盧溝橋事件

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盧溝橋事件

盧溝橋の国民革命軍部隊
戦争日中戦争 / 支那事変
年月日1937年(昭和12年)7月7日
場所盧溝橋とその近郊
結果:日本軍の勝利
交戦勢力
支那駐屯軍 国民革命軍第二十九軍
指揮官
田代皖一郎中将 宋哲元第二十九軍軍長
戦力
兵員:5,600 兵員:100,000
損害
戦死:600余名 戦死:16,700
1937年(昭和12年)7月 支那駐屯軍配置図[1]
1937年(昭和12年)盧溝橋近郊戦闘経過要図[2]

盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)は、1937年(昭和12年)7月7日北京北平)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件である[3]。中国では一般的に七七事変と呼ばれる[4]。この事件は日中戦争支那事変)直接の導火線となった[5]

目次

[編集] 事件前の状況

[編集] コミンテルンの人民戦線と中国

1935年7月25日から開会された[6]第七回コミンテルン大会では西洋においてはドイツ、東洋においては日本を目標とすることが宣言され[7]、同時に世界的に人民戦線を結成するという決議を行い、特に中国においては抗日戦線が重要であると主張し始めた[8]。コミンテルン支部である中国共産党はこの方針に沿って翌8月には「抗日救国のために全国同胞に告げる書(八・一宣言)」を発表し、1936年6月頃までに、広範な階級層を含む抗日人民戦線を完成した[9]。さらに1936年12月に起きた西安事件におけるコミンテルンの判断も蒋介石を殺害するのではなく、人民戦線に引き込むことであった[10]。西安事件翌月の1937年1月6日に南京政府は国府令として共産軍討伐を役目としていた西北剿匪司令部の廃止を発表している[11]

[編集] 南京政府による中央集権化と反日の動き

1937年2月に開催された中国国民党三中全会の決定に基づき南京政府は国内統一の完成を積極的に進めていた[12]。地方軍閥に対しては山西省閻錫山には民衆を扇動して反閻錫山運動を起し[13]、金融問題によって反蒋介石側だった李宗仁白崇禧を中央に屈服させ[14]、四川大飢饉に対する援助と引換えに四川省政府首席劉湘は中央への服従を宣言し[15]宋哲元冀察政府には第二十九軍の国軍化要求や金融問題で圧力をかけていた[16]

一方、南京政府は1936年春頃から各重要地点に対日防備の軍事施設を用意し始めた[17]上海停戦協定で禁止された区域内にも軍事施設を建設し、保安隊の人数も所定の人数を超え、実態が軍隊となんら変るものでないことを抗議したが中国側からは誠実な回答が出されなかった[18]。また南京政府は山東省政府主席韓復榘に働きかけ[19]対日軍事施設を準備させ、日本の施設が多い山東地域に5個師を集中させていた[20]。このほかにも梅津・何応欽協定によって国民政府の中央軍と党部が河北から退去させられた後、国民政府は多数の中堅将校を国民革命軍第二十九軍に入り込ませて抗日の気運を徹底させることも行った[21]

[編集] 第二十九軍

日本軍と衝突した国民革命軍第二十九軍は1925年以来西北革命軍として馮玉祥の下で北伐に参加、1928年宋哲元陝西省主席就任にともなって陝西に入り、1930年蒋介石との戦いに敗北し、1932年宋哲元察哈爾省主席就任時に全軍は河北省に移動、さらに満州事変における抗日戦に敗れて以来、抗日運動に積極的な姿勢を示し、1936年6月中央軍撤退を機に河北省に進出して北京・天津を得て兵力十数万となっていたが兵の質が悪く、張北事件、豊台事件など多くの抗日事件を起こしている注意すべき軍隊であった[22]。盧溝橋事件までの僅かな期間だけでも邦人の不法取調べや監禁・暴行、軍用電話線切断事件、日本・中国連絡用飛行の阻止など50件以上の不法事件を起こしていた[23]

また、二十九軍はコミンテルン指導の下、中国共産党が完成させた抗日人民戦線の一翼を担い[24][25]、国民政府からの中堅将校以外にも中国共産党員が活動していた[26]。副参謀長張克侠[27]をはじめ参謀処の肖明、情報処長靖任秋、軍訓団大隊長馮洪国、朱大鵬、尹心田、周茂蘭、過家芳らの中国共産党員は第二十九軍の幹部であり、他にも張経武、朱則民、劉昭らは将校に対する工作を行い、張克侠の紹介により張友漁は南苑の参謀訓練班教官の立場で兵士の思想教育を行っていた[26]

[編集] 日本軍

中国北部における日本の権益と北平・天津地方の在留邦人の生命財産を保護する任務を負った日本軍北支那駐屯軍は[28]天津に主力を、さらに北平城内と北平の西南にある豊台に一部隊ずつをおいていたが、この時期に全軍に対して予定されていた戦闘演習検閲のため連日演習を続けていた[29]

日本陸軍が北支で作戦する場合、作戦計 画策定の基礎として、「昭和十二年度帝国陸軍作戦計画要領」が訓令により次のように示されていた。[30]

  • 一 帝国陸軍北支那方面ニ作戦スル場合ニ於ケル作戦要領ヲ概定スルコト左ノ如シ
    • 1 河北方面軍(支那駐屯軍司令官隷下部隊ノ外、関東軍司令官及朝鮮軍司令官ノ北支那方面ニ派遣スル部隊竝内地ヨリ派遣セラルル部隊ヲ含ム)ハ主カヲ以テ平漢鉄道ニ沿フ地区ニ作戦シ南部河北省方面ノ敵ヲ撃破シテ黄河以北ノ諸要地ヲ占領ス 此際必要ニ応シ一部ヲ以テ津浦鉄道方面ヨリ山東方面作戦軍ノ作戦ヲ容易ナラシメ又情況ニ依リ山西及東部綏遠省方面ニ作戦ヲ進ムルコトアリ
    • 2 山東方面作戦軍ハ青島及其他ノ地点ニ上陸シテ敵ヲ撃破シ山東省ノ諸要地ヲ占領ス
  • 二 帝国陸軍北支那ニ作戦スル場合ニ於ケル支那駐屯軍司令官ノ任務左ノ如シ作戦初頭概ネ固有隷下部隊ヲ以テ天津及北平、張家口為シ得レハ済南等ノ諸要地ヲ確保シ北支那方面ニ於ケル帝国陸軍初期ノ作戦ヲ容易ナラシム爾後ニ於ケル任務ハ臨機之ヲ定ム
  • 三 右ノ場合ニ於ケル作戦初期ノ支那駐屯軍作戦地域ハ独石口以東満支国境以南ノ地域ニシテ山東方面作戦軍トノ境界ハ臨機之ヲ定ム

