浅野史郎
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浅野 史郎(あさの しろう、1948年2月8日 - )は、日本の元政治家、元厚生官僚、元宮城県知事(在任期間 : 1993年11月21日 - 2005年11月20日)。現在は慶應義塾大学総合政策学部教授などを務める。岩手県大船渡市生まれ。
目次 |
[編集] 経歴
- 1966年 - 宮城県仙台第二高等学校卒業。
- 1970年 - 東京大学法学部卒業後、厚生省(現・厚生労働省)入省。
- 1972年 - アメリカ・イリノイ大学留学。
- 帰国後、厚生省社会局老人福祉課課長補佐。
- 1978年 - 外務省在アメリカ合衆国日本大使館一等書記官。
- 1981年 - 厚生省年金局年金課課長補佐。
- 1985年 - 北海道庁福祉課課長。
- 1987年 - 厚生省児童家庭局障害福祉課課長。
- 1993年 - 厚生省生活衛生局企画課課長を最終役職に、厚生省退官。宮城県知事選に立候補し当選。
- 1997年 - 宮城県知事再選(第2期)。
- 2001年 - 宮城県知事再選(第3期)。
- 2005年 - 社会福祉法人宮城県社会福祉協議会会長に就任。
- 2005年11月20日 - 4選不出馬を表明した上で任期満了に伴い、宮城県知事退任。
- 2005年12月1日 - 東北大学大学院法学研究科附属法政実務教育研究センター客員教授に就任。
- 2006年4月1日 - 慶應義塾大学総合政策学部総合政策学科教授に就任。
- 2007年3月5日 - 社会福祉法人宮城県社会福祉協議会会長を辞任。
- 2007年4月8日 - 2007年東京都知事選挙で落選(次点)。
- 2009年6月4日 成人T細胞白血病であることを公表し、闘病に入る。
[編集] 人物
高校3年生の時に受験生への密着リポートとして、地元民放から数ヵ月にわたり取材を受けた体験がある。
厚生省のキャリア官僚時代、障害福祉課長を務めていた経歴から、福祉および介護の分野に詳しい。
1993年、ゼネコン汚職事件で当時現職の知事だった本間俊太郎が逮捕され辞任したことによる宮城県知事選挙に新生党・日本新党・さきがけ・社民連の推薦を受け立候補し、自民党・社会党・民社党が推薦した前副知事、共産党推薦候補ら3候補を破り初当選。
1997年は既成政党の推薦や支持を受けない"脱政党"を打ち出して出馬。自民党・新進党・公明の3党が推薦し、県内の市町村長の多くも支持した市川一朗と共産党推薦候補をダブルスコアで下し再選。
2001年も同様に脱政党を主張し、共産党推薦候補ら2人を大差で下し、3期連続当選した。この際、自民党は候補者擁立を断念、不戦敗に追い込まれた[1] 。この際、自民支持者の多くが投票を棄権したこともあり、投票率は過去最低の35.58%だった。
2期目と3期目の知事選では、民主党と社民党は勝手連として浅野史郎を支援した。
自民党も議会では協調路線を取っており、知事提案の議案には基本的に反対しなかった。一方、排除される形となった共産党はオール与党批判を強めた。
宮城県知事時代には北川正恭や増田寛也、福田昭夫、橋本大二郎、石原慎太郎、片山善博らと並び、構造改革を強力に推進し、政党の表立った推薦を受けない「改革派知事」「無党派知事」として宮城県のみならず、全国的にその名を知られるようになった。
2005年に宮城県知事を退任後、東北大学客員教授に就任。2006年4月からは慶應義塾大学総合政策学部総合政策学科教授として教鞭をとっている。福祉施設関係者の交流と勉強会を兼ねた「アメニティフォーラム」の発起人として当初から参加し、現在もフォーラムの代表として活動している。また、情報番組やワイドショーのテレビおよびラジオ番組にコメンテーターとして多数出演している。
ジョギング愛好家であり、自らのブログにおいて「ジョギング日記」を公開している。フルマラソンを何度も走破しているスポーツマンであり、宮城県知事の公務で東京へ行った際も朝にジョギングをしていたが、同県出身の生島ヒロシが司会を務めるTBSラジオ『生島ヒロシのおはよう一直線』の生放送中のスタジオにジョギングの格好のまま飛び入り出演したことがある(その際、浅野を知らなかったTBSの警備員に怪しまれたとのこと)。以後、同番組にはたびたび出演するようになった。
