淀古城

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淀古城
京都府
淀古城の石碑
淀古城の石碑
通称 藤岡城、淀城
城郭構造 平城
天守構造 不明
築城主 畠山政長
築城年 室町時代中期
主な改修者 明智光秀羽柴秀長
主な城主 薬師寺元一細川氏綱三好義継、金子某、木村常陸介
廃城年 1595年(文禄4年)
遺構 なし
指定文化財 なし
再建造物 なし
位置 北緯34度54分36.221秒
東経135度43分8.809秒
  

淀古城(よど こじょう)は京都府京都市伏見区納所北城堀にあった。納所は木津宇治の三川が合流するポイントの北岸にあたりに築城され、三面を川に囲まれた天然の要害で、古くからの商業地「淀」の中核都市であった。

目次

[編集] 沿革

この城の文献上初見は『東院年中行事』の文明10年(1478年)8月1日に

山城守護代遊佐弾正の代(中略)神保与三佐衛門淀へ入部す

とあり山城国守護所として記されている。畠山政長守護が応仁の乱に西軍の畠山義就に備えるため、守護所を勝竜寺から当城に移したのではないかと思われている。その後1493年(明応2年)以降に細川氏が山城国を掌握すると守護代級の被官によって守衛され、摂津国河内国の抑えの城として使用されてきた。

納所北城堀の標札/地名が僅かにその面影を留めているのみ


[編集] 第一次淀古城の戦い

第一次淀古城の戦い
戦争攻城戦
年月日永正元年(1504年)9月4日-20日
場所:淀古城
結果細川政元の勝利
交戦勢力
細川政元軍 薬師寺元一軍
指揮官
薬師寺長忠香西元長 薬師寺元一
四宮長能、赤沢朝経
戦力
不明 不明
損害
不明 60兵以上

1504年(永正元年)に入ると赤沢朝経細川政元が対立するようになる。細川政元は同年3月9日摂津国守護代の薬師寺元一槇島城攻城するように命じたが、赤沢朝経軍は600-700兵を従えて城から撤兵したようである。それを知った畠山尚順軍は槇島城と並び交通、軍事の要所であった淀古城を攻城してきた。細川政元軍は神保与三佐衛門を城主としていたようだが、薬師寺元一、薬師寺長忠兄弟、香西元長内藤軍も入城させ、畠山尚順軍からの攻城戦に備えた。

この時別の局面が展開される。細川政元軍に属していた薬師寺元一が細川澄元を擁立し、細川政元に謀反を仕掛けた。これに呼応した山城国国人衆と槇島城から赤沢朝経軍が援軍として淀古城に籠もった。しかし薬師寺元一の弟、薬師寺長忠は細川政元軍に属したまま兄と袂を分かつことになる。薬師寺長忠、香西元長は淀古城を攻城し細川政元軍の手に落ちた。淀古城に籠もっていた四宮長能は自害、薬師寺元一は捕えられ同年9月20日京で自害、赤沢朝経は大和国へ敗走していった。

この戦いが契機となり、細川氏との対立が本格化し山城国、河内国和泉国、摂津国、大和国に戦線が拡大していく。この戦いでは細川政元軍に属して薬師寺長忠、香西元長であったが、2年後の1507年(永正4年)永正の錯乱では、兄が擁立していた細川澄元を自身が擁立し細川政元の暗殺に成功する。

その後細川氏の被官が代々淀古城を治めていたが、細川政権から三好政権に移っていき、1559年(永禄2年)には三好長慶が京を統一すると淀古城も細川氏綱城主となったが、1563年(永禄6年)にその細川氏綱も死去すると、三好義継が城主となり、ついで松永久秀方の武将が城主となったようである。しかし永禄9年(1566年)7月に勝竜寺城と共に三好三人衆軍に攻城されると、三好長逸方の金子某が城主となったようである。1568年(永禄11年)に織田信長が上洛を果たすと淀古城も織田信長軍の焼き討ちにあい落城してしまう。

