清水一学

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清水 一学(しみず いちがく、延宝6年(1678年) - 元禄15年12月15日1703年1月31日))は、江戸時代前期の武士吉良邸討ち入りの際に活躍した吉良家の剣客として有名。名は義久(よしひさ)。通称を“一角(いっかく)”とする書も多いが、これは“一学”の誤伝。

[編集] 生涯

高家吉良上野介の所領である三河国幡豆郡宮迫村(現・愛知県幡豆郡吉良町大字宮迫)の農家に生まれる。幼名は藤作。農民の出自ながら武芸を好み、兄藤兵衛が吉良家の陣屋のひとつ岡山陣屋に勤めていたため、一学も幼少より剣術を習いに同陣屋に通ったという。二刀流だったと伝わる。

元禄5年(1692年)領主吉良上野介の夫人富子目に止まり、士分取立てのうえ吉良家家臣として召抱えられ、江戸呉服橋の吉良邸で中小姓7両3人扶持で義央に勤仕するようになった。時に15歳。富子の目に止まったのは一学が義央の先頃亡くなった公子吉良三郎に似ていたためだといわれる。

吉良邸討ち入りの際に小林平八郎とともに吉良側で最も奮戦した剣客として描かれることが多い。しかし上杉家の資料「大河内文書」では、一学は少しだけ戦って台所で討ち取られ、大した活躍はなかったとしている[1]。しかしいずれにせよ討ち死にした。享年25。吉良家菩提寺である江戸牛込の万昌院や故郷三河国宮迫村の円融寺に墓がある。法号は端翁元的信士(万昌院)・実相院宗禅信士(円融寺)。

なお一学の兄の藤兵衛は、児玉姓を名乗り、その子孫が今日まで続いている。

[編集] 関連

[編集] 補注

  1. ^ 同書では、最も活躍した吉良家家臣は、上杉春千代が吉良家へ養子入りした際にその付き人として上杉家から吉良家へ移籍していた家臣山吉新八郎であるとする。ただこの「大河内文書」は上杉家家臣が編纂したものなので、上杉家臣の働きを際立たせるために吉良家臣の働きを貶める傾向があると指摘する義士研究家もおり、本当に一学が活躍していた可能性もないわけではない。

最終更新 2009年10月8日 (木) 11:54 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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