1999年頃、NHK教育『週刊こどもニュース』の出演者(子役)よりカラ出張について質問を受けた。この時当初は一般の大人に説明するような口調で話していた。しかし、子供たちが理解できていない様子を見て、「(要は)嘘ついちゃったんだよ」と言った結果、子供たちは納得していたという。ちなみに、当時司会であった池上彰の著書『これが「週刊こどもニュース」だ![2]』によるとこの話には後日談があり、この年の年末に浅野が「今年一番印象に残ったことは?」との質問を受け、「週刊こどもニュースの質問」と答えたと言う。また、子供たちが東京都知事であった青島幸男にカラ出張について同様の質問をしたところ「忙しいから答えられない」と返答されており、このことと比較して池上は「子供の声に真剣に耳を傾けた浅野知事は立派でした」と書いている。
[編集] 宮城県知事として
県知事就任後、専門分野の福祉政策の振興で宮城県の構造改革を目指したが理想論が先行し、当初の期待ほどの効果は上げられなかった。
自身がマスコミ等の面前で積極的に活動し、宮城県をアピール。同県産コメをPRするテレビCMに菅原文太と共演したことも話題になった。
また、浅野が好んで使用している言葉の「夢」を宮城県の政策・施設・イベントなどに付けており、国際ゆめ交流博覧会(会場隣接地の開発地区名称は「みなと仙台ゆめタウン」)が開催された他、夢メッセみやぎやみやぎ夢大使など現在でも受け継がれている名称も多い。
[編集] 障害者政策
[編集] みやぎ知的障害者施設解体宣言
浅野は官僚時代より、知的障害者を施設ではなく地域で受け入れていくという「施設解体」への取り組みが先進的であった。そのため、知事就任後は施設収容中心の福祉行政からの方向転換を掲げた。
1996年には官僚時代からの知己であり、長崎県で福祉施設理事長をしていた田島良昭を県福祉事業団の副理事長(のち理事長)として招請し、二人三脚でこの政策を進めていった。
2004年には「みやぎ知的障害者施設解体宣言[3][4][5]」を発表して、県内にある知的障害者入所施設の解体と、知的障害者が地域の中で生活できるための条件を整備すること(ノーマライゼーション)を宮城県の障害者施策とした。
宣言では「適切な支援措置さえあれば、重度の障害を持った人たちであっても地域での生活を送ることができること、そして、それが知的障害者の生活を豊かなものにする」と説明している。また、この政策と同じ趣旨の障害者自立支援法には「多少の不備を理由に反対するようなことがあってはならない」と賛成を表明した。
但し、これは入所施設を解体した後の障害者の支援事業に対して何も具体的な施策はなく、「体の良い施設閉鎖の詭弁だ」と共産党系の議員を中心に批判を浴びた。
具体的には心身障がい者総合援護施設宮城県船形コロニーを2010年までに解体し、入所者全員を地域生活に移行させるとしたが、後任の村井嘉浩知事により軌道修正されている[6]。
[編集] その他
2001年(平成13年)、第56回国民体育大会「新世紀・みやぎ国体」と共に、第1回全国障害者スポーツ大会「翔く・新世紀みやぎ大会」を宮城県で開催した。両大会開催月には、街角バリアフリー音楽祭の「とっておきの音楽祭」が初開催され、1280万円の補助金を出している[7]。この音楽祭には思い入れがあるらしく、知事退官後の2006年(平成18年)にエグゼクティブプロデューサーとして同音楽祭の模様を収めた映画を制作した[8]。現在は、スペシャルオリンピックス日本理事となり、一方で同映画の全国上映を推める会の会長として活動している[8]。
[編集] 情報公開
在職中の実績として特に評価されているのが情報公開で、全国市民オンブズマン連絡会議が作成した「全国情報公開度ランキング」において、宮城県は2004年度は47都道府県中岩手県と同ポイントの全国1位タイ、2005年度は鳥取県に次ぐ2位の高評価を受けた[9]。
[編集] 入札改革
