生沢徹

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生沢 徹(いくざわ てつ、1942年8月21日 - )は日本の元レーシング・ライダー、元レーシング・ドライバー、元レーシング・チームオーナーである。日本画家生沢朗の長男として東京で生まれる。

目次

[編集] プロフィール

[編集] 2輪ライダー時代

1958年浅間高原自動車テストコースで開催された第1回全日本クラブマンレース(2輪)に出場し、15歳の最年少ライダーとして有名になる(15歳はエントリー時の年齢で、レース時には16歳)。その後、トーハツホンダでの2輪レース活動を経て、日本大学芸術学部工業デザイン科在学中の1963年プリンス自動車と契約し、四輪レーシング・ドライバーに転向した。

なおこの頃より、式場壮吉本田博俊、杉江博愛(後の徳大寺有恒)、福澤幸雄などの日本のモータースポーツ草創期を支えた名ドライバー達と親交があった。

[編集] スカイライン伝説

1964年に行われた第2回日本グランプリに、生沢はプリンススカイライン2000GTで出場した。このレースにはポルシェ・904(レース専用マシン)も出場した(ドライバーは生沢の友人の式場壮吉)。式場はトヨタ契約ドライバーだったが、ポルシェは自費購入したとされている。一部には「スカイライン2000GTにかなわないと判断したトヨタが、スカイラインの優勝だけは阻止しようとポルシェを手配し、式場の個人出場という形式にしたのではないか」という説も存在する。

しかし式場のポルシェはペダル位置の調整機構がトラブルを起こし、直線に続く第一コーナーを曲がりきれず予選でクラッシュしてしまう。FRPボディが衝撃を吸収したため式場に大きな怪我はなかったが、車体は大破。当時FRPの修理を行える修理工場は少なく、鈴鹿から名古屋の工場まで移動し徹夜で応急的な修理が施され、ギリギリのタイミングで決勝出場に間に合った。FRPの骨格にするための適当な繊維がなく、旅館の浴衣を使用するような状況だったらしい。鈴鹿サーキットまでの道を警察の先導で自走してきて、コース上でゼッケンを貼るような緊迫した事態だった。

こうして迎えた決勝だが、クラッシュで各部バランスが崩れた状態のため、式場はマシン本来のスピードで走行することができなかった。しかも途中で周回遅れの女性レーサーにコースを塞がれたために、食らいついていた生沢のスカイラインに一時抜かれてしまう。生沢のスカイラインが式場のポルシェ・904を従えて最終コーナーを立ち上がってきた際、メインスタンドの観客は驚きと興奮のあまり総立ちになったと言われる。国産の量産車が当時世界最高峰のレーシングカー(ポルシェ・904)を抜いたことから、いわゆる「スカイライン伝説」が生まれることとなった。

ただし式場は半周ほどで生沢を抜き返し、そのまま優勝した。生沢は同じスカイライン2000GTの砂子義一にも抜かれ、3位でゴールしている。

この「スカイライン伝説」誕生には、仕掛けがあるのではと見る向きもある。いかに事故後とはいえポルシェ・904の性能は圧倒的に高く、普通ならスカイラインが付いていくことさえ困難で、抜くなどというのは夢のまた夢のはずだった。そのため一部では、式場と生沢の間で何らかの談合があったのでは、という説が囁かれた。2人は友人どうしであり[1]、レース前に生沢が「もし抜けたら1周だけは前を走らせてほしい」と式場に話していたらしいというのだ。その類の会話は実際にあったらしいが、2人の間のジョークの範疇と見ることも可能で[2]、真相は未だ藪の中の状態である。

[編集] 伝説のレーサー

その後生沢はプリンスに在籍しながら自費購入したホンダ・S600でプライベートでのレース活動も展開し、浮谷東次郎らと名勝負を繰り広げた。[3]

1966年の日本グランプリ後、プリンスを離れ単身イギリスに渡り、F3への参戦を開始する。翌1967年プライベート参戦した第4回日本グランプリは、ポルシェ・906日産・R380-2勢に対抗。コースレコードを記録してポールポジションを奪い、決勝では日産R380-2の高橋国光に追い上げられスピンを喫したものの、最終的には独走優勝を果たした。

生沢は、金銭面や物量の面で圧倒的に勝る強大なワークスチームを、プライベーターとして破ったことにより、現代の若きヒーローとして絶大な人気を博すことになった。また、ファッションモデルとしても活躍していた福澤幸雄や、洒落者で知られた式場壮吉などとともに、ファッションリーダー的存在となった。

[編集] ヨーロッパへ

1966年の第3回日本グランプリ終了後にプリンスを離脱し、イギリス・フォーミュラ3選手権に参戦。当初はイギリス国内レースだけの参戦だったが、やがてヨーロッパF3選手権に進出し、69年までに8回の優勝を記録するなど活躍。

1970年からはヨーロッパF2選手権にステップアップした。F2ではグラハム・ヒルヨッヘン・リントロニー・ピーターソンエマーソン・フィッティパルディニキ・ラウダクレイ・レガッツォーニといった名ドライバーを相手に戦い、最高で2位入賞を記録した。

