漢服
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漢服(かんふく)とは、漢民族の伝統的民族的服飾のことで、また漢装、華服とも言う。主に17世紀中葉以前の漢民族の民族文化を基礎に形成された民族の特徴をもった服装飾体系、すなわち明末清初以前の漢民族が着ていた、漢民族の風格が濃厚で、代々伝えられてきた民族服飾を総称して言う。
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[編集] 起源と発展
約5千年前中国の新石器時代、仰韶文化の頃に農業と紡績業が始まった。麻で衣服が作られるようになった。その後、蚕を飼い絹糸を取ることを知るようになり、人々の衣冠服飾も日々整っていった。黄帝時代に冕冠(冠)が現れ、服飾制度が次第に形成されていった。夏殷以降、冠服制度が確立され、西周の時に完成された。周後期、政治、経済、思想文化は急激に変化し、特に百家争鳴で服飾について論議が尽くされ、その影響は諸国の衣冠服飾や風俗習慣にも及んだ。冠服制度は“礼制”に取り入れられ、儀礼の表現形式として中国の衣冠服制度は更に複雑になっていった。
漢民族のこの服飾制度は周から明代に至るまで、三千年来漢人の服装の基本的特徴には大きな変化はない。三百年ばかり前の清初、この服飾制度は崩壊する。清朝の統治者は明との戦争中、漢人の民族としての連帯感を弱めるため、また中国統一のため、1644年、明朝滅亡後に満州族の髪型と満州族の服装を強制し、漢民族の服飾を身に付けることを禁止した。史上名高い剃髪易服(髪を剃り、服を替える)である。これにより漢服は次第に消滅させられた。今日の旗袍、長衫、馬褂はいずれも満州族の民族衣装を改良し発展させたものである。
アヘン戦争以降の清朝末期にヨーロッパ列強の侵略により西洋文化が多く流入する。その後、辛亥革命により満州族統治の清朝が倒れると、中華民国が建国され、近代化に向かう。人々の思想は西洋化に向かい、西洋風の服装に変わり、漢服の回復はなかった。第2次世界大戦後の中華人民共和国の建国以降は人民服が推奨され、成人男子のほとんどが着用し、女性にも多く着られた(改革開放政策以降、次第に洋服も着られるようになった)。この共産主義国家の成立と文化大革命による文化の断絶も、伝統衣装などの文化の継承に大きな妨げとなった。しかし21世紀初めになり、中国の国力が発展するに従い、人々の目は自国の伝統文化の優秀な面に関心を寄せるようになった。一部の人は、伝統的漢服の復興を呼びかけ、率先して漢服を着て普及運動を始めている。漢服の歴史やデザインについてはさまざまな説があり、これらの漢服復興運動に対して、一般社会からは様々な意見が出されている。
[編集] 漢服の特徴
現代の漢服の主な特徴は、襟があり、襟に続くおくみ(衽)、ボタンを使わず、帯で締めることにある。見るものに、ゆったりとして飄逸な感じを与えた。これらの特徴は、他の民族の服装とは明らかに異なる。漢服には礼服と普段着の別がある。形の上から見ると、主に上衣下裳(上は襟のある上着、下は裳というスカート状の下衣、衣裳はここから出来た言葉)、深衣(着丈の長い、裾の広がったゆったりした衣服)、褥裙(短い上着とスカート)などの形があった。このうち、上衣下裳に冠をかぶるスタイルは帝王や百官の厳粛で正式な時に着る礼服で、袍服(深衣)は百官、知識人達の普段着、褥裙は女性が好んで着た。一般の下層の人々は上は短い上着、下は長いズボンだった。
[編集] 付属品
頭の飾りは漢民族服飾の重要部分の一つ。
古代の漢民族の成年男女は、頭髪を髷巻きにし、笄を刺して固定していた。男子は頭に常に冠、布、帽子を載せていた。形は色々な物があった。女性の髪の櫛は色々な種類があり、髪の上には真珠、花、かんざしなど色々な飾り物をした。
[編集] 周辺国への影響
和服の装飾は奈良時代の中国の唐の漢服の影響を受けているが、今に至る過程で日本の風土に合うように進化をした部分がある。
朝鮮半島の韓服は騎馬民族の衣装である胡服を原型とするが、漢服の影響も受けている。







