渡邉恒雄

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渡邉 恒雄(わたなべ つねお、1926年5月30日 - )は日本実業家読売新聞グループ本社代表取締役会長・主筆読売ジャイアンツ会長。「ナベツネ」の通称で知られる。175cm。

目次

[編集] 生い立ち

東京都杉並区出身。旧制高校卒業後、東京大学に入学(東京大学在学中は、日本共産党に所属していた)。

[編集] 読売新聞社での歩み

[編集] 政治記者時代

東京大学文学部哲学科卒業後は読売新聞社に採用試験次席で入社(その年の採用試験主首席は三好徹)。『週刊読売』(現『読売ウイークリー』)記者を経て、政治部記者となる。『週刊読売』の記者時代、鳩山一郎脳出血で倒れたときに、鳩山邸(現鳩山会館)で張り込みをしていた。あわただしい気配がしたため、屋敷の中をのぞいたが、当時鳩山の秘書だった石橋義夫が大きな犬を連れてきて、追い出された。その後、屋敷を出てきた大野伴睦に「誰が倒れたのですか」と質問したが無視され、、次に現れた政治評論家の岩淵辰雄には、「鳩山家の者ではない」と言われた。結局、鳩山が倒れた確証を得られないまま、デスクからの「死んだのでないのなら方っておけばいい。そろそろ帰ってこい」との支持を受け、世紀のスクープを逃した[1]警視庁出身の社長正力松太郎の眼鏡にかなって、自民党党人派の大物大野伴睦の番記者になった。以後保守政界と強い繋がりを持つようになり、大野の事務所を行き交う札束攻勢を目の当たりにする[2]。渡邉に対する大野の信頼は篤く、渡邉は大野の依頼を受けて自民党総裁衆議院議長ポスト獲得交渉の代行、自民党政治家ゴーストライターとして週刊誌の論説の執筆まで引き受ける[3]児玉誉士夫と懇意になり、児玉の指令のもとに九頭竜ダム建設の補償問題や日韓国交正常化交渉の場でも暗躍したとされている[4]

また鳩山一郎の次の自民党総裁・総理大臣を狙っていた正力松太郎が、中曽根康弘を参謀格に自分の派閥を結成して総裁選出馬準備を進めていた際、正力から中曽根との連絡役を命じられて付き合いが始まり[5]、大野の死後は中曽根と親密になった[6]1966年国有地払い下げ問題でも大きな役割を果たしている[7]

[編集] 新聞社幹部として

1977年、編集局総務(局長待遇)に就任、同年2月18日付の『読売新聞社説百里基地訴訟一審判決違憲立法審査権の存在意義を説いていたが、1981年7月8日付紙面では一転し、二審判決の統治行為論を支持して裁判所の政治介入を制限する主張に変わった。読売新聞が渡邉の主張を取り入れて、中道から保守に傾斜していく過程の一エピソードである。同年、取締役論説委員長に就任した。1984年からは元旦の社説を執筆するようになった。

1991年に読売新聞社社長、横綱審議委員1999年には日本新聞協会会長に就任した。

1996年6月5日の衆議院の規制緩和に関する特別委員会(議題は「規制緩和に関する件」(著作物の再販制度:新聞社・出版社が、取引先である卸売業者や小売店に対して卸売価格や小売価格を指示してこれを維持させていること))に新聞協会を代表して参考人として出席し、新聞には文化的な価値、公共性があること、新聞ほど競争激烈な商品はない、価格も硬直的でない、再販により、安売り競争で、弱い所がつぶれてゆくなどの理由から、新聞の再販を認めるべきではないとの見解を示した[8]。その際に適用除外廃止の意見を伝え実質的に意味のある報道をなぜしないか?との質問に対して、「凶悪な人達の議論を大々的に報道をする義務を感じない。オウム真理教の教祖の理論を長々と書かないのと同じだ。」と述べた。

2005年読売新聞グループ本社の会長に就任。

2007年、第54回カンヌ国際広告祭で世界のメディア業界の中から傑出した人物を讃える「メディアパーソン・オブ・ザ・イヤー」を受賞。朝夕刊で1400万部の世界一の発行部数である読売新聞ほか、テレビ局、出版社、プロ野球球団など広告媒体としても大きな影響力を持つグループを率いていることが評価された。

