田中康夫

田中康夫の最新ニュースをまとめて検索!

田中 康夫
たなか やすお
田中康夫
生年月日 1956年4月12日(53歳)
出生地 日本東京都武蔵野市
出身校 一橋大学法学部
前職 参議院議員
現職 衆議院議員
所属政党 新党日本
世襲の有無
親族
配偶者
公式サイト 田中康夫オフィシャルサイト「ヤスキチ」

日本の旗 衆議院議員
選挙区 兵庫県第8区
当選回数 1回(衆) 1回(参)
任期 2009年8月30日 -
議員会館 衆・第2議員会館628号室

日本の旗 参議院議員
選挙区 比例代表区
当選回数 1回
任期 2007年7月29日 - 2009年8月18日
退任理由 衆議院議員選挙立候補のため

長野県知事
当選回数 2回
任期 2000年10月26日 - 2006年8月31日
退任理由 知事不信任決議可決による失職
2002年7月15日 - 2002年9月1日)、任期満了
  
田中 康夫
職業 小説家評論家文藝賞選考委員
国籍 日本
活動期間 1980年 -
ジャンル 小説、評論、随筆、翻訳
代表作 なんとなく、クリスタル」、「神戸震災日記」
主な受賞歴 第17回文藝賞
処女作 「なんとなく、クリスタル」
  

田中 康夫(たなか やすお、1956年4月12日 - )は、日本政治家作家新党日本代表。衆議院議員(1期)、前参議院議員(1期)。前長野県知事。愛称はヤッシー。

同姓同名で獨協医科大学名誉教授等がいるが、別人である。なお、父が非常勤講師を務めていた関係で松本歯科大学客員教授(入門歯科医学I担当)を務めたことがある[1]

目次

[編集] 来歴

1956年4月12日東京都武蔵野市に生まれる。本籍地静岡県庵原郡富士川町(現・富士市[2]。父の田中博正(心理学者)が信州大学教授に就任したため、1964年4月に家族全員で長野県上田市に、さらに1966年には松本市に引っ越す。

1969年4月、信州大学教育学部附属松本中学校に入学。中学在学中は、初代サッカー部部長を務めた。

1975年東京大学教養学部文科2類を受験する。英語国語数学が得意科目であった一方、歴史の知識問題などは、そのような分野で点数をとるのは邪道と考え、勉強を放棄。東大受験前に受けた模擬試験「東大オープン」では、英語、国語、数学、地理、歴史等の全科目の総合得点で全国80位程度、英語だけなら全国3位という好成績であった[3]が、本試験の結果は不合格だった。同年3月には、長野県松本深志高等学校を卒業。上京し、東京の駿台予備学校で浪人生活を送る。この際、駿台文庫の『基本英文700選』を愛用し、後に著書『田中康夫の大学受験講座』(1988年、マガジンハウス)においても同書を激賞している。この予備校時代は、服などブランドものを買いあさる生活を送った。この日々が後に、大学在学中に執筆し、作家デビュー作となった『なんとなく、クリスタル』(文藝賞受賞)のモチーフとなっている[3]

1976年4月一橋大学法学部入学。なおしばしば田中は法学部出身であることを表す際に「方角を間違えて阿呆学部に入った僕は…」との表現を用いる。

1980年、第1作・小説『なんとなく、クリスタル』を執筆し、同年同作で「文藝賞」を受賞する。同作が執筆された背景には田中の所属していたサークル「一橋マーキュリー」での横領事件(サークル員の合意を取らずに資金を流用してサークル用に神宮前のマンションを借りていた事件)がある。当時田中は日本興業銀行(現みずほコーポレート銀行ないしみずほフィナンシャルグループ)から内定を得ていたが、事件を起こしたとして卒業予定日の直前に停学処分を受け留年し、そのあおりで日本興業銀行からもらっていた内定は取り消された。この停学期間を利用して、『なんとなく、クリスタル』は執筆された。

1981年3月に、一橋大学法学部を卒業し、同年4月モービル石油に入社するも3ヶ月で退社。以後、文筆活動やテレビ出演などを行う。

1991年には、柄谷行人中上健次らとともに、湾岸戦争への日本加担に反対する声明に参加している。こうした声明には、田中は元来否定的だったが、声明文を「我々は」や「私たちは」ではなく「私は」とし、個人の連帯とすることで参加した。なお、同声明に参加した作家は、他にいとうせいこう島田雅彦高橋源一郎などがいる。一方でこの声明を四方田犬彦は批判した。

1995年1月17日に、阪神・淡路大震災が発生する。小説『オン・ハッピネス』(1994年、新潮社)の舞台でもある神戸市の被災に衝撃を受け、ボランティア活動に従事した。また「活動を続けるうちに神戸と自らは多面性を持つ点で共通しているのではないかと思うようになった」とも述懐している[4]

1998年、「神戸市民投票を実現する会」の代表に就任。ボランティア活動を通じて、神戸市の公共事業関連の問題を知り、神戸空港建設反対運動を行う。

2000年、長野県知事選挙に出馬し、当選。2期務めるが、3選を目指した2006年知事選では、落選(詳細は#長野県知事時代を参照)。2007年参議院議員選挙比例区に新党日本から立候補し、初当選した。

[編集] 政治路線

[編集] 反小泉・親小沢

自由民主党については左右幅広い立場の議員が所属し実態がつかみづらいことから「のような存在」としている。自民党所属の国会議員でも親しい人物はいるが、自民党が推し進めているアメリカ的な経済政策を導入する新自由主義経済路線を弱肉強食だと強く批判し、ある程度の経済格差は認めつつも最下層の幸せを確保する最小不幸社会を主張している。

小泉純一郎竹中平蔵の打ち出した路線と自らの改革とは、車座集会とタウンミーティングその他や就任当時の高支持率など類似性が多いと『サンデープロジェクト』など政治番組で問われた場面もあったが、その際には小泉路線はまやかしであると答えた。その後も小泉路線を「なんちゃって小泉・竹中へなちょこ構造改革」と表現している。なお小泉については第2次橋本内閣厚生大臣だった当時から批判していた。

2003年にネクスト内閣の地方分権大臣に指名された民主党や、田中が政治的マキャベリストとしてしばしば賞賛する小沢一郎とは比較的近い距離にある。ただし民主党の支持基盤である労働組合に対しても「組織率の低くなった組合は労働者の声を反映していない」と批判的立場を取っており「発展的に解消すべき」との意見を持っているほか、また前原誠司など松下政経塾出身者に対しても、「机上の空論」[5][6]や「議員となるのが自己目的化している」「頭でっかち」[7]と批判している。2007年に自民・民主両党間での大連立構想が浮上した際にも小沢を擁護し、前原や仙谷由人など反対した民主党議員を批判した。それ以外にも菅直人岡田克也などへの批判をしばしば行っている。