 事件発生前、蘆溝橋付近における中国軍の動静には不穏な動きが日増しに顕著になっていた。このもようを 「支那駐屯歩兵第一聯隊戦闘詳報」に、次のように記述している。[31]

事件発生前蘆溝橋附近ノ支那軍ハ其兵カヲ増加シ且其態度頓ニ不遜トナレリ 其変化ノ状況左ノ如シ

  • 一 兵力増加ノ状況
平素蘆溝橋附近ニハ城内ニ営本部ト一中隊ヲ 長辛店ニハ騎兵約一中隊ヲ駐屯セシメアリシカ本年五月中、下旬ニ至ル間ニ於テ城内兵カユハ変化ナキモ蘆溝橋城[宛平県城]外ニ歩兵約一中隊ヲ 蘆溝橋中ノ島ニ歩兵約二中隊ヲ夫々配置セリ 六月ニハ長辛店ニ新ニ歩兵第二一九団ノ約二大隊ヲ増加スルニ至レリ
  • 二 防禦工事増強ノ状況
長辛店北方高地ニハ従来高地脚側防ノ為ニ機関銃陣地ヲ永久的ニ2箇所構築シアリ 又高地上ニハ野砲陣地ヲ構築シアリシカ六月ニ入リテ新ニ散兵壕ヲ構築シ 蘆溝橋附近ニ於テハ龍王廟ヨリ鉄道線路附近ニ亙ル間ノ堤防上及其東方台地ノ既設散兵壕ヲモ政修増強シ而モ従来土砂ヲ以テ埋没秘匿シアリシ「トウチカ」(従来ヨリ北平方向ニ対シ進出掩護又ハ退却掩護ノ意図ヲ以テ蘆溝橋ヲ中心トシ十数個ヲ橋頭堡的ニ永定河左岸地区ニ構築シアリタリ)ヲ掘開ス(主トツテ夜間実施セリ)
  • 三 抗日意識及我ニ対スル不遜態度濃厚トナリ蘆溝橋城内通過ヲモ拒否ス蘆溝橋城内通過ニ関シテハ昨年豊台駐屯当初ニ於テハ我部隊ノ通過ヲ拒否スルコトアリシヲ以テ之ニ抗議シ通過ニ支障ナカラシメ特ニ豊台事件以後ニ於テハ支那軍ノ態度大 ニ緩和シ日本語ヲ解スル将校ヲ配置シ誤解ナカラシムルニ努メシ跡ヲ認メシモ最近ニ至リ再ヒ我軍ノ城内通過ヲ拒否シ其都度交渉スルノ煩瑣ヲ要シタリ
  • 四 演習実施ニスル抗議
蘆溝橋附近一帯ハ北寧線路用砂礫ヲ採取スル地区ニシテ荒蕪地ニ適スル落花生等ノ耕作物アルニ過キス 従テ夏季一般ニ高梁ノ繁茂スル時期ニ於テハ豊台駐屯部隊ニトリ此ノ地区ハ唯一ノ演習場ナリ 然ルニ最近ニ於テハ我演習実施ニ際シテモ支那軍ハ畑ヘノ侵入ヲ云々シ或ハ夜間演習ニ就テモ事前ノ通報ヲ要求スルカ如キ言ヲ弄シ或ハ夜間実弾射撃ヲ為ササルニ之ヲ実施セリト抗議シ来ル等逐次其警戒ノ度ヲ加ヘタリ
  • 五 行動区域ノ制限
従来龍王廟堤防及同所南方鉄道「ガード」ハ我行動自由ナリシカ最近殊ニヨリ之ヲ拒否シ我兵力少キ時ハ装填等ヲ為シ不遜ノ態度ヲ示スニ至レリ
  • 六 警戒配備ノ変更
六月下旬ヨリ龍王廟附近以南ノ既設陣地ニ配兵シ警戒ヲ厳ニス 殊ニ夜間ハ其兵カヲ増加セルモノノ如シ一文字山附近ニハ従来全然警戒兵ヲ配置シアラサリシカ夜間我軍ニテ演習ヲ実施セサル場合ニハ該地ニ兵カヲ配置シ黎明時之ヲ撤去セルヲ見ル 北平附近支那軍ノ状況ハ本年春夏ノ候ヨリ相当戦備ヲ進メアリタルヲ看取セラル 本年六月ニ至リ北平城各門ノ支那側守備兵増加セラレ且警備行軍ト称シ特ニ夜間ニ於テ北平市内及郊外ヲ行軍シアル部隊ヲシバシバ目撃セリ


一方、蘆溝橋付近日本軍の状態については、前述戦闘詳報に次のように記されている。[32]

駐屯軍ハ我行動ヲ慎重ニシ事端ヲ醸ササランコトニ努ムルト共ニ本然ノ任務達成ニ遺憾ナカラシムル為メ鋭意訓練ニ従事シ特ニ夜間ノ演練ニ勉メタリ 而シテ蘆溝橋附近ハ地形特ニ耕作物ノ関係上豊台部隊ノ為ニモ演習実施ニ恰適ノ地ナリ蘆溝橋附近ノ支那軍ノ増強ハ他ノ各種ノ徴候ヨリ判断シ彼等全般的関係乃至ハ南京側ノ指令ニ依ルモノト判断セラルルモ仮リニ我部隊ノ動静カ彼等ノ神経ヲ刺戟シタリト思惟セラルル事項ヲ挙クレハ左ノ如シ

