特攻兵器
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特攻兵器(とっこうへいき)とは、第二次世界大戦末期の日本軍で使用された特攻(体当たり攻撃)を目的として造られた、もしくは改装された兵器である。
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[編集] 概要
現代でもイスラム過激派などによる自爆テロなどはあるが、正規軍が搭乗者の生還が不可能な兵器を正式に採用・運用した例は、日本とドイツでしか見られない。なお神風特攻隊を編成した大西瀧治郎海軍中将においてすら、当初は特攻・自爆攻撃は「統帥の外道」と称し否定的で、レイテ沖海戦に限って行う非常手段としていた。しかし戦局の悪化に伴い、本来は非常手段であったはずの特攻が恒常化していった。
[編集] 空の特攻兵器
- 主な機体
など
日本軍の航空機の速度、上昇力、武装などの性能は、当初は連合国の機体に勝っており通常攻撃で戦果をあげることが出来たが、徐々に機体の性能も逆転され、更に敗北を重ねる度に機体や乗員の消耗も大きくなり配備数も減少、組織的戦闘が不可能となった。それゆえに、敵に効果的な打撃を与えるために、体当たり特攻が考案され、部隊編成後、実戦に投入された。
航空特攻では、当初は通常の軍用航空機(戦闘機、攻撃機、爆撃機など)に爆弾を装備(爆装)して行われていた。搭載する爆弾は、250キロ爆弾を標準とするが、双発以上の機体には、500キロ爆弾や800キロ爆弾も用いた。
既存の航空機は、体当たりを前提とした設計ではないために、構造も複雑であり、高価であった。そこで、低性能でも威力や生産性を向上させる必要性に迫られた。海上交通途絶による資源の不足、空襲による工場・交通機関・住宅の被災も含めて、戦局の悪化のなかで、特攻兵器の開発と生産が、最優先されるようになった。そして、日本本土へ侵攻してくる上陸部隊・支援部隊への攻撃などを考慮して、特攻専用機(特殊攻撃機)が開発、準備された。ただし、特攻専用機開発後も、航空機の絶対数が不足していたため通常機、偵察機、練習機による特攻が主流である。
特攻隊の部隊編成は、学徒兵、少年兵出身者を中心に行われた。軍の幹部である海軍兵学校出身者で特攻隊員として出撃したのは、神風特別攻撃隊敷島隊関行男大尉、人間爆弾桜花を装備した神雷部隊の野中五郎少佐(一式陸上攻撃機搭乗)等が有名で特攻戦死した士官搭乗員のうち15%程度、わずか100名強である。
日本軍では、1944年10月以降、フィリピン攻防戦で航空特攻を採用した。特攻に使用した戦闘機は、陸軍の一式戦「隼」、海軍の零式艦上戦闘機で、爆撃機は陸軍の九九双軽、九九襲、四式重爆撃機「飛龍」、海軍の九九式艦爆、彗星が中心となる。なお、陸軍初の特攻隊となった万朶隊(九九式双発軽爆撃機)、冨嶽隊(四式重爆撃機)の機体は特攻用に爆弾を内蔵し機首に約3mの信管を取り付けるなどした特別に改造された機体を用いた。また、日本本土上空でのB-29迎撃には、機銃を外し軽量化して性能向上を図った陸軍の二式単戦、三式戦、二式複戦などの無武装機が、体当たり特攻用に改造された。これを震天制空隊と呼ぶ。
1945年の沖縄戦の時期には、数をそろえるために、陸軍の百式司令部偵察機、九八式直協機、海軍の零式水偵、零式水観、九四式水偵などの偵察機、陸軍の九九高練、二式高練、海軍の機上作業練習機「白菊」など練習機も、特攻用に爆弾装備可能に改修、実戦に投入された。新型機は、本土決戦用に温存されていたため、本来戦闘には適さないこれらの低性能の機体が特攻機に仕立てられた。練習機はガソリンでなくアルコール燃料で稼動させる事が出来たのも投入理由の一つである。米軍が2000馬力級、時速600km級の戦闘機で迎撃するなか、300馬力から800馬力程度のエンジンを積んだ複葉機や固定脚を突き出した旧式機で出撃した特攻隊が戦果を挙げる事はあまりなかった。だが、まったく駄目だった訳でもなく、このような古い羽布張りの複葉機などの場合VT信管が作動しなかったり、機関砲弾が命中しても貫通するだけで炸裂しなかったり、また低速で突入艦への狙いが付け易い事等から、僅かながらも戦果を挙げている(九三式中間練習機による特攻は駆逐艦1隻を撃沈している)。
