熊野神社 (四街道市亀崎)
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熊野神社(くまのじんじゃ)は、千葉県四街道市亀崎区殿台にある熊野弐社大権現である。
目次 |
[編集] 祭神
【主祭神】
【境内社】
[編集] 由緒
- 紀州熊野神社分霊を奉還し「熊野弐社大権現」を称した。
- 創建の古より産土神として崇敬篤く、家内安全・農業守護・殖産興業の祈願信仰をあつめて来た。
[編集] 要項
- 境内地 九百五十坪(三、一四〇平方メートル)
- 歳旦祭 一月一日
- 御奉射 一月二十日
- 春祈祷 二月十一日
- 秋祈祷 八月下旬
- 例 祭 十月十五日及其の前
- 初宮詣り七五三祈願受付
[編集] 文化財
- 市指定天然記念物
- 亀崎熊野神社の境内林(創建時植林)
- 無形民俗文化財
[編集] 関連項目
- 子授けの御神木(樹齢600年)
- 「熊野権現請願成就」石塔(延享3年)
- 狛犬(昭和17年・清宮兵之助)
- 「改築記念碑」(昭和19年10月)
- 「大日本ハ神國ナリ」~県知事・川村秀文、陸軍大尉・清宮兵之助
- 奉納相撲(~昭和初期)
[編集] 鎮座地
- 千葉県四街道市亀崎壱番地~旧下総国臼井庄亀崎殿台
[編集] 交通
亀崎区自治会館隣り
- 路線バス:JR物井駅より千葉内陸バス亀崎行き5分 「亀崎西台」下車~進行方向すぐ
- タクシー :JR佐倉駅より5分 京成佐倉駅より15分 JR四街道駅より15分
- 車 :東関東自動車道四街道ICより佐倉方向2km 駐車場:数台分(大型車進入不可)
[編集] 熊野信仰
【紀州熊野三山】
紀伊山地の霊場と参詣道~世界遺産
【熊野信仰】
平安~鎌倉期
- 中央貴族の都文化
- 熊野御師により荘園の総鎮守として
南北朝~戦国期
- 源家の指定信仰、中小領主・武家・庶民に信仰されたといわれる。
- 勧請権を独占した時衆・念仏聖達により関東へ
[編集] 亀崎区関連
[編集] 《社寺・神々》
[編集] 寺院
[編集] 神社・神々
- 熊野神社(もう一つ同地区内に)
- 鍛冶内のひもとき 十二月七日
「亀崎八幡山」
「地区内」
- 天狗伝説(亀崎字権現台)
- 「謎の石祠」二つ(詳細不明)
- その他
[編集] 《歴史・郷土》
[編集] 縄文時代
[編集] 弥生時代
亀崎米山遺跡・・・・・弥生時代住居跡
- 六崎・大崎台遺跡関連住居跡といわれる
- 出土品
- 久ヶ原式土器
- 埋れ木製切り子玉・臼玉、結晶片岩類装身具
- 玉作工房があり玉作り集団であったともいわれる。
- 弥生~大和時代の周辺地域
- 東海系条痕文土器出土(六崎・大崎台遺跡・物井御山遺跡)
- 物部氏~東海地方周辺と深い関係
- 東海~関東地方物部関連分布
- 物部氏と香取神宮
- 東海系条痕文土器出土(六崎・大崎台遺跡・物井御山遺跡)
[編集] 大和~飛鳥時代
亀崎殿台遺跡(熊野神社境内)・・・・・大和時代方墳
亀崎米山遺跡・・・・・大和時代住居跡
亀崎鶴口遺跡・・・・・四街道北東・大和時代後期(印旛文化財センター)
[編集] 奈良時代~平安前期
亀崎鶴口遺跡・・・・・四街道北東・平安初期の方墳(印旛文化財センター)
- 出土品
- 土師器
下総国千葉郡物部郷(四街道市物井)に属していた(和名類聚抄より)
- 郷制により物部郷・山梨(夜未奈之)郷(四街道市山梨)となる。