小沢に対しても、1990年代前中期、小沢が自民党幹事長、離党して新生党、さらに新進党に所属していた、言い換えればキングメーカー的存在だった時期はある程度政策や政治姿勢は評価しつつも、やや批判寄りだった(後述)。この時期にはむしろ(小沢とは対立関係にあったとされる)梶山静六を高く評価していた(同項目も参照)。

[編集] ウルトラ無党派

旧来の自民党的なばらまき政治・土建屋行政、官僚主導の政治を批判・解体する一方で、左派の労働組合主義にも否定的であり、草の根市民運動に携わってきたことから自らを「ウルトラ無党派」としている。官僚や労組以外でも(個々の構成員は純粋でも全体になると)「人の顔が見えない」組織・団体やそこに存在する利権を嫌悪する傾向にある。これは選挙戦にも反映され、運動は主に勝手連的に行われている。

[編集] 経済への考え方

サッチャーの様に利権にまみれた旧体制を壊した後に、ブレアの様にクリーンで公正な社会を再構築する、という両方の役割を一人でこなす政治家だと自負している様に、イギリスの(市場原理を積極的に取り入れつつも福祉を重視する)第三の道に考え方が近い[8]。さらにハイエクケインズの融合を目指しているほか[9]、新党日本のマニフェストではベーシックインカムの導入も掲げている。

[編集] 対石原

石原慎太郎については一橋大学出身の作家、それぞれ「太陽族」「クリスタル族」の生みの親であるなど共通点がある一方で思想的に大きく異なる部分もあることから自著内で取り上げることも多い。知事在職時に日本外国特派員協会での講演で「彼自身がカワード(coward:臆病者)だから、失うものがあるから強い自分を演出している」と評したこともある(一方、石原も「どっちがカワードだよ」と意味のことを返している)。また、築地市場豊洲への移転構想新銀行東京への資金投入など、石原都政への批判も行っている。

知事就任以前にも、石原の『「NO」と言える日本』や三国人発言について批判している。ただし、「是々非々」をモットーとするという言葉通りに、義務教育費国庫負担の一般財源化が議論された際は協調したことや[10]、元・東京都副知事浜渦武生辞任の際には、石原を擁護する発言を行ったこともある。

[編集] 対外思想

アフガニスタン侵攻イラク戦争を引き起こしたジョージ・W・ブッシュ政権とそれを支持する自民党親米保守派を批判し、「反米」や「嫌米」ならぬ、アメリカと友好関係は保ちつつも言うべき意見は言う「諌米」と他国に依存しない自立外交を主張している。

一方、ビル・クリントン政権については、好意的な見方をすることが多く、モニカ・ルインスキーとのスキャンダル時にも擁護的な意見を述べていた。また、政権下で副大統領を務めたアル・ゴアについても評価しており、ベネズエラウゴ・チャベス反米左派政権の自立路線を賞賛している。

また、日本の戦後責任に関しては、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー1985年5月8日ドイツ連邦議会において行った演説中の一節「過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる」を引用して責任を否定する言説を批判することが多い。

マニフェストでは日本の位置が要衝であるとして「交差点外交」や、自衛隊を「サンダーバード隊」に改組して国際的に災害救助を行うことを提案している(なお自衛権の放棄は主張していない)。

外国人参政権の立法化にも積極的な見解を持ち、2007年11月8日国会開催期間中に、在日本大韓民国民団が主催する「永住外国人地方参政権の早期立法化を訴える全国決起大会」にも参加した。その一方で第170回臨時国会では国籍法改正の際は外国籍女性と日本人男性の間に生まれた子供の日本国籍付与の際にはDNA鑑定を行うべきと主張した[11]

2008年4月14日のTBSラジオ『BATTLE TALK RADIO アクセス』において、北京五輪反対を唱えることを批判した。北京五輪や長野県における聖火リレーに反対する勝谷誠彦宮崎哲弥を「右寄り保守」とした上で批判対象とし、また同時に「チベットの支援者はダライラマの支援者で、かつダライラマが北京五輪開催に賛成し、チベットの独立を求めず、聖火リレーへの暴力を批判しているにもかかわらず、北京五輪や長野県における聖火リレーに反対することは矛盾している」、「かつて日本が戦争を行ったことやイラク戦争があることや米国によるニカラグアへの軍事的圧力など中華人民共和国以外の国も同じようなことを行っているのだから批判できない、されるべきでない」という趣旨の発言を行った。

中国・チベット問題に関して、かねてから連載コラム・ラジオなどで、宗教指導者ダライ・ラマ14世の正当性には懐疑的である。中国共産党の温家宝に対して、複数回支持を示している。上記ラジオ番組において、北京五輪反対を唱えることを批判した際には、中華人民共和国の要人がダライラマを呼ぶ際にラマ=法王という尊称を付けずに「ダライ」と呼ぶことと温家宝が「ダライラマ」と呼ぶことを比較した上で、これを根拠に、「温家宝とダライラマが通じ合っており、温家宝がトップになった際には中国チベット問題は解決する」という持論を展開している。

以前より、オリンピックのナショナリズム的側面自体を好んでおらず[12]、2016年の東京へのオリンピック招致にも「オリンピックはインフラ整備のため途上国で行うべき」と批判的立場を取っている。

[編集] 地方自治への意見

道州制に対しては「全国知事会の提言は総務省の官僚が作成したもので新たな利権を生み出すだけ」「明治から様々な面が大きく変化しており新たな枠組みを考えるべき」としてマニフェストで否定している。また全都道府県および政令指定都市の首長を参議院議員にすることも提案している。

宮崎県知事の東国原英夫に対しては2007年の就任当初は期待を寄せていたが[13]、2009年に衆院選出馬が取り沙汰された際は改革が「遅遅として進んでいない」と評した。その他大阪府知事の橋下徹にもダム建設の直轄負担金を拒否しなかった点を批判している。

[編集] 在野時代

処女作である『なんとなく、クリスタル』の巻末に少子高齢化を示唆するデータが記されているのをはじめとしてデビュー当初より他の対象とは区別することなく政治に対しての言及も行っていたが、1990年代より「神なき国のガリバー」その他においてそれが顕著となる。『新・文芸時評読まずに語る』においては「大衆消費文化の申し子として右手から出てきて自分は何も変わっていないはずが、世の中という舞台全体がどんどん右に動いて、今は一番左に立たされているような気がする」と述べている。