[編集] 海の特攻兵器
- 主な兵器
航空戦と異なり、海戦で用いられる艦艇は数人以下で運用されるものは多くない。そのため海で使われた特攻兵器は基本的に新規開発されたもの(あるいは本来人間が乗り込まないものに人間を乗り込ませ効率を高めたもの)である。このあたり、航空特攻とは発想が逆である。
[編集] 開発の背景
特攻兵器の開発は、前線・現場からの提案が元となったとされるものが少なくない(例えば、回天の発案者は甲標的搭乗員だった黒木大尉)。しかし、たかが一士官・一技師の提案が即座に上層部に取り上げられ、開発の俎上に乗せられるのは不自然とも言える(それも一つ、二つの例ではない)。
特攻は強制ではなく、本人の志願によるという建前が貫かれていた(実際には上官による誘導なども多々あったといわれる)が、それと同様に特攻兵器の開発も、あくまで兵士たちの「自主的、自発的な提案」が基礎であるとして、中央・上層部が責任逃れを計ったのではないか、という意見もある(渓 由葵夫『第二次世界大戦奇想天外兵器』シリーズ参考)。特攻がすべて本人の志願による状況であれば、将来の特攻隊員数を予測する事は非常に困難であり、特攻兵器を計画的に生産することは不可能であるが、特攻兵機は、軍の生産計画に基づき、当時、入手に制限があった各種資材を割かれて計画的に生産されている以上、特攻隊員が計画的に人選されていると考えるのは極めて自然な思考である。
もし現場からの発案が事実であったとしても、前線・現場から寄せられた建設的・実戦的な提案の数々(例えば戦闘機・月光への斜銃装備や、戦闘機への防弾装備充実を訴える前線航空隊からの要望等)がなかなか中央に汲み入れなかった一方で、これら乗員の犠牲を前提にした兵器の開発がただちに開始されたという事実は、(戦局悪化という悪条件を考慮しても)当時の日本軍の体質を如実に物語っている。
[編集] 日本海軍における特攻兵器開発の経緯
1944年初めに、軍の指導の下に特殊奇襲兵器の名目で特攻兵器が、組織的に開発・準備された。決して、一部の若手士官たちの熱意や自主的な取り組みだけから生まれたものではない。
1944年3月、軍令部は,戦局の挽回を図る「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定し、次のような 特殊奇襲兵器を緊急に実験、開発するとした。
- 金物 潜航艇 (特殊潜航艇「甲標的」丁型「蛟龍」)
- 金物 対空攻撃用兵器
- 金物 可潜魚雷艇(S金物,SS金物)小型特殊潜水艇「海龍」)
- 金物 船外機付き衝撃艇 (水上特攻艇「震洋」)
- 金物 自走爆雷
- 金物 人間魚雷 (「回天」)
- 金物 電探
- 金物 電探防止
- 金物 特攻部隊用兵器
1944年6月、マリアナ沖海戦で敗北した日本海軍は、空母機動部隊の再建を事実上諦めて、特殊奇襲兵器を優先的に開発、準備するようになる。
1944年7月、大海指第431号では作戦方針の要点の中で、好機を捕捉して敵艦隊および進攻兵力の撃滅するために敵艦隊を前進根拠地において奇襲する、潜水艦・飛行機・特殊奇襲兵器などによる各種奇襲戦を実施する、局地奇襲兵力を配備し、敵艦隊または敵侵攻部隊の海上撃滅に努める、とした。
1945年1月、最高戦争指導会議において、全軍特攻化が、日本軍の最高戦略となる。
[編集] 参考文献
渓 由葵夫『第二次世界大戦奇想天外兵器』シリーズ、新紀元社、1994-95年
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最終更新 2009年6月2日 (火) 16:47 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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