公共事業費を削減する為に、業者に自由な競争を促す一般競争入札を大幅に導入するという入札改革を行い、その結果談合を激減させた。
全国市民オンブズマン連絡会議の報告によると、2005年度の宮城県が発注する公共事業の平均落札率(入札予定価格に対する落札額の比率)は74.9%で、長野県(74.8%)に次いで全国2位の低さに抑えられている。また、同調査での談合疑惑度を示す落札率分布(2005年度)では落札率95%以上の割合が他を大きく引き離す全国1位の0.9%に抑えられており、宮城県では談合がほぼなくなったことを示している[10]。
この入札改革の結果、談合の痕跡は確かに激減したが、今度は大手ゼネコンが受注しやすいようになり常識をはるかに超える低価格での受注が相次ぎ、その余波として、今まで大手ゼネコンの下請けとして成り立っていた地元建設業界は軒並み倒産もしくは大手ゼネコンの連結子会社化した。
しかし、後任の村井知事時代に建設業界の利益を重視する入札制度の変更が行われ、2006年4〜11月の落札率は78.9%と、2005年度に比べて3.6ポイントアップするなど、状況は以前の状態に戻りつつある。
[編集] 財政運営
人件費については県職員給与等の削減を行った。道路や施設等を整備する投資的経費についても公共事業に上限枠を設けるなどして、後年度の県債増加度合の軽減策を図った。
しかし、長引く景気の低迷を反映して県税収入などの一般財源が減少し、小泉内閣の三位一体の改革による地方交付税1兆円削減の影響を受け、県債の活用及び基金の取崩しにより収支の均衡を図るなど、在任期間は一貫して厳しい財政運営を強いられた。財政調整基金等の現在高は減少に転じ、国の経済対策への呼応や地方交付税の振り替わりである臨時財政対策債の増発を行った[11]。
また、小泉改革による地方税制改革を『交付税の縮減だけをやって、肝心の税源移譲は何も話されていない』『単に財政上のつじつまが合わせから、つまり「金がないから」ということが前面に出るような「見直し」なら願い下げである』と、地方の首長として、ある種の悲鳴に近い批判をしていた[12][13]。
1993年度末に7105億円あった県債残高は2005年度末には1兆3653億円へと膨れ上がっている[14]。
宮城県の借金が増加した理由の一つとしては宮城県立こども病院問題がある。病院は前知事時代に財政難で廃案となり「既存の施設を利用して県内各地に小児科医を配置する」という代案が提示されたが、浅野が建設を再び決定した。その病院は2003年に開院したが、現在も巨額の赤字を生み出している。また、その建設に反対して浅野によって事実上、左遷させられた元出納長が自殺する事件が起きた[15]。
福祉一辺倒の政策によって地元経済の保護が疎かになり、更には規制緩和の影響によって、在京大手資本の宮城県経済圏参入により、地元大手企業の多くが倒産もしくは在京、在阪大手資本の子会社化し、宮城経済界は事実上崩壊することとなった。その結果、[要検証]地元企業からの法人税が激減したため、県の歳入回復の見通しは全く目処が立たず、宮城県の歳入は地方交付税と地方債頼みとなった。この影響により次の村井知事はかつて石原都知事が大手銀行に行った「外形標準課税」を手本に、宮城県に支店もしくは支社、営業所を構える他都道府県に本社機能がある企業を中心に「みやぎ発展税」を創設し、強引な手法と批判を浴びつつも何とか法人税を確保しようとしている。
経済政策としては県政末期、「ベンチャー企業の育成」「中国経済圏への商圏開拓」などを政策としたが、折からのITバブル崩壊とチャイナ・リスクの影響で不発に終わってしまった。
2007年現在での宮城県は、北海道同様に全国的な景気回復基調から取り残されており、現状としては財政再建団体転落の一歩手前の状況である。2008年もその状況は変わらず、負債は1344億円にも上る。
[編集] 捜査報償費の執行停止
浅野は2004年、宮城県警の捜査報償費を巡る疑惑に関して県警に会計文書の閲覧と捜査員の聴取を要求した。県警は一旦は文書閲覧を許したものの、浅野の対応を不満としてその後は認めなかったため、対立が続いた。2005年6月24日には、宮城県警の捜査報償費が適正に執行されていない疑いが強いと判断し、知事の権限で予算執行の停止を決定した。
