石川光陽

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石川が撮影した鎮火後の街の風景

石川 光陽(いしかわ こうよう、本名:石川 武雄。1904年明治37年) - 1989年平成元年)は警視庁に所属していた警察官写真家である。

警視総監直々の命令を受けて東京大空襲の惨状などを撮影したことで知られる。

目次

[編集] 略歴

[編集] 来歴・人物

福井県の写真屋の倅として、1904年明治37年)に生まれる。1927年昭和2年)に警視庁に入庁。光陽は警視庁で写真撮影をつとめることが多かった。1942年(昭和17年)4月18日B-25による東京初空襲の直後、上司であった警務課長の原文兵衛に呼ばれ坂信彌警視総監から空襲の記録写真を撮影する事を直々に命令された。非常に危険な任務であったが光陽は写真を撮り続けた。

1945年(昭和20年)3月10日東京大空襲の際も激しい空襲の中、その惨状を33枚の写真に残した[1]。しかしあまりの悲惨さに、死体に対してカメラを向ける気にはなかなかなれなかったという。この後、5月25日の山の手空襲まで光陽は記録写真を撮影した。光陽が撮影した空襲の記録写真は、1942年のドゥーリトル隊による東京初空襲(ドーリットル空襲)でのものも含め600枚以上にのぼる。

戦時中は一般市民が空襲の被災現場を写真に撮影することは事実上禁じられていた[2]ため、光陽が撮影した一連の写真は空襲の被害を伝える貴重な映像となった。

敗戦を迎え、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による占領が始まる。GHQは日本側の空襲被害状況の公式記録が全く存在しない事を知ったが、光陽だけが唯一空襲の状況を撮影していた事実を間もなく突き止める。光陽はGHQから空襲被害状況を撮影したネガを提出せよという命令を受けるが、頑なにこの命令を拒否する。一方、警視庁は「空襲被害写真は光陽が個人的に撮影したもの」と責任追及を避ける。GHQは光陽がネガを絶対に提出しない決意があることを知りネガを提出させる事は諦め、ネガをプリントした写真の提出という形で終わらせた。しかし光陽はGHQにネガが押収される事を防ぐために、自宅の庭に埋めて保存した。光陽がGHQからネガを守りぬいたことにより、東京大空襲の惨状を視覚的に捕らえる写真という形で後世に残る事になった。後年光陽はこの時の事を振り返り「本当は戦争の写真は撮りたくない」と語っている。

戦後も警察官として1963年(昭和38年)まで活躍し、1989年(昭和64年・平成元年)に85歳で死去した。

[編集] 演じた俳優

  • 仲村トオルTBS系列で2008年(平成20年)3月10日に放送された『シリーズ激動の昭和 3月10日~東京大空襲』にて)

[編集] 写真集

  • 「グラフィックレポート 痛恨の昭和」(岩波書店1988年(昭和63年)) - 空襲を含む戦前から戦後にかけての作品集。
  • 「グラフィックレポート 東京大空襲の全記録」(岩波書店、1992年(平成4年)) - 発見された石川の手記を元に空襲被害写真の場所と日時がすべて特定されている。

[編集] 脚注

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  1. ^ 撮影に赴く際に上司の原から「今夜の空襲は今までの空襲の観念や方法と違った猛烈さを極めていて、現場は想像以上のものがある。充分気をつけてな、決して死ぬなよ。必ず元気で帰ってきてくれよ」と督励を受けたとされている。
  2. ^ 1943年昭和18年)5月7日内務省警保局から各庁府県に出された取締標準では、
    1. 外国人の撮影は之を阻止すること
    2. 邦人撮影の場合も其の用途明にして防諜上支障なく且つ特に必要ありと認むるものの外阻止すること
    3. 家屋其の他建造物の被害復旧状況の撮影に就き右各号に同じ
    (原文は漢字カタカナ)
    とされていた。この布告によれば光陽の写真撮影行為は警察という公の機関による行為であり、撮影には問題は無かったが、憲兵隊等による勘違いあるいは布告情報の不徹底によると思われる写真撮影妨害行為があったことを後に証言している。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年10月28日 (水) 06:03 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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