田原成貴

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田原成貴
ファイトガリバーに騎乗
(1996年4月7日・第56回桜花賞 阪神競馬場
基本情報
国籍 日本
出身地 島根県鹿足郡柿木村
生年月日 1959年1月15日(50歳)
身長 169cm(騎手引退時)
体重 51kg(騎手引退時)
騎手情報
初免許年 1978年
免許区分 平地競走障害競走
騎手引退日 1999年
重賞勝利 65勝
G1級勝利 15勝
通算勝利 8648戦1112勝
調教師情報
初免許年 1999年
調教師引退日 2001年
重賞勝利 1勝
経歴
所属 栗東トレーニングセンター
  
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田原 成貴(たばら せいき、1959年1月15日 - )は日本中央競馬会に所属した騎手調教師である。島根県鹿足郡柿木村(現在の吉賀町)出身。卓越した騎乗技術と端正な容姿で、騎手時代には「天才」、「競馬界の玉三郎」と呼ばれた。GI級競走15勝。1983-1984年中央競馬全国リーディングジョッキー。騎手業の傍らで漫画原作者としても著名であった。

目次

[編集] 経歴

[編集] 少年期

1959年、島根県柿木村に生まれる。実家は競馬とは関わりのない家庭であったが、1973年の東京優駿(日本ダービー)において、当時国民的なアイドルホースであったハイセイコーを、嶋田功騎乗のタケホープが破ったことに強い感銘を受け、騎手を志した[1]。田原は嶋田のガッツポーズを見て「日本一強い馬を、あの人がやっつけた」と感じたといい、もしタケホープに乗っていたのがもっと地味な騎手であったら、騎手を志していないか、自身も地味な騎手になっただろうと回想している[2]

中学校在学中に日本中央競馬会馬事公苑騎手養成長期課程を受験し合格。卒業後、第25期生として入所した。自身の回想に依れば、馬事公苑、競馬学校の全卒業生の中で「脱走の回数や素早さにかけては間違いなく一番」であり、しばしば苑を抜け出しては、バーで飲酒していたという[3]

2年次に入り、研修生として滋賀県栗東トレーニングセンター谷八郎厩舎に入門。当時「必殺仕事人」と称された田島良保の弟弟子となり、騎乗技術の習得に勤しんだ[注 1]。騎手課程修了後の1977年に騎手免許試験を受験するも落第、翌1978年の受験で改めて合格し、谷厩舎所属騎手としてデビューを迎える。馬事公苑入所時には身長155cm[4]であったが、この頃には168cmに伸びており、武邦彦(172cm)に次ぐ長身騎手であった。

[編集] 騎手時代

同年3月4日阪神競馬第3競走でデビュー。厩舎所属馬のテンシンニシキで初騎乗・初勝利を挙げた。同年10月、リョクシュに騎乗してタマツバキ記念を制し、重賞初勝利。当年28勝を挙げ、関西放送記者クラブ賞(関西新人賞)を受賞した。翌1979年には64勝を挙げ、デビュー2年目にして関西リーディングジョッキーを獲得[注 2]。当年3月に「天才」と呼ばれていた福永洋一が落馬事故で騎手生命を絶たれ、田原は福永に代わる新たな「天才騎手」として注目を集めた[4]。以後、1980年代前半は、同じく関西所属の河内洋と毎年のリーディング争いを演じ、「河内洋が東を向けば、田原成貴は西を向く」と言われるライバル関係となった[5]。1983年12月、リードホーユー有馬記念に優勝し、八大競走初制覇を果たす。同馬の主戦騎手は河内が務めており、その落馬負傷の代役として臨んでの勝利であった。また、当年の2回中京開催では20勝を挙げ、一開催の最多勝利記録(当時)を更新。年間では104勝を挙げ、2位の河内を抑えて初の全国リーディングジョッキーを獲得した。

