熊本城

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熊本城
熊本県
通称 銀杏城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 連結式望楼型3重6階地下1階(非現存・1600年築)
外観復元(RC造 1960年再)
築城主 出田秀信
築城年 1469年 - 1487年頃
主な改修者 加藤清正
主な城主 加藤氏、細川氏
廃城年 1874年
遺構 現存櫓・門・塀、石垣、堀
指定文化財 国の重要文化財:櫓11棟、門1棟、塀1棟
国の特別史跡:熊本城跡
再建造物 外観復元:大小天守・平櫓・馬具櫓
木造復元:西大手門・数奇屋丸二階広間・南大手門・西出丸戌亥櫓・未申櫓・元太鼓櫓・飯田丸五階櫓・本丸御殿大広間
位置 北緯32度48分21.7秒
東経130度42分21.23秒
  
大天守・小天守

熊本城(くまもとじょう)は、熊本県熊本市にあったである。別名、銀杏城(ぎんなんじょう)。

目次

[編集] 概要

熊本市の北に隣接する植木町の中心から南に伸びる舌状台地(京町台地)の尖端、茶臼山丘陵一帯に築かれた平山城。現在の熊本市本丸、二の丸、宮内、古城、古京町、千葉城町に当たる。

中世に千葉城、隈本城が築かれ、安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて加藤清正がこれを取り込み、現在のような姿の熊本城を築いた。日本三名城の一つとされ、「清正流(せいしょうりゅう)」と呼ばれる石垣の上に御殿、大小天守、五階櫓などが詰め込んだように建てられ、一大名の城としては「日本一」であるとの評価がある[1]

細川氏の居城となった後もほとんど改変はなく、明治時代の初めまでは大半の建物が撤去されずに現存していたが、熊本鎮台が置かれた後に建物や石垣、曲輪の撤去や改変が行われ、西南戦争で一部の建物を残して天守を含む御殿や櫓など主要な建物を焼失した。現在は、宇土櫓や東竹之丸の櫓群が残る(建物が失われる経緯は、同項の歴史(明治時代以降)を参照のこと。)。石垣普請の名手とされる清正が築いた石垣は、改修された部分があるもののほぼ創建当初の姿をとどめ、城跡は特別史跡に指定されている。昭和時代初期には大小天守と一部の櫓が外観復元され、近年では、櫓や御殿などの主要な建物を木構造で復元する事業が行われている。

[編集] 歴史・沿革

[編集] 千葉城・隈本城時代

文明年間(1469年-1487年)に肥後守護菊池氏の一族・出田秀信が千葉城(ちばじょう、現在の千葉城町)を築いたのが始まりである。

その後、出田氏の力が衰え、大永・享禄年間(1521年 - 1531年)に菊池氏は代わりに託麻・飽田・山本・玉名4郡に所領を持つ鹿子木親員(寂心)に隈本城(くまもとじょう、現在の古城町)を築かせて入れた。親員は藤崎八旛宮の遷宮を行い、1529年(享禄2年)には後奈良天皇の倫旨、1542年(天文11年)には勅額の下賜を得ている。1550年(天文19年)、豊後守護大友義鑑が家臣の謀反により殺されると、義鑑の弟で菊池氏を嗣ぎ、かつ義鑑と敵対していた守護菊池義武が隈本城に入り、鹿子木親員の孫・鎮有はこれを迎え入れた。しかし、義鑑の子・大友義鎮により追われ、以後は大友氏に協力した城氏が居城とした。

1587年(天正15年)、豊臣秀吉の九州征伐に際し、隈本城主城久基は城を明け渡し筑後国に移った。新たに肥後の領主となり隈本城に入った佐々成政は、秀吉の指示に反して検地を強行し、肥後国衆一揆を引き起こす。1588年(天正16年)、成政は切腹を命じられ、加藤清正が肥後北半国19万5000石の領主となり隈本城に入った。

