湯和
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湯和(とうわ、1326年 - 1395年)は、字は鼎臣、元末の壕(今の安徽省鳳陽)の人。明朝建国の功臣で、軍人。身長は7尺であったという[1]。
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[編集] 生涯
[編集] 蜂起に参加
湯和は孤児で、朱元璋と幼馴染であった。20代の時、郭子興の農民蜂起の軍に壮士10数名を引き連れて参加し、武功を挙げて千戸の地位を得る。このころ、朱元璋に仲間に加わるよう誘ったという[2]。湯和が朱元璋の元に馳せ参じたとする説もある[3]。朱元璋は1352年に郭子興の軍に加わって以来、次々と武功を挙げ、郭子興の義娘を妻とし、急速に出世していく。
[編集] 朱元璋の部下となる
1354年春、湯和は朱元璋の部下として、徐達、費聚らと共に定遠を攻める。朱元璋軍は途中で次々に盗賊を吸収して拡大し、滁州を占領した[4]。
1355年、朱元璋が都元帥に昇格すると、その配下として元朝の支配する採石(安徽省当塗北西)、太平(安徽省当塗)を攻略する。この年、郭子興が死に、朱元璋はその後継者となる。
1356年、朱元璋は集慶(南京)を占領して応天府と改名する。元軍は奪還を試みるが、湯和は徐達、鄧愈らとともに奇襲をかけてこれを退け、これらの功で、統兵元帥となる。1357年、金壇(江蘇省金壇)、常州を下す。
[編集] 張士誠からの防御に当たる
朱元璋の「張士誠には守りを以って攻めとし、陳友諒には攻めを以って守りとする」という戦略の下[2]、湯和は1357年から防御線の一端として常州を守備し、張士誠の攻撃を度々退けた。 朱元璋は陳友諒を滅ぼした後、1365年から1367年にかけて徐達に張士誠を討ち取らせる。
[編集] 周辺国の掃討に当たる
1367年、御史大夫に任ぜられる。同10月、征南将軍に任ぜられ、呉禎を副将として方国珍を攻める。方国珍は部下と共に海船で逃走するが、今の定海盤峙島で待ち構えていた廖永忠が海上から迎撃し、方国珍は12月に投降する。これにより浙東(浙江省東部)は平定される。
同年、海上から福州の陳友定を攻略するため、閩(びん)に軍を進めた。
1368年(至正28年)正月、陳友定は2万の兵を配し、精兵をもって延平を守備していたが、湯和、廖永忠らが明州(浙江省寧波)から水軍をもって延平に侵攻し、10日間で落城させた。陳友定は自殺を図るも未遂、応天に護送されて死刑となる。次いで大同、宣府(河北省宣化)を攻略した。
[編集] 北征に参加する
同年、広東を攻略し元将何真を降した。同年、徐達が率いる北伐軍に参加する。湯和は馮勝と共に、懐慶、沢州、潞州(現長治市)を下した。(この時から、元は北元と呼ばれる。)
1369年(洪武二年)、徐達が慶陽を下した後、入れ替わりで慶陽に派遣される。
1370年(洪武三年)、李文中を大将とする北征軍に、馮勝、鄧愈らと共に加わる。この軍は興和(現内蒙古自治区内)を始めとした元領を降す。11月には論功行賞が行われ、公の地位は逃すものの(6人いた)、晋の中山侯に封じられた。侯に任じられた人物は28人おり、湯和は明史でその筆頭に挙げられている。
1371年(洪武4年)、征西将軍となり、廖永忠と共に明玉珍を攻めるため、楊璟、瞿塘、重慶を攻略する。途中で明玉珍が病死し、息子の明升が明に下った。
[編集] 北元からの防御に当たる
1372年(洪武5年)、元朝と断頭山(寧夏回族自治区銀川東北約150km)で戦い、敗戦する。
1373年(洪武6年)、徐達を征虜大将軍とする北伐軍に副将の一人として参加、山西(山西省)、北平(北京)の防御に当たった。
1375年(洪武8年)、鄧愈と共に、北平、陝西、河南の守備に当たる。 1376年(洪武9年)、湯和は傅友德らと共に延安の守備に当たる。 1378年(洪武11年)、晋の信国公に封じられた。 1381年(洪武14年)、元(北元)のブハが攻め入るが、徐達を征虜大将軍とした副将として、灰山(内モンゴル自治区寧城県の東南)で撃退する。
ただし、北元は依然として勢力を保ち続け、甘粛、雲南、東北地区(満州)を支配していた。これらを平定するのは湯和の隠居後(及び死後)となる。
[編集] 隠居
1380年頃から、朱元璋は、功臣の粛清を始める。 一方、湯和は1384年(洪武17年)、海上警備を命じられ、山東、江南北、浙東西沿海に城を築き、浙東の民5万8千余人を率いて倭寇からの沿岸防御に当たった。
1385年(洪武18年)、粛清への危機感もあったのであろう、隠居を願い出たが許されなかった。そこで酔った上での愚痴を装ったりと際どい演出を試みた結果、1386年(洪武19年)、閩沿岸の城の完成を機に、ようやく隠居を許された。故郷の鳳陽に呼び戻され、屋敷を賜った。
1390年(洪武23年)には口が聞けなくなった。朱元璋は即日家臣を派遣して、病状を調べさせた。1394年(洪武27年)朱元璋が見舞いに訪れた際には涎を流し、人に支えられながら礼を取ったといわれる。
1395年(洪武28年)8月死去。東甌王に追封され、襄武と諡号される。
[編集] 参考文献
- ^ 『明史・湯和伝』による。ソースはこのページを参照した。中国語版ウィキペディアの説を採ると1尺=33cmなので2m余、堺屋太一の訳書によると1尺=22cmなので154cmである。
- ^ い ろ 呉晗著、堺屋太一訳注『超巨人・明の太祖朱元璋』、講談社文庫、1989年。
- ^ 檀上 寛、『明の太祖 朱元璋』白帝社、1994年
- ^ 『明史・太祖伝』、ソースはこのページを参照した

