片平巧
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片平 巧(かたひら たくみ、1965年6月14日 - )は、日本のオートレース選手。埼玉県出身。19期、船橋オートレース場所属。
目次 |
[編集] 戦歴
- 1985年
- 6月27日、第19期生として船橋オートレース場に登録される。
- 1987年
- 5月28日、第9回さざんか杯争奪戦(現・GIIさざんかカップ争奪戦、船橋オートレース場)優勝。当時の競走車呼名は「スプリーセン」。競走タイムは3.40。
- 1988年
- 7月21日、第11回黒潮杯争奪戦(船橋オートレース場)優勝。当時の競走車呼名は「レネン」。競走タイムは3.408。
- 同年のオートレース表彰選手において、優秀選手賞を受賞。
- 1990年
- 11月6日、第22回日本選手権オートレース(山陽オートレース場)で、秋田敬吾(5期、山陽オートレース場所属)、進藤敏彦(12期、山陽オートレース場所属)、飯塚将光(9期、船橋オートレース場所属)に次ぎ史上4人目となる完全優勝を飾る。当時の競走車呼名は「クランツ」。競走タイムは3.351。
- 1991年
- 1993年
- 1994年
- 1995年
- 同年の前期船橋A1となる。
- 1月31日、第9回スーパースター王座決定戦(川口オートレース場)優勝。当時の競走車呼名は「キブロワイト」。競走タイムは3.384。
- 5月24日、SG第14回オールスターオートレース優勝。当時の競走車呼名は「Jキブロワイト」。競走タイムは3.395。
- 同年のオートレース表彰選手において、2年連続で最優秀選手賞を受賞。
- 1996年
- 同年の前期船橋A1となる。
- 2月13日、SG第9回全日本選抜オートレース(伊勢崎オートレース場)を優勝。当時の競走車呼名は「キブロワイト」。競走タイムは3.333。SG3冠達成。
- 3月6日、SG第10回スーパースター王座決定戦優勝。当時の競走車呼名は「キブロワイト」。競走タイムは3.361。
- 6月12日、SG第15回オールスターオートレース(浜松オートレース場)で、SG3連覇及び史上初のオールスター連覇を達成。当時の競走車呼名は「ファンターズマ」。競走タイムは3.353。
- 9月25日、GI第8回全国地区対抗戦オートレース(飯塚オートレース場)A級優勝戦優勝。当時の競走車呼名は「キブロワイト」。競走タイムは3.386。
- 同年のオートレース表彰選手において、島田信廣と共に最優秀選手賞をダブル受賞。
- 1997年
- 1月29日、SG第11回スーパースター王座決定戦優勝。当時の競走車呼名は「キブロワイト」。競走タイムは3.335。
- 7月2日、開場32周年記念GI平成チャンピオンカップ(山陽オートレース場)優勝。
- 7月16日、SG第1回東西チャンピオンカップ(浜松オートレース場)優勝。当時の競走車呼名は「キブロワイト」。競走タイムは3.387。
- 9月24日、GI第9回全国地区対抗戦オートレース(山陽オートレース場)A級優勝戦優勝。当時の競走車呼名は「キブロワイト」。競走タイムは3.363。
- 同年の前期・後期ともに船橋A1となる。
- 同年のオートレース表彰選手において、特別賞受賞。
- この年、小林啓二(8期、山陽オートレース場所属)、高橋貢(22期、伊勢崎オートレース場所属)と共に年間最多優勝を飾る。
- 1998年
- 1999年
- 2000年
- 2001年
- 2006年
- 6月19日、プラスミックカップ争奪戦(船橋オートレース場)で三年半ぶりの優勝を飾る。
- 2007年
- 6月19日、第29回サマーランド杯争奪戦(伊勢崎オートレース場)で完全優勝を達成。
- 10月3日、スポーツニッポン新聞社杯GII第3回オート名匠戦(川口オートレース場)で、六年ぶりの記念レース優勝を飾る。競走車呼名は「キブロワイト」。競走タイムは3.603。