  • 一 豊台駐屯隊ノ中期(五月乃至六月ニシテ其間中隊及大隊教練教練ヲ昼夜ヲ論セス実施セリ
  • ニ 豊台駐屯隊ニ対スル軍ノ随時検閲ヲ五月下旬該地ニ於テ実施セラレ軍幕僚ノ大部一文字山[俗称]ニ参集ス
  • 三 聯隊長ノ行フ豊台部隊ニ対スル中隊教練ノ検閲ヲ該地ニ於テ実施スル如ク計画セリ 随テ補助官ハ度々該地一帯ヲ踏査セリ
  • 四 旅団長、聯隊長ハ該地附近ニ於テ実施セル演習ヲ視察セリ
  • 五 本年六月及七月上旬ニ亙リ歩兵学校教官千田大佐ノ新歩兵操典草案普及ノ為ノ演習ヲ蘆溝橋城北方ニ於テ実施シ北平及豊台部隊ノ幹部多数之ニ参加セリ聯隊長ハ支那側全般的ノ動静力何ントナク険悪ヲ告ケ情勢逐次悪化シ抗日的策動濃厚トナリアルヲ看取シ部下一般ニ注意ヲ倍徒シ彼等ニ乗セラレサルト共ニ出動準備ヲ完整シ置クヘキヲ命シ特ニ豊台駐屯隊ニ対シテハ「トウチカ」発掘及工事増強ノ情況ニ就テ注意スヘキヲ命シタリ

[編集] 北平付近に展開されていた各国兵力

[編集] 中国国民党国民革命軍

第29軍兵力編成表[33]

司令:宋哲元、副司令:秦徳純、参謀長:張樾亭

部隊 司令官 配置 隷下部隊 兵員
第37師 師長:馮治安 西苑 第109、第110、第111、独立第25旅 約15,750名
第38師 師長:張自忠 南苑 第112、第113、第114、独立第26旅 約15,400名
第132師 師長:趙登禹 河間 第1、第2、独立第27旅 約15,000名
第143師 師長:劉汝明 張家口 第1、第2、独立第29旅、独立第20旅 約15,100名
独立39旅 旅長:阮玄武 北苑   約3,200名
独立40旅 旅長:劉汝明(兼務) 張家口   約3,400名
騎兵第9師 師長:鄭文章 南苑   約3,000名
独立騎兵第13旅 旅長:姚景川 宣化   約1,500名
特務旅 旅長:孫玉田 南苑   約4,000名
河北辺区保安隊 司令:石友三 黄寺   約2,000名

河北省、察哈爾省にある第二九軍以外の部隊(7月上旬)

第39師、第68師、第91師、第101師、第116師、第119師、

第130師、第139師、第141師、第142師、騎兵第2師

総兵力約153,000名

[編集] 日本陸軍

支那駐屯軍(総兵力約5,600名)[34]

天津部隊 司令官
軍司令部 軍司令官:田代皖一郎中将、参謀長:橋本群少将
支那駐屯歩兵第一聯隊第二大隊
同歩兵第二聯隊(第三中隊及び第三大隊欠) 長:萱嶋高大佐
同戦車隊 長:福田峯雄大佐
騎兵隊 長:野口欽一少佐
砲兵聯隊(第一大隊 山砲二中隊、第二大隊 十五榴二中隊) 長:鈴木率道大佐
工兵隊
通信隊
憲兵隊
軍病院
軍倉庫
北平部隊 司令官
支那駐屯歩兵旅団司令部 旅団長:河邉正三少将19期
同歩兵第一聯隊(第二大隊と一小隊欠) 長:牟田口廉也大佐22期
電信所
憲兵分隊
軍病院分院
分遣隊 注釈
通州 歩一の一小
豊台 歩一の第三大隊、歩兵砲隊
塘沽 歩二の第三中隊
唐山 歩二の第七中隊
欒州 歩二の第八中隊〈一小欠〉
昌黎 歩二の一小
秦皇島 歩二の一小
山海関 歩二の第三大隊本部、第九中隊〈一小欠〉

以上のほか、次のような陸軍機関(特務機関)等がいた。

配置  
北平陸軍機関 長:松井太久郎大佐22期、輔佐官:寺平忠輔大尉35期、第二九軍軍事顧問:中島弟四郎中佐24期、長井徳太郎少佐30期、笠井牟藏少佐
通州陸軍機関 細木繁中佐25期、甲斐厚少佐
太原陸軍機関 河野悅次郎中佐25期
天津陸軍機関 茂川秀和少佐30期
張家口陸軍機関 大本四郎少佐30期
済南陸軍機関 石野芳男中佐28期
青島陸軍機関 谷萩那華雄中佐29期
北平駐在武官輔佐官 今井武夫少佐30期
陸軍運輸部塘沽出張所

[編集] 列強兵力

 北支駐屯の外国軍隊は、英、米、仏、伊の四力国で、いずれも司令部を天津に置き、部隊を天津、北平に駐屯させ、さらに小部隊を塘沽、秦皇島、山海関に分屯させている国もあった。[35]

国名 注釈 兵員
英国 在香港支那駐屯軍司令官に属し、二年交代制である。天津772名、北平236名 1006名
米国 比島軍司令官の隷下にある天津の658名、本国海軍省に直属する北平の海兵隊508名、その他 1227名
仏国 在支全駐屯軍を指揮する在天津軍司令官の隷下に天津1375名、北平227名、その他 1823名
伊国 在上海極東艦隊司令官隷下の海兵隊が天津229名、北平99名 328名

[編集] 事件の概要

日本陸軍省の発表によれば[36]1937年7月7日夜日本軍支那駐屯軍所属の豊台駐屯部隊の一部が北平の西南約12kmにある蘆溝橋の北側で夜間演習を実施中、午後11時40分頃蘆溝橋の中国兵から突如数十発の射撃を受けたため同部隊はすぐに演習を中止して部隊を集結させて状況を監視すると共に上司に急報した。

