渋川氏
渋川氏の最新ニュースをまとめて検索!
| 渋川氏 | |
|---|---|
足利二つ引 |
|
| 本姓 | 清和源氏(河内源氏) |
| 家祖 | 渋川義顕 |
| 種別 | 武家 |
| 出身地 | 上野国渋川荘 |
| 主な根拠地 | 肥前国、備後国 |
| 著名な人物 | 渋川幸子、渋川満頼 |
| 支流、分家 | 蕨渋川氏など |
| 凡例 / Category:日本の氏族 | |
渋川氏(しぶかわし)は、日本の氏族(武士)。清和源氏義国流で足利氏の一門。室町将軍家に最も近い家の一つとして高い家格を有し、肥前、備前、備中、安芸、豊前、摂津などを領した守護大名で代々九州探題の職を世襲した。一族は九州、関東、中国など各地に点在した。
目次 |
[編集] 九州探題渋川氏
足利泰氏の子・義顕(初名は足利兼氏)が上野国渋川荘(現在の群馬県渋川市)を領地として渋川氏を称したのが始まりである。義顕の曾孫である渋川義季(1314年‐1335年)は本家筋にあたる足利尊氏・足利直義に従って各地を転戦したが、中先代の乱で自害した。室町幕府2代将軍足利義詮の正室渋川幸子は義季の娘であり、この縁により渋川氏は幕府内で重用された。
義季の孫、渋川義行(母は高師直の娘)は南朝の勢い盛んな九州を平定するべく九州探題に抜擢されたが、九州の南朝勢力の前に為すすべなく、ついに九州へ上陸する事無く探題の職を更迭された。その後、義行の子渋川満頼は今川了俊の後任として九州探題に任命されている。満頼は了俊ほどの能力を発揮することはできなかったが、無難にその職を勤めた。
しかし満頼の子渋川義俊のときに、少弐満貞と戦って敗退して以降は衰退する。このころ北九州においては、振るわない渋川氏に代わって、九州の幕府領の代官を務めた大内氏が少弐氏を駆逐して勢力を広げていっており、満直、教直、尹繁と九州探題職こそ世襲していたものの、渋川氏は肥前東部において大内氏に属する一地方勢力として残存するに過ぎなくなった。
その後も大内氏の元で少弐氏と戦い続けたが、やがて少弐氏と通じるようになり天文3年(1534年)に大内氏に攻められ滅亡した。近世以後は傍系の子孫が鍋島氏や大村氏の家臣になって家名を存続させた。
[編集] 関東渋川氏
義俊の子の渋川義鏡は、将軍足利義政の信任を受け、自身の子である義廉を斯波氏の養子に送り(斯波義廉)、享徳の乱を鎮めるため関東に派遣され、足利政知を奉じ鎌倉を目指したが、政情不安のため政知の鎌倉入りには失敗する(堀越公方)。義鏡は扇谷上杉家との抗争に敗れ失脚する。
その後の渋川氏は、武蔵国の蕨郷(現在の埼玉県蕨市周辺か)の蕨城を拠点とし、関東の諸勢力と対抗した。義鏡の失脚後、その後を庶流の渋川義堯が継ぐ。関東の渋川氏は、扇谷上杉家を下した後北条氏の傘下におさまることになる。また、一族の頼重が三河に行き板倉氏の祖となったという。
[編集] 各地の渋川氏
渋川氏の所領は武蔵だけでなく備後など、各地に存在する。
備後の渋川氏の渋川義陸は、渋川尹繁の子という。義陸の一族は安芸国の毛利氏と縁戚を結んだものの、その勢力は振るわなかった。
他に戦国期に活躍した渋川氏の流れを汲むとみられる人物としては、下野国の小俣城を拠点とした渋川義勝がいる。また、陸奥国の会津地方を治めた渋川氏も存在したが、こちらは蘆名氏に滅ぼされている。河内国の渋川氏(後の安井氏)は畠山氏の系統であり、義顕の系統の渋川氏とは別流である。
[編集] 渋川氏歴代
- 渋川義顕
- 渋川義春
- 渋川貞頼
- 渋川義季
- 渋川直頼
- 渋川義行 (九州探題)
- 渋川満頼 (九州探題)
- 渋川義俊 (九州探題)
- 渋川満直 (九州探題)
- 渋川教直 (九州探題)
- 渋川万寿丸(九州探題)
- 渋川尹繁 (九州探題)
- 渋川義長 (九州探題)
[編集] 系図
足利泰氏 ┃ 渋川義顕 ┃ 義春 ┃ 貞頼 ┣━━━┓ 義季 足利直義正妻 ┣━━┓ 直頼 幸子(足利義詮正室) ┝━━┓ 義宗 義行 ┣━━┳━━┓ 満頼 義長 満行 ┃ ┃ ┃ 義俊 義佐 満直 ┃ ┃ ┃ 義鏡 義堯 教直 ┝━━┓ ┣━━┳━━━┳━━┓ 義堯 義廉 尹繁 万寿丸 政実 和是 ┣━━┓ ┝━━┓ ┣━━┓ 頼重 義基 義長 義陸 義長 堯顕? ┃ ┃ 好重 義正 ┃ ┃ 板倉氏へ 義満