[編集] 熊本城時代

加藤清正は、1591年(天正19年)から千葉城・隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に城郭を築きはじめる。1600年(慶長5年)頃には天守が完成、関ヶ原の戦いの行賞で清正は肥後一国52万石の領主となる。1606年(慶長11年)には城の完成を祝い、翌年「隈本」を「熊本」と改めた。これが現在の熊本城である。1610年(慶長15年)から、通路によって南北に分断されていた本丸に通路をまたぐ形で本丸御殿の建築が行われた。これにより天守に上がるには、本丸御殿下の地下通路を通らなければならないようになった。

1632年(寛永9年)、清正の子・加藤忠広の改易により豊前小倉城主だった細川忠利が肥後54万石の領主となり熊本城に入った。このとき忠利は天守に上り清正を祀る廟所がある本妙寺の方角に向かって遙拝したと伝えられる。忠利は城の長塀の南、坪井川を渡った所に花畑屋敷を造営し、以後歴代藩主はここを日常の居所とした。

[編集] 明治時代以降

明治初期(1874年)の熊本城

幕末の熊本藩には学校党・実学党・敬神党の3つの勢力があったが、維新後の1870年(明治3年)進歩的な実学党が政権を握り、「戦国の余物」「無用の贅物」であるとして熊本城の解体を新政府に願い出た。これは諸藩の改革を促進したい新政府の意向を受けたもので、願い出は聞き届けられた。しかし、作業開始当日になって解体の方針は凍結されることになった。藩知事細川護久の主導で進められた方針に対し、前藩知事で保守派の細川韶邦が不満であるなど、藩内に意見の相違があったためといわれる。代わりに、城内は天守を含めて一般に公開されることとなった。

1871年(明治4年)廃藩置県後は熊本県の県庁が二ノ丸に置かれ、同年に花畑邸鎮西鎮台(後に熊本鎮台に改めた。)がおかれた。

この時の熊本鎮台司令であった桐野利秋は老朽化した櫓、多重櫓の破却を指示し、特に西出丸は石垣を取り崩し、郭自体を破却している。西南戦争前には天守・本丸御殿を中心とした本丸主要部のみ保存されていた。

1876年(明治9年)の神風連の乱のときには反乱士族が鎮台司令官種田政明などを襲い城内の砲兵営を制圧したが、1日で鎮圧されている。

西南戦争では政府軍の重要拠点であると同時に西郷軍の重要攻略目標となる。西郷軍の総攻撃2日前、1877年(明治10年)2月19日午前11時40分から午後3時まで原因不明の出火で大小天守など多くの建物(同時に30日間の米、城下の民家約千軒)を焼失した。田原坂(たばるざか)の戦いを含む激しい攻防が行われたが、熊本城は司令官谷干城の指揮の下、4000人の籠城で、西郷軍14000人の攻撃に耐え、ついに撃退に成功した。なお、この戦いでは武者返しが大いに役立ち、熊本城を甘く見ていた西郷軍は、誰一人として城内に侵入することができなかったという。

西南戦争後も、時期は不明であるが焼失を免れた西竹之丸脇五階櫓・飯田丸三階櫓・札櫓門が陸軍の手で破却されている。

1884年 城内に午砲台が設置され、空砲による報時業務が始まる(1941年廃止)。

1888年(明治21年)には、熊本鎮台を母体とする陸軍第6師団の司令部が天守台に置かれた。

1933年昭和8年)「熊本城」(種別:城郭 - 宇土櫓、監物櫓など計13棟)として旧・国宝保存法に基づく国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定される[2]

本丸御殿(木造復元)

1933年(昭和8年)「熊本城跡」として国の史跡に指定される。

1955年(昭和30年)「熊本城跡」として国の特別史跡に指定される。

1960年(昭和35年)の熊本国体開催と築城350年を期に、熊本市は一般からの寄付も募り1億8000万円の費用をかけ外観復元で大小天守と平櫓、塀などを再建し、本丸一帯を公園として整備し入場を有料化した。大天守の内部は熊本市立熊本博物館の分館として史料等の展示がされ、最上階は展望スペースとなっている。