- 蓮華王院(千手院・佐倉市) 物部郷臼井役所(延暦期・香取郡神宮寺大磐若経より)
- 物部氏
- 物部印旛連公(物部塩古連四世孫)
- 山梨姫
- 千葉国造
- 大私部直善人(延暦24年桓武天皇により任ぜられる)。
- 「七天王塚」と真言密教「千葉寺」
- 房総は東国遠征の基盤となる。
[編集] 平安中期
- 臼井郷・荘に属し坂東平氏の勢力下であった。
- 鎮守将軍・高望王(桓武天皇三世・桓武平氏)が臣籍降下により房総に赴任、朝敵を平らげた功績に「平」の姓を賜る。
- 桓武平氏出身武家
- 鎮守将軍・平良将が佐倉市将門町・将門山を中心に勢力を伸ばす。
- 鎮守将軍・平良文(房総平氏祖)
- 将門の遺領を領し武蔵国から下総に進出
- 平忠常の乱
- 千葉氏初代・平常将の「天女伝説」
- 千葉大介平常兼が臼井荘を常康に与え「臼井氏」を名乗る。
[編集] 平安後期~鎌倉時代
- 臼井荘・庄に属し「臼井氏宗家」などの千葉一族の勢力下・直轄地域であった。
- 「臼井庄」・・・・・佐倉~四街道~八千代~船橋
- 神保・小室・萱田など
- 角来・飯重・飯郷・羽鳥・畔田・生谷・上志津・下志津・臼井・上座・小竹・井野・青菅・先崎など
- 亀崎・物井・栗山・長岡・内黒田など
- 「臼井庄」・・・・・佐倉~四街道~八千代~船橋
- 臼井常康が永久年間に領した。
- 臼井六郎常安と称し、印旛・東葛地方に勢力をもつ。後に兵衛尉・次郎左衛門尉を号する
- 臼井居館
- 臼井家菩薩寺・常康創建真言宗・臼井山光勝寺
- 千葉常胤と共に源頼朝を奉迎
- 頼朝の師父・常胤公
- 常胤創建 真言宗・常胤寺(康治2年)~常胤の砦跡といわれる。現法華宗・経胤寺
- 常胤創建 真言宗・海隣寺
- 嫡男・臼井常忠
- 源頼朝公直臣。常胤に従い平家追討へ嫡子の臼井成常・久常ら騎兵三百を率いて参陣した。
- 鎌倉幕府開府前の正月祝賀にて白馬を頼朝に献上。
- 嫡子・神保常員(臼井家有力庶子)
- 臼井六郎常安と称し、印旛・東葛地方に勢力をもつ。後に兵衛尉・次郎左衛門尉を号する
- 承久の乱
- 「東海道大将軍」千葉胤綱に従い千葉一族も参戦
- 臼井家からは臼井六郎・神保一族が出陣
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- 臼井祐胤が昌胤(尊胤か)より家督を継承し領した
- 宝治合戦以来失っていた臼井家領地を回復。
- 臼井家四天王・臼井一族「志津氏・岩戸氏・師戸氏・用草氏」を組織
- 昌胤次男・次郎胤氏が臼井一族・鹿渡氏流志津氏の家督を継承。
- 祐胤の外孫・足利尊氏直臣・千葉家本嫡宗・千葉(千田)胤貞派であったといわれる(肥前千葉氏)
- 胤貞創建・松尾山光勝寺
- 胤貞三男・大隈守胤継が千田庄多古・臼井庄神保郷・八幡庄を領し千葉氏流千田千葉氏となったといわれる。
- 胤貞(氏胤?)四男・胤高が千田庄原郷を領し千葉氏流下総原氏となったといわれる。
- 胤高次男・胤雅が高城氏となったといわれる。
- 臼井山光勝寺の改宗
- 祐胤弟で甥・行胤後見人「志津胤氏」が臼井庄を押領。
- 臼井祐胤が昌胤(尊胤か)より家督を継承し領した
[編集] 南北朝~室町時代
- 臼井庄に属し「臼井氏宗家」の勢力下・直轄・城郭地域であった。
- 臼井興胤が正和期に祐胤より家督を継承。
- 暦応元年・室町幕府創設される。