1991年の東京都知事選で小沢一郎が磯村尚徳を支援したのに対し、田中は『神なき国のガリバー』にて当時現職の鈴木俊一への支持を表明した(なお田中はそれ以前に鈴木を取材している。詳しくは当該項目参照)。また小沢が推し進めた湾岸戦争派兵や小選挙区制導入には反対の立場で、後に田中が結成する「新党日本」と名前の良く似ている日本新党を含め、1990年代前半の「新党ブーム」には当時厳しい評価をしており、細川護熙内閣に対しても当時のメディアや文化人が総じて画期的だと報じる中、政治手法が翼賛的だと警鐘を鳴らしていた。

村山富市内閣には発足当時「理念なき野合」と評する意見が多かった中、「55年体制の二項対立を越えた内閣」と高評価を下していた。だが次第に「社会党が自民党も驚くくらい腰砕けになっている」と見方を変え、特に阪神・淡路大震災時の危機管理のあり方については厳しい評価を下した。また青島幸男についても参議院議員時代や議員辞職後在野だった時期、さらに東京都知事就任後世界都市博覧会を中止とする決断をしたところまでは評価していたが、その後都市博中止以外の、破綻した2信用組合への対応など事実上の公約撤回に対しては「都市博を中止にしたところで都知事を辞職すれば良かった」と述べた。

[編集] 長野県知事選出馬

田中が広く知られるようになった一因として、神戸市とその周辺における活動がある。1995年1月に発生した阪神・淡路大震災の復興ボランティアに参加した後、神戸空港の建設に反対し、住民投票を求めて1998年2月に「神戸市民投票を実現する会」を結成し、その代表として活動した。このような市民運動への積極的に参加と、精力的な活動から長野県の市民団体などから2000年知事選への立候補を打診され、出馬した。当初は出馬に消極的で、在野の立場から意見表明を行うのが自分にはふさわしいと考えていたが、田原総一朗など知人からも出馬を促され、立候補した。

田中の出馬表明時には現職知事吉村午良の後継と目されていた前副知事日本共産党以外の県議会議員農業協同組合建設業団体など多くの業界団体の支持を得ていて当選確実だと言われていたが、旧態依然とした長野県政の現状に加え長野オリンピックの運営費をめぐる使途不明などのスキャンダルに批判が集中した。

日本労働組合総連合会の組織的な支援に加え、若さと清新なイメージで幅広い支持を受け初当選を果たし、2000年10月26日に長野県知事に就任する(なお疑惑の中心人物として名が挙がっていた「ミスターナガノ」こと吉田総一郎は、その後田中康夫の後援会「しなやか会」の幹部となった)。

[編集] 長野県知事時代

[編集] 概略

県知事就任後、「脱ダム」宣言や脱・記者クラブ宣言、車座集会など、歯に衣着せぬ発言や革新的な提案で県内外からの大きな支持と注目を集める。公共事業費や公務員人件費の削減を行ったため、長年赤字で財政再建団体へ転落寸前だった長野県の財政は黒字化し、5年間で923億円の累積債務を減少させた。また予算配分に関しては、全国で初めて全小学校の1-4年生の30人学級化を実現するなど、福祉や教育分野に重点的に配分させ、財政構造を大きく変化させた。その半面、県の「貯金」に当たる財政調整基金の大幅な取り崩しが行われた。

また、長野県の隣県であり、同じく中部圏知事会議の構成員である静岡県知事選挙において、現職の石川嘉延知事に対立する静岡空港反対派の新人候補を支援し、静岡県内で応援演説を行った。自らのブログでも静岡空港に反対する意見を改めて表明している[14]

[編集] 就任直後

マスメディアの注目を集め、中でも1階ガラス張り知事室や当時の企業局長による「名刺折り曲げ事件」(知事名刺に意義を唱えた企業局長が田中の名刺を「メールアドレス以外はなかったことに」として折り曲げたもの)は大きく取り上げられたがあった。

就任直後の各新聞社の調査では軒並み高支持率であり、特に信濃毎日新聞の2000年12月の調査では91.3%を記録した。こうした状況に田中は『愛の大目玉』にて「思考停止に陥っており、ファシズムの様相を呈している」「ヒトラーの再来」と表現での報道を「自分は体型的にはムッソリーニだしどちらかと言えばその方が好きだ」と返していた。

[編集] 「脱ダム」宣言

「脱ダム」宣言は、2001年2月20日に公式に発表され、ゼネコン主導の乱開発を否定するものとして多くの好意的な反響を呼んだ。その後、学識経験者などからなる治水・利水ダム等検討委員会が発足し、ダム計画のある河川の部会ごとに、ダムの必要性を徹底的に調査、審議した。政府から降りてくる公共事業費に頼りきりの体質を改善しようとする試みだが、このせいで県内の建設業界、県議会議員の多くから激しく批判されることとなった。 しかし治水・利水ダム等検討委員会が出した答申は、「ダムあり案」・「ダムなし案」の両案付記となり、特に浅川では、その後発表された計画が堤高30mから45mの堰堤を有する「河道内遊水池」と称する実質「ダム」であると批判され取り消した。

その後、暫定案として、本来は100年に1度の洪水に対応する治水計画を立案するところを、50年に1度の洪水の対応となる計画として、既存の2箇所の溜池を改修し、貯留能力を持たせる事(堰堤が15m未満は法律上ダムとならないため)を中心とした治水計画を発表したが、国土交通省との協議が、安全性の低下が原因で不調となり、追加で河川と別に地下配水管を建設する事を発表した(ダム建設とのコスト比較はなされなかった)。なお、浅川の治水計画は、知事交代後「河道内遊水池」案に変更になった。

また、長野県議会議員の多くは、長野新幹線の操車場建設時に、治水の為、ダム設置を約束しているので、約束の履行を求めているが、他県と同じく大手建設業者(ゼネコン)との癒着が一部から指摘されている。中止したダム事業#脱ダム宣言によるものも参照。

こうしたことから、長野県議会との確執が顕著となり、2002年7月5日、とうとう6月定例会で知事不信任決議が可決された。その不信任決議を受け、7月15日に、田中は知事失職を選択し、再び知事選が行われることとなった。そして、9月1日の選挙で、圧倒的な得票差を付け、再任された。

[編集] 市町村合併

知事就任以来、国主導の「平成の大合併」に対する慎重姿勢が際立っている。中山間地域などの合併が困難な町村に対して自立を支援する「長野モデル」を打ち出したり、「市町村合併をしない宣言」をした福島県東白川郡矢祭町を視察し、また、合併の是非を問う住民投票が行われた千葉県四街道市長崎県北松浦郡小値賀町などを訪れて、合併反対派を応援したり合併反対の講演を行ったりした。長野県内では、住民投票の結果を受けて合併協議が破談に追い込まれる事例が続出したが、これも、こうした田中の慎重姿勢が少なからず影響していると考えられる。