2007年平成19年)築城400年に際して、本丸御殿をはじめ、西出丸の塀、戌亥櫓、元太鼓櫓、奉行丸の塀、未申櫓、南大手門などの建造物を数年かけて復元[3] された。なお未だ復元工事中や、工事未着手の建物もいくつかある。  

[編集] 構造

長塀と坪井川

城郭の形式は、梯郭式平山城。広さは約98万平方メートル、周囲は約5.3キロメートルある。南西の古城と北東の千葉城を取り込み、それらを出丸としている。

南東を流れる白川を外堀に見立て、これに合流していた坪井川井芹川を切り離して内堀としているため城内にある水堀は飯田丸の西にある備前堀1つのみである。本丸は丘陵の東の最も高い部分に造り全面石垣積みとし、西へゆるやかに下る二の丸・三の丸は重点箇所のみに石垣を築き、経費を抑えた。搦手口のある北は他の方面に比べ、内郭に近接しているので一般的に弱点とされるが、断崖と空堀(現在は道路)に仕切られており突破は困難である。これに対し西は開けており、多少なりとも傾斜も緩い。そのため、西出丸・二の丸・三の丸で区画し防備を固めているが、城郭西端の先に独立した小丘として段山(だにやま)がある。兵力の関係で総構えを放棄した西南戦争ではこの段山を巡る戦いが行われた。

[編集] 石垣

清正は特に石垣造りを得意とし、熊本城では、始め緩やかな勾配のものが上部に行くにしたがって垂直に近くなる「武者返し」と呼ばれる形状の石垣を多用している。熊本城で使用されている武者返しは慶長の役の際に難攻不落と呼ばれ朝鮮に築いた蔚山倭城(うるさんわじょう)に使用した築城技術を元にしたものである。 上益城郡山都町(旧・矢部町)にある通潤橋は、江戸時代末期にこの熊本城の武者返しの石垣をモデルに架けられた。 江戸幕府の仮想敵であった薩摩藩に対する備えとして建造されているため、南側が非常に堅固(その分北側がかなり手薄)な構造になっている。この構造が西南戦争で薩摩軍の包囲戦をしのぐことができた要因の一つとなっている。 熊本市役所前の石垣は、長さとしては日本最長である。

[編集] 天守

天守は、連結式望楼型、大天守は3重6階地下1階、「一の天守」とも呼ばれる。小天守は3重4階地下1階、「二の天守」とも呼ばれ、「御上(おうえ)」という夫人のための建物である。 大天守は、一般に5重の天守として見られているが、2重目にあたる部分と4重にあたる部分のものは屋根ではなく廂とするので、正確には3重6階地下1階の天守である。萩城天守と同じように天守台から少し張り出す「張出造(はりだしづくり)」で、張り出し部分には石落しが設けられていた。ちなみに、城の北東に清正が建立した豊国廟跡(立田山中腹)と、城の南西の妙解寺跡(花岡山麓)にある細川家の霊廟の2つを結ぶ直線上に天守があるという。

小天守の天守台は大天守に被さるように造られており大天守の天守台石垣の勾配より急角度であり、また天守台と建築物の間には、名古屋城天守と同様に60センチメートル程の「忍び返し」という鉄串が刺してあり、再建とはいえ各所に大天守との建築時期の相違を確認できるという。これには、いくつか説があり、 大天守が1601年に竣工し、10年後、文禄・慶長の役で中断されたのちに増築された[4]、1594年に計画した際、櫓が重なり合って景観のバランスが悪いということから[5]、現在の位置に変更されたことによるといわれ、細部でも意匠が異なっている。『肥後宇土軍記』によると関ヶ原の戦いの後、加藤清正は隠居のための城として宇土城を改修したが一国一城令により破却の対象となり、その際に大天守の北側に石垣を新設し建物を移築し小天守としたと記されている。

