鉄道模型趣味』(No.33 1951年6月号)より。
  26. ^ 『鉄道ピクトリアル』(No.20 1953年3月号 p27)より。
  27. ^ 『1号機関車からC63まで』(p34)では動輪直径が953mmとなっているが、「北海道炭礦鉄道15号形蒸気機関車」では914mmとなっている。
  28. ^ 『1号機関車からC63まで』(p34)より。
  29. ^ 『ちばの鉄道一世紀』(p204)より。『鉄道ピクトリアル』(No.186 1966年 7月臨時増刊号 p58)では『牛のろ超特急』と書かれているが、Googleで検索すると、『牛づれ超特急』は見つかるが、『牛のろ超特急』は見つけられなかった。『牛づれ超特急』は、製作は東宝映画(東京撮影所)。1937年11月3日、大阪千日前敷倶楽部。10巻 2,151m 79分 白黒。出演は藤原釜足など。『牛づれ超特急』はNo.15(1939年廃車)とNo.16(1938年廃車)が廃車になる前に製作された映画である。
  30. ^ 『鉄道ピクトリアル』(No.186 1966年7月臨時増刊号 p58)より。
  31. ^ 『総武流山電鉄七十年史』(p94)より。
  32. ^ 「第2図 105号形式図」『鉄道ピクトリアル』(No.20 1953年3月号 p28)より。
  33. ^ 『鉄道ピクトリアル』(No.20 1953年3月号 p28)より。
  34. ^ 「第3図 1255号形式図」『鉄道ピクトリアル』(No.20 1953年3月号 p28)より。
  35. ^ 『「町民鉄道」の60年 - 総武流山電鉄の話』(p55)より。
  36. ^ 『鉄道ピクトリアル』(No.186 1966年7月臨時増刊号 p61)より。
  37. ^ 『総武流山電鉄七十年史』(p98)より。
  38. ^ 『鉄道ピクトリアル』(No.186 1966年7月臨時増刊号 p59)より。
  39. ^ 『森製作所の機関車たち』(p82)より。
  40. ^ 『鉄道写真集 ジュラ電からSL終焉まで』(p194)より。
  41. ^ 『鉄道ピクトリアル』(No.20 1953年3月号 p29)より。
  42. ^ 「第6図 キハ32形式図」『鉄道ピクトリアル』(No.20 1953年3月号 p29)より。
  43. ^ 『総武流山電鉄七十年史』(p97)より。
  44. ^ 流山の記録ではフロハ920とフロハ924の製造所が逆になっているが、ここでは『客車略図』(1911年、明治44年)に従う。『鉄道ピクトリアル』(No.186 1966年7月臨時増刊号 p58)より。
  45. ^ 室内のクロスシートが車幅全幅にわたっており、各座席ごとにドアがある。『鉄道ピクトリアル』(No.186 1966年7月臨時増刊号 p58)より。
  46. ^ 『内燃動車発達史 上巻 - 戦前私鉄編』(p86)より。
  47. ^ 『鉄道ピクトリアル』(No.186 1966年7月臨時増刊号 p60)より。
  48. ^ 台枠には雨宮製作所の製造銘版があった。写真参照。「遠い日の総武流山電鉄。(下)」『編集長敬白』(2008年01月28日 09:08)より。
  49. ^ 『DETAIL FILE 2/私鉄の車輌たち』(p115)より。
  50. ^ ト1と思われる。「遠い日の総武流山電鉄。(下)」『編集長敬白』(2008年01月28日 09:08)より。
  51. ^ 『レイル・マガジン』(No.24 1985年12月号 p42)より。
  52. ^ 『鉄道ピクトリアル』(No.186 1966年7月臨時増刊号 p56)より。
  53. ^ 『総武流山電鉄七十年史』(p91)より。
  54. ^ 『ちばの鉄道一世紀』(p203)より
  55. ^ 『とれいん』(No.1 1975年1月号 p48)より。
  56. ^ 『とれいん』(No.1 1975年1月号 p49)より
  57. ^日本鉄道開業の歴史」参照。
  58. ^ 『「町民鉄道」の60年 - 総武流山電鉄の話』(p16 - 17)より。
  59. ^ 『「町民鉄道」の60年 - 総武流山電鉄の話』(p17)より。
  60. ^ 『流山電鉄七十八年』(p16)より。
  61. ^ 『「町民鉄道」の60年 - 総武流山電鉄の話』(p18)より。
  62. ^ 『ちばの鉄道一世紀』(p202)より。
  63. ^ 『「町民鉄道」の60年 - 総武流山電鉄の話』(p25、26)より。
  64. ^ 『「町民鉄道」の60年 - 総武流山電鉄の話』(p18)より。
  65. ^ 『「町民鉄道」の60年 - 総武流山電鉄の話し』(p27)には「早稲村」とあるが、「早稲田村」のことかも。
  66. ^ 『「町民鉄道」の60年 - 総武流山電鉄の話』(p25 - 27)より。
  67. ^ 『散歩の達人』(2003年11月号 p27)より。
