浅利慶太

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浅利 慶太(あさり けいた、1933年3月16日-)は、東京都出身の演出家劇団四季創設者の一人で芸術総監督。劇団の運営・管理に当たる四季株式会社の代表取締役会長でもある。慶應義塾高等学校卒業、慶應義塾大学文学部仏文科中退。中曽根康弘のブレーンとしても知られた。

目次

[編集] 家族

大叔父は二代目市川左團次。父は小山内薫らと築地小劇場の設立に参画し、三田英児の名で映画俳優として活躍した浅利鶴雄。鶴雄の母浅利たけの妹登美が左団次の妻で、左団次に子がなかったため慶太に左団次を継がせる話もあり、幼い頃は左団次の家にいたこともある[1]。その他、叔父に旧東京田辺製薬元会長の田辺元三郎がいる。

結婚を三度経験。初妻・藤野節子(1986年死去)、次妻・影万里江(1981年死去)とはともに四季の同士的存在で公私にわたるパートナーとして奮闘も後に離婚。なお、影(1981年死去)は浅利の実家の墓(谷中霊園内)に眠る。影との離婚後は長く独身だったが2003年野村玲子と再々婚し今に至る。

[編集] 来歴・人物

1953年、慶應義塾大学東京大学の学生を中心に劇団四季を結成。主に、ジャン・アヌイジャン・ジロドゥ等フランス文学作品を上演する。その後旧東京田辺製薬にて宣伝・広告などのアルバイトをしながら、日本テレビの「ジャングル・ジム」の吹き替えアテレコに劇団として参加した。

また、1958年には、石原慎太郎江藤淳谷川俊太郎寺山修司永六輔黛敏郎福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対した。だが、後に思想的には保守化する。

1961年、日生劇場製作営業担当取締役に就任。1969年、日本ゼネラルアーツを設立。

1966年から1975年まで越路吹雪リサイタル公演を日生劇場において演出した。

[編集] 持ち前の集客・集金力で劇団を巨大劇団に

1970年代から海外ミュージカルの翻訳上演を始め、莫大な集客・集金力により、劇団四季を大劇団へと成長させる。興行面においては1983年『キャッツ』初演において日本で初めて無期限ロングラン公演を成功させた。

[編集] 稽古指導等

ワンマン経営家としても有名であり、独断で演出、配役、台本をほぼ行っており、彼の後継者がいないのが現状である。

[編集] 近年

近年では1985年12月ミラノ・スカラ座での『蝶々夫人』『トゥーランドット』『エレクトラ』の演出や、長野オリンピック開会式の総合プロデューサーを担当。また、創立当初からのポリシーであるアヌイ、ジロドゥ作品の上演や、太平洋戦争や日中戦争を題材とした「昭和三部作」の上演を行っている。

2006年10月、政府の教育再生会議委員に就任。

[編集] 主な受賞歴

  • 1974年・51年 紀伊國屋演劇賞
  • 1976年 芸術選奨文部大臣賞
  • 1984年 テアトロ演劇賞
  • 1985年 アビアッティ賞 イタリア音楽批評家賞
  • 1986年 経済界大賞特別賞
  • 1993年 日本シェイクスピア賞シェイクスピア演劇賞

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ 小谷野敦谷崎潤一郎堂々たる人生』p.154(中央公論社2006年

最終更新 2009年1月1日 (木) 17:07 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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