大天守北側は、創建時には小天守がなく城の北東入り口である不開(あかず)門より本丸西隣の平左衛門丸へと続く通路であった。再建天守の観光入り口の橋下を望むと旧通路の階段が門扉も虎口もなく直に小天守入り口に続く構造を確認することができる。現在は非公開だがこの階段を下ると裏五階櫓跡と小天守の間に旧通路をふさぐように石垣が築かれており、高さ1メートル程の石門をくぐると不開門へと続く北帯曲輪へ出ることができる。石門は堀や帯郭の清掃のための通用口として利用されていたが、過去には抜け穴や水抜き穴との説があった。[1]

[編集]

建物は、漆喰壁に柿渋塗りの下見板張りの黒い外観が特徴である。天守以外の櫓や門の屋根には反りが少なく破風には直線かむくりが付けられている。多重櫓はすべて望楼型である。

[編集] 五階櫓

五階櫓(ごかいやぐら)は、3重5階の三重櫓である。往時には現存する宇土櫓のほかに、裏五階櫓、数寄屋丸五階櫓、飯田丸五階櫓、西竹之丸脇五階櫓の4基、本丸東五階櫓は後に三階櫓に改築されたが、大小天守を除く合わせて6基の五階櫓があった[6]。これらの五階櫓は他城の天守の規模に相当する櫓である。これらは慶長年間に毛利藩が作成した熊本城略図に記載のない櫓(数寄屋丸五階櫓、西竹之丸脇五階櫓、本丸東五階櫓)もあり、一国一城令後に肥後藩領内にあった南関・佐敷・内牧城の天守を移築したものではないかとの説がある。

宇土櫓
宇土櫓

五階櫓の中でも「三の天守」とも呼ばれる宇土櫓(うとやぐら)は、3重5階地下1階で、熊本城では最大の櫓である。破風はむくりを持ち、諸櫓と同じ仕様で造られているが、最上階に外廻縁を持つ。清正の創建した初代天守ではないかという見方もある。宇土城の天守を移築したものと伝えられ、明和9年(1772年)に森本一端が記した『肥後国誌』(下巻)によって通説化したが[7]、昭和2年(1927年)の解体修理の際には移築の痕跡が見られず、城戸久などがこの説を否定した[8]

宇土櫓に関して記された最も古い文献である別井三郎兵衛の『御城分間』寛文6年(1666年)には「御天守西ノ御丸 五階御矢蔵」とあり、同じ寛文年間に作成された熊本城絵図には「平左衛門丸五階櫓」との記載がある。平左衛門丸には加藤平左衛門の屋敷があり、小西氏の家臣であった者の管理をする施設も併設されていたため、平左衛門丸に建てられていた櫓には「宇土三階櫓(平左衛門丸二重櫓)」などのように「宇土」を冠していたことが江戸中期の『肥後録』にあることから宇土櫓も同様の由来で名づけられたのだと北野隆はいう[9]

西竹之丸脇五階櫓

西竹之丸脇五階櫓(にしたけのまるわきごかいやぐら)は別名「独立櫓」ともいわれる[10] 。現在の櫓台の石垣は郭から孤立しており入口がないが、往時は、札櫓門を通じて塩櫓・飯田丸三階櫓と繋がっていた。防衛面で見ると竹之丸から飯田丸への連続した枡形虎口を櫓の南・西・北面に通し飯田丸三階櫓と挟撃し札櫓門で侵入を防ぐ南側の重要拠点であった。西南戦争の罹災を免れていたが、その戦後にまとめて陸軍により破却されている。