翌1984年は、グレード制導入後最初のGI競走となった桜花賞ダイアナソロンで優勝。年間勝利数も101を数え、2年連続の全国リーディングジョッキーとなった。しかしシーズン中に2度落馬して右肩を痛め、翌年は騎乗数の制限を余儀なくされた[6]

[編集] 二度の落馬負傷

マックスビューティと田原
(1987年10月25日・ローズステークス)

1986年は怪我の快復を得て、年頭からリーディング争いの上位に付けた。しかし6月21日、中京競馬第2競走のレース中、騎乗馬ワイエムヤマドリが故障を発生して転倒。馬場に投げ出された田原は後続馬に腹部を蹴られ、左腎臓および脾臓損傷という重傷を負った[7]。左腎臓は摘出され、当初、全治には半年から1年を要するとされた[8]。しかし田原は9月に復帰し、1日1鞍という制限を掛けて騎乗を再開[9]。年末にはスポーツ紙に「全快宣言」を出して騎乗制限も止め[10]、翌1987年からは再び通常通りの騎乗を始める。この年、マックスビューティと共に桜花賞、優駿牝馬(オークス)に優勝し、復活を印象付けた。

1989年にはコガネタイフウ阪神3歳ステークスを制し、GI級競走7勝目を挙げる。しかし翌1990年3月、そのコガネタイフウを駆ってのペガサスステークス競走中、進出してきたニホンピロエイブルに馬が脚を掠われ、転倒落馬[注 3]。第2・3腰椎および骨盤を骨折した。およそ1ヶ月後に復帰したものの、騎座に重要な腰の怪我でもあり、以後田原は引退まで騎乗数を制限するようになった。後に「数多く勝つことよりも、馬乗りとしての自分を磨こうと考えるようになった」と語っている[11]

[編集] 1990年代 - 引退

1993年12月、田原はトウカイテイオーで有馬記念に優勝。同馬は前年の有馬記念でも田原が騎乗していたが11着と大敗、その後の休養から363日振りのレースでの勝利となり、田原がインタビューや口取り撮影で感極まり、涙を流す様子が話題となった。「大した馬だな、ちょっとでも勝利を疑って悪かったな」という思いから涙が出たと回想しており[12]、トウカイテイオーが自身が騎乗した内の最強馬であるとしている[13]ファイル:Brian and topgun.jpg 翌1994年9月には史上11人目となる通算1000勝を達成する。翌1995年以降、田原はマヤノトップガンフラワーパークワンダーパヒュームファイトガリバーに騎乗して次々とGI競走を制し、騎手生活晩年の3年間で8つのGIタイトルを獲得した。田原は当初1996年限りの引退を考えていたが、「自分に花を与えてくれた」マヤノトップガンとフラワーパークが1997年以降も現役を続行したため、これに合わせて引退を1年先延ばしにしていた[14]

1998年2月21日、2回京都競馬第9競走でメガラに騎乗し、2着。これを最後に騎手生活から退いた。翌22日、マックスビューティ、マヤノトップガンを所有する田所祐勝負服を着用し、同じく調教師を引退する師匠・谷八郎らと共に引退式に出席した。通算8648戦1112勝、重賞65勝。通算1000勝以上で30代の内に引退した騎手は、田原が初めての例であった。

[編集] 騎手引退以後

[編集] 調教師時代

1999年、栗東トレーニングセンターに自身の厩舎を開業。厩舎の「チームカラー」を黒で統一し、「黒の軍団チーム田原」という愛称を付けて活動。厩舎で使用する軽トラックのニックネームを公募したり、「サテライト」と称する公式ファンクラブの結成、オリジナルグッズ販売など、ユニークな運営で注目された。

