田園都市
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田園都市(でんえんとし Garden City)とは、1898年にイギリスのエベネザー・ハワード(Ebenezer Howard, 1850年 - 1928年)が提唱した新しい都市の形態。自然との共生、都市の自律性を提示したもの。その理想に基づき実際にレッチワースとウェルウィンの都市開発が行われた。1920年代のドイツの集合住宅(ジードルンク)や日本の郊外型の都市開発、第2次世界大戦後のイギリスのニュータウン政策などにも大きな影響を与えた。
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[編集] ハワードと田園都市
重工業が発展するロンドンには人口が集中し、環境悪化と貧困の拡大を招いていた。これを憂いたハワードは、アメリカ・シカゴのガーデンシティー構想から刺激を受け、「都市と農村の結婚」を目指して1898年に「明日-真の改革にいたる平和な道(To-morrow;A Peaceful Path to Real Reform)」を出版した(1902年にわずかに改訂され「明日の田園都市(Garden City of To-morrow)」と改題)。
これは人口3~5万程度の限定された規模の、自律した職住近接型の都市を郊外に建設しようとする構想である。そこでは住宅は公園や森に囲まれ、農作業などをするスペースもある。豊かな者や貧しい者、多様な家庭のための賃貸住宅がある。
この理論は余りにも夢想的だと批判された一方、多くの支持者も獲得し、1899年には田園都市協会が設立された。1903年にはハワードによってロンドン北郊のレッチワースにて田園都市が着工された[1]。この事例では田園都市を運営する土地会社が住民たちに土地の賃貸を行い、土地会社の資金を元手に住民たち自身が公共施設の整備などをすすめた。第1次世界大戦後の1920年には2つ目の田園都市ウェルウィンが造られた。
ハワードはその後ドイツで建築家ヘルマン・ムテジウスやブルーノ・タウトらと接触した。田園都市構想の影響によってヴァイマル共和国時代にドイツ各地で住宅開発計画が進められた。(ジードルンク参照)
ハワードの思想における5つの原則[要出典]
- 職住近接
- 適正規模(市街地:農地=1:5)
- 恒久的農業地帯の存在
- 土地所有の一元化
- 自立した都市経営
[編集] ハワード以後の田園都市
ハワードは1928年没するが、レッチワースなどの成功はイギリス政府を刺激し、第2次世界大戦後の1946年にニュータウン法が制定され、政府の手で30以上のニュータウン・コミュニティが建設された。彼の著作及びレッチワースをモデルとした都市計画が、著作出版から10年以内に北米・ヨーロッパ・ロシア・日本など世界各地に出現したとされる。21世紀の今日でもニュータウン建設や郊外住宅建設にあたってはハワードの理論が引用されることが多いが、実際に建設された郊外都市の多くは田園都市の美名の下、いわゆるベッドタウンであり、理論どおり職住近接の自立した都市や、住民によるコミュニティが実現する例は多くない。
アメリカ合衆国の都市計画家であるジェイン・ジェイコブズは、ハワードの「田園都市論」を批判している。ハワードの街の思想は動線等について非常に合理的な考え方がみられること、街並みを美しくするため規則正しく設計する手法、これらを規則に則って生活を強いているとして、街はもっと様々なことがミックスされることが必要である、と唱えている。
[編集] 日本への影響
1907年(明治40年)に内務省地方局有志により『田園都市』が刊行され、ハワードの理念が紹介されたが、この著作では日本の郊外に残る農村風景を加味した都市の形成を視野に入れており、ハワードの理論とは多少異なること、そのため本来英国にはない田んぼの園「田園」をガーデンシティの略語として充てていることがしばしば指摘されている[誰?]。
小林一三が経営する阪急電鉄は1911年に桜井駅(箕面市)、1930年代には千里山(吹田市)、大美野田園都市(堺市)、初芝(堺市)など、沿線周辺の宅地分譲を行い、噴水やロータリーを設けた「田園都市」を相次いで開発した。また東京では渋沢栄一らが田園都市株式会社を設立し、1918年以降に洗足や田園調布を分譲開発した。
ただ、これらはすべて開発当初から都心部に勤めるサラリーマン向けの住まいであった[要出典]。
[編集] 日本国内の田園都市
[編集] 注
- ^ 服部岑生『世界の住まいと暮らし』放送大学教育振興会、1999年、124-125ページ
[編集] 関連項目
最終更新 2009年8月16日 (日) 22:38 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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