保守的な言動で知られているが、首相の靖国参拝歴史修正主義の動きには自らの軍隊体験から反対の立場を取っている。靖国神社問題については、「もしもメルケル(ドイツ首相)がヒトラーの墓参りをしたらどうなるのか」「(靖国神社の)遊就館は非常に有害な場所であり、あれは閉鎖しなければならない。産経新聞を除いて日本のメディアは戦争の責任と靖国神社等の問題について重要な共通認識をもっている」「日本の首相の靖国神社参拝は、私が絶対に我慢できないことである。今後誰が首相となるかを問わず、いずれも靖国神社を参拝しないことを 約束しなければならず、これは最も重要な原則である。…もしその他の人が首相になるなら、私もその人が靖国神社を参拝しないと 約束するよう求めなければならない。さもなければ、 私は発行部数1000数万部の『読売新聞』の力でそれを倒す」と答えている[9]

[編集] 読売ジャイアンツオーナーとしての活動

[編集] オーナー就任と制度改変

渡邉が巨人の経営に参加するようになったのは、読売新聞社副社長時代の1989年に球団内で組織された最高経営会議のメンバーに選ばれてからである(他のメンバーは務臺光雄(同社名誉会長)・小林與三次(同社社長)・正力亨読売ジャイアンツオーナー)‐肩書はいずれも当時)。1991年に務臺が死去した後しばらくは沈黙していた渡邉だったが、務臺の一周忌が済むとその発言が徐々に球界に強い影響力を及ぼすようになり、1996年に正力を名誉オーナーに祭り上げる形で自身がオーナーに就任。チームの人気、資金、読売新聞と日本テレビ放送網という巨大メディアを背景にリーダーシップを発揮、それまで以上に群を抜いて影響力のあるチームオーナーとして球界に君臨、コミッショナー人事も決める男と言われた。選手会の要望に端を発したFA制度導入論に勢いを得て同制度を実現、さらにドラフト制度への逆指名システムの導入も実現させたが、同時に「戦力の均衡」という理念が大きく損なわれることとなった。

[編集] オーナー時代の読売ジャイアンツ

スターシステムの考え方に基づき、人気を維持しながら短期間でチームの戦力強化を図るため、スター選手が集まれば強くなるというあさはかな考えから圧倒的な資金力を背景に逆指名やフリーエージェント制度を利用し他チームの有名選手を集めたが、結果としてアンバランスなチーム状態になり、優勝してもあとが続かず、常勝チームを作ることはできなかった(在任8年間での優勝回数は2回。優勝確率2割5分)。巨人からのファン離れは進み、同時にプロ野球全体の戦力バランスを損ねることになった。

2003年終盤にリーグ優勝の望みが絶たれ、球団は翌年のコーチ編成を巡って原辰徳監督と対立、原が監督を辞任して堀内恒夫の監督就任で事態が収拾したが、これについて渡邉は「読売グループ内の人事異動だ」と発言した。

2005年、堀内が成績不振で辞任することになり、後任として真っ先に名前を挙げていた星野仙一に監督就任を断られると、再び原を監督に復帰させている。[10]2004年一場靖弘を巡る裏金供与問題の責任を取る形でオーナーを辞任。その後1年足らずで会長となり現在に至る。

[編集] プロ野球再編問題

プロ野球再編問題 (2004年)」も参照

2004年、パ・リーグにおいて、人気が低迷していた大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブ(現:オリックス・バファローズ)の間に合併話が持ち上がった。更に、同リーグの福岡ダイエーホークス(現:福岡ソフトバンクホークス)と西武ライオンズ(現:埼玉西武ライオンズ)には親会社の経営危機による身売り説が飛び交っていた。

この問題の解決に、渡邉は西武オーナー・堤義明、オリックスオーナー・宮内義彦らとプロ野球1リーグ構想を画策したものの、ライブドア社長(当時)の堀江貴文が近鉄の買収を名乗り出ている状況下、世論の反発を招くこととなった。

2リーグ12球団の維持を主張していた古田敦也日本プロ野球選手会会長(ヤクルト、肩書は当時)による経営者側との会談の提案を拒否し、この件に関するインタビューの中で「無礼な事を言うな。分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が!」と発言し、選手会、ファンの怒りを買った[11]。このことから、多くの野球ファンより「球界の独裁者」と評されている。

8月13日、プロ野球再編騒動の最中に、裏金事件が発覚。渡邉は土井誠球団社長、三山秀昭球団代表とともに責任をとって辞任、滝鼻卓雄読売新聞東京本社社長にオーナーの座を譲った。

世論に後押しされる形で日本プロ野球選手会は経営者側と激しく対立し、9月17日・18日に日本プロ野球史上初のストライキが挙行され、打撃を受けた経営側が折れる形で2リーグ制が維持されることになった。11月に、ライブドアと同じIT企業の楽天の新規参入が認められて、東北楽天ゴールデンイーグルスが設立された。

[編集] 他のスポーツとの関係

[編集] 相撲

渡邉は1991年から2005年までの間横綱審議委員として活動。2001年から2年間は委員長を務め、ブームにわく大相撲界に影響を及ぼし、さまざまな角度から意見した。また、大関魁皇横綱昇進には最後まで否定的だった。