開業当初は「フサイチ」の冠名を使用する有力馬主・関口房朗の支援を受け、翌2000年フサイチゼノン弥生賞を制し重賞初制覇した。しかし皐月賞へ向けての馬の状態を巡り関口と対立。同競走の回避を独断で行なったことに関口が激怒し、同馬は森秀行厩舎へ移籍。他の関口所有馬も全て他厩舎へ転厩した。2001年7月には管理馬の耳に小型発信装置を取り付けて調教を行っていたことが発覚。過怠金50万円を課せられた。

この後、本項には「以前は中央競馬の騎手として1000勝以上の勝利を挙げると調教師試験の一次試験を免除となるシステムがあり、田原もその制度を利用して調教師免許を取得したが、上記の田原の奇怪な行動などにより『時代の変化により、騎手としての実績のある者が必ずしも調教師として適切な資質があるとは限らなくなった』との理由で調教師一次試験免除のシステムが2003年の試験をもって廃止されるきっかけとなった」という記述があった。田原は雑誌『競馬最強の法則2009年9月号でこの記述を取り上げ、「自分が事件を起こす前からこのシステムの廃止は決定していた。訂正しておいてほしい」という旨の発言をしている。

[編集] 逮捕・調教師免許剥奪

2001年10月8日、アメリカ同時多発テロ事件直後で厳戒な警備体制の敷かれる中、羽田空港で機内にナイフを持ち込もうとして身柄を拘束される。手荷物検査でナイフの所持が発覚したため、銃刀法違反の現行犯で逮捕された。その後の身体検査で覚醒剤を所持していることも発覚し、覚醒剤取締法違反で再逮捕される。

これに対して、JRA裁定委員会は田原の調教師免許剥奪を審議。12月21日に田原に対する聴聞(弁明)機会を設けたが、田原は聴聞に現れず、同日付で調教師免許を剥奪が決定した[15]。6日後の12月27日、東京地裁で懲役2年・執行猶予3年の判決を受け、控訴上告ともに無く刑が確定。これを受けた2002年1月18日、JRA裁定委員会は、2017年1月18日まで15年間の競馬への関与を停止(トレーニングセンターなどへの立入禁止など)する処分を発表した[16]

その後、2002年5月に自身の覚醒剤の経験を記した『いかれポンチ』を出版。一方で有料制の競馬予想ホームページを開設し、また雑誌『競馬最強の法則』でコラムを連載し、予想家・評論家として活動を続けていた。

しかし、2009年10月14日、覚せい剤取締法及び大麻取締法違反容疑により京都府警に再び逮捕された[17]

[編集] 人物

[編集] 騎手としての特徴・評価

田原は自らの騎手としての特徴を「良く言えば感覚、悪く言えば狂気の部分」とする[18]。一方で理論家としても知られ、「騎乗理論を説明した上で、優れた騎手というのはこうだ、岡部幸雄さんはこうだ、武豊はこれがこうできるから優れているということは言える」と語り[19]、一般ファンが目にするインタビューやエッセイにおいて、しばしば騎乗の要点を解説していた。しかし福永洋一だけは「説明できないレベルの物をひとつ持っていた」と評し[19]、福永の後継者として「天才」とされたことに対して「俺は天才なんかじゃない」と、自らの異名を否定している[4]。一方で、福永と親しかった杉本清は意外性のある騎手と評し、「福永洋一ほど極端ではないが、タイプとしては洋一タイプと言えるだろう」としている[20]。また、作家の高橋三千綱も「福永さんと田原さんは似ている」と評した[19]。師匠の谷は、田原の具体的な長所として「敏感なところ。馬の性質を細やかに察知し、自分のものにして乗っていた」部分としている[21]

兄弟子の田島良保は、田原の全盛期を最初の落馬直前の時期と捉えており、この頃の騎乗を評して「何よりも気迫がずば抜けていた。さらに若さもあったし、思い切りが良く、読みも冴えていた。弾けるようなレースというのか、同じ騎手として嫉妬を感じるところもありましたね」と述べ[22]、「20代後半の頃の成貴のような迫力のある騎手は、もう出ないんじゃないですか」と絶賛している[11]。また、同時期に競馬学校を卒業した武豊は、兄弟子の河内洋と田原を最も参考にしたといい、「僕にとってのアイドルだった」と回想している[23]