事態を重視した日本軍北平部隊は森田中佐を派遣し、宛平県長王冷斉及び冀察外交委員会専員林耕雨等も中佐と同行した。これに先立って豊台部隊長は直ちに蘆溝橋の中国兵に対しその不法を難詰し、かつ同所の中国兵の撤退を要求したが、その交渉中の8日午前4時過ぎ、龍王廟付近及び永定河西側の長辛店付近の高地から集結中の日本軍に対し、迫撃砲及び小銃射撃を以って攻撃してきたため、日本軍も自衛上止むを得ずこれに応戦して龍王廟を占拠し、蘆溝橋の中国軍に対し武装解除を要求した。この戦闘において日本軍の損害は死傷者十数名、中国側の損害は死者20数名、負傷者は60名以上であった。

午前9時半には中国側の停戦要求により両軍は一旦停戦状態に入り、日本側は兵力を集結しつつ中国軍の行動を監視した。

北平の各城門は8日午後0時20分に閉鎖して内外の交通を遮断し、午後8時には戒厳令を施行し、憲兵司令が戒厳司令に任ぜられたが、市内には日本軍歩兵の一部が留まって、日本人居留民保護に努め比較的平静だった。

森田中佐は8日朝現地に到着して蘆溝橋に赴き交渉したが、外交委員会から日本側北平機関を通して両軍の現状復帰を主張して応じなかった。9日午前2時になると中国側は遂に午前5時を期して蘆溝橋に在る部隊を全部永定河右岸に撤退することを約束したが、午前6時になっても蘆溝橋付近の中国軍は撤退しないばかりか、逐次その兵力を増加して監視中の日本軍に対したびたび銃撃をおこなったため、日本軍は止むを得ずこれに応戦して中国側の銃撃を沈黙させた。

日本軍は中国側の協定不履行に対し厳重なる抗議を行ったので、中国側はやむを得ず9日午前7時旅長及び参謀を蘆溝橋に派遣し、中国軍部隊の撒退を更に督促させ、その結果中国側は午後0時10分、同地の部隊を1小隊を残して永定河右岸に撒退を完了した(残った1小隊は保安隊到著後交代させることになった)が、一方で永定河西岸に続々兵カを増加し、弾薬その他の軍需品を補充するなど、戦備を整えつつある状況であった。この日午後4時、日本軍参謀長は幕僚と共に交渉のため天津をたち北平に向った。

永定河対岸の中国兵からは10日早朝以来、時々蘆溝橋付近の日本軍監視部隊に射撃を加える等の不法行為があったが、同日の夕刻過ぎ、衙門口方面から南進した中国兵が9日午前2時の協定を無視して龍王廟を占拠し、引き続き蘆溝橋付近の日本軍を攻撃したため牟田口部隊長は逆襲に転じ、これに徹底的打撃を与え午後9時頃龍王廟を占領した。この戦闘において日本側は戦死6名、重軽傷10名を出した。

11日早朝、日本軍は龍王廟を退去し、主カは蘆溝橋東北方約2kmの五里店付近に集結したが、当時砲を有する七、八百の中国軍は八宝山及びその南方地区にあり、かつ長辛店及び蘆溝橋には兵力を増加し永定河西岸及び長辛店高地端には陣地を設備し、その兵力ははっきりしないものの逐次増加の模様であった。

一方日本軍駐屯軍参謀長は北平に於て冀察首脳部と折衝に努めたが、先方の態度が強硬であり打開の途なく交渉決裂やむなしの形勢に陥ったため、11日午後遂に北平を離れて飛行場に向った。同日、冀察側は日本側が官民ともに強固な決意のあることを察知すると急遽態度を翻し、午後8時、北平にとどまっていた交渉委員・松井特務機関長に対し、日本側の提議(中国側は責任者を処分し、将来再びこのような事件の惹起を防止する事、蘆溝橋及び龍王廟から兵力を撤去して保安隊を以って治安維持に充てる事及び抗日各種団体取締を行うなど)を受け入れ、二十九軍代表・張自忠、張允栄の名を以って署名の上日本側に手交した。

[編集] 事件の経緯

[編集] 7月7日

予定されていた戦闘演習検閲のため、この日も北平守備隊主力は北平の牟田口部隊長に率いられて北平の東にある通州において、豊台駐屯部隊の一部も豊台の西2Kmで盧溝橋の北側において夜間演習を行っていた[37]

  • 22時40分頃:盧溝橋付近に駐屯していた国民革命軍第二十九軍に属する第三十七師[38]第二百十九団の一部は盧溝橋の北およそ1Kmの龍王廟に陣を構えていたが夜間演習中の日本軍守備隊に対して数十発の不法射撃を行った[39]。演習中の日本軍守備隊隊長は隊員を集合させ人員検査を行い被害のないことを確認した上で敵の射撃に応戦する態勢を取らせ、豊台の駐屯部隊に急ぎ連絡した[39]。豊台の部隊長は部下と共に現地に赴き中国軍に無法な行為について詰問抗議すること、事件を知った牟田口部隊長は部隊で演習に参加しなかった者を北平東側に集合させ、森田中佐に冀察側外交委員会の代表を現場に同行させて謝罪、事実確認などの交渉を行わせることが決められた[39]

通州方面で演習を行っていた北平部隊は集結命令によって現地に急行しようとしたが、事件発生とともに通州街道につながる北平朝陽門は中国軍によって閉鎖され、部隊の移動が阻止された[40][41][42]。また中国軍は北平郊外南苑の日本・中国間の連絡飛行に使用する飛行場も占拠し[42]、豊台・天津間と豊台・北平間の日本軍用電話線[40][41][43][44]も切断され、北平・天津間の一般電話も不通となっていた[41]。このため、日本政府(第1次近衛内閣における閣議決定)や新聞報道では、事件が計画的に行われたことは明白との見解を示している[45][40][41][23]ニューヨーク・タイムズによれば、事件までの3ヶ月間にわたって緊張が高まっていたことから日中の衝突は驚きに値せず、前の週には北平警察は治安の混乱を起こそうとした300名の扇動者と便衣の共謀工作員を逮捕しており、また二十九軍に属する様々な部隊は不測の事態に備えてゆっくりと北平の周辺に集結していた[46]