飯田丸五階櫓と櫓台の2段石垣
飯田丸五階櫓

飯田丸五階櫓(いいだまるごかいやぐら)は、飯田丸の南西隅にあった櫓である。櫓台の石垣は2段に築かれており、かつては1段目にL字型の要人櫓を配し、より立体的に攻撃できるようになっていた。なお、石垣は元々段差がなく後に、五階櫓の櫓台に1段目を被せるように造ってある。この痕跡は元札櫓門へのクランク左側の石垣に旧石垣の反りを確認できる。防衛面では竹の丸入口の櫨方門周辺と西出丸へと続く南坂への攻撃や指揮所として役割があった。西南戦争前に陸軍により破却されていたが、平成17年(2005年)に木造にて再建されている。

裏五階櫓

裏五階櫓(うらごかいやぐら)は本丸北端にあった櫓である。1重目に対し2・3重目の逓減率の大きい初期望楼型の造りから熊本城の初代天守や隈本城の旧天守との説がある(宇土櫓にも同様の説がある)。北帯曲輪や不開門を見下ろす位置にあり、厚みのない北側の拠点である。かつて北帯曲輪が平左衛門丸へと続く通路であった際、通路から本丸への入口を櫓の南隣の本丸埋門に通しており、本丸北口の守りの要でもあった。西南戦争前に陸軍により破却されている。再建計画はあるものの、前述の入口の石段は破却されたままで、現在、櫓跡地には公衆便所がおかれている。

数寄屋丸五階櫓

数寄屋丸五階櫓(すきやまるごかいやぐら)は数奇屋丸の南西隅にあった櫓である。かつては数奇屋丸二階櫓や続櫓を通じて数寄屋丸三階櫓に接続していた。続櫓を除いた五階櫓単独としては五階櫓の中でも初層の広さが最大であり他に比べるとやや平べったい重厚な造りになっている。防衛面では飯田丸の西櫓門を見下ろす位置にあり、南坂を上ってきた敵の迎撃や指揮所として役割があった。五階櫓の中で最初に取り壊されており古写真が極めて少ない。

[編集] 遺構

宇土櫓をはじめ監物櫓(長岡図書預櫓)、平櫓、五間櫓、北十八間櫓、東十八間櫓、源之進櫓、四間櫓、十四間櫓、七間櫓、田子櫓の各櫓、長塀(全長約242メートル)、不開門の13棟の遺構は現存し、それぞれ国の重要文化財に指定されている。

東竹之丸の櫓群
  • 平左衛門丸
    • 宇土櫓(古外様櫓、二階櫓を含む)
  • 東竹の丸
    • 田子櫓
    • 七間櫓
    • 十四間櫓
    • 四間櫓
    • 源之進櫓
    • 東十八間櫓
    • 北十八間櫓
    • 五間櫓
    • 平櫓
    • 不開門
  • その他
    • 監物櫓(監物台樹木園)
    • 長塀(坪井川端)

現存する建物のほかに、飯田丸五階櫓・南大手門・未申櫓・戌亥櫓・西出丸長塀などが復元され、また、平成19年(2007年)の清正による築城400周年にあたり、12月末に本丸御殿大広間の復元工事がほぼ完了し、2008年4月20日から一般に公開されている。ほかの多重櫓などの復元も長期に計画されている。 また、外観復元されていた馬具櫓が木構造部分が老朽化したため、木造で改めて復元される。

天守閣内には御座船「波奈之丸」の居間部分があり、「細川家舟屋形」として国の重要文化財に指定されている。

[編集] 城下町

城下町は西南戦争における戦闘で焼失し、その跡には一般的な市街地が形成されたため、現在ではほとんど面影は残されていない。しかし、辛島町から熊本駅までの一帯には城下町の町割りのまま道路が敷かれているほか、呉服町、魚屋町、古大工町紺屋町といったかつての職人町の地名が数多く残っている。

[編集] 雑学

[編集] 加藤氏にかかわる話

江戸時代、熊本藩の歴史の大半を占めたのは細川氏であったが、西南戦争で天守が焼失する様を地元の人は「清正公(せいしょこ)さんの城が燃えている…」と悲しんだといい、西南戦争の際、官軍の守る熊本城を攻め落とすことができなかった西郷隆盛は「おいどんは官軍に負けたとじゃなか。清正公に負けたとでごわす」と言ったという。このように、熊本城には加藤氏・加藤清正にかかわる話がある。

