烏孫

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烏孫(うそん、英語wu sun(ウスン))は、紀元前3世紀頃から6世紀頃にかけて、中央アジア東部に存在した国家。烏孫国ともいう。月氏国、トカラ国、スキタイ国のサカ族等とは民族・文化・言語において近縁な関係にあった。鳥(トリ)ではなく烏(カラス)孫国と表記する。

目次

[編集] 歴史

紀元前161年前漢の頃、現在のキルギスタン付近に遊牧民族サカ族テュルク系民族を主体として建国された。漢民族は蔑称で西戒の部落と呼んだ。前漢の時、月氏国に攻撃を受け壊滅するも、大部分の烏孫族は隣国匈奴に吸収された。前113年、匈奴にいた烏孫族は大群を率いて大月氏国に攻め入り勝利を収め、イシク湖付近に烏孫国を建国した。烏孫は次第に強大となり、匈奴の勢力範囲に属しながら、匈奴の会議には出席しなくなった。

前漢の張騫は匈奴と烏孫を切り離し、漢に服属させるべく、武帝に上奏。武帝は張騫を中郎将に任命し、300人の部下と1人につき2頭の馬、数万の牛と羊を引き連れ、さらに数千万の黄金と絹織物を携えさせ、節をもった副使多数とともに烏孫へ派遣した。烏孫王の昆莫単于に対するのと同じ儀礼で漢の使節と面会し、天子の賜り物に拝礼した。そこで張騫は漢と対匈奴の共同戦線を張ることを提案した。しかし、昆莫自身も老齢で、まず漢がどのくらいの国なのかもわからず、さらにこのころの烏孫国内は三つに分裂しており、烏孫の大臣たちは匈奴を恐れており移住を望まなかったこともあって、昆莫が独断で決められることではなく、張騫ははっきりした返事がもらえなかった。張騫はいったん烏孫の者数十人を連れて帰国し、漢の偉大さを見せつけた。それから張騫は一年あまりして亡くなった。烏孫の使者たちは帰国すると、漢は人口が多く裕福であることを報告し、烏孫の者たちはますます漢を尊敬するようになった。それからというもの烏孫をはじめ西域諸国は漢との交際を始めた。これを聞いた匈奴は烏孫に攻撃しようと決意した。これを恐れた烏孫は公主を娶り漢と兄弟となることを希望した。烏孫は千匹の馬を結納として送り、漢は皇族の娘である江都公主を嫁にやった。昆莫は公主を右夫人とし、匈奴からもきた嫁を左夫人とした。しかし昆莫は自分が老齢だといい、公主を孫の岑陬に娶らせた。

李広利の二度目の大宛討伐に際し、武帝は烏孫に使者を送り、協力して大宛を討つよう要請した。そこで烏孫は2千の騎兵を出動させたが、二股をかけてそれ以上進まなかった。

昆莫が死ぬと、孫の岑陬が代わって立った。岑陬というのは官号で、名は軍須靡という。実は昆莫というのも王号(以下昆彌)で、名は獵驕靡といった。岑陬は江都公主を娶り、一女少夫を生んだ。江都公主が死ぬと、漢はふたたび楚王劉戊の孫の解憂を公主とし、岑陬に娶らせた。岑陬が臨終の際に、岑陬と胡婦との間に生まれた泥靡は幼いので、王位を伯父の大禄の子の翁帰靡に与え、泥靡が成長したら王位を譲るよう遺言した。岑陬が死に、翁帰靡が即位すると肥王と号し、楚主解憂を娶り、三男二女を生んだ。

昭帝の末年、壺衍鞮単于は烏孫を攻撃し、車延・悪師の地を取った。烏孫公主(解憂)は上書し、漢に救援を要請したが、漢では昭帝が崩御し返事ができなかった。宣帝が即位すると、昆彌(こんび:烏孫の君主号)の翁帰靡はふたたび上書して救援を要請した。本始二年(前72年)、漢は要請に応じて、祁連将軍の田広明度遼将軍范明友前将軍韓増後将軍・蒲類将軍の趙充国、雲中太守・虎牙将軍の田順の五将軍を派兵した。校尉常恵は烏孫西域の兵を指揮し、翁帰靡は自ら翕侯(きゅうこう:諸侯)以下5万余騎を率いて西方から入り、総勢20数万が匈奴を攻撃した。五将軍にはあまり戦功がなかったが、常恵が指揮する烏孫軍には戦功があったので、常恵は長羅侯に封ぜられた。しかし、匈奴の被害は甚大で、烏孫を深く怨むこととなり、その冬、壺衍鞮単于は烏孫を報復攻撃したが、その帰りに大雪にあって多くの人民と畜産が凍死した。さらにこれに乗じて北の丁令、東の烏桓、西の烏孫に攻撃され、多くの死傷者が出て、多くの畜産を失った。これにより匈奴に従っていた周辺諸国も離反し、匈奴は大虚弱となった。