[編集] 文筆・音楽活動

田原は騎手以外にも、様々な分野に活動の場を広げていた。特に執筆活動が顕著であり、1993年から土田世紀執筆による漫画作品『ありゃ馬こりゃ馬』の原作を担当。単行本全17巻で累計200万部を売り上げた。最初に執筆活動を勧めたのは漫画原作者の武論尊であったという[24]。漫画原作では他に本宮ひろ志との共作による『勝算』など計5作品があり、能田茂と共作した『法の庭』は2007年にフジテレビで2時間ドラマ化された。また、1996年に出版したエッセイ・対談集『競馬場の風来坊』は、紀伊国屋書店集計のノンフィクション部門で2週連続の1位を獲得。刊行数100万部を越えるヒット作となった。 一方で音楽の分野ではシングルとアルバムを1枚ずつ発売したが、こちらではヒットとはならなかった。

[編集] 騎手生活中の騒動

騎手として華々しい活躍をする一方、その騎乗・発言を巡って様々な騒動を引き起こした。以下、騎手生活中にあった主なものについて、概要を記述する。それぞれの詳細はリンク先を参照のこと。

サルノキングと田原
(1981年10月18日・京都3歳ステークス)
サルノキング事件
1982年のスプリングステークスサルノキングに騎乗した際、極端な後方待機策から敗戦、優勝したハギノカムイオーとサルノキングが同馬主であったため八百長疑惑を掛けられた事件。サルノキングは競走中に骨折もしていた。田原自身は「馬の力を出し切る競馬」と一貫して疑惑を完全否定しており[25]、日本中央競馬会の公式見解としても「敗因は骨折」とされている[26]
ステートジャガー事件
1985年の宝塚記念競走後、田原の騎乗馬ステートジャガーから禁止薬物のカフェインが検出された事件。これは田原が引き起こしたものではないが、警察から事情聴取を受けた。この件は田原など関係者への嫌疑は晴れたものの、犯人が判明しないまま捜査が打ち切られている[22]
マックスビューティからの降板
1988年、二冠牝馬マックスビューティの不振を受け、田原が同馬から降板させられた問題。以後、田原は同馬を管理した伊藤雄二厩舎の馬には引退まで一切騎乗せず、「田原と伊藤は犬猿の仲」とも言われた[27]。しかし田原によれば伊藤との私的な親交は変わらず続いており、伊藤厩舎の馬に騎乗しなかった理由は「一度自分を張ってぶつかっておきながら、騎乗馬を得るために態度を豹変させるのは、自分を曲げることになると思っていたからだ」と述べている[27]
サンエイサンキュー事件
1992年のエリザベス女王杯競走前、田原が自身の騎乗馬サンエイサンキューの状態を危惧した発言を曲解され、サンケイスポーツと対立した事件。この件に関しては田原の発言よりもサンケイスポーツ側の取材姿勢が非難の対象となり、同社の記者であった片山良三が自社批判を行い解雇、これに反発したレース部記者数名が一斉退職するなど、フジサンケイグループ全体を巻き込んだ騒動となった。
渦中の馬となったサンエイサンキューは同年の有馬記念で骨折、治療が試みられたが最終的に死亡した。田原は「私の発言よりも、調子の落ちている馬に過酷なローテーションを強いたことにスポットを当てて欲しかった」とサンケイスポーツを批判し[28]、また一部ライターや評論家に対して「無理なローテーションで走らされてるときは何も言えないで、亡くなったらいきなり、愛するサンキューちゃんだの、ガンバリ屋のサンキューだの、あんたらにそんな事言って欲しくないって、きっとサンキューも言ってるよ」と批判した[29]
スポーツニッポン記者殴打事件
田原が調教師免許試験に合格した際に記者会見を拒否し、その顛末を報じたスポーツニッポンの記事内容に田原が怒り、執筆した橋本全弘を検量室内において鞭で殴打したとされる事件。橋本によれば、調教助手を通じて田原に検量室へ呼び出された上で、突如鞭で打たれ[30]、直後に「勝手に検量室に入ってこられちゃ困るよな」と言い放たれたという[31]。橋本は顔面打撲、前歯損傷の怪我を負った。
JRAを介した事後の協議の場で、田原は「鞭を試し振りしていたら当たった」として故意の殴打を否定、検量室に呼び出した事実もないと主張した[32]。橋本からの「偶然だったのであれば、謝罪や安否を確認するよりも先に『勝手に-』との言葉を口にしたのはなぜか」との質問には、「自分が未熟なもので気付かなかった」と答えた[32]。協議の結果、田原と橋本は形式的には和解し、故意ではなかったという結論で事態は収束を見るも、田原から橋本への正式な謝罪はなかった[33]。この一件で田原の栗東トレーニングセンター内での心証は極めて悪くなったとされ、調教師達からは「あんな男と一緒にされてはかなわない。もう辞めさせてしまえ」という声が相当数上がったという[34]日経新聞記者の野元賢一は、後に発信機装着の問題が取り沙汰された際に、この件を不問に付したJRAの対応が「ボタンの掛け違えだった」との見解を示した[35]