[編集] サッカー

読売グループでは、1968年メキシコオリンピックで日本代表が銅メダルを獲得したことによるサッカー人気の高まりに乗る形で、1969年読売サッカークラブを創設。1977年からは当時のトップリーグである日本サッカーリーグ (JSL) 1部に昇格し、1980年代にはJSLや天皇杯を何度も制する強豪チームに育て上げていた。

1992年、読売サッカークラブを母体に「読売ヴェルディ(現「東京ヴェルディ」)」を設立し、翌1993年に正式スタートした日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に参加。三浦知良ラモス瑠偉などの人気選手を擁して優勝し、初代チャンピオンの栄誉を獲得した。なお、1993年8月1日に目黒区内のサレジオ教会で行われた三浦と設楽りさ子の結婚式では、媒酌人も務めた。

その後、地域に根差したクラブの運営により裾野からのサッカー人気向上を図るJリーグや日本サッカー協会と、「読売ヴェルディ」の巨人化を目論む読売グループ間の対立が表面化した。グループ放送局のテレビ中継で使用していた「読売ヴェルディ」の呼称を「ヴェルディ川崎」に改めるようJリーグ執行部から指摘を受け、1994年からJリーグの勧告を受け入れ、「読売」を外して「ヴェルディ川崎」とアナウンス・表記されるようになった。

元々ヴェルディは東京都内に本拠地を予定していたが、ホームスタジアムとして使えるスタジアムがなかったため川崎市に本拠地を置いた経緯があったが、同じような経緯で旧浦和市を本拠地にした浦和レッズがJリーグ屈指の人気チームに成長したため本拠地を巡るヴェルディと川崎市の確執が浦和とレッズの成功例と対比される事も多い、又、川崎市との確執がサッカーファンにも渡邊の印象を悪くしている面は否めない。その後1998年に読売新聞はヴェルディの株式を全て日本テレビに売却し、日本テレビ100%出資の状態が続いたが、2001年から本拠を東京都(味の素スタジアム)に移し、稲城市や地元企業などの共同出資による「東京ヴェルディ1969」になり2005年のJ2降格と2007年のJ1再昇格を経て、2008年に現名称の「東京ヴェルディ」となった。

[編集] オリンピック

渡邉はオリンピックに対して敵愾心を露にしてきた。2000年シドニー大会野球競技アジア最終予選に際して韓国台湾のプロ選手が参加を表明したため、アマチュア日本野球連盟は日本プロ野球機構にプロ選手派遣を要請した。日頃、オリンピックの商業主義を批判してきた渡邉は、巨人からの選手派遣を拒否したが、2004年アテネ大会に際しては、長嶋茂雄日本代表監督をバックアップする形で主力選手を参加させて協力することとなった。

[編集] 人物

政界では中曽根康弘との親交の深さが殊に知られている。ほかにも、大手新聞社の実力者であることを武器に、様々な分野において影響力を誇示してきた。趣味読書哲学書など。新進気鋭の哲学者の著書は必ず目を通すという)とクラシック音楽鑑賞。ハムスターを飼っている。葉巻パイプ、野鳥の餌付けをこよなく愛する。TVドラマ『渡る世間は鬼ばかり』(橋田壽賀子脚本)の大ファン。

また、『私の死亡記事』(文藝春秋 2004年)という本の中では、自分の死去はカラスを打ち落とそうとして、屋根から転落死(実際、自宅の庭に置いてある野鳥のエサを食べに来たカラスをゴム鉄砲で打ち落そうとしたが、石につまづいて大怪我をした事がある。その後、それが元で日本野鳥の会を除名された)。葬儀は音楽葬の形式で、また、読売ジャイアンツが2000年から2019年に亘って20連覇し、2018年には長嶋茂雄が世界最年長のプロ野球監督としてこの年新設された“ノーベルスポーツ賞”を初受賞する事が、最大の私への餞別だと記載している(ただし、この分野のノーベル賞は2009年現在、現実には存在しない)。

また、あまり知られていないが大変な愛妻家である。今でも出かけるときはキスを忘れない(本人談)。しかし妻は自宅で事故を起こし認知症になっている。なお渡辺はそれまで長い夫婦生活で空気のような存在になっていたが、この事故により妻が愛おしくなったと記している。

アクの強いキャラクターから、いしいひさいちの四コマ漫画ではよくネタとして取り上げられており、朝日新聞連載中の四コマ漫画ののちゃんに、町内会長のナベツネツネオ(時にワンマンマンというヒーローに変身する)として、準レギュラーで登場している。