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- 臼井包胤が永和期に尚胤より家督を継承し領した。
- 弟・胤盛が後の臼井家当主・冬胤~之胤の後見、及び鎌倉公方・足利氏満代官職となる。
- 臼井包胤が永和期に尚胤より家督を継承し領した。
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- 享徳の乱が勃発
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- この室町幕府・公方・管領の動乱により関東は西国よりも早く戦国時代へ突入し、巻き込まれた千葉家、及び臼井家は徐々に衰退していく。
[編集] 戦国~安土・桃山時代
- 臼井庄に属し「臼井氏宗家」・「原氏宗家」などの千葉一族の勢力下・直轄・城郭地域であった。
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- 臼井秀胤
- 物井川(鹿島川)を境に(下総千葉氏・九州千葉氏、南朝・北朝、鎌倉公方・関東管領、古河公方・小弓公方)千葉一族が対立し、多くの城跡が見られる。
- 印東庄・白井庄~本佐倉城・佐倉城・臼井城・寺崎城・時崎城・六崎城・太田用替城等
- 臼井庄・千葉庄~物井(古屋)城・物井屏風山城・物井館山城・山梨城(月見里城)・鹿渡城・鹿渡のろし・小名木城・中台城・福星寺(吉岡)城等
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- 亀崎河港(亀崎城周辺~物井城)
- 古代~近世まで印旛沼の湖沼(香取の海)が続き、大型川船による交易と物資集散の河港であった。
- 主に関東房総系の水軍と交易(関東水軍~三浦水軍~駿河水軍~尾鷲水軍~瀬戸内・村上水軍の連盟)
- 市場を形成し文化・生活水準の高い中規模な繁華地であったといわれる(近世の新田開発・形成後急速に衰退)
- 河港・船泊まり場
- 船着場・交易場・荷捌き場・船方宿・旗亭が点在
- 荷主・商人・船員用の船方宿・旗亭・信仰神
- 「亀崎城」周辺
- 市・職人工房・富豪・文化人の館・庭園等。
- のろし台~内陸部の遠方・利根川沿岸・房州までの敏速な情報網
- 利根川「湖賊」
- 暴風雨・利根川の増水・印旛沼の氾濫による混乱時に襲撃
- 財・農産物を奪い、逆流の返り水で逃げ去る。
- 亀崎城・物井城による警護・防衛
- 戦国期・亀崎城主~不明。臼井俊胤、臼井持胤長子・臼井太郎為胤か
- 戦国期・物井城主~千葉孝胤次男・千葉胤仲(小五郎・少納言)《臼井持胤》、及び胤仲三男・物井右馬助《臼井幸胤》
- 古代~近世まで印旛沼の湖沼(香取の海)が続き、大型川船による交易と物資集散の河港であった。
- 亀崎河港(亀崎城周辺~物井城)
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小田原の役により「千葉氏」が滅び、多くの家臣は旧領地内に帰農した。その後村役人層を形成。一部は旗本・郷士になった。
- 亀崎周辺~畔田村・粟飯原氏、羽鳥村・円城寺氏、寺崎村・飯高氏、六崎村・宍倉氏、山梨村・齋藤氏
鹿渡村・海保氏・小川氏、和田村・麻生氏、内黒田村・齋藤氏・大熊氏、馬渡村・深山氏、先崎村・蕨氏、青菅村・設楽氏、志津・志津氏