それでも、関係市町村議会の議決を経て、合併を知事に申請した県内市町村の合併については、法に則ってその関連議案を定例県議会に提出してきたが、山口村岐阜県中津川市越県合併については、2004年4月に両市村からの申請を受理した後、6月、9月の定例県議会への合併関連議案提出を見送った。そして、12月定例会への議案提出の条件として、全県民を対象とした意向調査の実施を決めたが、そのための関連予算案が9月定例会で否決されたことで、12月定例会でも田中知事は合併関連議案の提出を見送った。

このため、県議会の大半の会派(社民党共産党を含む)の共同という形で合併関連議案を議員提案し、その可決を受けて知事も合併に同意、総務省への申請、官報告示を経て2005年2月13日に両市村は合併した。

[編集] 「脱記者クラブ」宣言

「大手マスコミの情報独占を止めさせるため」として打ち出し、記者クラブに加盟できない多くのジャーナリストや外国メディア、雑誌から賞賛された。しかし、これにより既成権益(記者会見への出席独占だけでなく、記者クラブ事務所、およびその光熱費の提供が得られる)を守ろうとする新聞社をはじめとする大手マスコミから激しく非難され、読売新聞信濃毎日新聞などの県内外の大手マスコミとの確執を生むきっかけとなった。常に記者クラブを利権談合の頂点と指摘していた親田中派のコラムニスト勝谷誠彦は、「登場した時は万歳と持ち上げておいて、記者クラブの利権が奪われると分かった途端に反田中派になって極端なネガティブキャンペーンにより落選に追い込んだ」と大手マスコミ、特に顕著だった信濃毎日新聞の姿勢を痛烈に非難した。

[編集] 「信州」改称

2004年1月のインタビュー取材で、長野県を信州と改称することを検討していると発表。改称の理由として、「道州制に先立って州を作る」、「観光などでは信州という名前のほうが有利」などを挙げた。以降、ウェブサイトや自己紹介などでは、「信州・長野県知事」と名乗っていた(これ以降長野県の公式サイトでも「長野県知事の田中康夫です」から「信州知事の田中康夫です」と書き換えられた)。

実際に「信州」の愛称を常用する人も多く、数々の「信州ブランド」があるものの、背景としては、中南信県民(田中自身も少年時代を松本市で過ごしている)が、「長野県」を「長野」と略称することを好まないことがある。このことを示すかのように、2003年9月26日住民票長野市から下伊那郡泰阜村に移している。この問題は訴訟に発展し、2004年11月18日には同村の選挙人名簿に登録したことの適否に関する裁判で、最高裁判所が上告を棄却し、田中は敗訴した。長野市の住宅を退去して、泰阜村、両親宅がある軽井沢町から通勤していた。また、2004年12月2日に、北佐久郡軽井沢町へ住民票を移転した。

[編集] 同和対策事業の見直し

日本共産党長野県議団が長年にわたって要求してきた同和対策事業の見直し問題について、同党の意向を受ける形で、平成13年度(2001年)に26億7187万5千円あったものを、平成18年度(2006年)には4230万円までに縮小した。このような一種のタブーとされている領域にメスを入れた自治体は、日本には少ない。ただし、この見直しは、国の地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律の失効(2002年3月末)に合わせたものである。これを受けて、県下の各市町村(昭和38年の長野県による答申では139市町村中で74市町村、266地区に4883世帯。平成5年の旧総務庁統計では121市町村中で59市町村、254地区に4596世帯。全体的な傾向として北信地方東信地方に偏在していた)でも、同和政策予算の見直しや削減が進んでいる。

[編集] 「新党日本」結成

新党日本」も参照

かつてナチズムに抵抗するために共産主義者と手を結んだド・ゴールの話を引用し、小異を捨てて大同に付くべきだ(協力して自民党親米保守の新自由主義に抵抗すべき)として、2005年8月21日パレスホテルで長野県知事在職中ながら、郵政民営化問題で離党した自民党保守本流派と新党日本立党に参加し、代表に就任する。

党代表に就任するも、知事職は辞さず、副知事不在のまま選挙運動を行い、県内に動揺を招いた。なお、この騒動の最中に、朝日新聞長野支局記者が、亀井静香と田中康夫の会談が長野県であったかのような虚偽のメモをでっち上げ、それに基づいた捏造記事が紙面に掲載されるという事件も起きた。

2006年9月の首班指名選挙では、新党日本に所属する荒井広幸参議院議員が、新党日本と統一会派を組んでいる国民新党の綿貫民輔に投票せず、自民党総裁の安倍晋三に投票。新党日本は、代表の田中康夫が国会議員ではないために自主投票としていたが、国民新党がこれを問題視し、荒井への厳正処分を要求。党代表の田中が処分をしない方針を打ち出したため、国民新党は、衆参両院において新党日本との統一会派を解消した。

[編集] 支持率低下、落選

急進的な政策転換に対しては、野党が多くを占める県議会や業界団体の反発を惹起し、当初の知事選で支持していた連合も、労働委員会の人事をめぐる対立から、支持を撤回。代わりに、当初田中に批判的だった日本共産党が、田中を支持する状況になった。加えて、独特のパフォーマンスに対する批判から、当初田中を擁立した面々も批判の度を強め、2選目の後期は支持率を落とした。

対立する議会との溝は埋まらず、3選を目指した2006年の知事選では、支援したのは共産党だけであった。さらに、折りしも集中豪雨による洪水が多発し、田中の脱ダム政策に対する不信感が県民の間に芽生えた。自由民主党公明党の推薦と連合の支援を受けて、ダム計画再開を主張するとともに、組織型選挙を展開する対立候補の村井仁に競り負け、落選した。田中の得票数は534,229票、村井は612,725票だった。村井は、田中の改革や政治姿勢を「見せ掛けだけ」・「独裁者だ」と痛烈に批判、当選後は田中の全政策を完全否定・完全清算することを宣言し、田中知事の改革の象徴だったガラス貼りの知事室を廃止した。旧・ガラス貼り知事室は、長野県観光協会が使用することになった。

2006年8月31日、長野県知事(二期目)の任期満了に伴い退任したが、その後もしばらく通例は充て職の「信州・長野県観光協会 理事長」など13団体の役職に留まっていた。2006年10月、ようやくそうした役職に関する辞任届が提出されたことが報道される。

[編集] 国政進出

2007年には、4月の東京都知事選統一地方選挙北海道夕張市長選挙への立候補を示唆したものの、最終的に見送った。

2007年7月の参議院議員選挙には、新党日本からジャーナリスト有田芳生らとともに比例区から立候補した。

その直前の7月5日には、幹事長の荒井広幸と総務会長の滝実が、党運営及び参院選に際しての選挙公約が党所属国会議員である滝と荒井の了承を経ずに決定されたことをめぐって離党し、結党当時に国会議員であったメンバーはいなくなる。これに伴い、新党日本に現職国会議員がいなくなったことにより、選挙活動に対する政党助成金が大幅に減った。