警察の捜査報償費をめぐっては北海道警や福岡県警などで不正支出が明るみに出ており、これまでに浅野は「99%が裏金」と話した宮城県警元幹部と面会していたが、宮城県警は不正を否定していた。
2005年には仙台地裁が捜査報償費返還訴訟判決で「12年度の捜査報償費の相当部分は実体がなかったと推認する余地がある」と不正支出の疑いを指摘している。
執行停止は、後任知事の村井嘉浩が2005年11月の就任後、直ちに解除した。
[編集] 三本木町大規模保健施設事業の凍結
浅野は前任の本間俊太郎知事時代に策定された「保健医療福祉中核施設整備事業計画」を平成6年に見直し、新たに「保健医療福祉中核施設整備構想」を策定した。しかし、県大規模事業評価委員会もおおむね妥当と結論付けたにもかかわらず、1999年に財政難などを理由に事業凍結を表明。そして2003年、事業中止を決めた。
大規模事業に待ったをかけた点を評価する声がある一方、建設予定だった三本木町(現大崎市)と事前協議をしないまま一方的に決めたことに対し、三本木町を含む大崎地方や県議会などを中心に批判の声が上がった。浅野は公式サイト上の日記で、「三本木町の不満ということもよくわかる。そういった中で、県として責任ある判断をしなければならないとして、悩んだ末の判断である」と記している。
建設予定地だった三本木用地は現在も新たな利活用法が決まらない状態となっている。
[編集] 首都機能の誘致活動
1999年6月2日に行われた衆議院国会等の移転に関する特別委員会において、浅野は宮城県知事として出席し、「首都機能移転を早急に推進すべきである」との主張を行った。参考資料として「みやぎ新首都宣言」という冊子を挙げながら、日本を再生するためには首都機能移転が重要であるとしている。[16]
[編集] 県立高校の一律共学化
在任中に他県と比べて別学が多い県立高校の男女一律共学化を進展させた。当初は慎重姿勢だったものの教育委員会の提案を受け入れたと説明している。[17]
「共学化の見直し」を訴えて後任として当選した保守派の村井宮城県知事も教育委員会の意向として後に一律共学化には消極的に賛成することを表明し[18]、共学化の決定を行った。[19]
この共学化に関連して県立高校の一律共学化に反対する「仙台二高の伝統を守る会」が浅野氏の母校である仙台二高の共学化予算7700万円の執行命令の停止を求める訴訟を仙台地裁にて起こしたが、2007年2月27日の判決で裁判長から「県教委の決定は合理的である」と指摘され「守る会」側が敗訴している[20]。
[編集] 北朝鮮関連団体への支援
北朝鮮による日本人拉致問題が問題となった2002年以降も金剛山歌劇団[21] 、東北朝鮮学校などへの支援を継続し続けた。 なお、後任の村井知事は知事就任後、これら関連団体への支援を早々に打ち切っている。
[編集] 県職員給与の削減と退職金全額受領
上記の通り、県の財政難により県職員の給与を二度カットした。しかし、自らは任期3期で退職金5,000万円ずつ、計1億5,000万円を全額受領した。[22]
[編集] 宮城県立保育専門学院の廃止
「官から民へ」の動きの中で、仙台保健福祉専門学校があることを理由に保育士養成の専門学校である宮城県立保育専門学院の廃止を、議会の全会一致による反対を押し切って実現した。しかし仙台保健福祉専門学校卒業生で保育士資格を卒業までに取れた学生が1人もいなかったことから、「宮城県の教育水準を落とした」との批判も出ている。
[編集] 批判
「宮城県の負債を増やした」との批判について、浅野は「反論はない。国の施策に協力した為であり、他の県も県債を増やしている。おれが悪いのか、とは言いたいが」との回答を行い、県債の増加は国の地方交付税削減に由来するとして自らの責任を否定している[23]。だが、後任の村井知事は県債残高が倍増したことについて「すべての予算を編成・執行する権限は知事にあり、知事の責任が非常に大きい」と批判している[24]。