  68. ^ 因みに1918年大正7年)の物価は、米1石(約180.39L)32円75銭(32.75円)、醤油1升(約1.8L)。1919年(大正8年)の物価は、木炭1俵(60kg)1円30銭(1.3円)、中級の清酒1升(約1.8L)11銭2厘(0.112円)、もりそば1杯が7銭(0.07円)、牛乳1合(約180ml、約180cc)6銭(0.06円)--『「町民鉄道」の60年 - 総武流山電鉄の話』(p28)より。
  69. ^ 『「町民鉄道」の60年 - 総武流山電鉄の話』(p28、29)より。
  70. ^ 『「町民鉄道」の60年 - 総武流山電鉄の話』(p28 - 30)より。
  71. ^ 馬橋駅鰭ヶ崎駅の中間にあった駅で、馬橋駅から2.2km、鰭ヶ崎駅から1.5kmの地点にあった -- 『鉄道ピクトリアル』(No.20 1953年 3月号 p27)より。
  72. ^ 『「町民鉄道」の60年 - 総武流山電鉄の話』(p31 - 33)
  73. ^ 『「町民鉄道」の60年 - 総武流山電鉄の話』(p37)より。
  74. ^ 『流山糧秣廠』(p32)より。
  75. ^ 『「町民鉄道」の60年 - 総武流山電鉄の話』(p33 - 35)より。
  76. ^ 『ちばの鉄道一世紀』(p203、204)より。
  77. ^ 『鉄道ピクトリアル』(No.186 1966年7月 p58、59)より。
  78. ^ 『鉄道ピクトリアル』(No.186 1966年7月臨時増刊号 p59)より
  79. ^ 『ちばの鉄道一世紀』(p205)より。
  80. ^ 『「町民鉄道」の60年 - 総武流山電鉄の話』(p33)では、1925年(大正14年)の乗客数は、158,016人とある。節「軽便鉄道営業と社名変更(流山鉄道へ)」の表を参照。
  81. ^ 『総武流山電鉄七十年史』(p61 - 65)より
  82. ^ 「第7図 100形 No.102」『鉄道ピクトリアル』(No.20 1953年3月号 p29)より。
  83. ^ 『ちばの鉄道一世紀』(p204、205)より。
  84. ^ 『ちばの鉄道一世紀』(p206)より。
  85. ^ 事務所の所在地は千葉県東金市。1998年(平成10年)6月5日に破産 -- 労働省発表資料一覧『(株)内野屋工務店を雇用調整助成金に係る大型倒産等事業主に指定』より。
  86. ^ 『「町民鉄道」の60年 - 総武流山電鉄の話』(p2)より。
  87. ^ 『「町民鉄道」の60年 - 総武流山電鉄の話』(p5)より。尚、現在の状況は不明。
  88. ^ 『ちばの鉄道一世紀』(p205、206)より。
  89. ^ 『鉄道忌避伝説の謎』(p187 - p191)より。
  90. ^ 『総武流山電鉄七十年史』(p14)より。
  91. ^ 『「町民鉄道」の60年 - 総武流山電鉄の話』(p12)より。
  92. ^ 川舟の積載量は数t - 10数t。輸送費は鉄道よりもかなり安価であった --『鉄道忌避伝説の謎 - 汽車が来た町、来なかった町』(p84)より。流山の水運業者が使用していた船の積載量や運賃は不明。
  93. ^ 『「町民鉄道」の60年 - 総武流山電鉄の話』(p13)より。なお、本文献には流山の水運業者が使用していた高瀬船の大きさは記述されていない。
  94. ^ 『流山電鉄七十八年』(p21 - 23)
  95. ^ 伊藤晃「証言で綴る - 流山と空襲」『流山市史研究』創刊号 1983年出版、流山市教育委員会市史編さん室 編、流山市教育委員会流山市立図書館
  96. ^ 『鉄道ピクトリアル』(No.186 1966年7月臨時増刊号 p54)より。
  97. ^ 『鉄道ピクトリアル』(No.620 1996年4月臨時増刊号 p152)より。
  98. ^ 本鉄道の乗り場は常磐線の下り列車乗り場のホームと共用であった --『散歩の達人』(2003年11月号 p27)より。
  99. ^ そのため、常磐緩行線馬橋駅に乗り入れている東京地下鉄千代田線の車両および同線の駅に掲出される路線図における表記を「総武流山線」から「流鉄流山線」に修正シールを使用して書き換えた。(2008年11月現在、まだ訂正していない駅構内・車両内路線図もある)
  100. ^ No.15とNo.16の両方が登場するのか、あるいはどちらか一方だけが登場するのか、不明。

[編集] 関連項目

出典

[ヘルプ]
  1. ^ 参考文献『鉄道忌避伝説の謎』(p21)より。

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月17日 (火) 01:46 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【流鉄流山線】変更履歴

ご利用上の注意

もっと調べる!