[編集] 略歴

[編集] 受賞歴

[編集] 著書

[編集] 単著・共著・編著

  • 『派閥――保守党の解剖』(弘文堂, 1958年/増補版, 1964年)
  • 『大臣』(弘文堂, 1959年)
  • 『党首と政党――そのリーダーシップの研究』(弘文堂, 1961年)
  • 『政治の密室――総理大臣への道』(雪華社, 1966/「派閥と多党化時代」に増補改題, 1967年)
  • 『ホワイトハウスの内幕――アメリカの権力政治』(読売新聞社, 1971年/「ウォーターゲート事件の背景」に増補改題, 1973年)
  • 『大統領と補佐官――キッシンジャーの権力とその背景』(日新報道, 1972年)
  • 『保革連立政権論―― 一九七〇年代後半の政治展望』(ダイヤモンド社, 1974年)
  • 『永田町見聞録――政界・派閥・権力の実像』(編著, 東洋経済新報社, 1980年)
  • 『ポピュリズム批判――直近15年全コラム』(博文館新社, 1999年)
  • 『天運天職――戦後政治の裏面史、半生、巨人軍を明かす』(光文社, 1999年)
  • 『渡邉恒雄回顧録』(中央公論新社, 2000年/中公文庫, 2007年)
  • 『わが人生記――青春・政治・野球・大病』(中央公論新社[中公新書ラクレ], 2005年)
  • 『「靖国」と小泉首相――渡辺恒雄・読売新聞主筆vs.若宮啓文・朝日新聞論説主幹』(論座編集部編, 朝日新聞社, 2006年)
  • 『君命も受けざる所あり――私の履歴書』(日本経済新聞社, 2007年)

[編集] 訳書

  • ジェイムズ・M・キャノン編『政界入門』(弘文堂, 1962年)
  • セオドア・ホワイト『大統領になる方法(上・下)』(弘文堂, 1964年/「大統領への道」に一冊本に改題, 1965年/「大統領職をめぐる死闘」に再改題, 1968年)

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

[編集] 脚注

  1. ^ 水木楊『誠心誠意、うそをつく 自民党を生んだ男・三木武吉の生涯』177頁~178頁
  2. ^ 『渡邉恒雄 メディアと権力』145頁。
  3. ^ 『渡邉恒雄回顧録』第3章・第4章などを参照。大野の回想録(『大野伴睦回想録』)もその殆どを渡邉が執筆している。
  4. ^ 『渡邉恒雄 メディアと権力』154-155頁、160-166頁、204-216頁。
  5. ^ 杉山隆男『メディアの興亡』(文藝春秋、1986年)349ー350頁。
  6. ^ 1957年の自民党総裁選の最中に両者は出会った。渡邉は、初入閣を望む中曽根と副総裁の大野伴睦との仲を取り持った。大野は、造船疑獄の際に自らを追及した中曽根を快く思っていなかったが、渡邉の執り成しによって態度を変え、入閣を確約した。1982年の総裁選の時には、渡邉は中曽根擁立のために田中角栄や秘書の早坂茂三に引き合わせた。『渡邉恒雄 メディアと権力』132-134頁、355-360頁。
  7. ^ 『渡邉恒雄 メディアと権力』260-274頁。この件については、杉山隆男『メディアの興亡』下巻などにも詳しい記述がある。
  8. ^ 第136回国会 衆議院 規制緩和に関する特別委員会 第9号(1996年6月5日)[1]
  9. ^ 『北京週報』電子版(2007年8月10日付)
  10. ^ 原は渡邉の説得を受け入れ、特別顧問の肩書で引き続き球団に残った。
  11. ^ また、同発言に続けて「中には立派な人がいるのも事実だが」と付け加えている。このスポーツ紙記者(西村欣也)の“誘導尋問”とは、「明日、選手会と代表レベルの意見交換会があるんですけれども、古田選手会長が代表レベルだと話にならないんで、できれば、オーナー陣といずれ会いたいと(言っている)」というもので、のちに古田選手自身が全面否定した、完全に虚偽の内容だった。
  12. ^ 氏家が尋常科4年に進級したとき、渡邉は東高に入学した。氏家によると、渡邉との出会いは6月頃、東高の校庭であった。以来、2人は共に劇場や純喫茶に繰り出す仲になった。『渡邉恒雄 メディアと権力』36-37頁。
  13. ^ 『渡邉恒雄 メディアと権力』48-49頁。
  14. ^ 渡邉自身は自著で敗戦後天皇退位を主張した唯一の政治団体が共産党であった事が入党の理由であると記している。
  15. ^ 高史明は『青春無明』(1983年、径書房)で、渡邉恒雄は『わが人生記』(2005年中公新書ラクレ)でこの事件について詳しい回想文を書いている。

最終更新 2009年11月18日 (水) 01:49 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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