左派からは「福祉切り捨て」、右派からは「ばらまき福祉」と両極端の批判をされる。実際の財政における福祉の規模に関しては、全都道府県の中で社会福祉費は43位、児童福祉費は41位と全国的に見て低い支出水準で就任前から退任後まで順位は変わらず一定で、大きな増減はなかった。
浅野が県福祉事業団の副理事長(のち理事長)として迎えた田島良昭は浅野の官僚時代からの知己であり、選挙参謀や県政全般において浅野に助言を行うなど、「コインの表裏」とも称される人物である[25]。その一方で、「政務秘書」の肩書きによって県人事などへ関与するなど、田島の「側近政治」への批判もある[26]。浅野は2003年に田島を副知事として起用しようとしたが県議会で2度否決され、断念している。
09年3月14日、宮城県は2011年度中の財政破綻が確実との試算を発表し、自治体財政健全化法に基づく財政再生団体への転落が避けられない見通しとなった。
[編集] 都知事選出馬
2007年4月8日の都知事選への民主党から出馬を要請され、当初は「そのような意思はない」として固辞した。しかし、五十嵐敬喜法政大学教授らが市民団体「浅野史郎さんのハートに火をつける会」(現都民のハートに火をつける会)を立ち上げ、これら市民団体などの勝手連的な運動を受けて、2月28日には「真剣に考えていきたい」と前向きな意向を表明した。3月2日には出演した番組『みのもんたの朝ズバッ!』(TBSテレビ)内で「覚悟を決めなくちゃいけないだろうなという気はもうかなり強くしている」と発言して、3月6日には東京都庁舎で記者会見し、正式に出馬を表明した。出馬表明の記者会見では、「石原都政の継承」を訴え、現在の都政の内容については賛同しつつ、手法について批判するという姿勢を打ち出した。
浅野側は政党の推薦を受けつけず、宮城県知事時代同様に勝手連を組織して選挙戦を行う予定であったが、最終的には独自候補の擁立を断念した民主党と社民党の支援、東京・生活者ネットワーク、市民の党、新社会党などの支持を受けた。3月18日の台東区長選挙で浅野が民主党推薦候補の応援に出向いたり(候補は落選)、菅直人や渡部恒三、福島瑞穂、山口文江などが浅野の応援に駆け付けるなどした。また、共産党にも出馬辞退と支援を求めたが、「政策が石原と変わらない」「宮城県政への反省がない」と批判され拒否された。
選挙戦では宮城での選挙戦と同様、勝手連を中心とした運動を展開したものの、他候補との論戦においては黒川紀章、吉田万三らに宮城県の財政を悪化させた上に福祉・教育関係の予算を減らされたことなどを指摘されたり、東京の都市問題への関心・知見の少なさを露呈して政策をアピール出来なかったりするなど選挙戦の出だしで大きく躓くこととなった。
後半戦は民主党などの支援を前面に出して戦ったものの、民主党の支持層を完全に固められなかったばかりか、無党派層への浸透も伸び悩んだ。獲得した169万3323票は前回次点だった樋口恵子の倍以上ではあるが、現職の石原慎太郎に100万票以上の差をつけられての次点、しかも3位以下の得票を合わせても石原の得票を上回れないという結果に終わった。
落選後の5月12日、特定非営利活動法人キューオーエルが主催した講演会で浅野は選挙を振り返り、「都民はマニフェストを読まないことが分かった」「都民にとって都政は関係ない」「格好良いか良くないかという個人の人気がほぼすべてとおもっている都民が多い」と有権者を批判するような発言も飛び出した[27]。
落選直後に、籍を置き講座をもったままだった慶應義塾大学の教壇に復帰した。教壇復帰の初日授業は見物の学生やスポーツ報知などの記者がモグリで取材をするなど(構内での取材は禁止されていた)、立ち見が出るほどの大盛況となった。学生側からは拍手で迎えられた。
[編集] マニフェスト
以下の内容はマニフェストとして発表された。
- オリンピック招致を全面見直し
- 新銀行東京の解体を含めた見直し
- 幹部職員や都議会の交際費などを全面公開
- 福祉の充実、非正規社員から正規社員への促進、子育て支援に積極的な企業の支援制度を作る
