満寵
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満 寵(まん ちょう、? - 242年)は、魏の武将。字は伯寧。満偉の父。満奮の祖父。
山陽郡昌邑県の人。身長は八尺(約190cm)あったと伝えられる。18歳の時に県の役人(督郵)になった。郡内で私兵を率いて乱暴していた李朔という人物は、二度と乱暴しなくなった。高平の令を代行した際、督郵の張苞の横暴を見てこれを逮捕しその場で取り調べを終え、そしてそのまま自ら官職を捨てて帰郷したという逸話を持つ。
その後、曹操に仕えた。曹洪配下の将が曹氏の権勢を笠に着て略奪を行った時、満寵は速やかにこれを逮捕した。そして曹洪から曹操への働きかけがあったことを知ると、直ちに処刑した。この行為は曹操に大いに賞賛された。元の太尉の楊彪が逮捕された際にも、荀イクや孔融に手心を加えるよう頼まれたが、満寵は規則どおり(注によると、笞打ち)に訊問した上で、曹操に処罰するなら罪を明確にすべきと直言したため、曹操は楊彪を赦免した。このことから分かるように、満寵は誰に対しても公明正大で法に厳しかったが、傲慢ではなかったので人から疎まれることは無かった。
軍事面でも活躍し、官渡の戦いの時期には袁紹の本拠である汝南太守を務め、袁氏の与党の軍を滅ぼし、農耕に従事させた。荊州征伐の時期には奮威将軍も兼務し、当陽に駐屯し、関内侯を得た。後に征南将軍曹仁の参謀に起用され、219年に関羽が攻めてきた時は、于禁ら七軍が増水により壊滅し苦戦するも、曹仁を叱咤激励しつつ協力し、徐晃の援軍を得て関羽を撃退した。
文帝(曹丕)の代には、呉との戦いで功績を挙げ、伏波将軍に任命され、新野の防衛を任された。南郷侯・仮節を与えられた。224年には前将軍と昇進した。明帝(曹叡)が皇帝になると昌邑侯になり、228年には豫州刺史を兼任した。229年の呉征伐においては、曹休が敗退するであろう旨の上奏をし、実際その通りになった。曹休の死後に都督揚州諸軍事となる。揚州への転勤の際、汝南の民や兵士の多くが満寵を慕って勝手についていったため問題になり、詔勅により親衛兵千人を率いていくことが許され、その他一斉が不問とされた。230年には征東将軍となった。孫権に備える一方で、同僚である揚州刺史の王凌とは意見が遭わずたびたび対立した。
233年に満寵は上表し、合肥城の北西に合肥新城を築いた。同年、孫権は合肥新城を攻めたが、満寵は伏兵を用いて撃退した。234年、諸葛亮に呼応して再び孫権が合肥新城に攻めてきた時は、合肥新城に救援に赴き、火を放って呉軍の攻城兵器を焼き、孫権の甥の孫泰を射殺した。235年には孫権の屯衛兵を襲撃し破っている。
曹叡死後は曹芳に仕え、司馬懿と並んで曹氏四代に仕える古株となった。238年には太尉にまで昇進した。
242年3月、満寵は逝去した。景侯の諡号を贈られた。
小説『三国志演義』では、満寵は劉曄の推薦を受けて曹操の家臣となり、楊奉の配下だった旧知の徐晃を曹操陣営に引き入れることに成功するなど、物語の初期においては弁舌の士という描かれ方がされている。

