王導
王導の最新ニュースをまとめて検索!
王導(おう どう、276年 - 339年)は、字を茂弘と言い、西晋及び東晋の政治家である。彼の働きによって、琅邪王氏は六朝時代の南朝を代表する名門貴族となった。
[編集] 略歴
西晋時代は、琅邪王司馬睿に仕え、近い将来に晋が滅びる事を予測し、洛陽から建康に移る様に進言し、307年に建康に移った。
308年には五胡の乱が始まり、劉淵の立てた漢によって西晋は攻撃を受ける。劉淵の後を継いだ劉聡は、洛陽を攻め落とし、懐帝は捕らえられ、晋の皇族の大半は殺されてしまう。313年懐帝が殺されると、長安に落ち延びた司馬鄴(ぎょう)が即位するが劉曜に攻められ、316年に捕らえられ、一族もろとも翌年殺されてしまう。
その際、江南(長江の南)に逃れており、これらの災難から逃れる事が出来た唯一の皇族である司馬睿は、317年 王導の後見で、元帝として即位する。これが東晋の始まりである。
王導は東晋の宰相として、顧栄、賀循、紀瞻、庾亮、卞壺などの人材を元帝に推薦した。「百六掾」と呼ばれるこれら百余人の属官たちは、華北から逃れてきた貴族と江南の豪族とで構成されており、王導は利害の異なるこれらの人々を配下に集めることで、彼らの対立を取りまとめ、これによって東晋の政権基盤を安定させようと考えた。その一方、従兄の王敦に兵を与えて長江中流域を制圧することに成功する。
しかし、皇帝である元帝は、政治・軍事の両面で、琅邪王氏の存在が大きくなることを警戒するようになり、劉隗・刁協らを重用して、王導の政治力を排除しようとした。322年、大将軍となっていた王敦は、元帝のこのような動きに不満を持ち、劉隗・刁協の打倒を名目に武昌で挙兵した(王敦の乱)。この時、首都建康にいた王導は、劉隗により反乱者の同族として処刑されかけるが、周顗の取りなしにより事なきを得ている。同年、元帝は死去して明帝が即位し、324年、蘇峻らによって王敦の反乱は鎮圧されるが、王導は失脚することなく政治を執り続けた。
325年、明帝が死去し成帝が即位すると、王導は司徒として中書令の庾亮と共に政治を任されることになった。成帝の外戚であった庾亮は、当時王導をしのぐ権勢を誇り、北来の貴族と江南土着の豪族との間のバランスを重視する王導の政治方針に変えて、厳格な法治主義によって皇帝の権威を強化しようと考えるが、327年、蘇峻が庾亮打倒を名目に反乱を起こす事態を招いてしまう(蘇峻の乱)。329年に反乱が鎮圧されると、庾亮は中書令を辞して地方に鎮したので、再び王導が単独で政治を執ることになった。後に庾亮は王導の施政が寛厚すぎるとして、挙兵して王導を廃そうと考えたが、郗鑒の賛同が得られず挙兵をとどまった。ある者がそのことを王導に伝えたが、王導は「自分と庾亮は、国家のために喜憂をともにしている。だからもし彼が、自分を不義不忠の者として攻めてくるのなら、自分は潔く官を辞して隠居しよう。何も恐れることはない」と語ったという。
339年に64歳で死去し、丞相を追贈された。
[編集] 伝記資料
『晋書』巻65列伝第35