フォーミュラ以外でも、1967年9月3日に「ニュルブルクリンク500Km」にホンダ・S800で日本人として初めて参戦しクラス優勝。1968年7月14日にはFIA世界マニファクチャラーズ選手権 第8戦ワトキンスグレン6時間レースにポルシェのワークス・チームからポルシェ・908で出場し、ハンス・ヘルマン/リチャード・アトウッドと組んで予選4位、決勝6位(チーム最上位)の成績を残している。

1973年にチーム・シグマ(現 SARD)のドライバーとして鮒子田寛と共にル・マン24時間レースに参戦。日本人ドライバーのル・マン参戦は生沢と鮒子田が初。1979年1980年1981年もル・マンに参戦し、一時は日本人最多出場者だった。

海外レースを主戦場にしていた時期(1966〜1973年)も、日本グランプリなどの国内ビッグレースには出場。国内レース出場で資金を稼ぎ、海外でレース活動を行うというスタイルだった。

レーシング・ドライバーを職業として成立させようとした点、海外レースに個人参加し世界最高峰レースであるF1を目指した点から、日本のレース界におけるパイオニア的な存在と評されている。ただし資金難や、レギュレーション改定の狭間におけるマシン選択の失敗などから、国際レースでは必ずしも成功したとは言えず、結果としてはF1出場もかなわなかった。

[編集] 国内レース

1973年途中でヨーロッパのレースからは撤退し、日本の富士グランチャンピオンレース(富士GC)とF2(当初はF2000)レースを中心に参戦するようになる。ヨーロッパ撤退以後の国内レース活動については「ホビー」と公言していたが、1977年には富士GCチャンピオンとなった。レースキャリアの長さからは意外だが、生沢が所有している年間タイトルはこの1977年の富士GCのみである。

[編集] チームオーナーへ

1978年一杯でドライバーとしては第一線を退き、1979年に「i&iレーシングディベロップメント」を設立し、チームオーナー兼監督という立場になる。中嶋悟を擁し、チーム設立初年の1979年に富士GCのシリーズチャンピオンを獲得した。

1981年からはホンダのワークスエンジンの供給を受けるようになり、1981年1982年は中嶋悟、1983年ジェフ・リースのドライブによって全日本F2選手権3連覇を達成した。1982年には中嶋と共にヨーロッパF2への長期遠征も試みるが、資金不足に悩まされ十分な活動は行えなかった。中嶋は1982年いっぱいで生沢のもとを去った。

1989年には2輪レースの鈴鹿8時間耐久ロードレースにホンダ系のワークスチーム「BEAMS HONDA with IKUZAWA」を率いて参戦し、優勝している。1980年代には4輪レーシングチームの運営と並行して、ホンダ系2輪販売店の経営を行い、生沢自身が2輪クラシックレースに出場していた。同時期にイギリスのコンストラクターであるハリスと協力し、ホンダのエンジンを搭載したオリジナルの2輪車(IKUZAWA TH-1)を製作。公道用として少数販売し、マン島TTレースなどのレースにも出場させている。

[編集] 現在

1990年には世界スポーツプロトタイプカー耐久選手権(WSPC)に参戦するニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパ(NME)チームの監督を務めた。

1990年代以降、4輪2輪とも本格的なレース(チーム)活動は行っていない。現在は自転車のダウンヒル競技チーム(Team IKUZAWA)を率いながら、ブレーキメーカーのアドバイザーを務める等、多分野で活躍している。

1990年代には俳優堺正章とともにイタリアミッレミリアに参加。2000年6月にはニュルブルクリンク24時間レースホンダ・S2000チームの一員として参戦し、総合32位・クラス優勝。

[編集] 逸話

1970年昭和45年)、JAFとその公認クラブとの間に大きな軋轢が生じていた。公認クラブ連合は今までの実績を無視したJAFの方針に反発し、JAFのレース(JAF-GP)を拒否しようとする事態にまで悪化していた。話し合いの末妥協点に達し、レースは無事に開催されることになる。そのレースの開会式の選手宣誓をするドライバーとして生沢徹が選ばれる。この式典には GP名誉総裁である高松宮宣仁親王も出席する式典であったが、生沢は主催者が用意した宣誓文を無視し、選手宣誓に代えて次のような発言をする[4]

「オールギャランティー、送迎サービスまでもJAFの金で賄われる外国人ドライバーに対し、いかに日本人ドライバーが不当に扱われているか……従って選手宣誓を拒否する!」(生沢徹)[5]

外国のレース事情にも精通している生沢から見るとJAFの稚拙さや理不尽さに怒り心頭だったようである。この発言は観客から喝采を博した。しかしこの事が原因で生沢は国内レースへの出場を1年間禁止されてしまい、生沢はヨーロッパで活動する[6]

[編集] 参考文献

[編集] 脚注

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  1. ^ 破損したポルシェ・904の修繕をライバルチームの生沢も手伝っていた。
  2. ^ ときに否定、ときに肯定しているなど二転三転している。
  3. ^ このS600にはホンダワークスのパーツが数多く組み込まれていたとされる。詳しくは入交昭一郎#エピソードを参照。
  4. ^ 『サーキット燦々』(p312, p313)より
  5. ^ 『サーキット惨々』(p313)より。
  6. ^ 『サーキット燦々』(p314, p315)より。

[編集] 関連項目

最終更新 2009年11月10日 (火) 09:15 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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