翁帰靡が死ぬと、烏孫の貴人たちは共に先代の遺言に従い、岑陬の子の泥靡を立てて昆彌に即位させ、狂王と号した。狂王は楚主解憂を娶り、その間に鴟靡を生んだ。漢は衛司馬の魏和意と副侯の任昌に侍子を送らせるべく二人を派遣したが、公主は狂王に患わしく苦しめられていると告白してきたので、二人と公主は狂王を暗殺することを謀った。宴会の席で狂王に斬りかかるが、失敗し、狂王は負傷しただけで馬に乗って逃げ去った。狂王の子の細沈瘦は魏和意と任昌及び公主を赤穀城にて包囲した。数ヵ月後、西域都護鄭吉が諸国の兵を発してこれを救った。漢は中郎将の張遵を遣わして狂王を治療させ、金二十斤を賜った。魏和意と任昌は長安に連行され斬首された。車騎将軍・長史の張翁は公主らに狂王暗殺の尋問をした際、公主の頭をつかんで罵った。公主はこのことを上書したので、張翁は逆に死刑となった。

肥王翁帰靡と胡婦との子である烏就屠は、狂王が負傷した時に、諸翕侯とともに避難していた。北山中にて、母家である匈奴に帰順し、狂王を襲撃して殺し、自ら立って昆彌となった。漢は破羌将軍の辛武賢を派遣してこれを討たせたが、西域都護の鄭吉が馮夫人に烏就屠を説得させたので、烏就屠は帰順した。漢は新たに元貴靡を大昆彌、烏就屠を小昆彌とし、烏孫の君主を二つに分け、さらにその人民も二つに分け、長羅侯の常恵に赤穀城にて監督させた。

甘露三年(前51年)、元貴靡・鴟靡が病死したので、公主は遺骸を漢の地に埋めたいと上書し、公主は三人の孫とともに漢に帰国し、田宅・奴婢を賜った。公主はその二年後に亡くなった。

元貴靡の子の星靡が代わって大昆彌となるが、体が弱かったので、馮夫人は護衛をつけるよう上書した。のちに西域都護の韓宣が星靡を廃位して、左大将の大楽を昆彌に即位させるべきだと上奏したが却下された。星靡が死ぬと、子の雌栗靡が大昆彌に即位した。

小昆彌の烏就屠が死ぬと、子の拊離が即位したが、弟の日弐に殺される。日弐は逃亡し、康居に依った。漢の遣使者は拊離の子の安日を立てて小昆彌とした。安日は貴人の姑莫匿ら3人に日弐の一味に紛れさせ、これを刺殺させた。

後に安日は降民に殺され、漢はその弟の末振将を小昆彌とした。時に大昆彌の雌栗靡は健在で、翕侯らは彼に心服し、国中は翁帰靡の時以来の大安となっていたが、小昆彌の末振将は恐れて、貴人の烏日領に雌栗靡を刺殺させた。漢は中郎将の段会宗を遣わし、雌栗靡の叔父の公主の孫の伊秩靡を大昆彌とした。大昆彌の翕侯の難棲は末振将を殺し、末振将の兄の安日の子の安犁靡が代わって小昆彌となった。元延二年(前11年)、漢はふたたび段会宗に命じて、その太子の番丘を斬らせた。

元寿二年(前1年)、大昆彌の伊秩靡と単于は漢に入朝した。元始中に至り、末振将の弟の卑爰疐は烏日領を殺し、漢は彼を帰義侯に封じた。両昆彌は皆弱く、卑爰疐は陵を侵したので、西域都護の孫建はこれを襲って殺した。

後漢永平十七年(74年)、烏孫は漢に名馬を献じて侍子の入朝を請う。

北魏太延三年(437年)、散騎侍郎の董琬・高明らは太武帝の命を受けて西域に向かい、鄯善はじめ9カ国を招撫し、烏孫国を経て、董琬は破洛那(フェルガナ)に、高明は者舌(カザフ)に至った。 烏孫はたびたび柔然に侵され、西の葱嶺山中に移っていた。

5世紀から6世紀にかけて烏孫族は姿を消した。

[編集] 地理

全盛期には中央アジア・キルギスタンのイシク湖とカザフスタンイリ川を中心として、北はカザフスタン南東部、東は中国新彊ウイグル自治区天山山脈の麓、西はウズベキスタン東部、南はタジキスタン東部とアフガニスタン北部付近まで広がっていた。

[編集] 政治体制

国を治める君主は昆彌(こんび)といい、赤穀城を本拠地とした。相、大禄、左右大将二人、侯三人、大将・都尉各一人、大監二人、大吏一人、舍中大吏二人、騎君一人の官職があった。

[編集] 歴代君主

烏孫の君主号は昆彌(こんび)といい、のちに大昆彌小昆彌に分かれ、二人の君主を戴いた。

  1. 難兜靡
  2. 昆莫(猟驕靡)…難兜靡の子
  3. 岑陬(軍須靡)…昆莫の孫
  4. 肥王(翁帰靡)…岑陬の従弟
  5. 狂王(泥靡)…岑陬の子
  6. 烏就屠…翁帰靡の子、小昆弥となる

<大昆弥>

  1. 元貴靡…翁帰靡の長子
  2. 星靡…元貴靡の子
  3. 雌栗靡…星靡の子
  4. 伊秩靡…雌栗靡の季父公主の孫

<小昆弥>

  1. 烏就屠
  2. 拊離…烏就屠の子
  3. 安日…拊離の子
  4. 末振将…安日の弟
  5. 安犂靡…安日の子

伊秩靡と安犂靡の後も王統が続くと思われるが、それを伝える史料は発見されていない。

[編集] 関連項目

[編集] 参考資料

  • 史記』(大宛列伝)
  • 漢書』(匈奴伝、西域伝)
  • 魏書』(第九十 西域)

最終更新 2009年10月30日 (金) 12:11 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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