- 2009年
[編集] イン高速走法
片平巧は、その類稀な走法から「天才」「カリスマ」と呼称される、オートレース界屈指の名選手である。
1985年に第19期生としてデビュー。未だ単気筒エンジンにしか乗れなかった頃にトライアンフやメグロ1級車二気筒に乗る先輩選手を内から捌き、選手とファンに衝撃を与えた。
4年後の第21回日本選手権オートレースでは大半の選手がニューフジを駆る中トライアンフで準優勝を飾ると、翌年の第22回大会ではフジに乗り換え、史上4人目となる完全優勝。デビューから僅か5年で早くもオートレース界の最高峰である特別競走(現在のSG)、その中でも特に最高位とされる日本選手権を制覇するという快挙を成し遂げた。
片平の走法は他の選手とは明確に異なっている。その類稀な走法は、常にインコースを回りながらも後輪をドリフトさせながらコーナーを高速度で走り抜けるという「イン高速走法」と呼ばれる走法である。
最重ハンデ大外の位置からスタートし、レース最後方より一人イン側をすり抜けるように走り、他車が抵抗する間も与えずに1着を奪い取るレースが多かった。他の全国区強豪選手であっても、同じスピードでインを走り抜けると外に飛ばされてしまい同じコースを維持できる選手はほとんど存在しなかった。車群の最後方から天性の才能と言うべき捌きでレースを制し、その走法と「片平巧」の名は瞬く間に全国に轟いた。
[編集] セアの申し子
絶頂を極めた片平であったが、フジ時代の末期には振動から腰痛を患うなど、しばらく不調に陥ることとなってしまった。しかし、そんな片平にとって「天佑」とも言える転換点が訪れる。
1993年10月、オートレースの競走車用エンジンが統一された。片平はこの新型の統一規格車エンジンである「セア」に驚くべき順応を見せる。乗り替わりから間もない11月に行われた第25回日本選手権オートレースで優勝を飾り、マスコミに「セアの申し子」と呼ばれるようになる。その後、片平巧は島田信廣、岩田行雄(15期、船橋オートレース場所属)らと共に船橋最強軍団を、ひいてはオートレース界全体を引っ張る存在となった。
1994年には、SG第26回日本選手権オートレース(浜松)、GI第6回全国地区対抗戦A級優勝戦(川口)、GI第37回ダイヤモンドレース(飯塚)、GI第20回グランドチャンピオン決定戦(川口)、GII第16回はやて賞争奪戦(伊勢崎)、GII第27回選抜地区対抗戦(山陽)、GII第19回ウインターカップ争奪戦(船橋)と、7つのグレードレース(グレードレース制は1995年4月から)を制し、空前絶後の年間全場グレードレース制覇という偉業を成し遂げた。
全盛期の片平は他の追随を許さない強さを誇り、今では考えられない伝説の逸話は枚挙に暇が無い。
その中でも特に著名なのは、1997年に開催されたSG第11回スーパースター王座決定戦における「事件」であろう。中村政信(19期)を始めとする強豪が0(ゼロ)メートルハンデに並ぶなか、片平巧はただ一人10メートルのハンデを背負った。
SGの優勝戦では、1級車に乗り替わったばかりの新人選手が優出した場合などのように、余程の実力差が無い限りはオープンレースで行われるという掟が半ば不文律として存在していた。
従って、このハンデ構成は常識的に考えればありえないことだが、当時の片平にはこれでも妥当なハンデとは言えなかったのかも知れない。結果、専売特許と言われる「7車抜き」を決め、見事にスーパースター王座決定戦3連覇を達成する。そして、1998年12月にSG第2回オートレースグランプリを制覇し、廃止された東西チャンピオンカップも含めて史上唯一人のSG6冠全冠制覇を成し遂げたのである。