[編集] 第二次淀古城の戦い

第二次淀古城の戦い
戦争攻城戦
年月日天正元年(1573年)8月2日
場所:淀古城周辺
結果織田信長の勝利
交戦勢力
織田信長軍 足利義昭
指揮官
木下秀吉
細川藤賢
岩成友通
戦力
不明 不明
損害
不明 不明
豊臣秀吉像

天正元年(1573年)2月に、将軍足利義昭は反織田信長を決意し、二条城で兵をあげた。しかし、織田信長の動きも素早く岐阜城を出立、二条城を攻囲した。この時天皇の勧告により二条城を織田信長に明け渡したが、同年7月に槇島城に籠もり再び織田信長討伐の兵を挙げた。足利義昭の要請に応じたのが三好三人衆の岩成友通で、淀古城に立て篭もったが、槇島城が織田信長軍に攻城され(槇島城の戦い)、足利義昭は二人の質子を入れ降伏し河内国に逃亡した。

一方淀古城に立て篭もる岩成友通隊に対しては、木下秀吉隊が対した。木下秀吉は計略を巡らし淀古城の城番頭大炊頭、諏訪三將らを味方につけた。更に織田信長は近隣の勝竜寺城城主細川藤賢に出軍を命じ攻城軍に加わった。これに対応するため岩成友通は淀古城を出軍し奮戦したようである。防御施設が整っている城からわざわざ討って出たのは、大炊頭、諏訪三將らが強く進言したためと言われている。岩成友通は奮戦したが、最後には細川藤賢の家来下津権内にを取られた。

その首は近江国の高島に出軍中の織田信長の元に届けられ、比類なき働きに嘉賞し着ていた胴衣をかけたと『信長公記』には記されている。

伝 淀殿画像

天正10年(1582年)6月本能寺の変の後、『兼見卿記』によると明智光秀が淀古城を改修したと記録され、羽柴秀吉と明智光秀の山崎の戦いでも利用された。豊臣秀吉の天下となってからは、天正17年(1589年)3月羽柴秀長が淀古城が改修し、豊臣秀吉が側室茶々に与えたものであり産所とする為であった。これにより茶々は「淀殿」と呼ばれるようになる。この城で鶴丸が産まれるが1591年(天正19年)に死去してしまった。鶴丸が死亡し羽柴秀次が養子となるが、豊臣秀頼が産まれると羽柴秀次と軋轢が生じ、この城の最後の城主であった木村常陸介も連座、城も廃城となる。1595年(文禄4年)の事であった。

[編集] 城郭

淀古城の推定城郭部分/国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を元に作成。

淀古城は水陸交通の要街として槇島城と並ぶ山城国洛南の二大軍事拠点の一つであった。また西国方面の海産物の集荷市場、魚市場があり、対岸の山崎と並んで京都の要害で、淀古城の東側には現在は存在していない巨椋池が広がっていたと思われている。

1890年(明治23年)の『測量の仮製図』によると、跡と納所集落の東側に土塁が記載されていたが、現在跡地には、宅地化、耕作地、納所小学校が建っており、唯一妙教寺に石碑が建つのみで、北城堀や小字城堀という地名が僅かにその面影を留めている。淀古城については数多い歴史があるが、近隣の淀城と違って城郭は不明な点が多い。天守に関しても詳細は不明であるが、『駒井日記』には淀古城の天守が存在していた事が記載されている。淀古城が廃城の後、多くの資材は伏見城建築に使用されたようである。またその後淀城築城の際にはその伏見城から資材が流用された。

[編集] 城跡へのアクセス

[編集] 関連項目

妙教寺の山門/淀古城の石碑がある

[編集] 参考文献

  • 『日本城郭大系(第11巻、京都・滋賀・福井)』新人物従来社、1980年9月、60-61頁。
  • 小和田哲男『日本の名城・古城もの知り事典』主婦と生活社、2000年11月、364-365頁。
  • 『よみがえる日本の城(19)』学研、2005年6月、26-27頁。
  • 戦国合戦史研究会『戦国合戦大事典(六)』新人物従来社、1989年1月、137-139頁。

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ

最終更新 2009年9月16日 (水) 23:52 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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