- 酒井家次が3万石で臼井城に入封する。
[編集] 江戸時代
徳川家康の関東平定
- 下総国印旛郡亀崎村は旗本上杉氏60石(栗山村147石)・榊原氏300石の入会知行となる。
- 上条上杉家・・・約100年
- 年貢
- 「文政4年・寒川蔵納申渡」佐倉藩の寒川蔵(千葉)へ47俵・椎木蔵(佐倉城)へ319俵納入
- 名主(任期・他期・その他詳細不明)
- 正徳 3年・三郎左衛門(物井村・次郎兵衛家文書)
- 享和元年・源兵衛(五郷取締・佐倉史)
- 慶応 4年・源兵衛(助郷課役・佐倉史)
- 文政 3年・五郎左衛門(物井村・次郎兵衛家文書)
- 弘化 2年・重兵衛(佐倉史)
- 江戸期は物井村及び、物井村大名主・櫻井次郎兵衛家(木曾義仲末裔)と関係が深かった
[編集] 明治時代~
- 廃藩置県・佐倉県となる(明治4年7月)
- 印旛県・東葛飾郡加村管轄下(明治4年11月)
- 第五飯重小区に属す(明治5年)
- 印旛郡千代田村・成立(明治22年・ 町村制施行)
- 「千代田村」~飯重・飯郷・野田・生谷・畔田・内黒田・羽鳥・亀崎・物井・長岡・栗山・下志津新田
- 印旛郡千代田村役場開設(明治24年・亀崎字前作・敷地は林田重兵衛家提供)
- 村長~初代・林田弁之助
- 千代田村長(順不同)
- 櫻井治郎兵衛・尾出忠治郎・石井稲蔵・粟飯原利左衛門・安藤常太郎・鈴木勝治郎・立崎貞助・根本勘右衛門・市原市之助・栗山右忠治
- 亀崎橋台跡(市指定文化財。県内最古の鉄道遺跡。明治27年開通)
- 昭和15年千代田町(町制施行)
- 昭和30年四街道町(旭村と合併)
- 亀崎西部、千代田2~4丁目となる(昭和45年)
[編集] 人物
下総清宮氏
- 清宮秀堅(せいみや ひでかた、号を棠陰・総廼舎 1809~1879)
- 幕末・明治初期の漢・国・考証学者で、「下総国旧事考」「新撰年表」「北総詩誌」「三郡小誌」「古学小伝」「日本外史箚記」等を著した。
- 清宮謙堂 (本名彦八・寺小屋「清宮塾長」)
- 清宮彦一 (旧千代田町長・初代四街道町長)
- 清宮兵之助(旧四街道町長)
- 「慰霊魂」~清宮家由来・林田雪桂著・明治期制作
鈴木氏
- 鈴木源一(旧千代田町長)
小林氏
下総林田氏
- 下総国香取郡木内庄林田の発祥といわれる。
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- 林田小太郎(はやしだ こたろう・明応期)。下総守護大名千葉家第22代当主千葉孝胤家臣、及び千葉家家老・木内庄領主・木内氏直臣の勇将・打物達者とされる。享徳3年12月、享徳の乱の勃発により関東は西国より一足早く戦国時代の幕を開け、千葉氏に家督をめぐり馬加康胤による内紛を引き起こし、家老内にも古河公方派・原氏と関東管領派・円城寺氏の間に勢力抗争が起きる。続く境根原合戦、及び太田資忠を討ち取った功績で古河公方・足利成氏より坂田城を与えられた木内家当主・木内能登守胤敬との「五井原合戦」で敗れた八幡御所・足利義明が明応2年4月、支援する上総武田氏・庁南武田氏・里見氏と共に連合軍八千を編成し下総へ侵攻した「総州七塚の合戦」で胤敬に従い先鋒の将として一隊を率い出陣。小太郎の放った弓が里見氏重臣・先陣安西式部の騎馬武者・歩兵34の盾を射抜き正木大膳亮を驚愕させたという。安西勢の反撃に一人囲まれるも引かず、胤敬の下知により木内勢が加勢。