[編集] 7月8日

<現地の動き>

  • 3時25分:竜王廟方面から3発の銃声あり。伝令に出た岩谷曹長らが、中国軍陣地に接近し過ぎて発砲を受けたと見られている。
  • 4時00分:日中合同調査団が北平を出発。メンバーは、日本側が森田徹中佐・赤藤庄次少佐・桜井徳太郎少佐・寺平忠輔補佐官、他に通訳2名・1個分隊の護衛兵、中国側は王冷斎宛平県長・林耕宇冀察政務委員、他1名。5時00分前後、うち桜井中佐、寺平補佐官らは宛平県城(盧溝橋城)内に入り、中国側と交渉を開始した。
  • 4時20分:一木大隊長が牟田口連隊長に電話にて再度の銃撃を報告。これを聞いた連隊長は戦闘開始を許可。大隊長はこれを受けて歩兵砲の砲撃を命令したが、連隊長の戦闘許可を知らない森田中佐の命令によって、砲撃はいったん中止された。

  支那駐屯歩兵第一聯隊戦闘詳報によると以下のとおり[47]

 聯隊長ハ午前四時稍過キ第三大隊長ヨリ電話ヲ以テ次ノ報告ニ接ス「午前三時二十五分 龍王廟方向ニテ三発ノ銃声ヲ聞ク 支那軍カ2回モ発砲スルハ純然タル対敵行為ナリト認ム 如何ニスヘキヤ」 茲ニ於テ聯隊長ハ熟考ノ後支那軍ニ2回迄モ射撃スルハ純然タル敵対行為ナリ 断乎戦闘ヲ開始シテ可ナリト命令セリ時正二午前四時二十分ナリ  此ニ於テ第三大隊長ハ支那軍攻撃ニ関スル決意ヲ堅メ一文字山ニ向フ途中 第二十九軍顧問タル櫻井〔徳太郎〕少佐〔30期〕ト西五里店〔蘆溝橋東方約1,800米〕西方本道東側畑地ニ於テ会見シ左ノ件ヲ知ル

  • 1 櫻井少佐カ馮治安[秦徳純の誤り]ト会見シ蘆溝橋不法射撃ヲ訊シタル処 馮曰ク「馮ノ部下ハ絶対ニ蘆溝橋城外ニ配兵セス 支那軍ニ非サルヘシ」ト
  • 2 城外ニ配兵セラレアリトセハ攻撃ハ随意ニシテ恐ラクハ馮ノ部下ニアラサルヘシ又馮ノ部下トスルモ城外ニアラハ断乎攻撃シテ可ナラン 馮ハ「城外ニ居ルトセハ其レハ 匪賊ナラント附言セリ」ト 右ハ全ク馮治安ノ欺弁ナリ即チ責任ヲ回避セントスル支那要人ノ常套手段ニシテ心事ノ陋劣唾棄スヘキモノアリ
  • 5時30分:第8中隊が国府軍部隊に向けて前進を開始。これに対し国府軍は激しい射撃を開始し、日本側もそれに応射。ついに全面衝突となった。
  • 約2時間後、現地での激戦は一旦収束。以降、15時30分頃に戦闘が再発するなど一時的な戦闘はあったものの、概ね小康状態にて推移。北平及び盧溝橋城内で、停戦に向けた交渉が行なわれる。

<日本の政府及び軍上層部の動き>

  • 早朝、事件の第一報を知らせる電報が陸軍中央に到着。以降中央では、これを機に中国に「一撃」を加えて事態の解決を図ろうとする拡大派、対ソ軍備を優先しようとする不拡大派のせめぎあいが続く。
  • 18時42分:参謀本部より支那派遣軍司令官宛、「事件の拡大を防止する為、更に進んで兵力の行使することを避くべし」と不拡大を指示する総長電が発せられる。これは参謀本部の実質的な責任者であった石原莞爾少将の主導によるものであった。

[編集] 7月9日

<現地の動き>

  • 2時00分頃:「とりあえず日本軍は永定河の東岸へ、中国軍は西岸」へ、との日本側の「兵力引き離し」提案を中国側が呑む形で、停戦協議が成立。撤退予定時刻は当初5時00分であったが、中国側内部の連絡の不備からその後も戦闘が散発し、最終的な撤退完了は12時20分頃までずれ込んだ。

<日本の政府及び軍上層部の動き>

  • 8時50分頃:臨時閣議。陸相より3個師団派遣等の提案が行なわれたが、米内海相などの反対により見送りとなった。
  • 夜:参謀本部より支那駐屯軍参謀長宛、「中国軍の盧溝橋付近からの撤退」「将来の保障」「直接責任者の処罰」「中国側の謝罪」を対支折衝の方針とするよう通達する電文が、次長名をもって発せられる。

[編集] 7月10日

<現地の動き>

  • 前日の次長電を受けた形で、橋本群参謀長は中国側に対して、「謝罪」「責任者の処罰」「盧溝橋付近からの撤退」「抗日団体の取締」を骨子とする要求を提出。以降、この内容を軸に交渉が継続される。

<日本の政府及び軍上層部の動き>

  • 午前:参謀本部第三課と第二部が「支那駐屯軍の自衛」「居留民保護」を理由とする派兵提案を含む情勢判断を提出。参謀本部内にも異論はあったが、最終的には石原少将も同意、案は陸軍省に送付された。「国民党中央軍の北上」「現地情勢の緊迫」の報が実態以上に過大に伝えられたことが、派兵の決定に大きな影響を与えたと言われる。