- 日の丸・君が代の“強制”を改める(但し、「NEWS23」での候補者討論においては「日本人として国旗日の丸・国歌君が代に敬意を払うのは当然。裁判などではない別の方法で徹底を図る」と発言、日の丸・君が代の普及徹底そのものには反対していなかった)
その他、築地市場の移転反対などを掲げた。
[編集] 石原慎太郎との関係
浅野は宮城県知事時代に石原と何度か論戦を交わすなど、様々な接点がある。
- 知事会批判へのコメント
- 全国知事会総会では、珍しく出席した石原が知事会への批判発言をした。これに対し浅野は「詳しくは言わないし、言いたくもない」「批判の的にされた梶原拓全国知事会長にとっては、『それはないでしょ』と言いたくなるような言動であったことだけは言っておきたい」と石原を批判している。[28]
- 首都機能移転
- 1999年9月27日に衆参両院で開かれた国会等の移転に関する特別委員会には、浅野、石原がともに参考人として出席、意見陳述した。石原は、首都機能移転を「歴史への冒涜」と発言。これに対し浅野は、石原発言を「未来に対する冒涜」と批判した。この特別委には、同じく2007年の都知事選に立候補した建築家黒川紀章も参考人として意見陳述している。[29]
- 石原障害者発言へのコメント
- 石原知事が府中の療育センターで行なった問題発言とされる件で、第145国会・特別委員会においてコメントを求められた際、浅野は、「私も、今を去ることもう三十年ぐらい前に厚生省というところに入ったときに、同じく重症心身障害児施設に行って見学をしてまいりました。同じような感想を私も感じて、それを口に出しました」「石原知事の御発言というのは非常に率直な、むしろこの問題を考える出発点としては十分に理解をできるというふうに思っております」とフォローを行なった。浅野は、この特別委員会において首都移転問題で石原と強く対立したにもかかわらず、福祉に関して見識と懐の深さを見せた。[29]
ただし、選挙戦においては街頭演説、法定ビラなどを通じて石原の発言を否定した。
- 東京マラソン
- 石原が五輪招致のアピールとして、草の根ランナーの悲願をくみあげた形で実現した東京マラソンに、ジョギングの愛好家である浅野も参加を申し込んだ。しかし落選し、「テレビで都庁前から出発していく3万人のランナーの姿を見ていたら、やっぱりうらやましかった」という。[30]
- クイズでは石原に勝利
- 2007年7月5日放送のクイズミリオネアSPに出演し、石原の記録(13問目で敗退)を破り1000万円獲得に王手をかけたが最後の一問で惜しくも敗退し賞金の獲得は成らず。
[編集] 近年の活動
厚生省時代の上司であった山口剛彦が2008年11月18日に殺害されたことを受け、『みのもんたの朝ズバッ! 』で「テロの可能性を考えると、ひどい。山口さんは一緒に仕事をした。大好きな人だった。早く突き止めてほしい」とコメントした[31]。
[編集] 出演番組
[編集] レギュラー出演
- みのもんたの朝ズバッ!(TBSテレビ)月曜日 - 金曜日 5:30 - 8:30(火曜日ゲストコメンテーター)
- OH! HAPPY MORNING(JFNC)月曜日 - 金曜日 7:30 - 10:55(木曜日コメンテーター、電話での出演。出演は9:12頃から)
- 情報ライブ ミヤネ屋(読売テレビ)月曜日 - 金曜日 13:55 - 15:50(木曜日コメンテーター)
[編集] 不定期出演
- 生島ヒロシのおはよう定食(TBSラジオ)月曜日 - 金曜日 5:00 - 5:30
- 生島ヒロシのおはよう一直線(TBSラジオ)月曜日 - 金曜日 5:30 - 6:30
- 情報プレゼンター とくダネ!(フジテレビ)月曜日 - 金曜日 8:00 - 9:55
- ザ・ワイド(日本テレビ・読売テレビ)
- NEWS ZERO(日本テレビ)月曜日 - 金曜日 22:54 - 23:55(月 - 木)、23:30 - 24:25(金)
- ウェークアップ!ぷらす(読売テレビ)土曜日 8:00 - 9:25
- ブロードキャスター(TBSテレビ)
- 時事放談(TBSテレビ)日曜日 6:00 - 6:45
- 真相報道 バンキシャ!(日本テレビ)日曜日 18:00 - 18:54