その後は2年ほどの沈黙期(GI、GIIは制覇するものの、SGを獲れない時期が続いた)を経て、2000年末から2001年初頭に架けて、「天才復活」と謳われた自身2度目のSG3連覇を果たす。しかしながら、特に若手選手の「グリップ開けっ放し」の高速戦に手を焼き、次第にSG優勝戦進出も難しくなり、再び沈黙期に陥ってしまった。
だが、2006年6月に実に3年半ぶりに、地元船橋オートレース場一般戦で、GI優勝戦並みの顔触れのなか優勝を飾ると、翌2007年10月にはGII第3回オート名匠戦で6年ぶりにグレードレースを制覇。自らが掲げた「SG優出」と「グレードレースの制覇」という目標の一つを達成した。その好調を維持したまま、遂に2007年11月のSG第39回日本選手権オートレースにてSG優出を達成し、二つ目の目標をクリアした。優勝はならなかったものの、全国のオートレースファンに復活を印象付けたのである。
[編集] キブロワイト
オートバイの操縦方法・整備技術体得のため、片平はエンジンが「セア」に統一される前にアメリカに修行に赴いた。その際、指南を受けたのがキブロワイト氏(Kibblewhite)であった。彼の指導を受け、片平の天性に技術が蓄積された。その後のセア時代の片平巧の目覚しい活躍は、これらの技術習得によるところも大きいとされている。
片平はセア乗り変わり後、自身の競走車呼名に好んで「キブロワイト」を使用した。それ以前は「レンファーラー」「スプリーセン」「レネン」「クランツ」などのドイツ語の呼名を使用していたが、セア乗り変わり以降は「キブロワイト」、「キブロワイト(1~7)」、「Jキブロワイト」等、大半が「キブロワイト」系の呼名である。 この呼名は片平の黄金期と重なって使用されていたこともあり、オートレースファンの間ではつとに有名である。ファンが所有すると思われる地方競走馬、麻雀荘、スポーツチーム名等に使用されることも多い。
[編集] 片平オッズ
片平巧が出走するレースには、その対戦メンバーがどういった構成であろうと一つの特徴があった。その特徴とは片平巧が位置する枠を筆頭に「車券」が売れていくのである。絶対的な強さを示した全盛期の片平巧は、多くのレースで常に1着と目され、その観衆の思いが反映されたレースオッズは、常に片平枠からは数倍のオッズしかつかない極端な偏りを見せた。一般戦のみならず、SG優勝戦であってもその傾向は顕著で、片平が1着で万車券が出ようものなら、ファンの間で騒ぎが起こるほどであった。こうしたオッズは「片平オッズ」と呼ばれ、多くのファンの認知を得た。
また、このような片平巧の数々のレースに魅了されたオートレースファンはしばしば「片平信者」と呼ばれ、「オートの神様」広瀬登喜夫(期前、川口オートレース場所属)、「ミスター・オート」飯塚将光に並ぶオートレース界のカリスマとして今も尚その人気は高く、多くの「信者」が存在する。
[編集] 雨走路
晴れ走路では他に類を見ない抜群のライディングセンスで、他車に立ちはだかる隙すら与えず勝利をものにしてきた片平巧だが、不思議なことに雨走路では全くといっていい程精彩を欠く。これは、後輪をドリフトさせながらコーナーを高速で廻り切る独特の走法が、濡走路には合わないからであろう。オートレース広報誌「SPEED STAR(スピード・スター)」での自らの特集で、他の選手が「如何に車を寝かせてコーナーを廻るか」という点を主眼に置いているのに対し、片平は「如何に車を起こして廻るかを考えている」と述べている。走法に対する思考の根本が他の選手とは決定的に異なっていることが窺える。