[編集] 7月11日

<現地の動き>

  • 20時00分:「責任者の処分」「中国軍の盧溝橋城郭・竜王廟からの撤退」「抗日団体の取締」を骨子とする現地停戦協定が成立した(松井-秦徳純協定)。

<日本の政府及び軍上層部の動き>

  • 11時30分:五相会議にて、陸相の「威力の顕示」による「中国側の謝罪及保障確保」を理由とした内地3個師団派兵等の提案が合意された。
  • 14時00分:臨時閣議にて、北支派兵が承認された。
  • 16時20分:近衛首相葉山御用邸に伺侯、北支派兵に関し上奏御裁可を仰いだ。
  • 18時24分:「北支派兵に関する政府声明」により、北支派兵を発表。
  • 21時00分:近衛首相は政財界有力者、新聞・通信関係者代表らを首相官邸に集め、国内世論統一のため協力を要請。以降、有力紙の論調は、「強硬論」が主流となる。

本来事件は、現地での停戦交渉の成立をもって終息に向かうはずのものであったが、現地情勢を無視した政府の派兵決定は拡大派を勢いづかせ、また中国側の反発を招くことにより、以降の事件拡大の大きな要因となった。

[編集] 7月12日以降

19日、蒋介石は「最後の関頭」演説を公表して、抗戦の覚悟を公式に明らかにした。以降、25日の郎坊事件、26日の広安門事件を経て、28日には北支における日中両軍の全面衝突が開始された。

[編集] 関東軍の動き

 関東軍司令部(軍司令官:植田謙吉大将10期、参謀長:東條英機中将17期)は蘆溝橋事件発生の報に接すると、八日早朝会議を開き、「ソ連は内紛などのため乾岔子事件の経験に照らしても差し当たり北方は安全を期待できるから、この際質察に一撃を加えるべきである」と判断し、参謀本部へは「北支ノ情勢ニ鑑ミ独立混成第一、第十一旅団主力及航空部隊ノ一部ヲ以テ直ニ出動シ得ル準備ヲ為シアリ」と報告した。[48]

 関東軍では、事件が発生すると、八日、機を失せず独立混成第十一旅団等に応急派兵を命じ満支国境線に推進させた。該旅団は九日夕までに主力をもって承徳、古北口間、一部をもって山海関に集結した。また関東軍飛行 隊主力も錦州、山海関地区に集結した。

 支那駐屯軍は、八日午後、事態の将来を顧慮し、関東軍に対し弾薬、燃料及び満鉄従業員ならびに鉄道材料の増派援助方に関し協議した。[49]

 また同日十八時十分、関東軍は「暴戻なる支那第二九軍の挑戦に起因して今や華北に事端を生じた。関東軍は多大の関心と重大なる決意とを保持しつつ厳に本事件の成行きを注視する」と声明した。関東軍が所管外の事柄に対して、このような声明を公表することは異例であり、この事件に対する異常な関心を示したものである。

 更に関東軍は支那駐屯軍に連絡しかつ幕僚を派遣して強硬な意見を述べ(九日、辻政信大尉36期、天津着)両軍連帯で中央に意見具申をしようと申し入れた。支那駐屯軍は、すでに不拡大方針で事件処理に当たっており、かつソ連が今出て来ないという対ソ情勢判断に責任が持てないこと、関東軍が中国問題を非常に軽く見ていることに不安を感じ、申し入れを断った。

 また朝鮮軍(軍司令官:小磯國昭中将12期)も関東軍と同様に「北支事件ノ勃発ニ伴ヒ第二十師団ノ一部ヲ随時出動セシメ得ル態勢ヲトラシメクリ」と報告した。これは年度作戦計画訓令に基づく応急の措置であったが、小磯大将自身は「この事態を契機とし支那経略の雄図を遂行せよ」という意見であった。[50]

[編集] 1発目を撃った人物

日本側研究者の見解は、「中国側第二十九軍の偶発的射撃」ということで、概ねの一致を見ている[51][52]。中国側研究者は「日本軍の陰謀」説を、また、日本側研究者の一部には「中国共産党の陰謀」説を唱える論者も存在するが、いずれも大勢とはなっていない。

「中国共産党陰謀説」の有力な根拠としてあげられているのは、葛西純一が、中国共産党の兵士向けパンフレットに盧溝橋事件が劉少奇の指示で行われたと書いてあるのを見た、と証言していることであるが、葛西が現物を示していないことから、事実として確定しているとはいえないとの見方が大勢である[53]

一方でサーチナ(2009年5月15日付)によると、広東省の地元紙・羊城晩報に掲載された論説で「中国共産党陰謀説」を「荒唐無稽な説」としながらも、「劉少奇が盧溝橋事件を起こした」「劉少奇が盧溝橋で、日本軍と戦った」との記述が、共産党支配区域で配られた「戦士政治読本」と言うパンフレットに確かに書かれているとし、その理由としては「われわれ中国人の伝統的ないい加減さ」により書かれたものであると論じていることが伝えられた[54]


 当時、北平大使館付武官輔佐官であった今井武夫少佐は

「最初の射撃は中国兵による偶発的なものか、計画的なもの、あるいは陰謀、この陰謀は日本軍による謀略、または中共あるいは先鋭な抗日分子による謀略だとなす説がある。これについて色々調査したが、その放火者が何者であるかは今もって判定できぬ謎である。ただし私の調査結果では絶対に日本軍がやったとは思わない。単純な偶発とする見方〔恐怖心にかられた中国兵の過失に基づく発砲騒ぎ〕は、いかにもありそうな状況であり、あり得ることであった。また抗日意識に燃えた中国兵の日本軍に対する反感が昂じ、発作的に発砲したのが他の同輩を誘発したとしても有り得ないことではない。しかし事件前後の種々の出来事を照合してみると、右の原因だけでは依然解釈のつかない問題も残り、陰謀説を否定し去ることはできない。肝心なことは、最初の射撃以後、何故連鎖的に事件が拡大されていったかという政治的背景の究明である」

と述べている。[55]