両軍乱戦の中で小太郎が三尺二寸の大太刀で里見氏将・北見氏を切り落す。それを見た里見将々の斬り掛かりで深手を負い、里見氏将・小原氏と刺違え討死したという。翌日、籠城戦になり木内胤敬が討死、居城も落城した(「房総里見軍記」)。後に足利義明は小弓城を占拠し「小弓公方」を名乗った。合戦後、胤敬の弟・大炊介胤衡が家督を継承し本城は米野井城へ移る。その後も里見氏との抗争が続き、木内家代々の当主や一族郎党の多くが戦死していくこととなった。また内紛による亥鼻城の荒廃により千葉氏本城は本佐倉城(将門山城)へ移る。
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- 林田清右衛門尉(はやしだ せいえもんのじょう・天正期)。下総守護大名千葉家第27代当主・千葉胤富家臣。森山衆・本佐倉城在番衆。武家官途名は右衛門尉。天文期に佐竹氏の進軍により常陸において応戦していた第24代当主千葉昌胤と利胤は昌胤庶子・胤富を東総領主・東一族海上氏の家督を継がせ森山城に配備し「森山衆」(東総在地領主層の家臣団)を編成、東総領域に勢力基盤・佐竹氏からの防衛を固める。弘治3年、第26代・親胤が胤富派・原親幹ら家臣に暗殺されると千葉家を海上山城守胤富が継承し本佐倉城へ移る。清右衛門尉は中世に東・海上氏から崇敬されてきた「海上八幡宮」の神事を行っていた三ヶ寺(寺院)のために胤富が寺院の領地支配をしていた「森山衆」へ発給・課税した「海上八幡宮文書(精銭徴収状・戌年の永禄5年鶴丸黒印・12年後戌年の天正2年9月異筆暦印)」で知られ、命を受けた奉行人の馬場大膳亮が旗頭・石毛助九郎に伝え、山室兵部丞・粟飯原右馬亮・八十内(八藤内)藤六郎・安藤隼人佐・多部田与太郎・飯野兵介・藤崎新右衛門尉・海上弥六郎・一鍬田豊後守・石毛小三郎・小室玄蕃亮・武田四郎右衛門尉・檜垣(日貝)三郎左衛門尉・椎名四郎右兵衛尉ら家臣から神事費用を徴収した。後に森山衆は佐倉衆に組み込まれ、一部の家臣を本佐倉南方の根古谷へ東総より配属したと言われる。また森山城は家老・原親幹に与えられ、小弓城・臼井城など共に原氏の勢力基盤が拡大。原氏宗家は後北条氏へ「臼井衆」として他国衆入りし臼井庄を中心とした「下総原氏」として千葉氏宗家を凌ぐ独立勢力へ。古河公方・北条派として当主・胤富は再び侵略してきた佐竹氏、管領派・長尾景虎に各地で森山・佐倉衆を始め千葉勢を率いて奮戦する。後に関白・近衛前久と血判書を交し天皇家・将軍家を中心とする秩序の回復を目指した景虎と和解し、鎌倉期より続く関東の諸大名として鶴岡八幡宮で行われた「上杉政虎・関東管領就任式」に参列した。しかし成田長泰、胤富・小山高朝などの問題が起り、政虎を見限った関東諸大名は就任式後に次々と離反、胤富は再び古河公方・後北条派へ。やがて景虎に呼応した里見・正木氏に原氏居城「臼井城・小弓城」を奪われ激怒した胤富は森山・佐倉衆ら千葉勢を派遣し撃退・奪回する。その後第二次国府台合戦、上杉謙信・結城晴朝による二度目の臼井城合戦が勃発するも森山・佐倉衆ら千葉勢を率いて撃退した。後に千葉介胤富は戦国乱世に常胤公以来の下総守護の任・所領、千葉氏宗家の誇りを守った勇将といわれる。