銀杏の木

「銀杏城」という名の由来になっているのは、城内に植えられた銀杏(いちょう)の木である。これは、篭城戦になった時の食料確保のため、築城時に加藤清正がこの銀杏を植えたという。朝鮮出兵での蔚山城籠城戦で食料不足に苦しんだ経験を生かしているといわれているが、この銀杏の大木は雄木なので実はならず、城内を知らない者が後世創った俗説と考えられる。また、清正は「この銀杏の木が天守と同じ高さになった時にこの城で兵乱が起こるだろう。」とつぶやいたという言い伝えがある。明治時代、清正が植えた銀杏の木は天守とほぼ同じ高さになっていたが、明治10年に西南戦争が起こり、熊本の城下が戦場となった。 また、同様に篭城時の食料の確保に関して、清正は城内の建物の土壁に干瓢(かんぴょう)を塗篭め、畳床には食用になる里芋茎を用いて備えたという[11]

替えの建材

細川家の治世中に、ある櫓の柱が腐ってしまった。交換のため櫓の解体をしたところ、「この柱はどこそこの池に替えの木材を沈めている」と書いてあり、指定の池を調べたところ、果たして木材が出てきて清正の準備のよさに驚いたとの逸話がある。いつ、どの櫓、どこの池というのが全く伝わっていない類の話ではあるが、城の管理者が細川家に移っても清正にかかわる話が創られていたことが伺える。

井戸

清正は水においても設計は手堅かった。朝鮮出兵における蔚山城籠城戦で、特に水で苦労したことから、城内に120箇所の井戸を掘り、籠城に備えている。どの井戸も規模が大きくて深く、しかも水量が豊かであった。これらは江戸時代を通じ、そして西南戦争で官軍が籠城した際にも使われ、官軍の勝因の一つとなった。

昭君之間
復元された昭君之間

本丸御殿の最深部には、中国の故事に出てくる王昭君の絵画(襖絵とも屏風絵ともいわれる)のある「昭君之間(しょうくんのま)」と呼ばれる部屋があった。この部屋には鶯張りの廊下や外へと通じる隠し通路があったといい、藩主の居間として使われていたようだが、一説によると、豊臣家の有事に際し秀吉の子秀頼を密かに匿うために造られた部屋であるといわれている。“しょうくん”=“しょうぐん”(将軍)の意とする説がある(当時は濁点を打たないので、仮名で書けば同一になる)。表面上は天下人の徳川家康に恭順しながらも、秀吉への恩を忘れない清正の忠義を示しているのだという。

二の丸

重臣の屋敷や後に藩校も置かれた二の丸はそれらの間を縫うように街道(薩摩街道)を通らせる構造であった。江戸時代の最初期には島津家の大名行列もこの街道を利用していた。隣地とのこともあり加藤家と何かと反目していた当時の薩摩藩主、島津家久は他藩である熊本城内を鑓を立てて通る示威行為を行った。すると、すかさず街道沿いのすべての銃眼を開き、銃口を向けて鑓を伏せさせたという話が残っている。島津家の大名行列は、後に領内より船で大阪へ渡るルートへと変更されたのでこの後、互いの領内でのトラブルはなくなったが、関ヶ原の戦い後の緊張感と熊本城の主な目的が伝わる逸話である。