 また、中国共産党北方局による抗日工作が第二九軍内に浸透したため、軍内の過激分子によって事件が引き起こされたとなす説がある。これは状況証拠すなわち前後の事情からして、ありそうなことである。また戦後に中共軍政治部発行の初級革命教科書のなかに「蘆溝橋事件は中共北方局の工作である」と記述した資料があるとのことであり、中共による謀略の疑いも大きい。 [56]

 なお「北平特務機関日誌」の七月十六日の記事に「北支事変ノ発端ニ就テ」の情報に関して、次のように述べている部分もある。

「北支事変ノ発端ニ就キ冀察要人ノ談左ノ如シ事変ノ主役ハ平津駐在藍衣社第四総隊ニシテ該隊ハ軍事部長李杏村、社会部長齋如山、教育部長馬衡、新聞部長式舎吾ノ組織下ニ更ニ西安事変当時西安ニアリシ第六総隊ノ一部ヲ参加セシメ常ニ日本軍ノ最頻繁ニ演習スル蘆溝橋ヲ中心ニ巧ミニ日本軍ト第二十九軍トヲ衝突セシメムト画策シアルモノニシテ第三十七師ハ全ク此ノ術中ニ陥入レルモノナリト 尚北寧鉄路ニハ戴某ナルモノ潜入シエ作中ト謂ハル」[57]

[編集] 兵1名の行方不明について

 第八中隊長がとりあえず不法射撃を受けたことと兵1名行方不明である状況を大隊長に報告したのち、約20分ほどしてこの兵は発見された。中隊長は西五里店に引き揚げ、八日二時過ぎ大隊長に会い、行方不明の兵が復帰したことも報告した。

 大隊長、聯隊長は最初の事件報告を受けたときは、「暗夜の実弾射撃」以上に「兵一名行方不明」の方を重視し部隊出動を決意した。しかし二時過ぎには行方不明の兵発見の報告を受けているので、じ後の中国側との折衝においても、当時はこれを全然問題にしていない。

 しかし中国側では故意に兵一名行方不明及びその捜索を蘆溝橋事件及び拡大の原因とし、不法射撃の件は不問に付している。東京の極東軍事裁判における秦徳純の供述、蒋介石の伝記「蒋介石」あるいは「何上将軍事報告」も同様であり、「抗戦簡史」にも次のように述べている。

「民国二十六年七月七日夜十一時、豊台駐屯の日軍の一部は宛平城外蘆溝橋付近において夜間演習を名目となし、日兵一名が失踪したるを口実として、日軍武官松井は部隊を引率して宛平城内に進入し捜査せんことを要求す。当時わが蘆溝橋駐在部隊は、第三七師第二一九団吉星文部隊の一営金振中部隊なり。時に深夜にして将兵は熟睡中なるをもって当然日軍の要求を拒絶す。日軍はただちに蘆溝橋を包囲す。その後、双方は代表を現地に赴かしめ調査することに合意す。然るに日本の派したる寺平輔佐官は依然として日軍の入城、捜索を要求す。われ承諾せず。日軍は東西両門外にありて砲撃を開始す。われ反撃を与えず。日軍の攻撃本格的となるや、わが守備軍は正当防衛の目的をもって抵抗を開始す。双方に死傷者あり。暫時、蘆溝橋北方において対峙の状態となる」

(右の文章は、昭和十二年七月八日の中国側新聞「亜州新報」夕刊に掲載された内容とほぼ同じである。当時この新聞を読んだ寺平大尉が発行人の林耕宇を難詰したところ、林は記者の創作であると白状し謝罪した。しかし単なる記者の創作でなく秦徳純の当時政府発表によるものではなかろうか)

中国中央放送局の九日十九時の放送によれば「日本軍は近来蘆溝橋を目標として演習をなしゐたり。八日朝、たまたま日本軍の前進し来るを、わが方は蘆溝橋(宛平県城)を奪取せらるるものと見られたり。然して之による衝突が事件の発端なり」と。(北平陸軍機関業務日誌)[58]

[編集] 事件直後の延安への電報

元日本軍情報部員である平尾治の証言によると1939年頃、前後の文脈などから中国共産党が盧溝橋事件を起したと読みとれる電文を何度も傍受したため疑問を抱いた。そこで上司の情報部北京支部長秋富繁次郎大佐に聞くと以下の説明を受けた。

盧溝橋事件直後の深夜、天津の日本軍特種情報班の通信手が北京大学構内と思われる通信所から延安の中国共産軍司令部の通信所に緊急無線で呼び出しが行われているのを傍受した。その内容は「成功した」と三回連続したものであり、反復送信していた。無線を傍受したときは、何が成功したのか、判断に苦しんだが、数日して、蘆溝橋で日中両軍をうまく衝突させることに成功した、と報告したのだと分かった。

さらに戦後、平尾が青島で立場を隠したまま雑談した復員部の国府軍参謀も「延安への成功電報は、国府軍の機要室(情報部に相当)でも傍受した。盧溝橋事件は中共(中国共産党)の陰謀だ」と語っている[59]

これに対し、安井三吉は、この電報は、1) 平尾や秋富自身が受信したものもないこと、2) このような話が当時の軍関係者の回想、文書のなかに全くでてこないこと、3) 支那駐屯軍がこの事実を把握していれば、当然反中共宣伝に利用したと想像できるにも関わらず、そうしたことがないことの3点を挙げ、このような話が事実であったかどうか疑わしいと述べている。更に、4) 1937年当時の平津地区と延安との無線連絡は、華北連絡局のルートで、天津から行われていたことが明らかになっていること、5) 事件発生当日の深夜における盧溝橋の現場と北京大学間の連絡方法が不明であること、6) 午前3時25分まで日中両軍には何の問題も発生しておらず、「成功した(成功了)」などとはいえないこと、7) 中国共産党員がこのように重要な連絡を平文で打つとは考えられないこと、加えて、『戦史叢書 北支治安戦』383頁において、横山幸雄少佐が、「中共の暗号は重慶側と異なり、その解読はきわめて困難であったが、昭和16年2月中旬、遂にその一部の解読に成功した」と述べていることを挙げ、平尾の回想(録)を以て、中共「計画」説の根拠とするのは飛躍があるといわざるをえない、と結論付けている[60]