[編集] 騎手成績

[編集] 年度別成績

1着 2着 3着 4着以下 騎乗数 勝率 連対率 備考
1978年 28 23 15 184 250 .112 .205 関西放送記者クラブ賞(最多勝利新人騎手)
1979年 63 51 41 289 444 .142 .257 関西1位、全国2位
1980年 52 41 48 301 442 .118 .210 通算100勝
1981年 58 50 53 283 444 .131 .243
1982年 87 44 57 338 526 .165 .249 関西1位、全国2位
1983年 104 102 72 405 638 .152 .302 全国1位
1984年 100 68 71 331 570 .175 .295 全国1位
1985年 47 30 31 201 309 .152 .249 通算500勝(1月15日)
1986年 51 38 34 161 284 .180 .313
1987年 58 51 42 227 378 .154 .288
1988年 60 57 46 315 478 .126 .245
1989年 66 58 53 343 520 .127 .238
1990年 38 43 48 287 416 .091 .195
1991年 33 25 32 272 362 .091 .160
1992年 48 41 42 305 436 .110 .204
1993年 61 63 51 366 541 .113 .229
1994年 62 54 55 393 564 .110 .206 通算1000勝(9月11日)
1995年 47 52 40 314 453 .104 .219
1996年 40 34 22 292 388 .103 .191
1997年 8 10 9 123 150 .053 .120
1998年 1 1 0 8 10 .100 .200
1112 936 862 5,738 8,648 .129 .237

[編集] 主な騎乗馬

※括弧内は田原騎乗時の優勝重賞競走。

GI級競走優勝馬
その他重賞競走優勝馬

[編集] 調教師成績

[編集] 主な管理馬

[編集] 著作

[編集] 文筆

エッセイ・評論
  • 『競馬場の風来坊 - 騎手・田原成貴の爆弾エッセイ』(マガジンマガジン、1996年)
  • 『馬上の風に吹かれて - 競馬場の風来坊2』(マガジンマガジン、1997年)
  • 『いつも土壇場だった覚悟』(講談社、1998年)
  • 『 田原成貴七三〇〇日のラスト・メッセージ』(ブックマン社、1999年)
  • 『黒の軍団チーム田原 旅立ちの章』(ブックマン社、1999年)
  • 『黒の軍団チーム田原 - 2000年春 飛翔』(ブックマン社、2000年)
  • 『旅の途中』(ブックマン社、2001年)
  • 『いかれポンチ』(ブックマン社、2002年)
  • 『騎手の心理、勝負の一瞬』(ブックマン社、2005年)
  • 『八百長』(KKベストセラーズ、2008年)
漫画原作