しかし、政治団体の場合は比例区に候補者を擁立するには合計10人以上擁立しなければならないところだったが、2005年の衆院選の得票率で政党要件を満たしていたため、10人擁立しなくても比例全国ブロックで立候補できた。田中は比例区で458,211票を獲得し初当選した。この参院選における田中が当選したことに伴い在籍国会議員が復活したため、新党日本は再び政党助成金が受け取れるようになった。

2007年9月の第168臨時国会の開会を前に民主党代表・小沢一郎が単独会派での参院過半数をめざし、全国区で人気の高い田中に対して参議院での統一会派結成を打診。田中はこの要請を承諾し、統一会派「民主党・新緑風会・日本」が結成された。

衆議院が解散された2009年7月21日には、同年8月30日が投開票の総選挙兵庫8区尼崎市)より出馬することが発表された[15]比例近畿ブロックに重複立候補[16]し、民主党の推薦を受けたものの、連合兵庫は社民党の候補を推薦した[17]。選挙の結果、現職だった公明党冬柴鐵三を破り当選した。尚、国会では民主党の会派に加わる事になっている[18]

なお、総選挙への立候補に伴い公示日の同年8月18日、参議院議員は自動失職となった。参院選比例名簿の2位は有田芳生だったが、有田も総選挙に出馬していたため、3位の平山誠が繰り上げ当選となった。

[編集] 作家として

文学
File:Lit.jpg
ポータル
各国の文学
記事総覧
出版社文芸雑誌
文学賞
作家
詩人小説家
その他作家

[編集] 執筆活動

第17回文藝賞受賞作品となり、社会現象とまで言われたデビュー作『なんとなく、クリスタル』の、既成の文学の形態から逸脱した文体や視点(ややポストモダン文学寄りと言われている)は、当時日本の文学界に衝撃を与え、『純文学』的なものを良しとする風潮がまだまだ強かった文学界やマスコミを中心に賛否両論を巻き起こした。『なんとなく、クリスタル』の脚注に対しての「作者の批評精神あらわれ」[19]江藤淳)、「80年代以降の都市風俗に取材した稀有な記録文学の書き手」[20]斎藤美奈子)、「近代文学における保守本流の批判的継承者」[21](佐藤清文)などの肯定的な評価もあるが、大半は否定的に評価されるか、黙殺されるかであった。

「価値紊乱者」であることを自認している。これは言い換えれば「物質的ブランドと精神的ブランドは等価値であり優劣は付けられない」ということで、この主張はデビュー当時より行っている。また小説執筆の際は「サースティ」、すなわち「物質的には満ち足りているが精神的には不満足」といったテーマで作品を書くことが多く、同名の短編集も出している。

文藝賞選考委員を第33回以降断続的に務めているが、前述のように「精神的ブランドに依拠している」としていわゆる「作家ギルド」的な集まりを嫌うこともあり、文学界では一匹狼的存在であり、ただし決して既存の文学者との交流がなかったわけではなく、生前の川上宗薫中上健次との思い出を著書で語っている。

かなりの遅筆であり、1994年当時の「ペログリ日記」中でも、「どんな種類の原稿も同じスピードでしか書けない」と述べている(ただし、当時は手書きでの執筆だったため、その後のパソコン導入により執筆ペースが変化がもたらされた可能性はある)。また、日常あまり用いない外来語や漢語を表現として用いることや、さらに、そこに本来の読みとは異なるルビを振ることも多い。長野県知事時代にも、「クリエイティブ・コンフリクト(=創造的な闘争、官僚との馴れ合いを排した議論)」「パブリック・サーヴァント(=公僕)」といった言葉が分かりづらいと指摘されたことがある。

ワーズワースの“Plain living, High thinking”という言葉を好み、いわゆる「清貧」や「暮らしは質素に、思いは高く」という意味にとどまらず、「奢侈ではない、分に応じた飾らぬ、けれども物質的には豊かな生活の中から、豊かな心と高い理想、そして思考が生まれる」を表しているとしている[22]。「矜持と諦観」、すなわち「プライドと謙虚さを同時に持ち合わせることが重要」とも主張している。

[編集] 評論活動

小説エッセイ以外にも、日記文学や各種評論の著書も多い。特に普段から利用しているホテルレストランデパート業界などへの評論活動が知られており、著書だけではなく多数の雑誌への連載も行っていた。なお、長野県知事時代は、公的な立場であるため評論活動は、自身の政策、活動の主張を盛り込んだ「ペログリ日記」や「愛の大目玉」などに限っていた。

「是々非々で評価する」として、田原総一朗や田崎真也など親交の深い関係にある対象でも容赦なく批判することも、かつて激しく叩いた対象を一転して評価することも多い。例えば『朝日ジャーナル』時代に「若者たちの神々」最終回で対談し、その後「ファディッシュ考現学」連載を依頼された筑紫哲也を、田中が前述のように厳しい評価を下していた細川内閣に対して、筑紫が無批判であったことから「筑紫哲也朽ちたり」と評したり、阪神・淡路大震災時の報道姿勢について、「湯治場発言」や田中の知人の受けた取材に問題があるとして批判したりもした。また前出のようにデビュー時に『なんとなく、クリスタル』を高く評価した江藤淳にも忌憚なく意見を述べていた。

村上春樹については「『女の子は顔じゃないよ。心なんだよ』といった小説好きの女の子を安心させる縦文字感覚」[23]、「安全なところからしか発言しない」[24]などと評している。村上が『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年 谷崎潤一郎賞を受賞)を発表してしばらくたった頃、田中康夫が当時レギュラーで出演していた『笑っていいとも』で、「村上春樹は作家としてもうダメだ。これから先は何も書けないだろう」と言った(村上の次作は大ベストセラーになった『ノルウェイの森』)。この放送を、村上が住宅ローンを組もうとしていた銀行の担当者が見て、住宅ローンを断られたこともあり、田中のことを村上は揶揄を交えて批難している[25]。さらに田中は『ノルウェイの森』を「大人の小説ではない」と評している[24]

運輸、サービス業界に対しては、1980年代後半には、当時半官半民体制であった日本航空の閉鎖的体質を、1990年代前半には事実上の独占状態であることについてJRを、1990年代後半には日本航空に代わり閉鎖的体質になったとして全日空を批判した。JR批判の際は、批判が掲載された「SPA!」が、数ヶ月間全てのJRの駅キオスク売店に置かれなくなるなどの嫌がらせをJRから受けることもあった。