[編集] 脚注

  1. ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P142
  2. ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P143
  3. ^ 日本政府 1937 p.1
  4. ^ 葛西 1975, p.5
  5. ^ 陸軍省・海軍省 1938 p.16
  6. ^ 雪竹 1939 p.34
  7. ^ 外務省 1937a p.34
  8. ^ 外務省 1937c p.27
  9. ^ 外務省 1937c p.27
  10. ^ 外務省 1937d p.16
  11. ^ 『東京朝日新聞』1937年1月8日付夕刊 1面
  12. ^ 『読売新聞』1937年7月9日付朝刊 3面
  13. ^ 『東京朝日新聞』1937年5月28日付朝刊 2面
  14. ^ 『東京朝日新聞』1937年6月27日付朝刊 2面
  15. ^ 『東京朝日新聞』1937年5月30日付朝刊 2面
  16. ^ 『東京朝日新聞』1937年7月3日朝刊 3面
  17. ^ 『支那事変実記 第1輯』 1941 p.3
  18. ^ 『東京朝日新聞』1937年6月26日朝刊 2面
  19. ^ 『東京朝日新聞』1937年5月24日朝刊 2面
  20. ^ 『東京朝日新聞』1937年6月12日朝刊 2面
  21. ^ 『国際写真新聞』同盟通信社 1937年8月5日 p.6
  22. ^ 『支那事変実記 第1輯』 1941, pp.7-8
  23. ^ 『国民新聞』1937年7月9日付朝刊 1面
  24. ^ 外務省 1937c pp.27-29
  25. ^ 外務省 1937d p.15
  26. ^ 安井 1993 p.91
  27. ^ 秦 1996, p.413
  28. ^ 北京議定書が認める駐兵権による駐屯である
  29. ^ 『支那事変実記 第1輯』 1941, p.5
  30. ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P138
  31. ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P141
  32. ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P143
  33. ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P141
  34. ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P138
  35. ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P140
  36. ^ 陸軍省 1937 pp.3-8
  37. ^ 『支那事変実記 第1輯』 1941, p.5
  38. ^ 師長は馮治安
  39. ^ 『支那事変実記 第1輯』 1941, p.6
  40. ^ 『東京朝日新聞』1937年7月9日付夕刊 1面
  41. ^ 『東京日日新聞』1937年7月9日付夕刊 1面
  42. ^ 『読売新聞』1937年7月9日付朝刊 2面
  43. ^ 『読売新聞』1937年7月9日付夕刊 1面
  44. ^ 『支那事変実記 第1輯』 1941, p.7
  45. ^ 蘆溝橋事件処理に関する閣議決定国立国会図書館資料)
  46. ^ ニューヨーク・タイムズ紙、1937年7月8日、pp.1,15
  47. ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P146
  48. ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P153
  49. ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P151
  50. ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P153
  51. ^ 秦郁彦 1996, p.175
  52. ^ 安井三吉 1993, p.19
  53. ^ 秦郁彦は、「葛西の死後、信奉者や夫人とともに故人が秘蔵してあると言っていた貸金庫を捜索したが政治課本の現物は見当たらなかったこと、一九五〇年代には毛沢東の後継者的地位を確立していた劉少奇の北方局時代における抗日活動を讃える本が何冊も出ていたので、それをヒントにした作り話だろう」と推論している(秦郁彦 2009, p.193)。
  54. ^ "【中国対日観】“いい加減”だから日本にやられる(1)". サーチナ (2009年5月15日). 2009年6月6日 閲覧。
  55. ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P147
  56. ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P148
  57. ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P148
  58. ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P148
  59. ^ 『産経新聞』1994年9月8日付夕刊 10面
  60. ^ 安井三吉 2003, p.233, 234

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 参考文献

  • 江口圭一『盧溝橋事件』(岩波書店、1988年12月)ISBN 4-00-003433-2
  • 岡野篤夫『蘆溝橋事件の実相 平和主義から軍国主義へ』(旺史社、2001年8月)ISBN 487119129X
  • 葛西純一『新資料盧溝橋事件』(成祥出版社、1975年)
  • 肥沼茂『盧溝橋事件 嘘と真実』(叢文社、2000年7月)ISBN 4794703392
  • 坂本夏男『盧溝橋事件勃発についての一検証』(國民會館、1993年5月)
  • 寺平忠輔『蘆溝橋事件 日本の悲劇』(読売新聞社、1970年)
  • 秦郁彦『盧溝橋事件の研究』(東京大学出版会、1996年12月)ISBN 4-13-020110-7
  • 秦郁彦『昭和史の謎を追う(上)』(文春文庫、1999年12月)ISBN 4167453045
  • 秦郁彦「陰謀史観のトリックを暴く」『Will』 2009年2月号
  • 安井三吉『盧溝橋事件』(研文出版、1993年9月)ISBN 4-87636-113-4
  • 安井三吉『柳条湖事件から盧溝橋事件へ 一九三〇年代華北をめぐる日中の対抗』(研文出版、2003年12月)ISBN 4876362254
  • 雪竹栄「新東亜読本2 事変と中国共産党」『官報附録 週報』内閣印刷局 1939年4月12日
  • 『支那事変実記 第1輯』(読売新聞社、1941年)
  • 外務省情報部(1937a)「防共協定の国際的意義」『官報附録 週報』内閣印刷局 1937年1月13日
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  • 日本政府「派兵に関する政府声明」『官報附録 週報』内閣印刷局 1937年7月21日
  • 陸軍省新聞班「北支派兵に至る経緯」『官報附録 週報』内閣印刷局 1937年7月21日
  • 陸軍省新聞班、海軍省海軍軍事普及部「事変半歳の回顧」『官報附録 週報』内閣印刷局 1938年1月5日

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