浅田孝
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浅田 孝(あさだ たかし、1921年 - 1990年12月4日)は、日本の都市計画家・建築家。香川県出身。戦後活躍する丹下健三の右腕として、丹下の数々の建築作品に関与。他、後に大阪万博を主導することになる建築家・デザイナーグループ「メタボリズム」を結成するなど、多方面で活躍。
甥には『構造と力』などの著者で元京都大学経済研究所准教授で京都造形芸術大学教授の浅田彰がいる。
[編集] 人物
1921年愛媛県松山市に生まれる。1943年 東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、海軍に所属。広島県呉市の基地に見習海軍技術士官として配属される。海軍技術科士官・設営隊長だった1945年8月、香川県に滞在中、瀬戸内を挟んで対岸の本州広島に原爆が投下される。広島上空にあがった巨大なキノコ雲見て、直ちに広島へ向かったという。こうして投下直後の爆心地広島で、調査及び救助活動に当たる。
1945年、丹下健三のもとで東京大学大学院特別研究生となり、戦災復興院嘱託として大谷幸夫らとともに戦災復興都市計画に参加。広島などの戦災復興都市計画立案に関わる。以降、丹下の下で参謀として、さまざまなプロジェクトを共にしていく。広島平和記念公園や旧東京都庁舎ほか、丹下が手掛ける数々の建築に、設計スタッフとして携わる。
1950年、建築雑誌誌上に発表した『建築家とモラル』と題した文章で、芸術を作る作家ではなく本質的な部分に対する深い理解に基づく創造者としての建築家像を記述し提起。
1955年、雑誌新建築編集顧問として、「新建築」1955年8月号「原爆下の戦後10年 日本人の建築と建築家」を編集。1956年には、南極大陸昭和基地を建設オペレーションと設計監理。1959年から、民間の都市コンサルタントとして、環境開発センターを新宿に設立。1961年には株式会社化。
1960年、日本で行われた世界デザイン会議の事務局長を引き受ける。1961年から、横浜市と町田市にまたがる「こどもの国」のマスタープラン作成などを手がける。1962年には柳宗理らと、高速道路・高速自動車道の道路標識や住居表示等のサインシステムのデザイニングに携わる。さらに、大高正人と香川県坂出市のスラムクリアランス事業に参画。「坂出人工土地」を生み出し、日本都市計画学会石川賞を受賞した。
1961年から、横浜市と町田市にまたがる「こどもの国」のマスタープラン作成などを手がける。1970年には園内に建設された皇太子殿下御成婚記念館を実施設計する。
1963年に、環境開発センターを新宿から銀座に移す。この時期センターにはこのあと伊豆大島元町の復興地域計画を手掛ける早大吉阪研究室のメンバーが出入りしていた。浅田は大学には戻らず、研究ではなくプロフェッショナルの実務家として都市計画に携わっていく。計画策定では国土計画的な視点でのものを、特に生まれ故郷四国関連を多く手がける。田村明とは香川の観光開発計画の仕事で合流、愛媛の観光計画では「愛・地球博」の総合プロデューサーを努めたデザイナーの泉真也を伴う。泉は大阪の万博以降、日本国内で行われる万国博覧会全てに参加している。
この年、後に衆議院議員・日本社会党委員長になる飛鳥田一雄が横浜市長になり、市長のブレーンだった鳴海正泰を通して横浜市から浅田率いる環境開発センターに、横浜の都市づくりの計画策定などが依頼される。 市政への市民参加を薦める横浜の新しい都市づくりの中で、浅田の理念は具体化される。浅田は、米軍に長く接収されて手づかずであった横浜都心部の強化策や三菱ドックヤード移転、地下鉄建設など、成果が目に見える「プロジェクト型事業」を進めることを提案する。このあと部下の田村明が横浜市に奉職、今日広く知られる横浜市アーバンデザインのルーツとなる。
1964年、1970年に開催が迫る日本万国博覧会の初期マスタープランを川添登らと手がける。1965年、建築設計した「五色台山の家」が故郷香川県高松市に竣工する。 1967年の東京都知事選挙前において、美濃部亮吉(都知事)のもとで政策「広場と青空の東京構想」作成。一方で対立候補は東京の抜本的改造を目指し、4兆円規模プロジェクト型ビジョンの施策「東京緊急開発行動五ヶ年計画」を取りまとめる。これを手がけたのは浅田の薫陶を直接受けた泉真也で、5年限定の4兆円と、15年に渡る対策費としての13兆円とでは単純比較はできないが、泉らは浅田の13兆円という提示におどろく。1968年、鹿島出版会から『環境開発論』を出版。
1987年から1990年に死去するまで、トヨタ財団の専務理事を努め、環境問題に関して積極的な提言を行った。1990年に逝去。
川添登は著書『建築家・人と作品』(上)(1968年)で「建てない建築家、書かない評論家、教えない大学の教授」と評した。哲学する都市計画家、などとも呼ばれた。また川添によると、何か思いつくと昼夜かまわず「集合」の電話が自分のところに来たという。この号令をかけて集まってくる常連たちが、後のメタボリズムグループと発展していった。
田村明によれば、浅田は報告書のサイズはB版が主流だった60年代から70年代の当時にあって、A4版サイズでレポートを作成させ、表紙には「地域開発のエキスパート 株式会社環境開発センター」と記させたという。自らエキスパ―ト」だと名乗ることについて、浅田は「そのくらいの気構えでなくては駄目なのだ」といったという。また、「ひとつのプロジェクトをやるには、300枚ほどのエスキスが必要」、「コンサルタントのレポートは薄いほど価値がある。1枚半か、せいぜい1枚3分の1くらいまでが理想。これなら1億円採れる。ただ分厚いレポートは誰も読みやしない。紙と印刷代だけ」と語った。事務所には昼過ぎにきて、しゃべり出すと没入し、ときには夜通しになったというが、はなしは天下国家から地球規模のスケールのものまで、時には建築のディテールの細かいはなしまで及んだという。これは東大時代についても黒川紀章が同じように指摘している。つねに地球儀を掲げて宇宙論を語り、世界を論じる、その頃は呑んでは朝まで議論し、銀座にある泰明小学校の近くの旅館が溜まり場だったという。
[編集] 参考文献
- SPACE MODULATOR No.46(日本板硝子株式会社、1975年)
- 「プランナーの足跡 浅田 孝特集」日本都市計画家協会『都市計画家』第14号(1997年春号)
- 椹木野衣『戦争と万博』美術出版社、2005年 ISBN-10: 4568201748 ISBN-13: 978-4568201741
[編集] 関連項目
東北芸術工科大学 - 浅田が生前所蔵していた関係資料等のアーカイブ「浅田文庫」がある。