- スタ☆メン(フジテレビ・関西テレビ)
- たかじんのそこまで言って委員会(読売テレビ)日曜日 13:30 - 15:00
かつて出演していた番組
- NNNきょうの出来事(日本テレビ)
- 土曜LIVE ワッツ!?ニッポン(フジテレビ)
- シローと夢トーク(ラジオ3制作。宮城県内コミュニティFM全6局で放送。放送時刻は各局で異なる)
- メインDJ。エルビス・プレスリーと県政に関する話題を放送。
[編集] 著書
- 『豊かな福祉社会への助走 Part 1』(1989年4月、ぶどう社、ISBN 4892400807)
- 『豊かな福祉社会への助走 Part 2』(1991年10月、ぶどう社、ISBN 4892400998)
- 『誰のための福祉か―走りながら考えた―』(1996年5月15日、岩波書店同時代ライブラリー、ISBN 4002602656)佐高信との対談も収録。
- 『政治の出番』(浅野史郎・田勢康弘共著、1999年1月20日、日本経済新聞社、ISBN 4532162866)
- 『民に聞け―地方からこの国を変えてみせる』(浅野史郎・河内山哲朗共著、1999年4月21日、光文社、ISBN 4334972160)
- 『福祉立国への挑戦―ジョギング知事のはしり書き―』(2000年2月10日、本の森、ISBN 4938965240)
- 『知事が日本を変える』(浅野史郎・北川正恭・橋本大二郎共著、2002年4月20日、文春新書、ISBN 4166602381)
- 『アサノ知事のスタンス』(2003年11月15日、ぶどう社、ISBN 4892401706)
- 『アサノ知事のメルマガ 1〜106』(2003年11月15日、ぶどう社、ISBN 4892401692)
- 『疾走12年 アサノ知事の改革白書』(2006年5月2日、岩波書店、ISBN 4000234218)
- 『許される嘘、許されない嘘 アサノ知事の「ことば白書」』 (2007年2月26日、講談社、ISBN 9784062138635)
[編集] 兼職役職一覧
- 東北大学大学院法学研究科附属法政実務教育研究センター客員教授
- 社団法人日本フィランソロピー協会会長
- 特定非営利活動法人スペシャルオリンピックス日本理事
- 社団法人日本住宅協会理事
- NPO法人地域創造ネットワーク・ジャパン代表理事
- 韓国観光公社 観光名誉広報大使
[編集] 脚注
- ^ 『河北新報』2005年9月22日。
- ^ 池上彰 『これが「週刊こどもニュース」だ』 集英社〈集英社文庫〉(原著2000年9月)。ISBN 9784087472448。
- ^ 浅野史郎 (2004-02-24). "みやぎ知的障害者施設解体宣言". 浅野史郎メールマガジン. 2008-11-22 閲覧。
- ^ 浅野史郎 (2004-03-02). "続・みやぎ知的障害者施設解体宣言". 浅野史郎メールマガジン. 2008-11-22 閲覧。
- ^ 浅野史郎 (2004-03-09). "続続・みやぎ知的障害者施設解体宣言". 浅野史郎メールマガジン. 2008-11-22 閲覧。
- ^ "知的障害者福祉施設解体宣言について". 宮城県知事記者会見(平成19年3月5日). 宮城県 (2007-03-05). 2008-11-22 閲覧。
- ^ 地方分権推進事例(地方六団体 地方分権改革推進本部)
- ^ い ろ 映画オハイエ! WEB SITE
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[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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最終更新 2009年11月13日 (金) 08:50 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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