またレストランホテルなどについての評論も様々な雑誌で行い、ひらまつグループや「オテル・ド・ミクニ」などの、当時高い評価を受けていたレストランやレストランチェーンに対しての批判を行っている。なお、多くの「評論家」が雑誌社の経費と段取り、そして時にはシェフや経営者との親交関係を元に取材活動を行っていたのに対し、自分自身で予約を行い、代金を支払った経験をもとに批評することを基本としていた。

[編集] 出版社との関係

前出「ファディッシュ考現学」時代は、講談社について当時の「FRIDAY」の副編集長が創刊時に述べた「雑誌としての理念なんてない」という発言を引き合いに出し、編集姿勢や他社刊行の雑誌との類似性(例:「FRIDAY」と「FOCUS」、「Hot-Dog PRESS」と「POPEYE」など)を批判し、「大日本雄弁会講談社(講談社の旧社名)に連載や執筆の類を行ったことがないのを誇りに思っているのはこの私」とまで述べていた。

しかし後には「肩の力の抜けた出版社になった」として、「週刊現代」その他で連載を持つなど、講談社とは友好関係にある。1994年当時に、景山民夫が講談社批判を行った際にも、「ポスト・ファディッシュな評価をすべき」(=『ファディッシュ』当時とは状況が異なる)と述べている。講談社と同じく音羽グループに属し、やはり批判対象だった光文社についても、同様に連載を行った。

また角川書店とは1980年代には単行本が文庫本化される際に角川文庫から出版されることが多かったが、1990年代初頭を境に、文庫本は河出書房新社その他から出版するようになり、角川文庫収録作品もほとんどが河出文庫より再刊された。一方、角川書店社員だった見城徹が設立した幻冬舎を会社設立当初には同時期作られた日本新党になぞらえて揶揄していたが、その後は『東京ペログリ日記』をはじめとした著書を出している。

扶桑社とは阪神・淡路大震災直後にダイエーが行っていた商行為に関しての事実関係を巡って主張が対立したため「神なき国のガリバー」の連載は終了となったが、その後は関係を回復している。

また新潮社文藝春秋のどちらにも連載や執筆を行ったことはあるが、後者は「対象への距離感が欠如している」「同じ保守でも姿勢には差がある」と評している。

[編集] ネットに対して

1990年代中盤までは、コンピュータやインターネット関連は、揶揄の対象あるいは無関心で、自らが機械音痴であることを認めていた。例えばWindows95発売が『モーニングEye』出演時に取り上げられた際にはほとんど興味を示していなかったが、1990年代終盤にパソコンを購入して以降はパソコン及びインターネットの利点を盛んに主張するようになった。「既存のメディアにない自由闊達な議論が行われている」と、2ちゃんねるが比較的無名な頃より評価しており、自らも2ちゃんねらーであることを公言していた。さらに2009年現在はYouTubeニコニコ動画に「新党日本チャンネル」を開設し、意見発信も行っている。

長野県知事時代も、メールで意見を広く募ることを売りにしたり、ネットを活用することで迅速さや効率を向上させることを目指す発言をしたりしていた。また旧来の政治家を「OSが古い」との表現で批判することや、「Linux的生き方とは」という講演も行った[26]。しかし、2000年代中盤になってからは、インターネットや2ちゃんねるへの賞賛はほとんど見られなくなり、ネットに感化されやすい人びとへの批判も行うようになってきている。

[編集] 著書

[編集] 小説

  • なんとなく、クリスタル」河出書房新社、1981 のち文庫、新潮文庫 
  • 「ブリリアントな午後」河出書房新社、1982 のち新潮文庫、河出文庫   
  • 「空蝉」河出書房新社、1983 「葉山海岸通り」角川文庫 
  • 「たまらなく、アーベイン」中央公論社、1984 「ぼくだけの東京ドライブ」文庫、角川文庫 (洋楽レコードレビュー・小説形式)
  • 「昔みたい」新潮社、1987 のち文庫 
  • 「いつまでも、クリスピー」角川文庫、1987 
  • 「スキップみたい、恋みたい」角川文庫、1988 のち河出文庫  
  • 「ハッピー・エンディング 」角川文庫、1988 のち河出文庫  
  • 「三田綱坂、イタリア大使館」トレヴィル、1989 のち角川文庫、河出文庫  
  • Thirsty 河出書房新社 1991 「サースティ」文庫 
  • 「H」太田出版、1991 のち河出文庫 
  • 「チャイナピンクの花嫁衣裳」福武書店、1994 「あなたへの花ことば」河出文庫
  • 「オン・ハッピネス」新潮社、1994 のち文庫  
  • 「個人的な出来事」(未刊)
  • 「なかなか来ない」(未刊)

[編集] 評論・エッセイ

  • 豚になったクリスタル 努力しないで失恋する法 ベストセラーズ 1983
  • 感覚の論理学 1 朝日出版社 1984
  • 康夫ちゃんのれんあい自由自在 飛鳥新社 1984 「恋愛自由自在」角川文庫 
  • 「トーキョー大沈入」文藝春秋、1985 のち文庫、新潮文庫   
  • 田中康夫の恋はビジネス 主婦の友社 1986 のち角川文庫 
  • 感覚の倫理学 角川文庫、1986 
  • 「ファディッシュ考現学」朝日新聞社、1986 のち新潮文庫(「ファディッシュ」とはfaddish(=fadの形容詞形)、ファッション=流行になる前段階を指す)
  • ぼくたちの時代 太田出版 1986 のち新潮文庫 
  • ファディッシュ考現学 1987、1988、1989、1990」朝日新聞社、1987-90 のち[2]新潮文庫  
  • 「恋愛事始め」太田出版、1987 のち角川文庫 
  • 田中康夫の大学受験講座 マガジンハウス 1988 のち角川文庫 
  • 「東京ステディ・デート案内」マガジンハウス、1988 のち角川文庫 
  • Highlife highstyle 太田出版 1988 「ハイライフ、ハイスタイル」角川文庫 
  • ぼくたちの時代 2-3 太田出版 1989-91 
  • これが基本です。扶桑社 1992
  • 「SM恋愛序説」太田出版、1993 
  • 恋の予習、愛の復習。 マガジンハウス 1994
  • 言いたいこと、言うべきこと 神なき国のガリバーvol.3 扶桑社 1994
  • 「東京ペログリ日記」幻冬舎、1995 「ペログリ日記1994-1995」文庫 
  • 「新・文芸時評 読まずに語る」河出書房新社、1995 
  • 「いまどき真っ当な料理店」ぴあ、1996 のち幻冬舎文庫 
  • 「神戸震災日記」新潮社、1996 のち文庫 
  • 全日空は病んでいる “ザ・ファースト・チョイス"の勘違い」ダイヤモンド社、1997
  • 「嗤う! 物議をかもした「あの人」「あの事件」を」光文社、1997
  • ペログリ日記 '95~'96 幻冬舎 1997 のち文庫 
  • 「それでも真っ当な料理店」ぴあ、1999 
  • 「田中康夫が訊く どう食べるかどう楽しむか 光文社、2001 
  • 田中康夫主義、ダイヤモンド社、2001 
  • 「一炊の夢」扶桑社、2002 
  • 「ナガノ革命638日 田中康夫の愛の大目玉」扶桑社、2002 
  • 田中康夫が訊く食の極み 光文社 2003

