生方恵一

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生方恵一うぶかた けいいち1933年3月25日 - )は、元NHKアナウンサー1984年NHK紅白歌合戦での「ミソラ発言」で広く知られている。NHK退職後はフリーアナウンサーとしてテレビラジオ・講演等で活躍する。群馬県前橋市出身。「生方めぐみ」という筆名で作詞を手がけた曲がいくつかある。

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[編集] 略歴

  • 実家は履物商。県立前橋高校から早稲田大学政治経済学部に進学。卒業後、アナウンサーとして日本放送協会に入局。
  • 1970年代後半から東京局18:00~19:00のFMローカル枠である「夕べの広場」のDJを務め、自らを「ウブウブおじさん」と称し、時には「大統領ジミー・カーター、アナウンサーはウブーカーター」などとダジャレを連発するおよそNHKらしからぬキャラクターで高齢者から若者までに人気を博す。
    • 「夕べの広場」では、主に火曜日を担当していたが、他の曜日の倍以上のリクエストハガキを集めていたと自身が放送で語ったこともある。また「この曲で2人」(オリジナルとカバーの聴き比べ)や放送開始直後1曲目の曲当てクイズを行うなど当時のNHKとしては画期的な内容も行われていた。
  • 1984年、年末恒例の「第35回NHK紅白歌合戦」で総合司会を担当。いわゆる「ミソラ事件」を起こす(後述)。
  • 1985年大阪局に異動。「ミソラ発言」の影響では、と騒がれる。この年限りで退局。フリーアナウンサーとして再出発。テレビドラマにも出演した。
  • 2006年5月13日公開の映画「青いうた~のど自慢 青春編~」に、司会者役で実名で出演。

[編集] ミソラ事件

1984年12月31日、「第35回NHK紅白歌合戦」で総合司会を担当。この紅白でラストステージを公言していた都はるみが、涙のアンコールを終えた直後、得点集計に移ろうとした生方は、「もっともっと、たくさんの拍手を、ミソラ…(首を振りながら絶句、一瞬固まる)、ミヤコさんに、お送りしたいところですが…(後略)」と、都の名前を美空(ひばり)と言い間違えてしまうという失態を演じた。この映像はNHKの公開ライブラリーで視聴することができる。

その場で指摘したものは誰もいなかったとされるが、年明け、この件は、紅白歌合戦でもこう言った演出がある程度認められている現在と違い、この当時は単なる言い間違いでは済まされないものとされ、しばらく話題になった。本人も当時放送総局長だった川口幹夫の提案で1月9日に一言謝罪の言葉を述べている。とはいえ、後に生方が異動や退局したことで、話が大きくなってしまった一面がある。理由としては美空ひばり#母・喜美枝との二人三脚時代以降を参照のこと。

生方本人によると、その後7月にあった大阪局への異動は、紅白前からすでに内示のあったものだったとしており、退局の理由は異動後の役職がアナウンスから離れていたもの(栄転)であったから、さらに週刊現代2005年1月1日号では、夫人の乳がん手術による単身赴任を嫌ったものとして、「ミソラ事件」の影響という説をあえて否定している。

ただ、同じく週刊現代2005年1月1日号での述懐で「『はるみちゃん』と呼ぼうとするのをNHKらしくするために『都はるみさん』ととっさに変えたことに間違いがあったと反省しており、それは徳光和夫に指摘されたとのことである。

白組司会を務めていた鈴木健二は、「私に一分間時間をください!」(アドリブでアンコールを入れた)発言からによる進行の混乱を招いたことが原因と捉え、フォローできなかった点とあわせ、「申し訳なかったと思っている」と述懐している。

美空ひばりはこの時、浅丘ルリ子らと自宅のTVで紅白を観ていたが、「あ、ウブさん、いまヘンなこと言ったよ」「ウブさんったら、私のことホント好きなんだから」と苦笑。都はるみは後日「あんなこと(NHK退職)になっちゃって、あなたも大変だったわね」、復帰公演の楽屋でも「少しは気が楽になったでしょう」「肩の荷が下りたでしょう」と生方に声をかける(生方は「はるみちゃん、戻ってきたんだね」と声をかけた)など、当事者の二人は生方に対して同情的であり、事件後も親交は続いていた。

[編集] 主な出演番組

NHK関係

他局(フリー転身後)

[編集] 主な著作

  • 生放送だよ人生は
  • 披露宴のじょうずなスピーチ実例集
  • みんな軍国少年だった

[編集] 参考文献

最終更新 2009年12月4日 (金) 03:42 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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