従って、雨走路や斑(ブチ)走路では全くといって歯が立たない。最重ハンデからスタートしているとはいえ、雨走路では軽ハンデ勢に差を拡げられてゴールすることが多かった。以前は、競争成績が地元レース場での晴れ走路成績によることもあって、本人曰く「練習をしていなかった」とも語っている。しかしながら、1996年、年間SGグランドスラムを賭けて臨んだ第28回日本選手権も、予選道中は3連勝と絶好調、準決勝で雨に泣かされた。1997年の第10回全日本選抜も、唯一SG制覇を達成していない地元船橋オートレース場で開催され、難なく優勝戦進出。絶対本命と目されるも、またも優勝を阻んだのは「雨」であった。「雨が一滴でも降ったら、片平は切り」という認識は、全盛期の片平巧に対しても衆目の一致するところであった。
全国区レースで雨・斑走路を制して優勝したのは、1994年の全国地区対抗戦(特別企画競走。後にGIとなった)のみ。当レースや2007年のGIIオート名匠戦優勝戦のように、試走終了後に雨が降り出し、晴タイヤで雨走路に臨む事態になれば勝機が見えてくる。本人曰く、「晴タイヤだと雨が得意な人でも余り思い切って乗れない。そうなると気合勝負になってくる。そうなれば、自分もやれる」ということである。
[編集] 強豪との激闘譜
1989年第21回日本選手権において、片平巧は、当時最強を誇った「ミスター・オート」飯塚将光と鍔迫り合いを演じ、準優勝を飾る。当時は今で言うところのベテラン勢が全国区の強豪としてひしめいている時代であり、デビューからわずか4年で「怪物」と言われた飯塚将光と激戦を演じた片平巧は、選手間はもとより、ファンに強烈な印象を残した。翌年の第22回日本選手権では、飯塚将光も同じく優勝戦に名を連ねるなか弱冠25歳で優勝、若手ながら鮮烈な捌きと巧みなレース運びで一躍全国区強豪陣に名を連ねるに至った。
その1990年に39歳でSG(当時は特別競走の呼称)初優勝を遂げた島田信廣(11期、船橋)とは、長きに渡り船橋最強を争う激闘を演じる。当時船橋オートレース場は全国最強の陣営を誇り、岩田行雄(15期)、阿久津正夫(13期)を加えた四強は、「船橋四天王」と謳われ、「船橋最強」は即ち「オート界最強」を意味した。1990年からスーパースター王座決定戦5連覇を果たす島田信廣(遅咲きの選手であることから「鉄人」と呼ばれた)とは、多くのSG格レースで覇権を懸けて争うこととなる。1994年に島田信廣が年間グランドスラム(SG格レース全制覇)に挑むものの、片平巧が最後の日本選手権にて優勝戦で島田信廣を撃破、全制覇を阻止した。また、1996年には、今度は片平巧が年間グランドスラムに臨むものの、同じく最後の日本選手権、準決勝戦の雨に泣いた。結局、優勝は島田信廣であった。「敵は雨のみ」、良走路18連勝という前人未踏の記録も達成する。
特に1996年から1997年にかけては、もはや敵なしという「全国一強」時代を迎える。1996年9月、GI第8回全国地区対抗戦(飯塚)A級優勝戦で、小林啓二(8期、山陽)、田代祐一(15期、伊勢崎)、鈴木辰巳(13期、浜松)等を相手に単独最重ハンデから優勝。1997年1月、SG第11回スーパースター王座決定戦においては、舗装路となって以来、SG優勝戦史上初の単独最重ハンデから優勝。0(ゼロ)ハンデには、福田茂(12期、川口)、小林啓二、田代祐一、岩田行雄、中村政信(19期、飯塚)が並んでいた。7月にはGI第4回平成チャンピオンカップ(山陽)において小林啓二、畑吉広(20期、山陽)、岡松忠(17期、山陽)などの強豪を前に置き、単独最重ハンデから優勝し、同じく7月に開催されたSG第1回東西チャンピオンカップ(浜松)では、島田信廣も全国区最重ハンデとして片平巧と同ハンデ内側に位置するも、またもや片平巧が優勝をさらった。
そして、9月のGI第9回全国地区対抗戦(山陽)A級優勝戦では、島田信廣、高橋貢、小林啓二、岩田行雄、畑吉広、岡部聡(19期、山陽)、飯塚将光と、まさに全ての選手が全国区最強陣営といえる顔触れの優勝戦で、これら7強豪を0ハンデに置き、またもや単独最重ハンデからわずか3周で頭に立ち優勝した。全国区最強陣営を相手に、まさしく無敵の強さを見せていたことが記録からも見て取れる。1996年の阪神淡路大震災復興協賛レース(全国勝率上位が選出された実質全国区レース)では、その無類の強さに全国強豪から10mハンデに島田信廣、さらに10mハンデに片平巧という驚異的なハンデ構成が組まれることもあった。