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- 林田胤俊(はやしだ たねとし・天正期)。下総守護大名千葉家第29代当主・千葉邦胤直臣、及び千葉氏宗家筆頭家老・本佐倉原氏重臣。本佐倉城将・佐倉衆。武家官途名は玄蕃亮。当時利根川流域は「香取の海」と言われ関東各地を結ぶ水運の要地に位置し人々は自由に交易、千葉氏の本城として海に面した本佐倉城(将門山城)は下総の政治・経済・文化・宗教の中心となり、城下は広範囲な町に発展した。胤俊は佐倉から伊勢信仰をひろめた伊勢神宮御師「龍大夫」へ邦胤を始め千葉家筆頭家老・原豊前守胤長を中心に家老・鏑木備後守胤家、家老・原大蔵丞邦長、後北条氏他国衆・高城下野守胤則、白井・鏑木氏流~坂戸上野介胤正(家定?)・左衛門太郎胤直・左衛門太郎胤察、千田氏流~篠田大隈守・篠田新右衛門尉家次ら千葉氏宗家直臣本佐倉千葉一族などが宛てた古文書「龍大夫文書」・「林田玄蕃允安詮書簡」(天正期・神宮文庫所蔵)で知られ、側近として当主・邦胤と龍大夫との間を取り持つ。戦国乱世の中、重厄(中風とも)の歳を迎えた胤俊は自筆願文を龍大夫に託し皇大神宮に奉納、「南無天正大神様、わたくし一代佐倉に繁盛」と家内富貴を願った。また千葉氏宗家・本佐倉千葉一族は紀州・高野山とも関係が深かった。天正10年2月・武田征伐・関東平定に乗り出した織田信長は同年4月に千葉家・邦胤へ使札を送り接触を図る。「信長は勝頼を滅ぼして北条を侮る、たとえ氏政・氏直父子が信長に屈服させられる事ありとも邦胤何ぞ信長を恐れん」と使札の髪を剃り落とし、贈られた馬の尻毛を切り落すと使札は逃げ帰っていった。そして同年6月に本能寺の変が勃発、これに乗じた北条氏直は織田領上野国侵攻を同月に開始(神流川の戦い)し、邦胤は佐倉衆を始め千葉勢数千騎を率いて氏直・氏邦率いる北条軍に従い参戦、関東管領を自称した滝川一益率いる織田軍を撃破する。翌月に旧武田領・甲斐国を巡って徳川家康と氏直による天正壬午の乱が起こるも和睦、邦胤・佐倉衆も佐倉へ戻る。各地を転戦し勇名を轟かせていた邦胤は佐倉城を新たな本城と定め、親胤以来中断していた築城を再開するも数年後の天正13年、代々の隠居所・公津城へ隠居した前当主・千葉良胤(武田千葉氏)の元家臣・一鍬田氏嫡子で邦胤家臣の一鍬田万五郎に刺殺される。そして本佐倉城代・原胤長、奉行人・海保丹波守胤祐の主導により千葉直重を迎え入れ、事実上千葉氏宗家は「後北条氏」に従属することになる。後の小田原の役により佐倉衆・臼井衆・井田衆など千葉勢は第31代当主・千葉重胤と供に小田原城に籠城。しかし手薄になった本佐倉城、臼井城など下総各地の諸城が次々に陥落、小田原城も降伏開城。鎌倉幕府創設期より400年君臨した下総守護大名としての名門「千葉氏」は滅ぶこととなる(千葉家は続く)。降伏後、多くの家臣は下総国旧領地内へ離散し帰農、その後村役人層へ。または旗本・郷士に。
- 舊佐倉藩士族印鑑短冊(江戸後期)
- 林田定治郎=扇之助=堅輔(下総国佐倉藩士)
- 林田総之助=源助 =愛明(下総国佐倉藩士)
- 林田弁之助(亀屋。明治期)
- 旧千代田村初代村長
[編集] 外部リンク
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最終更新 2009年9月15日 (火) 11:52 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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