[編集] 共著など

  • 大学・解体新書 新々大学案内 “アソビの偏差値"で東京81大学を再編成 泉麻人 祥伝社ノン・ブック 1984
  • 「感覚の論理学」 (青木保との共著)
  • 街は無限に変容する 臨床経済学講義 竹内宏 朝日出版社Lecture books 1986 
  • 「フェティッシュな時代」(古井由吉)トレヴィル、1987 
  • 英語の強化書 すぐ効くよく効くタメになる Box編集部共編 ダイヤモンド社 1989
  • 「田中康夫のソムリエに訊け」田崎真也 TBSブリタニカ、1994 のち幻冬舎文庫  
  • 「憂国呆談」浅田彰、幻冬舎、1999 
  • 脱「ダメ日本」宣言 田原総一朗 アスキー 2001
  • 「神戸から長野へ 新・憂国呆談」(浅田彰)小学館、2001 
  • 憂国呆談リターンズ 長野が動く、日本が動く 浅田彰 ダイヤモンド社 2002
  • ニッポン解散 続・憂国呆談 浅田彰 ダイヤモンド社 2005

[編集] 翻訳

[編集] 雑誌発刊

これ以外に「田中康夫のトレンドペーパー」という会員制雑誌を1980年代に発刊していた。表紙イラストは渡辺和博だった。「ソムリエに訊け」も同誌の連載が元になっている。

[編集] 受賞歴

[編集] テレビ・ラジオ出演

[編集] テレビ

「テレビは見るものではなく出るもの」が持論で、ほとんどテレビ視聴の習慣はないと1994年当時は「ペログリ日記」内で記している。「なんとなく、クリスタル」で話題を呼んだ後、フジテレビ笑っていいとも!」金曜日のコーナー「五つの焦点(フォーカス)」にレギュラー出演したのを皮切りに、テレビ朝日の女性向け情報番組「Oh!エルくらぶ」(1986年 - 1992年、番組自体は1997年まで)、読売テレビのワイドショー「Beアップル2時!」(1992年 - 1993年)では司会も務めた。

それ以外にも報道番組への積極的な出演のほか、バラエティ番組をはじめ、数多くの番組に出演した。また、フジテレビ「たけし・逸見の平成教育委員会」では生徒(解答者)として出演。「たけし落とし」を完成させ、世界一周海外留学の旅を獲得したこともある。その他ビートたけしとの関係は当該項目を参照のこと。

県知事就任以降は、長野県の観光資源を広くPRする事を意識し、トーク番組やバラエティ番組の出演の際には、県の名産品などを積極的に紹介することが多かった。また、長野県内で流れるシートベルト装着のキャンペーンCMにも自ら出演し、呼びかけを行っていた(SMAP×SMAPでのゲスト出演の際など)。

[編集] ラジオ

ラジオ番組の出演も多く、過去には文化放送梶原しげるの本気でDONDON」のコメンテーターを長年に亘り担当。この他、大阪・MBSラジオの「さてはトコトン菊水丸」をはじめ、神戸空港問題で旧知の仲となった河内音頭の歌手・河内家菊水丸パーソナリティを務めるワイド番組にも不定期で出演。また、TBSラジオの「BATTLE TALK RADIO アクセス」では、2009年現在も隔週月曜のコメンテーターとして出演している。

なお、この番組は月曜から金曜までの放送だが、知事就任後から2005年3月まで、地元長野のSBC信越放送が、田中が出演する月曜のみネットし、放送していた。それ以外にも、2009年現在は、文化放送「吉田照美 ソコダイジナトコ」の毎週火曜日にも午前7時から10分間、主に電話で出演している。

[編集] 歌手として

1982年に発売された企画もののLPレコード「音版ビックリハウス ウルトラサイケ・ビックリパーティー」 の中で、雑誌「ビックリハウス」の編集長・高橋章子とのデュエットで「ブリリアントなクリスタルカクテル」(作詞:田辺聖子/作曲:沢田研二)という曲を収録し、発売した。この時のレコーディングの模様は、知事初当選の翌朝、一部テレビ番組で秘蔵映像として放送された。また、1981年に発売された柴田恭兵の楽曲「なんとなくクリスタル」に作詞家としてデビューを果たしている。

[編集] プライベート

[編集] 異性交際

離婚歴が1回あるものの、その後は独身である。異性交際に関しては、著作内やテレビ出演時にも自ら頻繁に言及しているほか、恋愛に関する著書も多数ある。知事選出馬時には、相手候補が『ペログリ日記』の一節をコピーして配り、「第2の横山ノックになる」とネガティブ・キャンペーンを行った(が逆効果であった)こともあった。なお、『ペログリ日記』の「ペログリ」とは田中の造語「ペロペロちゃん、グリグリちゃん」の略で、より正確にはもともとは同語が雑誌で取り上げられた際に略されたもので、当初は「余裕がなさそうにも思える」としていた。後に「お食事後にセックスをする」の意味で「おショックス」なる概念も提唱したものの、こちらは定着しなかった。

なお、1980年代後半から2000年頃にかけては、自書で客室乗務員との交際関係を多く言及しており、「客室乗務員評論家」を自称することもあった。実際にスポーツ新聞などで、現役の日本航空の客室乗務員との交際をスクープされたこともある。

[編集] 自動車

ランチア・テーマ8.32

また、作家デビュー当時から、自動車を使ったデートスポットなどの評論を行っていたことや、著書内で自動車ブランドの考察を行っていたことなどから、ファッション誌などで評論を行う他、「NAVI」などの自動車雑誌への不定期連載も行っていた。なお、過去は「飛ばし屋」としても有名で、アウディに乗っていた頃に、数回全損事故を起こした経験がある。

[編集] 過去の愛車

[編集] 親族

父は、心理学者で元上越教育大学副学長の田中博正(たなか ひろまさ、1930年3月25日 - 元信州大学教授。東京教育大学卒業、東京教育大学教育学博士)。実妹及びその夫は、ともに新潟大学医学部を卒業した医師であり[27][28]、2003年には主治医及び妹夫婦からの助言を受け膀胱腫瘍の切除と人工膀胱の造設手術を受けている[29]。なお、母は早稲田大学卒業の教員[28]。両親ともにカトリック