[編集] 音楽

  • 『自由にさせてほしいのさ』(B面:ひとりぼっちのセンチメンタル)(1984年)
  • 『The Rocks』(1996年)

[編集] テレビ出演

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ 田原は田島を「仮想敵に据えた」としている(田原、1998 p.61)。
  2. ^ 全国順位では2位。リーディングの郷原洋行とは1勝差であった。
  3. ^ ニホンピロエイブルは7位に入線したが失格、騎手の松永幹夫は騎乗停止処分となった。
  1. ^ 田原(1998)pp.35-36
  2. ^ 田原(1998)pp.36-37
  3. ^ 田原(1998)pp.58-59
  4. ^ 『Sports Graphic Number PLUS』p.64
  5. ^ 田原(1998)p.93
  6. ^ 田原(1998)pp.116-117
  7. ^ 田原(1998)pp.120-121
  8. ^ 田原(1998)p.122
  9. ^ 田原(1998)p.127
  10. ^ 田原(1998)p.129
  11. ^ 『Sports Graphic Number PLUS』p.69
  12. ^ 田原(1998)p.161
  13. ^ 『Sports Graphic Number PLUS』p.22
  14. ^ 田原(1998)pp.197-198
  15. ^ 『優駿』2002年2月号 p.108
  16. ^ 『優駿』2002年3月号 p.115
  17. ^ “[JRA元騎手覚せい剤と大麻で]”. 京都新聞. (2009-10-22). http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2009102200019&genre=C1&area=K00 2009-10-22 閲覧。 
  18. ^ 『優駿』1994年3月号 p.12
  19. ^ 『優駿』1994年4月号 p.48
  20. ^ 杉本(1997)p.217
  21. ^ 『Sports Graphic Number PLUS』p.66
  22. ^ 『Sports Graphic Number PLUS』p.68
  23. ^ 『Sports Graphic Number PLUS』p.52
  24. ^ 田原(1998)p.163
  25. ^ 田原(1998)p.110
  26. ^ 田原(1998)p.112
  27. ^ 田原(1998)p.133
  28. ^ 田原(1998)p.147
  29. ^ 田原(1996)p.81
  30. ^ 『プーサン』第11号 p.11
  31. ^ 『プーサン』第11号 p.5
  32. ^ 『プーサン』第11号 p.15
  33. ^ 『プーサン』第11号 p.17
  34. ^ 『プーサン』第11号 pp.23-24
  35. ^ [[1]]. サラブnet. (2001-9-25). http://www.nikkei.co.jp/keiba/column/20010925e04i0003h23.html 2009-10-25 閲覧。 

[編集] 参考文献

  • 田原成貴『競馬場の風来坊 - 騎手・田原成貴の爆弾エッセイ』(マガジンマガジン、1996年)
  • 田原成貴『いつも土壇場だった覚悟』(講談社、1998年)
  • 杉本清『あなたのそして私の夢が走っています(文庫版)』(双葉社、1997年)
  • 『プーサン』第11号(大村書店、1998年)
  • 『Sports Graphic Number PLUS』(文藝春秋、1999年)
  • 『優駿』1994年3月号(日本中央競馬会、1994年)
  • 『優駿』1994年4月号(日本中央競馬会、1994年)
  • 『優駿』2002年2月号(日本中央競馬会、2002年)
  • 『優駿』2002年3月号(日本中央競馬会、2002年)

[編集] 外部リンク

先代:
河内洋
山田泰誠
南井克巳
有馬記念優勝騎手
1983年
1993年
1995年
次代:
岡部幸雄
南井克巳
横山典弘

最終更新 2009年11月21日 (土) 10:40 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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