海軍甲事件
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海軍甲事件(かいぐんこうじけん)とは、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)4月18日に、連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将機がアメリカ軍機により撃墜された事件のことを指す。日本軍の暗号がアメリカ海軍情報局に解読され、待ち伏せを受けたことから発生した。
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[編集] 戦闘前の状況
日本海軍は1943年4月7日から「い」号作戦を実行し、ソロモン諸島、ニューギニア方面の連合国艦隊に攻撃を加えた。この作戦が一応成功し、山本長官自らショートランド島方面に視察と激励に行くことになった。4月14日早朝、前線の各基地に4月18日の分単位の視察計画が暗号電報で通知された。
米軍は日本海軍の暗号電報を直ちに解読し、その情報は太平洋艦隊ニミッツに報告された。ニミッツは、山本長官を日本で最優秀の司令官と考えており、より優れた司令官が登場する恐れが無いと判断し、山本の殺害計画を進めることにした。
ニミッツは、まずハルゼーに対して「予備計画の作成の権限の授与」を山本長官の行程と共に通知した。ただ、山本のような有名人を殺害することは、日本国内に政治的反動(山本殺害による対米憎悪の増大や、それに伴う戦意の高揚)を引き起こす懸念もあり、慎重になる必要があった。そこで、ニミッツは先にノックス長官とルーズベルト大統領の許可をとった上で、最終的な命令をハルゼーに下した。ハルゼーはガダルカナルの陸軍機P−38で攻撃が可能と応答してきた。
[編集] 参加兵力
- 日本:一式陸上攻撃機2機、零式艦上戦闘機9機(内3機戦闘前に引きかえす。零戦隊第二小隊の三番機を務めた柳谷飛兵長は元々6機だったと主張している。)
- アメリカ:P-38戦闘機18機(内2機途中で引きかえす)
[編集] 戦闘の推移
- 5時25分 P-38戦闘機18機、ガダルカナル島ヘンダーソン基地出撃。7時35分にブーゲンビル上空に到着予定。
- 6時05分 一式陸上攻撃機2機、零式艦上戦闘機9機、ニューブリテン島ラバウル東飛行場出撃。
- 7時33分 P-38戦闘機16機(出撃後2機故障帰還)、V字編隊の一式陸上攻撃機2機、零式艦上戦闘機6機をブーゲンビル島上空で発見、攻撃開始。
- 7時50分頃 山本長官搭乗の1番機被弾、モイラ岬のジャングルに墜落。宇垣纏参謀長搭乗の2番機も被弾炎上し海上に不時着。
[編集] 被害
- 日本側:一式陸上攻撃機2機 被撃墜
- アメリカ側:P-38戦闘機1機 被撃墜
1番機に搭乗していた山本長官以下11名は全員戦死。2番機に搭乗していた宇垣参謀長ら3名は負傷したが救助された。
山本長官の戦死は全軍の士気に大きな影響を与えることが予想されたため、関係者には箝口令が敷かれた。遺骨が東京に到着した5月21日に戦死の事実が公表され、6月5日に国葬された。当時の首相だった東條英機は、山本が戦死したとの一報を受け、「君逝き みにしむ責の 重きかな されどやみなん 勝てやむへき」と詠んだ。
[編集] 情報戦
アメリカは日本海軍の暗号を解読して山本の日程を把握しており、戦闘機を山本機と認識した上で待ち伏せてこれを撃墜した。しかしアメリカはこの解読の事実を他国に悟られないよう、偶然の撃墜であったかのように発表を装っている。
撃墜の翌日、サンフランシスコ放送は山本長官の名前を出すことなく、撃墜の事実のみを簡単に報じた。同日にブーゲンビル島のカヒリ飛行場を空爆し、山本機への攻撃を一帯への攻撃の一部であるかのように見せた。さらにニミッツは部下のハルゼーに対してすら情報源を「現地人スパイからの情報」として伝え、暗号解読の事実を秘匿している。
なお2週間前に暗号表(乱数表)を更新したばかりの日本海軍は「アメリカに暗号を解読された」という見解を取ることができず、その後の日本海軍の連敗へとつながったとされている。しかし実はこの事件に限っては、更新前の古い乱数表を使って山本の日程表を送信するという日本海軍の対応が招いた事件であったことが、2008年9月までに機密解除されたアメリカ軍史料から判明した[要出典]。1943年2月のガダルカナル島撤退作戦(ケ号作戦)も、米軍に撤退意図を気づかれることなく成功していることを見ても、この時期、日本軍の暗号の多くが解読されていたわけではない。
[編集] 山本の死にまつわる異説
軍医の遺体検死記録によると、「死因は戦闘機機銃弾がこめかみ(眦とも)から下アゴを貫通した事によるもの」という結論が出され、ほぼ即死状態であったと推察されている。しかし山本が搭乗していた一式陸上攻撃機を銃撃したP-38戦闘機の機銃の口径は12.7mmであり、検死記録の事実通りであれば頭半分は吹き飛ぶはずである。こういった疑問点から山本の頭部を打ち抜いていたのは、拳銃弾などの小口径の銃弾であった可能性が否定できず、こういった疑問点から『山本自決説』『第三者による射殺説』が論じられることがある。
山本の遺体を最初に発見した第6師団第23連隊の某小隊長の証言によれば、「山本長官の遺体は座席と共に放り出されていた。そして軍医長が地を這って近寄ろうとして絶命した痕跡を残していた」という。また、他の遺体が黒焦げで蛆虫による損傷が激しいにもかかわらず、この2名だけは蛆も少なく比較的綺麗な形で残っていた。つまりこれが本当だとするならば、不時着からしばらくは両名が生存していたということになる。
戦後に日本人として墜落現場を初めて訪れた阿川弘之は、著書『山本五十六』の中で、長官機が撃墜された後も山本五十六長官の遺体に蛆がなく綺麗だったことなどから、しばらく存命していたか、同乗していた軍医長が何がしかの処置をしたのではないか、と述べている。
地上から収容にあたった陸軍第17軍第6師団歩兵第23連隊の蜷川親博軍医中尉(のち大尉。昭和19年12月戦病死)の検死調書には、遺体に銃創は無かったとの記述がみられる。山本の墜落現場に向かった各部隊の長、同連隊の浜砂少尉・中村見習士官・海軍佐世保鎮守府第6特別陸戦隊吉田少尉も同様に、山本の顔面には弾丸による傷痕はなかったと証言。が、前述の4士官の後に山本の遺体を正式に死体検分した海軍軍医田淵少佐は、顔面に銃弾による傷跡があったと証言している。
蜷川軍医中尉の実弟、蜷川親正氏(医学博士)の考察によれば、山本の遺体には顔面貫通機銃創及び背部盲貫機銃創はなく、座席に座って救助を待っていたが、全身打撲か内臓破裂により19日早朝に死亡したものとの見解である。同氏によれば、検案記録等にある顔面貫通機銃創及び背部盲貫機銃創は、機上戦死や即死を演出するために死後損傷が加えられたとのことである。
[編集] 関連項目
最終更新 2009年10月15日 (木) 00:20 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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