白坂依志夫

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白坂 依志夫(しらさか よしお、1932年9月1日 - )は、日本脚本家。本名は八住 利義(やすみ としよし)。父はロシア文学者から脚本家に転じ、映画脚本界の大御所として知られた八住利雄。女優の中川弘子は元妻。市川市水木洋子シナリオ賞・選考委員長。

母方の叔父に山本夏彦がいる。

[編集] 略歴

東京都出身。中学生時代から、多作で知られた父のラジオドラマの脚本などを代作。成城学園高等学校卒業。早稲田大学文学部在学中は、左幸子新東宝の若手俳優と劇団を結成し演劇活動に熱中するが、やがてアルバイトで脚本を書き始める。

1953年に大学を中退。1955年大映多摩川撮影所に脚本家として入社する。ペンネームは、デビュー当時の阪神タイガースの二遊間コンビ、白坂長栄吉田義男に由来する(但し、当人は特にタイガース・ファンという訳ではなかった)。

高校時代から交流があった三島由紀夫作品を原作とした『永すぎた春』(1957年、監督田中重雄)で注目され、各社と契約。『巨人と玩具』(1958年、大映、監督増村保造)、自らも出演した『野獣死すべし』(1959年、東宝、監督須川栄三)、『われらの時代』(1959年、日活、監督蔵原惟繕)と映画会社をまたにかけて、若々しい感性の作品をたてつづけに執筆し、日本映画界の若き才能として活躍する。また、1958年にはテレビドラマにおいて、テレビの勃興を脅威に感じる映画界の人々を描く異色作『マンモスタワー[1]の脚本を執筆し、芸術祭奨励賞を受賞した[2]

同世代の若き文化人たち、大江健三郎石原慎太郎寺山修司谷川俊太郎武満徹和田誠伊丹十三らと盛んに交流した。

また、増村保造とは名コンビとして、1978年の『曽根崎心中』まで、多くの作品を作り続けた。大映倒産後には、増村映画のプロデューサーであった藤井浩明、増村とともに独立プロ「行動社」を起こしている。

私生活ではプレイボーイとしても知られ、女優たちとの赤裸々な交際などを含む回顧エッセイを雑誌『シナリオ』に「白坂依志夫の人間万華鏡」として連載した。

門下生に石松愛弘、桂千穂がいる。

[編集] 参考資料

  • シナリオ2008年6月号別冊『脚本家白坂依志夫の世界 書いた!跳んだ!遊んだ!』

[編集] 脚注

  1. ^ この題名は、同年に完成した東京タワーを指す。
  2. ^ 樋口尚文『「月光仮面」を創った男たち』平凡社新書

最終更新 2009年8月18日 (火) 11:41 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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