[編集] 関連項目

[編集] 関連人物

有田芳生
田中の長野県知事時代の実績を評価し、新党日本副代表に就任した。
浅田彰
『逃走論』当時からの長年の親交があり、長年の対談をまとめた『憂国呆談』その他共著多数。
安斎肇
個人キャラクター「ヤッシー」デザインを行う。
河内家菊水丸
神戸空港反対運動時よりの旧知の仲だったが、2009年現在は没交渉。
田原総一朗
長年の付き合いであり、田中が1000万円を獲得したクイズ$ミリオネアに田原が出演した際のサポーター(応援者)も田中だった。
田崎真也
共著として『ソムリエに訊け』があり、長野県原産地呼称管理制度ワイン官能審査委員長も務めている。
岡留安則
『噂の眞相』編集長時代、(『断筆宣言』を発表して連載を降りた筒井康隆に代わって)「ペログリ日記」の連載を依頼した。
西川りゅうじん
田中と同じく一橋大学出身で、『一橋マーキュリー』を復刊させた。長野県スキー再興戦略会議メンバーでもある。
佐高信
田中とは考え方が近く、互いの著書にしばしば名前が登場する。ただし選挙時には佐高は社民党に近い立場を取る。
勝谷誠彦
しばしば対談などを行う。田中の支援者の1人だが、北京五輪問題を論じたラジオ番組では「勝谷うんたらとかいう人」と槍玉にあげた。衆議院議員総選挙では応援に参加した。
山城新伍
山城の著書にある「人間は生まれながらに平等というのは幻想である、人間は生まれながらに人間である、不平等だからこそ平等を目指さなければならない」との記述に共鳴している他、司会する番組にも多数出演するなど公私共に深い付き合いにあった。また共通の知人として会津小鉄会の三上忠がいる。
櫻井よしこ
国家観の違いがある(憲法関連)ものの、お互いの事を高く評価し合っている他、小泉・竹中路線に批判的な点など共同歩調を取ることも多い。
南美希子
『Oh!エルくらぶ』時代からの親交がある。
香山リカ
田中が数少ない理解者として名前を挙げ、共著もある。
松任谷由実
1980年代までは『悲しいほどお天気』などを例に挙げてその音楽世界を評価する他親交もあったが、1990年代以降は楽曲に魅力が失せ「裸の王様」になっているとしている。
小林よしのり
『言いたいこと、言うべきこと』所収の対談にて小林の『おぼっちゃまくん』は『なんとなく、クリスタル』の影響を受けていることが明かされた。その後小林が自虐史観批判に傾倒するようになると批判対象となるが、2004年頃から反小泉である点では一致するようになる。
猪瀬直樹
『ミカドの肖像』出版当時に批判を行い、小泉内閣の行革断行評議会や道路関係四公団民営化推進委員会委員、石原都政の東京都副知事を歴任していることからその後も批判の対象となる。
宅八郎
『噂の眞相』時代に、宅が田中から批判を受けたことを恨んでストーキング行為を行い、当時の田中の愛車のランチアや自宅への破損行為を行い、近所の住人から通報を受けて逮捕された。

[編集] 脚注

[ヘルプ]
  1. ^ 田中知事、松本歯科大客員教授に/長野県IDN 歯科関連ニュース。
  2. ^ 田中康夫の東京ペログリ日記リターンズ 2007年9月3日の記述参照(以下日付のみの際は同日記から)
  3. ^ 有名人が語る受験必勝法 一橋大法学部合格、新党日本代表・田中康夫氏:直撃インタビュー:社会特集:スポーツ報知 スポーツ報知
  4. ^ 『神戸震災日記』巻末 1996年、新潮社 ISBN 978-4103651031
  5. ^ 4月4日の記述
  6. ^ 7月11日の記述
  7. ^ 11月21日のキャプション参照
  8. ^ 連載 第38回「浅田彰と田中康夫の続・憂国呆談」番外編Webスペシャル 週刊ダイヤモンド 2005年11・12月号
  9. ^ 「新しいケインズ・正しいハイエク」こそ
  10. ^ 石原知事定例記者会見録 2004年8月13日
  11. ^ Yahoo!みんなの政治 田中康夫 議案コメント
  12. ^ 『日本を取り巻く無責任の体系』「続・憂国呆談」番外編Webスペシャル
  13. ^ 田中康夫、そのまんま東にエール…ビートたけしは沈黙
  14. ^ いつまで続く「究極の選択」
  15. ^ “[新党日本公認で兵庫8区]”. 47NEWS (共同通信社). (2009年7月21日). http://www.47news.jp/CN/200907/CN2009072101001101.html 2009年7月23日 閲覧。 
  16. ^ “[[1]]”. 時事ドットコム (時事通信社). (2009年8月17日). http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2009081700328 2009年8月17日 閲覧。 
  17. ^ “[衆院選兵庫8区]”. 神戸新聞NEWS (神戸新聞). (2009年7月29日). http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0002175733.shtml 2009年9月10日 閲覧。 
  18. ^ 田中康夫氏ら、民主会派入り2009年9月14日読売新聞
  19. ^ 江藤淳 「三作を同時に推す」 『文藝』、1980年12月号、269ページ
  20. ^ 斎藤美奈子 『文壇アイドル論』 2002年、岩波書店、237ページ ISBN 978-4000246132
  21. ^ 佐藤清文 [2] 「まだ見ぬ田中康夫のために:Γεια σου.」 『文藝別冊 田中康夫』 2001年、河出書房新社
  22. ^ 『ハイライフ、ハイスタイル』、213─215頁
  23. ^ 『ファディッシュ考現学2』、97-98ページ
  24. ^ 村上「壁と卵」春樹とは
  25. ^ 村上春樹 『「そうだ、村上さんに聞いてみよう」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける282の大疑問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか?』、朝日新聞社、162ページ ISBN 978-4022721372
  26. ^ 「Linux的な生き方とは」田中康夫知事が講演 nikkei BPnet
  27. ^ 2008年1月13日の記述
  28. ^ 『日本紳士録』交詢社
  29. ^ 田中康夫知事定例会見 2003年11月21日(長野県)

[編集] 外部リンク


官職
先代:
吉村午良
長野県知事
第15・16代:2000年 - 2006年
次代:
村井仁
党職
先代:
結成
新党日本代表
初代 : 2005年 -
次代:
現職

最終更新 2009年11月16日 (月) 08:48 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【田中康夫】変更履歴

ご利用上の注意