海陵王
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| 海陵郡王 完顔迪古乃 | ||
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| 金 | ||
| 4代皇帝 | ||
| 王朝 | 金 | |
| 在位期間 | 1149年 - 1161年 | |
| 姓・諱 | 完顔迪古乃(女真名) 王亮(漢名) |
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| 諡号 | 無 | |
| 廟号 | 煬 | |
| 生年 | 1122年 | |
| 没年 | 1161年 | |
| 父 | 完顔斡本(第2子) | |
| 母 | 大氏 | |
| 年号 | 天徳 : 1149年 - 1153年 貞元 : 1153年 - 1156年 正隆 : 1156年 - 1161年 |
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海陵王(かいりょうおう)は金の第4代皇帝(在位1149年 - 1161年)。金の太祖阿骨打の庶長子である遼王・宗幹(斡本=オベン)の次男。海陵王は即位前の王号。後に殺害されて廃位され、王号も剥奪されて庶人に落とされたため、廃帝海陵庶人と呼ばれる。正妻は女真貴族の徒単斜也の娘の従単皇后。
目次 |
[編集] 生涯
宗室の子である故をもって1140年には奉国上将軍となり、最前線で南宋と当たっている叔父の梁王・宗弼(斡啜=オット、または兀朮=ウロジュ)の軍に派遣されて軍職を務めた。1144年には中京留守になって前線を離れ、その後尚書左丞、平章政事、右丞相など宰相格の重職を歴任した。
1149年、第3代皇帝であった煕宗が奢侈や粛清などの暴政を繰り返して人望を失っているのを見て、自派の重臣らと共謀して煕宗を廃して殺害し、自ら第4代皇帝に即位した。当時彼は腹心に、金の君主となる、宋を討ってその皇帝を自分の膝下に膝まづかせる、天下一の美女を娶る、という3つの夢を打ち明けている。
金の建国後に生まれた海陵王は若い頃から中国文化に親しんで優れた教養を持ち、中国文化の奨励を行う。だが、その一方で彼は猜疑心が強く残忍な性格で、1152年に皇帝の独裁権を強化するために、左丞相兼中書令の阿魯(宗盤・宗本)と烏帯(宗言)父子ら大叔父・太宗の子孫70余人と、族父(父の従兄)の秦王・粘没喝(宗翰)の子孫(乙卒ら)50余人など金の宗室系の諸王ら一族の実力者と、目障りな元勲の子孫達を次々とまとめて粛清。中書と門下省を廃し、尚書省のみを皇帝に直属させ、国都を会寧(現在の黒龍江省ハルビン市阿城区付近)から燕京(現在の北京)に遷した。更に奢侈に走って国民に重税を強いるなど暴政の度合いを深め、多くの者が海陵王を憎悪し始めた。そして自分を諫言した嫡母(父の正室で、徒単皇后の姑母=おば)の徒単氏に対して「わしに楯突くこの目障りな婆あを焼き殺してしまえ!」と年老いた彼女を罵って、この嫡母を焼き殺した挙句にその遺体を近くの河に放り投げて捨て、さらに嫡母の侍女も皆殺しにしたという。また、将来の禍を避けるために遼の天祚帝(紹宗)の末裔の耶律氏と北宋の趙桓(欽宗)の末裔の趙氏ら60余人の若者達を殺害し若い女を後宮に入れたという。
海陵王は、より豊かな文化と物資を手に入れる為に南宋討伐を企て、「天の使いが夢枕に立ち、宋を征討する命を下した」と宣伝して、開封を修復し、船に不慣れな北方民族としては前代未聞の海から南宋を攻撃する為に軍船の建造を行い、猛安と謀克に属する20歳から50歳までの男子に動員令をだす等の準備を行った。そして1161年9月、海陵王は周囲の反対を押し切り、60万と号する大軍を自ら率いて南宋に遠征した[1]。これに対し南宋は四川の呉璘、揚州の劉錡らを中心に迎撃態勢を整えていた。国境の各地を越えた金軍は10月に楊州を陥落させるが、西隣にある和州の采石磯で南宋の名将虞允文の頑強な抵抗にあい、長江を渡れずに苦戦した。また、金軍の大半が契丹人で編成されていたために軍の統率がうまくいかなかった上、留守中の本国においては海陵王の反対派が従弟に当たる世宗(葛王・烏禄)を皇帝として擁立[2]したため、海陵王は進退窮まることとなり、南征中の陣中である楊州の亀山寺で部下で遼の宗室系の契丹人である浙西道兵馬都統制・完顔元宜(耶律阿列、または移刺特輦。耶律慎思の子)の軍隊によって殺害された。享年40歳。
死後、皇帝の資格なしとして世宗により海陵郡王に降格され、さらには王の資格も無いということになり、王族の籍を外されてしまい庶人に落とされた。
[編集] 宗室
[編集] 妻妾
- 徒単皇后
- 大元妃(母方従妹)
- 唐括貴妃
- 蕭宸妃
- 耶律麗妃
- 唐括麗妃
- 蒲察昭妃
- 昭妃阿懶
- 耶律柔妃
- 唐括柔妃(唐括麗妃妹)
- 耶律昭媛
- 高修伏儀
- 南才貴人
- 唐括蒲魯胡只(唐括麗妃従妹)
[編集] 子女
- 皇太子光英
- 崇王元壽
- 宿王矧思阿補
- 滕王広陽
[編集] 脚注
- ^ この遠征に対する海陵王の自信を示すものとして、宋の使者に徽宗の玉帯を渡し、側近に「それは貴重なものだから」と押しとどめられると、「いずれ取り戻されるものだ」と嘯いた、という話が伝わっている
- ^ この時世宗のたてた大定という年号を聞いて、「宋を滅した後、自分が大定と改元しようと考えていたのに、これが天命というものか」と慨嘆したと伝えられている
[編集] 参考・引用文献
- 『世界歴史体系 中国史3 五代~元』(梅原郁他、山川出版社 1997年 ISBN 4634461706)
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