石垣作りの秘密

江戸幕府の開初期、家康より江戸城の石垣普請で浅野家(浅野長晟)と加藤家は当時、沼地であった桜田から日比谷辺りに至り隣合って石垣工事を命じられた。浅野家は、早速工事にとりかかり期限より大分早く石垣を築き上げた。一方、加藤家は森本儀太夫の進言によって予定地一面にアシなどのカヤを敷かせ、その上に砂利や土を被せて近所の10歳から14歳までの子供に開放して遊ばせた。その様子を他藩の人々は笑ったという。そうして、期限いっぱいかけて石垣を築き上げた。家康は、浅野家のすばやい工事を褒め、浅野家の工事責任者には褒賞を与えた。ところが、翌、慶長19年(1614年)の大雨時に浅野家の工事区間の石垣は基底部から脆くも崩れたのに対し、隣の加藤家の工事区間の石垣はビクともせず、浅野家は再工事の出費がかかる上、恥をかくことになった、という逸話がある。ちなみに、この話は2代忠広の時のこととされている。[12][13]

平成20年(2008年)に再建された本丸御殿の地質調査時に、この逸話を裏付ける調査結果が出た。現在の熊本城の本丸は版築による増築部があることが判明した。版築による入念な地固めこそが清正流石垣の秘密であり、先の逸話で子供に相撲を取らせていたというのは、版築の槌音がお話として変化していったと思われる。[要出典]

[編集] 焼失の原因

本丸御殿再建に伴う発掘調査で西南戦争の火災で焼けた様々な出土品が出たが、同時に焼失したとされた兵糧米500石分の痕跡が見つからなかった。通常、大量の米が焼失すると中心部は炭化米として残るが大量の出土品の中から炭化米はついに出なかった。また、今まで城域すべてがこの火災で焼失されたと伝えられていたが実際の罹災範囲は上記、概要にあるように現在の本丸部分と東竹之丸の櫓門1つだけに限定されたものであった。この火災原因には様々な説があり今までは、鎮台の自焼説は篭城兵糧を失った点に問題があると指摘されていた。

[編集] 現地情報

[編集] 交通

[編集] 料金

  • 大人:500円
  • 小人:200円

[編集] 熊本城築城400年祭

熊本城築城400年祭」を参照

[編集] 一口城主

熊本城に対して1万円以上の寄付を行った人を「一口城主(ひとくちじょうしゅ)」として認定し、天守内に城主として認定を受けた寄付者名の書かれた札がかけられる。寄付された寄付金は復元整備事業などに使われる。

[編集] 城域一帯の施設

[編集] 脚注

  1. ^ PHP研究所編『名城を歩く 10 熊本城』PHP研究所 2003年
  2. ^ 国宝保存法における「国宝」(「旧国宝」)と文化財保護法における「重要文化財」とは同等のものである。
  3. ^ 御殿などの落成で2008年度の入場者数は、全国第1位(約222万人)となった。2009年8月にガイド本『名城をゆく1 熊本城』が、小学館ビジュアル新書で刊行され、細川家当主細川護熙も寄稿している。
  4. ^ 中井均・三浦正幸監修『よみがえる日本の城 12 熊本城』学習研究社 2005年
  5. ^ 平井聖監修『城 〔8〕九州 沖縄』毎日新聞社 1996年
  6. ^ 西ヶ谷恭弘「第一部 熊本城を訪ねる」PHP研究所編『名城を歩く 10 熊本城』PHP研究所
  7. ^ 小野将史・北野隆「加藤忠広による熊本城の改修と熊本城小天守について-加藤氏時代の熊本城に関する研究(その3)-」『日本建築学会計画系論文集』第576号 157-162 2004年2月
  8. ^ 城戸久「熊本城宇土櫓造営年次私考」『建築学会論文集』第30号 昭和18年9月(1943年)
  9. ^ 北野隆「熊本城の宇土櫓について」『日本建築学会論文報告集』第308号 昭和56年10月(1981年)
  10. ^ 熊本城公式ホームページ
  11. ^ 西ヶ谷恭弘監修『復原 名城天守』学習研究社 1996年
  12. ^ 三浦正幸著『城のつくり方図典』小学館 2005年
  13. ^ 新人物往来社編『将軍の城「江戸城」のすべて』新人物往来社 1997年

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ

最終更新 2009年11月23日 (月) 03:47 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【熊本城】変更履歴

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