海岸防禦御用掛
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海岸防禦御用掛(かいがんぼうぎょごようがかり)は、江戸幕府の職名の一つ。通称して海防掛ともいう。
嘉永6年(1853年)6月、オランダから予告されていた通り、アメリカのフィルモア大統領の親書を携えたマシュー・ペリー率いる東インド艦隊が浦賀沖に来航して下田奉行戸田氏栄らを通じて日本の開国と条約の締結を求めてきた。これに伴い、老中首座の阿部正弘らが中心となって幕府として海防のあり方を検討するために設けられた。
ペリー来航当時、時の将軍徳川家慶は死の床にあり、国家の一大事に際して執政をとるなど適わない状態であった。阿部は将軍を中心とした譜代大名・旗本らによる独裁体制の慣例を破り、水戸藩主徳川斉昭を海防参与に推戴し、諸大名・幕府有司への諮問、ペリー来航の朝廷通達を行った。さらに、かつてあった海防掛を再置し、幕臣から
らを海岸防禦御用掛に任じた他、水戸藩からは斉昭の腹心である戸田忠太夫・藤田東湖が同じく幕府の海岸防禦御用掛として迎え、戸田忠太夫の実弟で水戸藩の安島帯刀を海防参与秘書掛に任じて、幕府の海防政策のあり方を検討させた。
徳川斉昭以下、海防掛は海防のあり方について積極的に献策を行ったが、翌年、阿部に代わり老中首座となった堀田正睦が中心となってアメリカとの間で日米和親条約を締結してしまい、これに怒った徳川斉昭の海防参与辞任をもって、幕府の海防掛もその任を終えた。
このような諸大名・諸藩の藩士をもおおいに幕政に参画させた政治手法は、結果として諸大名や朝廷が中央政治に進出する足がかりをつくることとなったといわれ、幕藩体制の崩壊の呼び水になったといわれている。
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最終更新 2009年4月26日 (日) 12:29 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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