1998年頃より、全国最重ハン唯ひとりとなっていた片平巧と同ハンデに島田信廣、高橋貢が位置するようになる。49歳で尚SGを制する島田信廣、1997年から破竹の勢いでスターダムにのし上がった伊勢崎の超新星高橋貢、2000年頃まで「全国三強」とされ、常に他の強豪陣とは一線を画すハンデ構成となる。1990年代後期、SGはこの三強による盥(たらい)回しと言われた。この頃、片平巧と高橋貢は、何度もSG及びGIの優勝戦で対戦するものの、車が交わったらどうなるのか、つまり「本当に鍔(つば)迫り合いを演じたら、どちらが強いのか?」という関心が高まった時期でもあった。高橋貢の「カマシスタート」に片平巧が代名詞でもある「7車抜き」と、両車のレース運びは余りにも好対照で、業界、ファンの興味も非常に高く、業界誌「オートレースマガジン」でも度々取り上げられた。
そして、2000年6月14日、奇しくも両名の誕生日に、GI第6回平成チャンピオンカップ(山陽)の優勝戦でその日を迎える。最重ハンデ10mの大外に片平巧、その内に高橋貢、試走タイムもまったく同じ3.25という好条件のなか、優勝戦序盤より激闘を演じる。常に重なり合う両車は中盤で片平巧が先んじると、そのまま先行陣を捉え優勝。一つの決着を見せた。また、同年7月20日、GI第24回キューポラ杯争奪戦(川口)優勝戦で再対決、両名のみが最重ハンデに位置し、またもや大外枠片平巧が序盤で高橋貢を捌くと、中盤以降は他6車を大きく引き放し、2車の直接対決となる。この後第32回日本選手権を制覇することとなる高橋貢が何度も内に切れ込もうとするが、巧みなハンドル捌きで隙を作らず、片平巧が先にゴール線を越えた。
1998年12月より2年間、片平巧がSG優勝から遠ざかっていた間に、池田政和(23期、船橋)、浦田信輔(23期、飯塚)、伊藤信夫(24期、浜松)らの新鋭が台頭し、次々とSGを獲得していった。世代交代の波が押し寄せるなか、2000年12月、20世紀最後のSG、第4回オートレースグランプリ(飯塚)を制すると、第15回スーパースター王座決定戦(川口)、第14回全日本選抜(山陽)と自身2度目のSG3連覇を果たし、時代を自らの手に引き戻した。またこの3連覇により、SG優勝回数は島田信廣を抜いて史上最多15回となった。なかでもスーパースター王座決定戦での優勝は、先頭を譲らない浦田信輔の背後について周回を重ね、最終周4コーナーを廻ってから最後に浦田信輔の内に切れ込み逆転、タイヤ4cm差という劇的な幕切れを飾った。
絶望的な位置取りからSG15個目の冠を掲げた全日本選抜、「試走では目立たないが本番ではしっかり仕事をする男」、中継を担当した北嶋興アナウンサーは片平巧をこう評した。もう一度見たくなるレース、それが片平巧の「天才」たる所以なのかも知れない。
通算SG優勝回数15回、全国地区対抗戦A級戦優勝5回と全国区最高級レース制覇20回を数える。因みに、次位は島田信廣の17回(SG14回、全国地区3回)。
[編集] 獲得タイトル総覧
- SG戦歴
- SG15冠 (史上最多)
- 全国区レース 20冠 (史上最多 : SG15冠、全国地区対抗戦5冠)
- SGグランドスラム (SG6冠全冠制覇 : 史上唯一)
- SG単独最重ハンデ優勝(舗装路) 1回 (史上唯一)
- SG最重ハンデ大外優勝 5回 (史上最多 : 単独最重ハンデ含む)
- 全国区レース全オートレース場制覇 (史上2人目)
- SG3連覇 2回 (史上最多タイ)
- SG完全優勝 (史上4人目 : 第22回日本選手権)
- 通算優勝回数:78回
- GI優勝回数 :16回
- GII優勝回数 :13回


